■時系列:咲樂・汐→16歳
知らないものは、たくさんあった。
数え切れないほどに。
咲樂は目の前に置かれたガラス皿に、目を丸くした。
真ん丸の食べ物。
どことなく、自分の髪や目の色と似ている気がした。
「これ、どうしたの……?」
店を閉めたあと、汐が持ってきた物だ。
丸机を挟んで目の前に座る汐は、頬杖をついて微笑んでいる。
「桃。買い出しに行った時、見つけたから買ってきたんだ」
「これ果物……よね? 高いでしょ……?」
ガラス皿に、金色のフォークとナイフ、可愛い果実。
柩地区ではあまり見ない光景である。
「この前、咲樂が他の子に苺全部あげてただろ? それの代わり」
数日前、確かに苺を譲った。
でも嫌々譲ったわけではない。
本当に他の子に食べてもらっても良いと思ったからだ。
甘いものも、おいしいものも、食べるのは好きだけれど、胃に入るなら何でも良いのもまた事実。
それなら他の子に食べてもらう方が良いような気がした。
「だ、だからってこんな高そうなもの……ほ、他の子に」
「じゃあまた買ってくるよ? 次はメロンかな?」
「めろん……?」
「地上人にとっても割と高い果物だよ」
細められた瞳が「どうする?」と言っていた。
もしかすると、脅されているのだろうか。
今日、汐が買い出しから帰ってきた時から、どこかそわそわしていて、にこにこしていた。
ずっと、この桃を披露することを楽しみにしていたのだと考えたら、急に汐が可愛く見えてきた。
咲樂は汐と桃を見比べて、得意げに弧を描く口元に、つい破顔した。
「ふふ。じゃあいただきます。ありがとう、汐」
汐は小さく笑うと、果物用のナイフを手に取った。
「じゃあ、切るね」
「うん」
咲樂は期待に満ちた眼差しで、その手元を見つめる。
するり、と刃が桃へ入る。
薄い皮が滑るように剥かれていくたび、甘く、やわらかな香りが部屋いっぱいへ広がった。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。
果物からこんなにも香りが立つものなのだと、咲樂は初めて知った。
「いい匂い……」
「熟してる証拠だね」
汐は丁寧に桃を切り分け、食べやすい大きさへ揃えていく。
その手際を眺めながら、咲樂は桃と汐を見比べた。
「……ねえ」
「ん?」
「一緒に食べましょう」
汐の手が止まる。
「半分こ」
あまりにも自然な言葉だった。
まるで、それ以外の選択肢など最初から存在しないかのように。
汐は目を瞬かせる。
「咲樂の分だよ?」
「でも」
咲樂は首を横へ振った。
「汐が見つけてきてくれたんでしょう?」
桃を見つめながら、少し照れたように笑う。
「初めて食べるものは、一緒の方が嬉しいもの」
その一言に、汐は肩の力を抜くように笑った。
「……咲樂らしいね」
「そう?」
「うん」
桃を二人の間へ置く。
「じゃあ、一緒に食べよう」
「うん」
フォークで一切れを刺し、咲樂は恐る恐る口へ運んだ。
歯を立てた瞬間だった。
「……!」
ほとんど噛む前に果汁が溢れた。
みずみずしい。
やわらかい。
甘い。
でも、砂糖の甘さとは違う。
花の蜜みたいな、どこまでも優しい甘さが、口いっぱいへ静かに広がっていく。
咲樂は思わず目を閉じた。
「……おいしい」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
「そんなに?」
汐が楽しそうに尋ねる。
咲樂は何度も頷く。
「こんな果物、初めて……」
もう一口。
また一口。
噛むたびに、果汁が頬の内側へじゅわりと染み渡る。
柩地区で食べる果物は、酸味が強かったり、傷んでいたりするものがほとんどだった。
だから果物とは、そういうものだと思っていた。
「地上の人は、いつもこんなの食べてるの?」
「いや」
汐は苦笑した。
「僕も久しぶり」
「そうなの?」
「依月家にいた時以来かな」
その言葉に、咲樂の手がぴたりと止まる。
依月家。
汐があまり口にしない場所。
「ご、ごめ――」
「いいよ」
汐は穏やかに首を振った。
「今は、咲樂と一緒に食べられる方が嬉しい」
あまりにも自然に言われてしまって、咲樂は言葉を失う。
胸の奥が、くすぐったい。
「……ふふ。ほんとう?」
「うん」
汐は微塵も照れを見せず、当たり前のように頷いた。
孤児院にやって来た頃、誰とも話さず、食べることも最低限だった彼からは考えられない今の姿に、いつも安心する。
頬が少し熱い。
誤魔化すように桃を頬張る。
汐も一切れ口へ運ぶ。
静かな夜だった。
行灯の灯りが二人の間へ落ちて、窓の外では、誰かの声が細く続いている。
しばらく言葉もなく桃を食べていると、不意に咲樂が小さく笑った。
「どうしたの?」
「ううん」
首を横へ振る。
「昔ね」
懐かしそうに桃を見つめる。
「孤児院で、お菓子をもらう日があったでしょ?」
「うん」
「その日はね、みんな、食べるのがすごく遅かったの」
汐は静かに耳を傾ける。
「早く食べちゃうと、幸せが終わっちゃう気がして」
照れ笑いを浮かべた。
「だから少しずつ、少しずつ食べてた」
その笑顔は優しかった。
でも少しだけ寂しかった。
「でも今は」
咲樂はフォークを置いて、汐を見る。
「また食べられるって思えるから」
微笑む。
「安心して食べられるの」
その一言は、桃の甘さよりも深く、汐の胸へ届いた。
汐は何も言えなかった。
ただ静かに笑って、小さく頷く。
咲樂も笑い返す。
行灯の灯りの下で食べた桃は、確かに甘かった。
その甘さを、二人はきっと忘れない。
知らないものは、たくさんあった。
数え切れないほどに。
咲樂は目の前に置かれたガラス皿に、目を丸くした。
真ん丸の食べ物。
どことなく、自分の髪や目の色と似ている気がした。
「これ、どうしたの……?」
店を閉めたあと、汐が持ってきた物だ。
丸机を挟んで目の前に座る汐は、頬杖をついて微笑んでいる。
「桃。買い出しに行った時、見つけたから買ってきたんだ」
「これ果物……よね? 高いでしょ……?」
ガラス皿に、金色のフォークとナイフ、可愛い果実。
柩地区ではあまり見ない光景である。
「この前、咲樂が他の子に苺全部あげてただろ? それの代わり」
数日前、確かに苺を譲った。
でも嫌々譲ったわけではない。
本当に他の子に食べてもらっても良いと思ったからだ。
甘いものも、おいしいものも、食べるのは好きだけれど、胃に入るなら何でも良いのもまた事実。
それなら他の子に食べてもらう方が良いような気がした。
「だ、だからってこんな高そうなもの……ほ、他の子に」
「じゃあまた買ってくるよ? 次はメロンかな?」
「めろん……?」
「地上人にとっても割と高い果物だよ」
細められた瞳が「どうする?」と言っていた。
もしかすると、脅されているのだろうか。
今日、汐が買い出しから帰ってきた時から、どこかそわそわしていて、にこにこしていた。
ずっと、この桃を披露することを楽しみにしていたのだと考えたら、急に汐が可愛く見えてきた。
咲樂は汐と桃を見比べて、得意げに弧を描く口元に、つい破顔した。
「ふふ。じゃあいただきます。ありがとう、汐」
汐は小さく笑うと、果物用のナイフを手に取った。
「じゃあ、切るね」
「うん」
咲樂は期待に満ちた眼差しで、その手元を見つめる。
するり、と刃が桃へ入る。
薄い皮が滑るように剥かれていくたび、甘く、やわらかな香りが部屋いっぱいへ広がった。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。
果物からこんなにも香りが立つものなのだと、咲樂は初めて知った。
「いい匂い……」
「熟してる証拠だね」
汐は丁寧に桃を切り分け、食べやすい大きさへ揃えていく。
その手際を眺めながら、咲樂は桃と汐を見比べた。
「……ねえ」
「ん?」
「一緒に食べましょう」
汐の手が止まる。
「半分こ」
あまりにも自然な言葉だった。
まるで、それ以外の選択肢など最初から存在しないかのように。
汐は目を瞬かせる。
「咲樂の分だよ?」
「でも」
咲樂は首を横へ振った。
「汐が見つけてきてくれたんでしょう?」
桃を見つめながら、少し照れたように笑う。
「初めて食べるものは、一緒の方が嬉しいもの」
その一言に、汐は肩の力を抜くように笑った。
「……咲樂らしいね」
「そう?」
「うん」
桃を二人の間へ置く。
「じゃあ、一緒に食べよう」
「うん」
フォークで一切れを刺し、咲樂は恐る恐る口へ運んだ。
歯を立てた瞬間だった。
「……!」
ほとんど噛む前に果汁が溢れた。
みずみずしい。
やわらかい。
甘い。
でも、砂糖の甘さとは違う。
花の蜜みたいな、どこまでも優しい甘さが、口いっぱいへ静かに広がっていく。
咲樂は思わず目を閉じた。
「……おいしい」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど小さかった。
「そんなに?」
汐が楽しそうに尋ねる。
咲樂は何度も頷く。
「こんな果物、初めて……」
もう一口。
また一口。
噛むたびに、果汁が頬の内側へじゅわりと染み渡る。
柩地区で食べる果物は、酸味が強かったり、傷んでいたりするものがほとんどだった。
だから果物とは、そういうものだと思っていた。
「地上の人は、いつもこんなの食べてるの?」
「いや」
汐は苦笑した。
「僕も久しぶり」
「そうなの?」
「依月家にいた時以来かな」
その言葉に、咲樂の手がぴたりと止まる。
依月家。
汐があまり口にしない場所。
「ご、ごめ――」
「いいよ」
汐は穏やかに首を振った。
「今は、咲樂と一緒に食べられる方が嬉しい」
あまりにも自然に言われてしまって、咲樂は言葉を失う。
胸の奥が、くすぐったい。
「……ふふ。ほんとう?」
「うん」
汐は微塵も照れを見せず、当たり前のように頷いた。
孤児院にやって来た頃、誰とも話さず、食べることも最低限だった彼からは考えられない今の姿に、いつも安心する。
頬が少し熱い。
誤魔化すように桃を頬張る。
汐も一切れ口へ運ぶ。
静かな夜だった。
行灯の灯りが二人の間へ落ちて、窓の外では、誰かの声が細く続いている。
しばらく言葉もなく桃を食べていると、不意に咲樂が小さく笑った。
「どうしたの?」
「ううん」
首を横へ振る。
「昔ね」
懐かしそうに桃を見つめる。
「孤児院で、お菓子をもらう日があったでしょ?」
「うん」
「その日はね、みんな、食べるのがすごく遅かったの」
汐は静かに耳を傾ける。
「早く食べちゃうと、幸せが終わっちゃう気がして」
照れ笑いを浮かべた。
「だから少しずつ、少しずつ食べてた」
その笑顔は優しかった。
でも少しだけ寂しかった。
「でも今は」
咲樂はフォークを置いて、汐を見る。
「また食べられるって思えるから」
微笑む。
「安心して食べられるの」
その一言は、桃の甘さよりも深く、汐の胸へ届いた。
汐は何も言えなかった。
ただ静かに笑って、小さく頷く。
咲樂も笑い返す。
行灯の灯りの下で食べた桃は、確かに甘かった。
その甘さを、二人はきっと忘れない。

