■時系列:咲樂、汐→20歳
回廊には夜の静けさが満ちていた。
行灯の柔らかな灯りが床板を淡く照らし、遠くから宴席の賑わいが微かに漏れてくる。
汐は、あろうことか酔って床に寝ていた遊女を起こし、肩を貸しながら歩いていた。
「もう少しですからね」
「やだぁ……まだ部屋帰りたくない」
遊女はぐずるように言って、汐の腕にさらに体重を預ける。
「明日もお仕事でしょう?」
「だってぇ……汐さんとまだお話したいんだもん」
「それは光栄ですね」
汐は慣れた調子で微笑んだ。
こういう客は珍しくない。
抱きつかれることも、手を握られることも珍しくない。
酒が入れば距離感を忘れる客もいる。
それをいなして、穏やかに送り届けるのも汐の仕事だった。
特に業務提供をしている桃源楼の遊女相手であれば、尚更。
「汐さん」
「はい」
「好きぃ」
「ありがとうございます」
「全然照れない」
「お客様ですから」
「つまんなーい」
遊女は頬を膨らませる。
汐は小さく苦笑した。
ようやく客室の前に辿り着き、戸を開ける。
「さあ、こちらですよ」
「えぇ〜……」
「もう寝てください」
「一緒にいてくれないの?」
「ご遠慮します」
「けち」
口を尖らせながらも、遊女は素直に部屋へ入る素振りを見せる。
これで終わる。
そう思った、その瞬間だった。
「じゃあね、汐さん」
ひょい、と腕が伸びる。避ける間もなかった。
柔らかな感触が頬に触れ、ちゅ、と小さな音が落ちる。
汐は一瞬だけ動きを止めて、それから、深く息を吐く。
「……お客様」
遊女は悪戯が成功した子どものように笑っていた。
「当店はこういうお店ではないと、ご存知でしょう?」
「うふふ」
「このような戯れは困りますよ」
声は穏やかだった。
怒っているというより、酔客によくある悪戯に呆れているだけである。
「はいはい」
「返事が軽いですね」
「だって汐さん、結局優しいんだもの」
「お客様だからです」
「でもそこが好き」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
半ば強引に戸を閉める。
ようやく静けさが戻り、汐は肩の力を抜いた。
酔客の気まぐれ。
今夜も、よくある一幕だった。
そう思いながら踵を返した、その時。
ふと、視線を感じる。
回廊の向こう。
行灯の灯りに照らされた小さな人影が、静かにこちらを見つめていた。
車椅子。
桃色の長い髪。
見慣れた優しい面影。
咲樂だった。
汐の表情がわずかに固まる。
――見られた。
「……」
「……」
一瞬の沈黙のあと、汐は早足で咲樂の元へ向かった。
「今のはちがうよ?」
思ったよりも早口になった言葉に、咲樂が瞬きをする。
何がちがうのかと聞かれれば、自分でも上手く説明できない。
「……なにが?」
「え?」
自分が予想していた反応と違い、汐は一拍固まる。
「いや……さっきの」
「ああ」
咲樂はようやく合点がいったように頷く。
「うん。お客様も酔っていたもの」
まったく気にしていない顔に、汐はわずかに眉を寄せた。
「……気にしてないの?」
「え?」
咲樂は首を傾げた。
「な、なにを……?」
「なにを……」
本当に分かっていないらしい。
慌てて言いに来た自分が馬鹿みたいだと、ふと気付いて、汐は決まり悪く腕を組む。
しばらく見つめ合ったあと、咲樂が目を細めた。
「汐」
「うん?」
「お化粧、ついてる」
「え?」
反射的に頬へ触れる。
指先に、薄い紅が移った。
先ほどの口づけの名残だ。
汐はまた固まる。
「取った方がいいわ」
咲樂は懐から小さな手拭いを取り出した。
「……ありがとう」
受け取ろうとした、そのとき。
「はい、屈んで」
咲樂が手拭いを持ったまま、微笑んでいる。
「……ん?」
「汐、背が高いんだから、届かないでしょ?」
何かおかしなことでも? と聞いてきそうなほど、当たり前のように言う。
自分を、小さな子どもか何かと勘違いしているのだろうか。
孤児院に入ったばかりの頃、他の幼児たちと同じように接されていたことを思い出す。
彼女よりも背も低く、子ども時代は本当に女児に間違われることも多かったから、仕方ないのだが。
さすがにこの年齢で……と躊躇する汐の思いなど知らず、目の前で、優しげな顔で待機している。
観念して膝に手をついて、屈む。
咲樂は少し身を乗り出すと、汐の頬を優しく拭った。
温泉の、落ち着く香りがふわりと舞う。
ただ紅を拭き取る、それだけの動きだ。
それだけのはずなのに。
汐は、なぜか息を止めていた。
「……はい、取れた」
咲樂は満足そうに、唇に弧を描く。
「これで大丈夫」
「ありがとう……」
「うん」
本当に、それだけだった。
咲樂は何事もなかったように車輪へ手を掛ける。
「それじゃあ、わたし部屋に戻るわね」
音もなく、車椅子が動き出す。
汐はその背中を見送った。
姿が見えなくなるまで、数十秒。
そして額を押さえる。
「……はぁ」
深いため息が静かな回廊へ溶けていく。
咲樂は最後まで何も気にしていなかった。
責めもしない。
嫉妬もしない。
問いただすことさえなかった。
それなのに、ほんの数分で心をかき乱されたのは自分だけだった。
仕事だと分かっている。
そんなことは、誰より自分が理解している。
それでも。
少しくらい、気にしてくれてもいいのに。
そんな子どもじみた願いが胸をよぎり、汐は我知らずと、頬をほんの少しだけ膨らませた。
回廊には夜の静けさが満ちていた。
行灯の柔らかな灯りが床板を淡く照らし、遠くから宴席の賑わいが微かに漏れてくる。
汐は、あろうことか酔って床に寝ていた遊女を起こし、肩を貸しながら歩いていた。
「もう少しですからね」
「やだぁ……まだ部屋帰りたくない」
遊女はぐずるように言って、汐の腕にさらに体重を預ける。
「明日もお仕事でしょう?」
「だってぇ……汐さんとまだお話したいんだもん」
「それは光栄ですね」
汐は慣れた調子で微笑んだ。
こういう客は珍しくない。
抱きつかれることも、手を握られることも珍しくない。
酒が入れば距離感を忘れる客もいる。
それをいなして、穏やかに送り届けるのも汐の仕事だった。
特に業務提供をしている桃源楼の遊女相手であれば、尚更。
「汐さん」
「はい」
「好きぃ」
「ありがとうございます」
「全然照れない」
「お客様ですから」
「つまんなーい」
遊女は頬を膨らませる。
汐は小さく苦笑した。
ようやく客室の前に辿り着き、戸を開ける。
「さあ、こちらですよ」
「えぇ〜……」
「もう寝てください」
「一緒にいてくれないの?」
「ご遠慮します」
「けち」
口を尖らせながらも、遊女は素直に部屋へ入る素振りを見せる。
これで終わる。
そう思った、その瞬間だった。
「じゃあね、汐さん」
ひょい、と腕が伸びる。避ける間もなかった。
柔らかな感触が頬に触れ、ちゅ、と小さな音が落ちる。
汐は一瞬だけ動きを止めて、それから、深く息を吐く。
「……お客様」
遊女は悪戯が成功した子どものように笑っていた。
「当店はこういうお店ではないと、ご存知でしょう?」
「うふふ」
「このような戯れは困りますよ」
声は穏やかだった。
怒っているというより、酔客によくある悪戯に呆れているだけである。
「はいはい」
「返事が軽いですね」
「だって汐さん、結局優しいんだもの」
「お客様だからです」
「でもそこが好き」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
半ば強引に戸を閉める。
ようやく静けさが戻り、汐は肩の力を抜いた。
酔客の気まぐれ。
今夜も、よくある一幕だった。
そう思いながら踵を返した、その時。
ふと、視線を感じる。
回廊の向こう。
行灯の灯りに照らされた小さな人影が、静かにこちらを見つめていた。
車椅子。
桃色の長い髪。
見慣れた優しい面影。
咲樂だった。
汐の表情がわずかに固まる。
――見られた。
「……」
「……」
一瞬の沈黙のあと、汐は早足で咲樂の元へ向かった。
「今のはちがうよ?」
思ったよりも早口になった言葉に、咲樂が瞬きをする。
何がちがうのかと聞かれれば、自分でも上手く説明できない。
「……なにが?」
「え?」
自分が予想していた反応と違い、汐は一拍固まる。
「いや……さっきの」
「ああ」
咲樂はようやく合点がいったように頷く。
「うん。お客様も酔っていたもの」
まったく気にしていない顔に、汐はわずかに眉を寄せた。
「……気にしてないの?」
「え?」
咲樂は首を傾げた。
「な、なにを……?」
「なにを……」
本当に分かっていないらしい。
慌てて言いに来た自分が馬鹿みたいだと、ふと気付いて、汐は決まり悪く腕を組む。
しばらく見つめ合ったあと、咲樂が目を細めた。
「汐」
「うん?」
「お化粧、ついてる」
「え?」
反射的に頬へ触れる。
指先に、薄い紅が移った。
先ほどの口づけの名残だ。
汐はまた固まる。
「取った方がいいわ」
咲樂は懐から小さな手拭いを取り出した。
「……ありがとう」
受け取ろうとした、そのとき。
「はい、屈んで」
咲樂が手拭いを持ったまま、微笑んでいる。
「……ん?」
「汐、背が高いんだから、届かないでしょ?」
何かおかしなことでも? と聞いてきそうなほど、当たり前のように言う。
自分を、小さな子どもか何かと勘違いしているのだろうか。
孤児院に入ったばかりの頃、他の幼児たちと同じように接されていたことを思い出す。
彼女よりも背も低く、子ども時代は本当に女児に間違われることも多かったから、仕方ないのだが。
さすがにこの年齢で……と躊躇する汐の思いなど知らず、目の前で、優しげな顔で待機している。
観念して膝に手をついて、屈む。
咲樂は少し身を乗り出すと、汐の頬を優しく拭った。
温泉の、落ち着く香りがふわりと舞う。
ただ紅を拭き取る、それだけの動きだ。
それだけのはずなのに。
汐は、なぜか息を止めていた。
「……はい、取れた」
咲樂は満足そうに、唇に弧を描く。
「これで大丈夫」
「ありがとう……」
「うん」
本当に、それだけだった。
咲樂は何事もなかったように車輪へ手を掛ける。
「それじゃあ、わたし部屋に戻るわね」
音もなく、車椅子が動き出す。
汐はその背中を見送った。
姿が見えなくなるまで、数十秒。
そして額を押さえる。
「……はぁ」
深いため息が静かな回廊へ溶けていく。
咲樂は最後まで何も気にしていなかった。
責めもしない。
嫉妬もしない。
問いただすことさえなかった。
それなのに、ほんの数分で心をかき乱されたのは自分だけだった。
仕事だと分かっている。
そんなことは、誰より自分が理解している。
それでも。
少しくらい、気にしてくれてもいいのに。
そんな子どもじみた願いが胸をよぎり、汐は我知らずと、頬をほんの少しだけ膨らませた。

