来る者拒まず、去る者追わず。優しい嘘には制裁を。

 茜色の空がゆっくりと紺碧に溶けていくころ。
 恭也のマンションの自室には、いつものように夏海の姿があった。窓の外で街灯がパチリと瞬き始め、夕闇が部屋の隅々へとじわじわと影を伸ばしていく。

 他人の家だというのに、彼女は妙に慣れた足取りで上がり込み、勝手知ったる様子でベッドの端に腰掛ける。手持ち無沙汰にスマホをいじりながら「なんか私が食べていいのある?」なんて平然と言ってのけた。
 しかし恭也の方もそれを特に咎めるわけでもなく、椅子に不機嫌そうに座ったままアンニュイな溜息を吐き出す。テーブルの上で間接照明のオレンジ色の光が、無駄にムーディーな影を落としていた。

 幼馴染という名の長年の積み重ねが生んだ、少し距離のバグったいつもの日常__のはずだった。
 だが、今日の空気はどこか決定的に違っている。

「……で、さっきの話だけどさ」

 夏海がスマホの画面から顔を上げ、ベッドの上から恭也の背中を見据えた。
 放課後の教室で投げかけられた「私とも付き合えるのか」という問いの続き。あの言葉に詰まった恭也を思い出して、夏海はわざわざ追い討ちをかけるように唇を持ち上げる。面白がるような、けれどどこか容赦のない光がその瞳に宿っていた。

「掘り返すほど本気なのかよ」

 恭也は振り返り、面倒くさそうに眉間を寄せた。
 低い声には、明らかな倦怠感と「これ以上追うな」という無言の威圧が込められている。

「本気だよ。付き合うんだったら、ちゃんといろんなこと整理しないと筋が通らないでしょ」
「整理しないといけないこと?」
「うん。例えば、ね」

 夏海はひょいとベッドから立ち上がると恭也の鞄のそばまで歩み寄り、内ポケットからスマートフォンを抜き取った。何をする気だと言わばかりに見つめる恭也を無視し、彼女は画面を数回タップする。

「じゃあさっそく、さっき告白してきた人と別れて」
「は…? 急に何言ってんだよ」
「だって、浮気はなしでしょ。私と付き合うなら、その辺りきちんと清算するのが筋ってものじゃん。ほら、早く」

 差し出された画面には、ついさっき校舎裏で告白を受け入れたばかりの女子生徒の連絡先が表示されていた。
 いつの間にパスワードを知ったのか。色々聞きたいことはあったが、まずは根性で何とか呑み込んだ。

 夏海は自分のスマホを無造作にベッドへ放り出し、冷徹なほどのまっすぐさで恭也を見つめている。それが悪ふざけなのか、純粋な試練なのか、彼女の底意地は相変わらず読めなかった。ただ、一度言い出したら絶対に引かないその頑固な性質だけは、幼馴染として嫌というほど理解している。

「……冗談?」
「なわけ。ほら、かけて。今すぐ。私の目の前でね」

(コイツ、わりと本気で面倒くさいところあるな……)

 詰められ方にどことなく既視感を感じた恭也だったが、またもや寸前で言葉を呑み込んだ。
 幼馴染ならではの芸当に、自分でも嫌になってくる。

 逃げ場を塞がれた恭也は、観念したように深い溜息を吐き出した。
 結局、目の前に差し出され続けているスマホをひったくるようにして奪い取る。乱暴に画面をタップし、ついさっき「よろしくお願いします」と適当に返したばかりの連絡先を開いた。

 コール音が、静まり返った自室に虚しく響く。
 いっそのこと出ないでくれ、と恭也が願う中、無情にもガサリと衣擦れの音がして電話口から細い息が漏れた。

『……っ、瀬戸くん……?』

 聞こえてきたのは驚きと予期せぬ歓喜に満ちた、微かに震える声だった。

(あーあ)

 出ないでくれれば丸く収まったのに。いや、夏海が適当な誤魔化しで納得するわけないか。

 恭也は頭の片隅でそんなことを考えながら、気まずそうに片手で自分の額を押さえる。すぐそばでワクワクしている夏海の気配が、やけに重たく背中に突き刺さった。
 逃げるなと言わばかりの視線を背中に感じながら、恭也は冷たく乾いた声で言い放った。

「あのさ……ごめん。さっきは返事したけど、やっぱりなしで。別れよう」
『え…?え、ちょっと待って……どういうこと……?嘘でしょ…?ねえ、せとく、』

 電話の向こうで、女子生徒は息を呑み、やがて縋るような、泣き叫ぶ一歩手前の声を上げた。先ほどまでの優男の仮面はどこにもなく、容赦なく切り捨てるその態度は彼の本質そのものだった。
恭 也は相手の混乱した言い訳を聞くことすら面倒くさそうに、「じゃあ」と冷たく言葉を遮って、通話ボタンを押した。

 部屋には再び重苦しい静寂が戻った。
 通話が切れたあとの空間には、生々しい痛みの余韻と、乾いた空気だけが取り残されていた。