——三年前の夏。
駅前の、やたら白とピンクでふわふわしたカフェのテーブル席。冬梧はコーラを片手にスマホをいじっていた。
『サメって恐竜より前から地球にいるらしい』
『は?』
『恐竜より先輩』
『じゃあティラノもサメには敬語?』
『当たり前だろ』
『サメさん、お疲れ様ですって?』
『そう』
『サメ先輩、今日も歯キレてますね!って?』
「ぶふっ、ゴホッガハッ!」
飲んでいたコーラで思わずむせる。向かいの席でケーキを食べていた当時の彼女が、むっと眉を寄せた。
「ねぇ冬梧くん、かよの話聞いてた?」
「え?」
「かよといるより、スマホ見てる方が楽しそうだね」
「あー……」
目を逸らすと、冬梧の手の中で再びスマホが震える。
『シャコのパンチは海中にプラズマを発生させるらしいぞ』
「……マジかよ」
*
三年前の秋。道場にて。
「次の地域大会、中学の部は三バカトリオで出ろよ」
師範が冬梧と瑛斗と秋也を呼び、そう告げた。
「先鋒瑛斗、中堅が冬梧で、大将は秋也」
三人で顔を見合わせる。秋也は「また俺が大将か……」と不安げに俯いた。
「ま、冬梧がいりゃ勝てんだろ」
瑛斗はいつものお気楽な調子でそう言って笑った。
その日の夜。冬梧が家に帰ると、珍しく父親が早く帰宅しており、ダイニングで食事を取っていた。
「ただいま」
「おかえり冬梧。こないだの模擬テストの点数、素晴らしかったな」
「うん」
「なんか欲しいものあるか?」
冬梧はうーん、と腕を腰に当てて考える。
「……今のよりもう少し重い、素振り用の竹刀が欲しい」
「あんた……また手の皮ずる剥けになるわよ!」
キッチンに立つ母親が呆れたような声を出す。父親は「まあまあ」と笑って言うと、ポケットから財布を取り出し、一万円札を冬梧に手渡した。
「これで買いなさい。ただし、勉強もしっかりやること」
「ありがとう。……お金余ったら、剣道の本も買っていい?」
遠慮がちに尋ねる冬梧に、父親は「仕方ないやつだな」と苦笑した。
翌週の地域大会。
決勝は、瑛斗が一本負け、冬梧が二本勝ち、秋也が引き分け。勝数は並んだが総本数で上回り、優勝を決めた。
冬梧は面を外し、瑛斗を見た。瑛斗は心配そうに秋也の方ばかりを見ていた。
「お前のおかげでなんとか勝てたな。面の打ち出しのタイミングが良いんよな冬梧は。背も高くなってきたし、上段ってのも考えてみるか」
師範がそう言って冬梧の肩を叩く。それを聞いたのかどうか、秋也は先に更衣室へと戻ってしまった。
師範に挨拶をして更衣室に戻ろうとすると、試合場の出口で瑛斗が待っていた。冬梧はパッと顔を上げる。
「なぁ、秋也にエナドリ買ってやらねぇ?」
「……うん」
二人でエナドリを折半して買い、更衣室の秋也に届けた。「これうまいんだよな」と、気にしてない風を装って笑う秋也に、瑛斗は「薬みてえな味でまずいだろ」と、同じように気にしてない風を装って笑い返していた。
着替えを終え、冬梧が自分のロッカーを閉めようとした時。ふと、Tシャツに袖を通した瑛斗の背中が目に入った。
瑛斗は、少し離れたところで着替えをしている秋也を振り返り——そのまましばらく、瞬きもせずにじっと見つめていた。
冬梧は何も言わず、音を立てないように、静かにロッカーの扉を閉めた。
*
二年前の春。放課後の帰り道。
「冬梧くん、明日モール行こうよ。かよ、新しい服が欲しい」
「いいよ」
「じゃあ、十一時に駅前で待ち合わせね!」
「うん」
分かれ道で手を振ってくる彼女に軽く手を挙げ、そのまま道場へと向かう。
「お、冬梧!」
道中、瑛斗とバッタリ出くわした。
コピー用紙を四十二回折ると月に到達する、というくだらない話で笑いながら、二人で道場へと向かった。
その日の夜。
冬梧が自室で勉強をしていると、机の上でスマホが震えた。
『面紐ちぎれそうだから、明日秋也と三人でハヤシ行かね?』
冬梧は画面を見て、「うーん」と天井を見上げた。
少ししてから、スマホをタップする。
『いいよ』
『んじゃ、十時とか十一時くらい?昼飯も食おうぜ』
『りょ』
そう打って、別のトークルームを開く。
『明日やっぱりモール行けない』
『なんで?』
『武具屋行くことになった』
彼女からの返事は、返ってこなかった。
次の日の朝。冬梧は少し早めに家を出て、駅へと向かった。駅に着くか着かないかのところで、スマホがポケットの中で短く振動する。
『今日秋也いけないっていうから、やっぱり今度にしよ』
冬梧は休日の雑踏の中で足を止め、しばらくその画面を見下ろした。
楽しそうに行き交う人々の波が、立ち止まった冬梧を避けて左右に流れていく。やがて、冬梧はゆっくりとスマホをポケットにしまった。
結局、その日は一人で本屋に行き、適当に買った本をカフェで読み切った。読んでいる途中、彼女から『もう別れる』とメッセージが来たので、『わかった』とだけ送った。
日の暮れた帰り道。
駅の大型モニターに、新作ゲームの広告映像が流れていた。
「昨日までの『当たり前』が、今日も続くとは限らない。接続先を、変更しますか。——ALTER-LINK」
***
剣道の匂いは独特だ。
体育館の観客席の扉を開けると、特有の湿った空気が顔に張り付いた。百人近くもの人間が発する熱気が、風の通らない空間に閉じ込められて、二階席にまで立ち込めている。控えめに言って、くさい。
匂いの成分は、藍染めの染料、鹿革、そして繊維の奥に染み込んで決して抜けることのない汗。それを、市販の消臭スプレー(匂い付き)で無理やり誤魔化そうとするから、余計に酷いことになる。
「青春のにほひだな」
「私服に染み込みそう」
そう言って顔を顰める冬梧と共に、瑛斗は観客席の一番前の席を陣取った。少し下のアリーナでは、すでに個人戦が行われている。瑛斗たちが座った手前側は男子個人戦、奥では女子の個人戦が行われていた。
「あれ、城山じゃね」
瑛斗は手すりから身を乗り出した。一番遠くの試合場で、白袴の上段の女子が試合をしているのが見える。
「ほんとだ」
「お前同じ高校なのに、応援とか行かねえの?」
「男子は高体連出ないからな。女子剣とは活動が全然別だし」
「お前がいれば、男子も出れるだろ」
「別に出なくていいかなって。……秋也と当たったらやだし」
冬梧は城山の試合を真剣な顔で追いながら、ぽつりとそんなことを呟いた。
直後、城山が鮮やかに一本取られる。冬梧は「あー」と渋い顔をすると、「だからまだ上段で出るなっつったのに……」と舌打ちをした。
城山のこと、結局ちゃんと見てやってんのか。
ふと、道場での合同稽古で城山に教えていた冬梧の姿を思い出す。
いいなぁ。剣道を教えてる時、こいつすげえ真剣な顔するもんな。
俺といる時なんか、だいたいヘラヘラしてるくせに。
「……なんでお前、俺には教えてくれないの」
無意識のうちに、不満が口をついて出た。
同時に、城山がもう一本取られて負けてしまった。冬梧は「あーあ」と前のめりになっていた姿勢を戻し、深く背もたれに体重を預ける。
瑛斗がチッと盛大に舌を打つと、冬梧が「え? なに?」と不思議そうに振り向いた。
「城山には真剣に教えんのに、俺にはなんで教えてくんねぇのって文句言ってんだよ」
半目で睨みつけるように言うと、冬梧は「はぁ?」と片眉を上げた。
「だってお前、剣道のことは全部秋也に聞くじゃん」
え。そうでしたっけ?
……そうかもしれない。俺、冬梧にはくだらないアホな話しかしてこなかったかもしれない。
瑛斗が腕を組んでむむむ……と考え込んでいると、冬梧が小さく息を吐いた。
「お前の出小手が入るのは、誰よりも早く踏み込めるから」
静かな声が聞こえ、瑛斗はバッと横を振り返った。冬梧は目の前で行われている他校の生徒の試合を見下ろしながら、淡々と口を開く。
「でも、強いやつにお前の出小手が効かなくなるのは、動きすぎて打ち出しのステップが見えやすいから」
「……おぉ」
「相手の動きをよく見定めて、打ち出しを限界まで溜めろよ。お前はゴムを引いて飛ばすパチンコみたいなもんなんだから」
瑛斗は、真面目な横顔でそう告げる冬梧をじっと見つめた。
なんだよ。教えられるんじゃん、俺にも。
てか、俺の癖、めちゃくちゃよく見てくれてるのな。
……あれ? 俺は、見てたっけ。こいつのこと。
真面目な横顔を呆然と見つめていると、不意に冬梧が「お」と顔を上げて、肘で瑛斗の腕を突いた。
「秋也」
瑛斗が冬梧の視線の先に顔を向けると、秋也がアリーナに出てきたところだった。遠目からでもわかるほど、顔が強張っている。
あ。秋也のやつ、緊張してやがる。
「秋也! ちゃんと来たんだからな! 気張れよ!」
秋也が観客席のすぐ下を通った瞬間に、瑛斗は手すりから身を乗り出して、小さめの声で叫んだ。
秋也がビクッと声に気づき、二人がいる二階席の方を見上げる。そして、強張っていた顔をふ、と緩めた。
「待つなよ」
冬梧が上から短く声を落とすと、秋也は深く力強く頷き、選手用の控え席へと腰を下ろした。
瑛斗はそんな秋也を見ながら、そわそわと手を揉む。
「インハイ行けるの、上位二人だろ?……大丈夫かな」
「四回勝てば出場だな」
瑛斗の心配をよそに、一回戦、二回戦と、秋也は危なげなく勝ち上がった。いつもの慎重さはあるものの、今日はやけに足さばきが軽い。
三回戦の相手は、開始直後から休む間もなく打ち込んでくる超攻撃型だった。秋也はしばらく防戦に回ったが、瑛斗にはそこまで心配には見えなかった。
「……冬梧とやってる時みてぇだな」
「俺はあんなに間合い詰めないけどな」
鍔迫り合いから相手が距離を取ろうとした瞬間、秋也が一気に間を詰めて面を放った。スパーン、と心地よい音が響き、白旗が三本上がる。
「よしっ!」
瑛斗は身を乗り出して拍手する。
続く二本目。お互いに打ち合い、鍔迫り合いからの引き技が多くなる。決定的な一本が入らず、試合はそのまま秋也の一本勝ちとなった。
「ベスト4! 次勝てば決勝じゃん!」
準決勝が始まる頃には、アリーナの試合場ではひとけが減る一方で、観客席の熱気と人口密度はどんどん増していく。
瑛斗と冬梧は試合までの少しの空き時間、道場の顔見知りや師範と挨拶をしたりして過ごした。
「いよいよか」
秋也が再びアリーナに出てきたタイミングで、二人とも一番前の席に戻った。秋也は白側だ。反対側にいるのは、秋也より一回りガタイの大きい男だった。
「あいつ強い?」
「去年の県ベスト8かな。高三だけど、実力だけ見れば秋也の方が少し上」
「マジ? じゃあ秋也の一番苦手なタイプじゃん」
「自分から踏み込んでいければ、勝てる相手」
試合が始まる。相手は身体こそ大きいが、よく動くタイプだった。間合いをガンガン詰めてきて、隙あらば上から叩き込むように打ってくる。
秋也は相手の面打ちを首を傾げて際どく避けつつ、中心を外さない。しかし、突っ込んでくる相手の面垂れの下に何度も竹刀が滑り込んでしまい、三回目でついに秋也が『危険行為』で反則を取られた。
「悪い癖が出てんな……」
冬梧が低く呟く。瑛斗は手すりに齧り付きながら、心の中で「今だ!」「前出ろ!」と必死に叫んでいた。
パァンッと、竹刀が胴を叩く重い音が響いた。
鍔迫り合いからの引き胴。赤い旗がパサッと二本上がり、秋也が一本取られた。
「マジか。やべえじゃん……」
二本目。後がなくなった秋也が、ようやく覚悟を決めたように前へと出始めた。途端に間髪入れない激しい打ち合いとなる。
両者同時の面打ちからの鍔迫り合い。相手が秋也の腕を下から弾き飛ばし、引き面。秋也はそれを竹刀で受けると、すかさず追って面を打ち返した。白い旗が三本上がる。
「よし、よし! そのままいけ!」
瑛斗は思わず立ち上がり、拍手しながら短く叫んだ。
すると、開始位置に戻る最中、秋也がチラリとこちらを見た。
三本目。また振り出しに戻り、じりじりとした間合いの取り合いになる——と思いきや。
ふ、と秋也が少しだけ剣先を下げた。
相手が隙ありと面へ飛び込んできたその瞬間、秋也の竹刀が鋭く小手を叩いた。
白い旗が三本、勢いよく上がる。
出小手。
「よっしゃーっ!!」
瑛斗は身を乗り出して叫び、大きい拍手を送った。
「お前の技、パクられたな」
冬梧も嬉しそうに笑いながら拍手していた。後ろの方に座っていた師範も、満足そうに何度も頷いている。
秋也が礼をして試合場を出る。面を外し、二階席のこちらを見上げて、不敵にニヤリと微笑んだ。
「秋也、インハイじゃん……!」
やったな、秋也!!
お前はやっぱりすげえよ。
駅前の、やたら白とピンクでふわふわしたカフェのテーブル席。冬梧はコーラを片手にスマホをいじっていた。
『サメって恐竜より前から地球にいるらしい』
『は?』
『恐竜より先輩』
『じゃあティラノもサメには敬語?』
『当たり前だろ』
『サメさん、お疲れ様ですって?』
『そう』
『サメ先輩、今日も歯キレてますね!って?』
「ぶふっ、ゴホッガハッ!」
飲んでいたコーラで思わずむせる。向かいの席でケーキを食べていた当時の彼女が、むっと眉を寄せた。
「ねぇ冬梧くん、かよの話聞いてた?」
「え?」
「かよといるより、スマホ見てる方が楽しそうだね」
「あー……」
目を逸らすと、冬梧の手の中で再びスマホが震える。
『シャコのパンチは海中にプラズマを発生させるらしいぞ』
「……マジかよ」
*
三年前の秋。道場にて。
「次の地域大会、中学の部は三バカトリオで出ろよ」
師範が冬梧と瑛斗と秋也を呼び、そう告げた。
「先鋒瑛斗、中堅が冬梧で、大将は秋也」
三人で顔を見合わせる。秋也は「また俺が大将か……」と不安げに俯いた。
「ま、冬梧がいりゃ勝てんだろ」
瑛斗はいつものお気楽な調子でそう言って笑った。
その日の夜。冬梧が家に帰ると、珍しく父親が早く帰宅しており、ダイニングで食事を取っていた。
「ただいま」
「おかえり冬梧。こないだの模擬テストの点数、素晴らしかったな」
「うん」
「なんか欲しいものあるか?」
冬梧はうーん、と腕を腰に当てて考える。
「……今のよりもう少し重い、素振り用の竹刀が欲しい」
「あんた……また手の皮ずる剥けになるわよ!」
キッチンに立つ母親が呆れたような声を出す。父親は「まあまあ」と笑って言うと、ポケットから財布を取り出し、一万円札を冬梧に手渡した。
「これで買いなさい。ただし、勉強もしっかりやること」
「ありがとう。……お金余ったら、剣道の本も買っていい?」
遠慮がちに尋ねる冬梧に、父親は「仕方ないやつだな」と苦笑した。
翌週の地域大会。
決勝は、瑛斗が一本負け、冬梧が二本勝ち、秋也が引き分け。勝数は並んだが総本数で上回り、優勝を決めた。
冬梧は面を外し、瑛斗を見た。瑛斗は心配そうに秋也の方ばかりを見ていた。
「お前のおかげでなんとか勝てたな。面の打ち出しのタイミングが良いんよな冬梧は。背も高くなってきたし、上段ってのも考えてみるか」
師範がそう言って冬梧の肩を叩く。それを聞いたのかどうか、秋也は先に更衣室へと戻ってしまった。
師範に挨拶をして更衣室に戻ろうとすると、試合場の出口で瑛斗が待っていた。冬梧はパッと顔を上げる。
「なぁ、秋也にエナドリ買ってやらねぇ?」
「……うん」
二人でエナドリを折半して買い、更衣室の秋也に届けた。「これうまいんだよな」と、気にしてない風を装って笑う秋也に、瑛斗は「薬みてえな味でまずいだろ」と、同じように気にしてない風を装って笑い返していた。
着替えを終え、冬梧が自分のロッカーを閉めようとした時。ふと、Tシャツに袖を通した瑛斗の背中が目に入った。
瑛斗は、少し離れたところで着替えをしている秋也を振り返り——そのまましばらく、瞬きもせずにじっと見つめていた。
冬梧は何も言わず、音を立てないように、静かにロッカーの扉を閉めた。
*
二年前の春。放課後の帰り道。
「冬梧くん、明日モール行こうよ。かよ、新しい服が欲しい」
「いいよ」
「じゃあ、十一時に駅前で待ち合わせね!」
「うん」
分かれ道で手を振ってくる彼女に軽く手を挙げ、そのまま道場へと向かう。
「お、冬梧!」
道中、瑛斗とバッタリ出くわした。
コピー用紙を四十二回折ると月に到達する、というくだらない話で笑いながら、二人で道場へと向かった。
その日の夜。
冬梧が自室で勉強をしていると、机の上でスマホが震えた。
『面紐ちぎれそうだから、明日秋也と三人でハヤシ行かね?』
冬梧は画面を見て、「うーん」と天井を見上げた。
少ししてから、スマホをタップする。
『いいよ』
『んじゃ、十時とか十一時くらい?昼飯も食おうぜ』
『りょ』
そう打って、別のトークルームを開く。
『明日やっぱりモール行けない』
『なんで?』
『武具屋行くことになった』
彼女からの返事は、返ってこなかった。
次の日の朝。冬梧は少し早めに家を出て、駅へと向かった。駅に着くか着かないかのところで、スマホがポケットの中で短く振動する。
『今日秋也いけないっていうから、やっぱり今度にしよ』
冬梧は休日の雑踏の中で足を止め、しばらくその画面を見下ろした。
楽しそうに行き交う人々の波が、立ち止まった冬梧を避けて左右に流れていく。やがて、冬梧はゆっくりとスマホをポケットにしまった。
結局、その日は一人で本屋に行き、適当に買った本をカフェで読み切った。読んでいる途中、彼女から『もう別れる』とメッセージが来たので、『わかった』とだけ送った。
日の暮れた帰り道。
駅の大型モニターに、新作ゲームの広告映像が流れていた。
「昨日までの『当たり前』が、今日も続くとは限らない。接続先を、変更しますか。——ALTER-LINK」
***
剣道の匂いは独特だ。
体育館の観客席の扉を開けると、特有の湿った空気が顔に張り付いた。百人近くもの人間が発する熱気が、風の通らない空間に閉じ込められて、二階席にまで立ち込めている。控えめに言って、くさい。
匂いの成分は、藍染めの染料、鹿革、そして繊維の奥に染み込んで決して抜けることのない汗。それを、市販の消臭スプレー(匂い付き)で無理やり誤魔化そうとするから、余計に酷いことになる。
「青春のにほひだな」
「私服に染み込みそう」
そう言って顔を顰める冬梧と共に、瑛斗は観客席の一番前の席を陣取った。少し下のアリーナでは、すでに個人戦が行われている。瑛斗たちが座った手前側は男子個人戦、奥では女子の個人戦が行われていた。
「あれ、城山じゃね」
瑛斗は手すりから身を乗り出した。一番遠くの試合場で、白袴の上段の女子が試合をしているのが見える。
「ほんとだ」
「お前同じ高校なのに、応援とか行かねえの?」
「男子は高体連出ないからな。女子剣とは活動が全然別だし」
「お前がいれば、男子も出れるだろ」
「別に出なくていいかなって。……秋也と当たったらやだし」
冬梧は城山の試合を真剣な顔で追いながら、ぽつりとそんなことを呟いた。
直後、城山が鮮やかに一本取られる。冬梧は「あー」と渋い顔をすると、「だからまだ上段で出るなっつったのに……」と舌打ちをした。
城山のこと、結局ちゃんと見てやってんのか。
ふと、道場での合同稽古で城山に教えていた冬梧の姿を思い出す。
いいなぁ。剣道を教えてる時、こいつすげえ真剣な顔するもんな。
俺といる時なんか、だいたいヘラヘラしてるくせに。
「……なんでお前、俺には教えてくれないの」
無意識のうちに、不満が口をついて出た。
同時に、城山がもう一本取られて負けてしまった。冬梧は「あーあ」と前のめりになっていた姿勢を戻し、深く背もたれに体重を預ける。
瑛斗がチッと盛大に舌を打つと、冬梧が「え? なに?」と不思議そうに振り向いた。
「城山には真剣に教えんのに、俺にはなんで教えてくんねぇのって文句言ってんだよ」
半目で睨みつけるように言うと、冬梧は「はぁ?」と片眉を上げた。
「だってお前、剣道のことは全部秋也に聞くじゃん」
え。そうでしたっけ?
……そうかもしれない。俺、冬梧にはくだらないアホな話しかしてこなかったかもしれない。
瑛斗が腕を組んでむむむ……と考え込んでいると、冬梧が小さく息を吐いた。
「お前の出小手が入るのは、誰よりも早く踏み込めるから」
静かな声が聞こえ、瑛斗はバッと横を振り返った。冬梧は目の前で行われている他校の生徒の試合を見下ろしながら、淡々と口を開く。
「でも、強いやつにお前の出小手が効かなくなるのは、動きすぎて打ち出しのステップが見えやすいから」
「……おぉ」
「相手の動きをよく見定めて、打ち出しを限界まで溜めろよ。お前はゴムを引いて飛ばすパチンコみたいなもんなんだから」
瑛斗は、真面目な横顔でそう告げる冬梧をじっと見つめた。
なんだよ。教えられるんじゃん、俺にも。
てか、俺の癖、めちゃくちゃよく見てくれてるのな。
……あれ? 俺は、見てたっけ。こいつのこと。
真面目な横顔を呆然と見つめていると、不意に冬梧が「お」と顔を上げて、肘で瑛斗の腕を突いた。
「秋也」
瑛斗が冬梧の視線の先に顔を向けると、秋也がアリーナに出てきたところだった。遠目からでもわかるほど、顔が強張っている。
あ。秋也のやつ、緊張してやがる。
「秋也! ちゃんと来たんだからな! 気張れよ!」
秋也が観客席のすぐ下を通った瞬間に、瑛斗は手すりから身を乗り出して、小さめの声で叫んだ。
秋也がビクッと声に気づき、二人がいる二階席の方を見上げる。そして、強張っていた顔をふ、と緩めた。
「待つなよ」
冬梧が上から短く声を落とすと、秋也は深く力強く頷き、選手用の控え席へと腰を下ろした。
瑛斗はそんな秋也を見ながら、そわそわと手を揉む。
「インハイ行けるの、上位二人だろ?……大丈夫かな」
「四回勝てば出場だな」
瑛斗の心配をよそに、一回戦、二回戦と、秋也は危なげなく勝ち上がった。いつもの慎重さはあるものの、今日はやけに足さばきが軽い。
三回戦の相手は、開始直後から休む間もなく打ち込んでくる超攻撃型だった。秋也はしばらく防戦に回ったが、瑛斗にはそこまで心配には見えなかった。
「……冬梧とやってる時みてぇだな」
「俺はあんなに間合い詰めないけどな」
鍔迫り合いから相手が距離を取ろうとした瞬間、秋也が一気に間を詰めて面を放った。スパーン、と心地よい音が響き、白旗が三本上がる。
「よしっ!」
瑛斗は身を乗り出して拍手する。
続く二本目。お互いに打ち合い、鍔迫り合いからの引き技が多くなる。決定的な一本が入らず、試合はそのまま秋也の一本勝ちとなった。
「ベスト4! 次勝てば決勝じゃん!」
準決勝が始まる頃には、アリーナの試合場ではひとけが減る一方で、観客席の熱気と人口密度はどんどん増していく。
瑛斗と冬梧は試合までの少しの空き時間、道場の顔見知りや師範と挨拶をしたりして過ごした。
「いよいよか」
秋也が再びアリーナに出てきたタイミングで、二人とも一番前の席に戻った。秋也は白側だ。反対側にいるのは、秋也より一回りガタイの大きい男だった。
「あいつ強い?」
「去年の県ベスト8かな。高三だけど、実力だけ見れば秋也の方が少し上」
「マジ? じゃあ秋也の一番苦手なタイプじゃん」
「自分から踏み込んでいければ、勝てる相手」
試合が始まる。相手は身体こそ大きいが、よく動くタイプだった。間合いをガンガン詰めてきて、隙あらば上から叩き込むように打ってくる。
秋也は相手の面打ちを首を傾げて際どく避けつつ、中心を外さない。しかし、突っ込んでくる相手の面垂れの下に何度も竹刀が滑り込んでしまい、三回目でついに秋也が『危険行為』で反則を取られた。
「悪い癖が出てんな……」
冬梧が低く呟く。瑛斗は手すりに齧り付きながら、心の中で「今だ!」「前出ろ!」と必死に叫んでいた。
パァンッと、竹刀が胴を叩く重い音が響いた。
鍔迫り合いからの引き胴。赤い旗がパサッと二本上がり、秋也が一本取られた。
「マジか。やべえじゃん……」
二本目。後がなくなった秋也が、ようやく覚悟を決めたように前へと出始めた。途端に間髪入れない激しい打ち合いとなる。
両者同時の面打ちからの鍔迫り合い。相手が秋也の腕を下から弾き飛ばし、引き面。秋也はそれを竹刀で受けると、すかさず追って面を打ち返した。白い旗が三本上がる。
「よし、よし! そのままいけ!」
瑛斗は思わず立ち上がり、拍手しながら短く叫んだ。
すると、開始位置に戻る最中、秋也がチラリとこちらを見た。
三本目。また振り出しに戻り、じりじりとした間合いの取り合いになる——と思いきや。
ふ、と秋也が少しだけ剣先を下げた。
相手が隙ありと面へ飛び込んできたその瞬間、秋也の竹刀が鋭く小手を叩いた。
白い旗が三本、勢いよく上がる。
出小手。
「よっしゃーっ!!」
瑛斗は身を乗り出して叫び、大きい拍手を送った。
「お前の技、パクられたな」
冬梧も嬉しそうに笑いながら拍手していた。後ろの方に座っていた師範も、満足そうに何度も頷いている。
秋也が礼をして試合場を出る。面を外し、二階席のこちらを見上げて、不敵にニヤリと微笑んだ。
「秋也、インハイじゃん……!」
やったな、秋也!!
お前はやっぱりすげえよ。

