PANDORA・柩灯~断片集~

「火々里(かがり)! 尊(みこと)ったらひどいの!」

 昼休憩中、火々里の研究室に真っ赤な装いの女が一人、勢いよく飛び込んできた。

「だから勝手に入ってくんな! びっくりすんだろうが!」

 持っていたメスをうっかり落としそうになってしまい、火々里は目を剥いて椿姫(つばき)に怒鳴る。

「あのねっ、今日はうちに来て一緒に夕食を食べましょうって誘ったのよ。そしたらね? 明日朝早くから芽以と出掛けるから無理って言うの!」

 しかし、そんな怒りも虚しく勝手に騒ぎ始められ、いつもの流れに火々里は早々に諦めた。
 メスと模型を置いて医学書に栞を挟むと、頬杖をつき、呆れ顔で椿姫を眺める。

「私が一緒にお買い物に行きたいって誘っても中々行ってくれないのに、芽以(めい)とは気軽に遊ぶのよ? どう思う?」

「ならお前も葉山(はやま)たちと行けばいんじゃね」

「お願いしたけど、明日は野営だから椿姫には無理だって断られたの! 酷いと思わないっ?」

 火々里は椿姫を見る。
 美しく巻かれた長い髪、腕も脚も露出された装い、ヒールの高いパンプス。
 加えて、虫嫌い。
 椿姫を連れて行っても良いことはないと、断言できた。

「……まあ、明日は諦めろよ」

(尊の平穏のためにも)

 貴重な休日に、好きなことを気兼ねなくしたいだろう。
 多忙な局長を思い、火々里は言う。

「幽泉堂(ゆうせんどう)にでも行ってこいよ。明日は咲樂(さくら)もリハビリで非番だしな。女同士で――」

「咲樂、明日お休みなの!? じゃあこの前言ってた洋菓子でも持っていこうかしら! 火々里はマカロンって知ってる? とっても美味しいのよ! あっそうだ! 良かったら火々里も一緒にお茶会しましょ!」

 尊が、と悲しそうにしていたはずが、あまりの切り替えの速さは、相変わらずだ。
 明日は咲樂のリハビリをしたあと、昼から家で酒を飲み、惰眠を貪りたい。
 ここは嘘で乗り切るしかない。
 急に自分に向いた矛先をどうにか回避すべく、火々里は医学書を叩いて残念そうにため息を吐いた。

「参加してえのは山々なんだが、明日は研修があるか――」

「でも火々里は甘いもの苦手だったわよね? 私、甘くないお菓子を用意しておくわ!」

「いや、俺は」


「お紅茶もね、咲樂は雲母(きらら)紅茶で、私は林檎茶でしょ? 火々里には西方薬師(せいほうやくし)紅茶を持っていくわね! 香辛料が効いててピリッとするの!」

「お、おお……」

 きらきらとした瞳で明日のことを語り、くるくると表情が変わる椿姫に圧倒され、火々里は無意識に頷いた。

「あーん楽しみになってきたわ! ねえねえ、明日は咲樂と火々里の恋バナも聞きたいわ! いつも私ばっかり話してるもの!」

「聞いてねえのに椿姫が勝手に喋ってんだろ」

「火々里が人妻と禁断の恋なんてしてたらどうしましょう!? だめだわ! 明日が楽しみすぎて今日眠れないかも!」

 勝手なことを言われて、勝手に期待されている。
 火々里は突然のしかかってきた厄介事に頭を抱えた。

「いや俺明日は」

「さっそく今から咲樂を誘ってみるわ! 明日、お昼ご飯を食べたら幽泉堂に集合よ! 忘れないでね!」

「は!? おい、つば――」

 バタンッ。
 飛び跳ねながらけたたましく研究室から飛び出していき、白いドアの向こうに臙脂色が消えた。

「……人の話聞かなすぎだろ……」

 翌日、咲樂にも「火々里も参加してくれるなんて珍しいわね」と微笑まれ、いよいよ火々里は断れないのであった。