結局、瑛斗のバイトの時間ギリギリまで、そのままフードコートで時間を潰す。それ以上『オルリン』の話はせず、高体連のことや、OBの警察官をどこで見かけたといった、どうでもいい話ばかりした。
帰り道もまた冬梧の傘に入れてもらい、雨の中、バイト先のコンビニまで送ってもらう。道中、会話はほとんどなかったが、冬梧だから、別に気にならなかった。
「明日は、なんか予定あんの」
コンビニの裏口に着いたところで、冬梧がふとそんなことを聞いてきた。
最近の日曜日はずっと、『オルリン』にいたな。
「あー……、特にねえけどな」
瑛斗が言葉を濁すと、冬梧は短く「そうか」とだけ呟き、踵を返した。
「また、道場でな」
慌ててその背中に声をかける。しかし、聞こえたのか聞こえなかったのか、冬梧は一度も振り向くことなく、雨の中へと歩き去っていった。
次の日。
昼過ぎに起き出し、まだ寝ている綾音の代わりにささっと部屋を片付け、昼食を作る。
瑛斗は料理が嫌いじゃない。むしろ、レシピ通りに作るより「もっと美味くしてやろう」と勝手にアレンジを加えるレベルには得意だ。
料理をするようになったのは、小学五年の時。女手一つで育ててくれている綾音が、夜遅くにヘロヘロになって帰ってきた日があった。適当に袋ラーメンを作り、卵を落として出してやったら、「マジで天才! 世界一美味しい」と泣きそうな顔で食べてくれたのが、すごく嬉しかったのだ。
そこからスマホでレシピを調べ、冷蔵庫の余り物で色々作るようになった。今では特技欄に書けるレベルにまで上達したと思っている。
『お前、飯作れるからこの調理セット持っていこう』
フライパンで焼きうどんを炒めながら、ふと昨日の冬梧の言葉を思い出す。
そういえば、冬梧や秋也にちゃんと飯を作ってやったことなんてないな。強いて言うなら、小六の時の道場の合宿で、カレー作りをほぼ丸投げされた時くらいだ。
いつか作ってやろう。もし食って「美味い」って言わなかったら、包丁投げてやる。
焼きうどんを完成させ、綾音の分を皿に盛ってラップをかけておく。自分の分は三分で平らげ、洗い物も済ませたところで、自室に戻った。
……さて。どうしよう。
椅子に座り、真っ暗なパソコンのモニターをじっと見つめる。
高体連の近いこの時期、秋也は日曜日も高校で稽古だから、きっとログインしていないはずだ。
でも、ぴこたんは、いるかもしれない。
瑛斗は小さく息を吸い込み、ゆっくりと指を伸ばして、パソコンの電源ボタンを押した。
今日のログイン画面では、見知らぬビルの屋上の縁にZが座り、濁った灰色の空を見上げていた。
……なんでお前が、そんな憂鬱そうな顔してんだよ。俺がログインしなかったから不貞腐れてんのか。
『キモい』なんて言って、悪かったよ。
画面の向こうのZに向かって、心の中で小さく謝る。Zの肩に乗った白いロボットのアクセサリーだけが、雲の隙間から差し込む光を反射してオレンジ色に輝いていた。
「……肩ぴこ」
特に意味もなくその名を呟き、ログインボタンを押す。画面が暗転し、ぴこたんとASTRAと三人で攻略した『摩天楼タワー』の前にZが現れた。
フレンド欄を開く。ASTRAはオフライン。
ぴこたんは——オンラインだった。
Z:こんちわ
…………。
しばらくログを眺めたが、返事がない。
マップで確認すると、ぴこたんの現在地はいつものネオン街だ。瑛斗はワープアイテムを使い、Zをいつもの街へと移動させた。
あ。あそこかも。
そう思って、いつも二人でダラダラと過ごす屋台のベンチへ向かうと、案の定、ぴこたんが一人でちょこんと座っていた。名前の横には、離席中を示すアイコンが青く点滅している。
俺のこと、待ってたのかな。
Zをぴこたんの隣に座らせ、瑛斗は頬杖をつきながら、画面の中の二人を無言で眺めた。
しばらくZがゆらゆらと揺らす足をぼーっと見つめていると、ぴこたんの名前の横の離席アイコンがフッと消えた。
PICO:こんちわ
Z:ひさしぶり
Z:最近ログインしてなかったでしょ
PICO:うん
画面の中で、白いロボットのつぶらな瞳がパチ、パチと瞬きをする。こんなに可愛らしいアバターなのに、なぜか今日のぴこたんのチャットログは、やけに低い声で脳内再生される気がした。
PICO:なんかやる?
Z:その前に報告なんだけどさ
Z:例の作戦、やめにするわ
PICO:そうか
Z:色々あんがとね
PICO:オルリンもやめるの?
短いログを見て、瑛斗は「うーん」と考え込む。ゲームのストーリー自体はよくわかっていないが、最後までクリアしたい気持ちがないわけではない。
Z:俺がやめるっつったら、ぴこたんはどうする?
あ。『俺』って打っちゃった。
……まぁ、もういいか。
PICO:俺もまたやらなくなるだけ
え、なんでよ。
それじゃまるで、俺がいたから『オルリン』を再開したみたいじゃんか。
『昔ほどはやってねえけど』
『二年前くらいに始めて、当時めちゃくちゃやり込んだから。今年入ってからはかなり減った』
昨日、フードコートでうどんをすすりながら放った冬梧の言葉が、鮮明に蘇る。
瑛斗は指先で恐る恐るキーボードを叩いた。
Z:土曜日、いつもなにしてんの
PICO:塾
タイピングする手がピタリと止まり、瞬きもせずにモニターを凝視する。
心のどこかで「やっぱり」と、もう一人の冷静な自分がため息をついた。
震える指で、キーボードを一文字ずつ、確かめるようにはじく。
Z:昨日も?
数秒の、永遠にも似た空白。
やがて、ポンッと無機質なシステム音と共にチャットログが更新された。
PICO:昨日はサボってホムセン行った
冬梧だ。
ヒュッ、と喉の奥で息を呑む。
——まさか、全部知ってるのか?
硬直する瑛斗にトドメを刺すように、次のログが画面に表示される。
PICO:おまえと
瑛斗は反射的に、パソコンの物理電源ボタンを力任せに押し込んだ。ビッという短い警告音が鳴り、モニターが真っ黒に暗転する。
あいつ、全部知ってた。
俺が秋也を好きなのも、近づくためにネカマになって、必死に女のふりして画面の前で一喜一憂してたのも。
瑛斗はキーボードとマウスを乱暴に払いのけ、机に突っ伏した。床に落ちたマウスが、パキン、と虚しいプラスチックの割れる音を立てた。
「……最悪だ」
*
嫌なことがあったり、考えるのが嫌になったりした時って、人間はなんでこんなに寝れるんだろう、と思う。
寝て、起きて、スマホで『ラグマットを洗うショート動画』を無心で眺め、また寝る。真っ暗な部屋で、ひたすらそれを繰り返した。
『ちゃんと話したい』
動画を見ている途中で、冬梧からメッセージが届いた。画面上部の通知だけ見て、アプリは開かなかった。
深夜、もう一度スマホが短く震える。
『ごめん』
何が『ごめん』だよ。
ぴこたんの顔して、やれやれってため息ついて、「まぁ、手伝うけど」って。
……手伝えんのかよ、お前は。
これ以上考えたくなくて、マーモットがひたすらにんじんを齧る動画を見ることにした。
結局これも、開かなかった。開けなかった。
次の日。学校では上の空のまま過ごし、気がつけば放課後になっていた。
稽古、どうしよ。
そう思いながらも、足は勝手に道場の方へと向かっている。
田舎の住宅街は建物が低くて、空がよく見える。綾音が『この辺は建物の高さ制限があんの』とドヤ顔で言っていたのは、いつのことだったか。
昼まで降っていた雨のせいで、アスファルトには水溜りがたくさんできていた。それが夕暮れの空を、鏡みたいに反射している。歩きながら水溜りに道場が映り込んでいるのを見て、ふと足を止め、視線を上げた。
あれ。道場って、こんなんだったっけ。
いつも見慣れているはずの景色が、急に違うもののように見える時がある。パラレルワールドに迷い込んだような、奇妙な感覚。
土曜日を一緒に過ごした冬梧も、なんだかそんな感じだった。
そして、そういうものを感じた時は決まって、胸の奥がざわざわと落ち着かなくなるのだ。
意を決して道場の戸を開けたが、冬梧は今日、来ていなかった。
気まずくて、避けられてる?
俺がメッセージの返事、返さなかったから?
もやもやとしつつも、竹刀を振って汗を流すと、幾分か気分はスッキリした。
「冬梧が休みなんて珍しいな。お前、あいつからなんか聞いてる?」
「……いや。なにも聞いてない」
稽古後、更衣室に戻る途中で秋也が尋ねてきた。思わず視線を逸らして答えると、ぱっと手首を掴まれる。
「なんかお前、今日元気ねえのな。たまには俺がエナドリ奢ってやるよ」
そのまま強引に引っ張られ、問答無用で自販機まで連れていかれる。「ほれ」と秋也から渡された冷たい黄色い缶を受け取り、そのまま二人でベンチに腰を下ろした。
ちびちびと薬臭いエナドリを啜っていると、秋也が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「瑛斗、なんかあった?」
「なんもねぇって! それより、お前は高体連に向けて調子どうなの。今日も動き良さそうだったな」
努めて明るい声を出す。秋也は「まぁ、稽古は順調かな」とぐるぐる肩を回した。
「今日は親父にも捕まらなかったし、久々に早く帰れるわ。マジで、起きてる時間の半分は稽古してるからな……。今日は気分転換に『オルリン』やろっと! みんないるかなぁ」
弾んだ声を聞いた瞬間、喉の奥から吐き気のような罪悪感が込み上げてきた。
このままZが理由も言わずにいなくなったら、こいつはどうするんだろう。
俺が作った嘘の女を、ずっと待ち続けちゃったら、どうしよう。
昨日までなら、適当に笑って誤魔化せたかもしれない。
でも、今は。
『PICO:昨日はサボってホムセン行った』
『PICO:おまえと』
ふと、ぴこたんのログがフラッシュバックした。
今はもう、画面の向こうで何も知らない誰かを騙し続けることに、耐えられそうになかった。
「……来ないよ」
「え?」
「Z、来ないよ」
「……え」
秋也が呆然とした顔でこちらを見た。「なんで……お前が、その名前……」と戸惑ったような声を出す。
瑛斗は秋也の真っ直ぐな視線から顔を背け、深く、深くため息を吐いた。
「俺が、Zなんだよ」
「……は? え、どゆこと?」
秋也は訳がわからない、というように細めた目を瞬かせた。
「だから! 俺がZを作って、女のふりしてお前にゲーム内で近づいたの!」
瑛斗が声を荒らげて叫ぶと、秋也は言葉を失ったように固まった。
重い沈黙。
自販機のブーッという低い稼働音だけが、やけに大きく耳に響く。
しばらくして、俯いていた秋也が「……なるほどな」と顔を上げた。
その目を見た瞬間、ああ、軽蔑されたんだと思った。
「……また、お前と冬梧の悪ふざけか。女の子に縁がない俺をネカマで騙して、裏で二人でゲラゲラ笑ってたわけか」
違う。冬梧は関係ない。
そう否定する前に、秋也は勢いよく立ち上がり、そのまま立ち去ろうとした。
「ちげえって!」
反射的に秋也の腕を掴んだが、バチンッ!と、強く弾かれた。
「マジで、今回だけは笑えない」
吐き捨て、再び踵を返す。行かせるわけにはいかなかった。
瑛斗は「ちげえっつってんだろ!」と、今度は秋也の肩を力強く掴んだ。
直後、猛然と振り返った秋也に肩を押し返され、瑛斗の背中がガンッと自販機にぶつかった。
「じゃあなんでそんなことしたんだよ!」
グッと道着の胸元を掴まれる。至近距離で、秋也の怒りに満ちた視線とぶつかった。
「……好きだったんだよ。お前のことが」
「え」
絞り出すようにそう呟くと、秋也の手にこもっていた力がふっと抜けた。
「……ゲームの中の女としてなら、少しは、俺のこと好きになってくれるかと思ったんだよ」
秋也は言葉を失ったように目を見開き、瑛斗の胸ぐらからぱっと手を離した。そのままゆっくりと数歩後ずさる。
瑛斗はその動揺しきった顔を見て、思わず自嘲するように笑った。
——あぁ、色々終わった。でももう、なんでもいいや。
「悪ふざけじゃない。でも……騙したのは悪かったよ」
それだけ言って、秋也の顔を見ないように更衣室へと走る。
ロッカーからカバンだけを引っ張り出し、道着も着替えず、逃げるように道場を後にした。
帰り道もまた冬梧の傘に入れてもらい、雨の中、バイト先のコンビニまで送ってもらう。道中、会話はほとんどなかったが、冬梧だから、別に気にならなかった。
「明日は、なんか予定あんの」
コンビニの裏口に着いたところで、冬梧がふとそんなことを聞いてきた。
最近の日曜日はずっと、『オルリン』にいたな。
「あー……、特にねえけどな」
瑛斗が言葉を濁すと、冬梧は短く「そうか」とだけ呟き、踵を返した。
「また、道場でな」
慌ててその背中に声をかける。しかし、聞こえたのか聞こえなかったのか、冬梧は一度も振り向くことなく、雨の中へと歩き去っていった。
次の日。
昼過ぎに起き出し、まだ寝ている綾音の代わりにささっと部屋を片付け、昼食を作る。
瑛斗は料理が嫌いじゃない。むしろ、レシピ通りに作るより「もっと美味くしてやろう」と勝手にアレンジを加えるレベルには得意だ。
料理をするようになったのは、小学五年の時。女手一つで育ててくれている綾音が、夜遅くにヘロヘロになって帰ってきた日があった。適当に袋ラーメンを作り、卵を落として出してやったら、「マジで天才! 世界一美味しい」と泣きそうな顔で食べてくれたのが、すごく嬉しかったのだ。
そこからスマホでレシピを調べ、冷蔵庫の余り物で色々作るようになった。今では特技欄に書けるレベルにまで上達したと思っている。
『お前、飯作れるからこの調理セット持っていこう』
フライパンで焼きうどんを炒めながら、ふと昨日の冬梧の言葉を思い出す。
そういえば、冬梧や秋也にちゃんと飯を作ってやったことなんてないな。強いて言うなら、小六の時の道場の合宿で、カレー作りをほぼ丸投げされた時くらいだ。
いつか作ってやろう。もし食って「美味い」って言わなかったら、包丁投げてやる。
焼きうどんを完成させ、綾音の分を皿に盛ってラップをかけておく。自分の分は三分で平らげ、洗い物も済ませたところで、自室に戻った。
……さて。どうしよう。
椅子に座り、真っ暗なパソコンのモニターをじっと見つめる。
高体連の近いこの時期、秋也は日曜日も高校で稽古だから、きっとログインしていないはずだ。
でも、ぴこたんは、いるかもしれない。
瑛斗は小さく息を吸い込み、ゆっくりと指を伸ばして、パソコンの電源ボタンを押した。
今日のログイン画面では、見知らぬビルの屋上の縁にZが座り、濁った灰色の空を見上げていた。
……なんでお前が、そんな憂鬱そうな顔してんだよ。俺がログインしなかったから不貞腐れてんのか。
『キモい』なんて言って、悪かったよ。
画面の向こうのZに向かって、心の中で小さく謝る。Zの肩に乗った白いロボットのアクセサリーだけが、雲の隙間から差し込む光を反射してオレンジ色に輝いていた。
「……肩ぴこ」
特に意味もなくその名を呟き、ログインボタンを押す。画面が暗転し、ぴこたんとASTRAと三人で攻略した『摩天楼タワー』の前にZが現れた。
フレンド欄を開く。ASTRAはオフライン。
ぴこたんは——オンラインだった。
Z:こんちわ
…………。
しばらくログを眺めたが、返事がない。
マップで確認すると、ぴこたんの現在地はいつものネオン街だ。瑛斗はワープアイテムを使い、Zをいつもの街へと移動させた。
あ。あそこかも。
そう思って、いつも二人でダラダラと過ごす屋台のベンチへ向かうと、案の定、ぴこたんが一人でちょこんと座っていた。名前の横には、離席中を示すアイコンが青く点滅している。
俺のこと、待ってたのかな。
Zをぴこたんの隣に座らせ、瑛斗は頬杖をつきながら、画面の中の二人を無言で眺めた。
しばらくZがゆらゆらと揺らす足をぼーっと見つめていると、ぴこたんの名前の横の離席アイコンがフッと消えた。
PICO:こんちわ
Z:ひさしぶり
Z:最近ログインしてなかったでしょ
PICO:うん
画面の中で、白いロボットのつぶらな瞳がパチ、パチと瞬きをする。こんなに可愛らしいアバターなのに、なぜか今日のぴこたんのチャットログは、やけに低い声で脳内再生される気がした。
PICO:なんかやる?
Z:その前に報告なんだけどさ
Z:例の作戦、やめにするわ
PICO:そうか
Z:色々あんがとね
PICO:オルリンもやめるの?
短いログを見て、瑛斗は「うーん」と考え込む。ゲームのストーリー自体はよくわかっていないが、最後までクリアしたい気持ちがないわけではない。
Z:俺がやめるっつったら、ぴこたんはどうする?
あ。『俺』って打っちゃった。
……まぁ、もういいか。
PICO:俺もまたやらなくなるだけ
え、なんでよ。
それじゃまるで、俺がいたから『オルリン』を再開したみたいじゃんか。
『昔ほどはやってねえけど』
『二年前くらいに始めて、当時めちゃくちゃやり込んだから。今年入ってからはかなり減った』
昨日、フードコートでうどんをすすりながら放った冬梧の言葉が、鮮明に蘇る。
瑛斗は指先で恐る恐るキーボードを叩いた。
Z:土曜日、いつもなにしてんの
PICO:塾
タイピングする手がピタリと止まり、瞬きもせずにモニターを凝視する。
心のどこかで「やっぱり」と、もう一人の冷静な自分がため息をついた。
震える指で、キーボードを一文字ずつ、確かめるようにはじく。
Z:昨日も?
数秒の、永遠にも似た空白。
やがて、ポンッと無機質なシステム音と共にチャットログが更新された。
PICO:昨日はサボってホムセン行った
冬梧だ。
ヒュッ、と喉の奥で息を呑む。
——まさか、全部知ってるのか?
硬直する瑛斗にトドメを刺すように、次のログが画面に表示される。
PICO:おまえと
瑛斗は反射的に、パソコンの物理電源ボタンを力任せに押し込んだ。ビッという短い警告音が鳴り、モニターが真っ黒に暗転する。
あいつ、全部知ってた。
俺が秋也を好きなのも、近づくためにネカマになって、必死に女のふりして画面の前で一喜一憂してたのも。
瑛斗はキーボードとマウスを乱暴に払いのけ、机に突っ伏した。床に落ちたマウスが、パキン、と虚しいプラスチックの割れる音を立てた。
「……最悪だ」
*
嫌なことがあったり、考えるのが嫌になったりした時って、人間はなんでこんなに寝れるんだろう、と思う。
寝て、起きて、スマホで『ラグマットを洗うショート動画』を無心で眺め、また寝る。真っ暗な部屋で、ひたすらそれを繰り返した。
『ちゃんと話したい』
動画を見ている途中で、冬梧からメッセージが届いた。画面上部の通知だけ見て、アプリは開かなかった。
深夜、もう一度スマホが短く震える。
『ごめん』
何が『ごめん』だよ。
ぴこたんの顔して、やれやれってため息ついて、「まぁ、手伝うけど」って。
……手伝えんのかよ、お前は。
これ以上考えたくなくて、マーモットがひたすらにんじんを齧る動画を見ることにした。
結局これも、開かなかった。開けなかった。
次の日。学校では上の空のまま過ごし、気がつけば放課後になっていた。
稽古、どうしよ。
そう思いながらも、足は勝手に道場の方へと向かっている。
田舎の住宅街は建物が低くて、空がよく見える。綾音が『この辺は建物の高さ制限があんの』とドヤ顔で言っていたのは、いつのことだったか。
昼まで降っていた雨のせいで、アスファルトには水溜りがたくさんできていた。それが夕暮れの空を、鏡みたいに反射している。歩きながら水溜りに道場が映り込んでいるのを見て、ふと足を止め、視線を上げた。
あれ。道場って、こんなんだったっけ。
いつも見慣れているはずの景色が、急に違うもののように見える時がある。パラレルワールドに迷い込んだような、奇妙な感覚。
土曜日を一緒に過ごした冬梧も、なんだかそんな感じだった。
そして、そういうものを感じた時は決まって、胸の奥がざわざわと落ち着かなくなるのだ。
意を決して道場の戸を開けたが、冬梧は今日、来ていなかった。
気まずくて、避けられてる?
俺がメッセージの返事、返さなかったから?
もやもやとしつつも、竹刀を振って汗を流すと、幾分か気分はスッキリした。
「冬梧が休みなんて珍しいな。お前、あいつからなんか聞いてる?」
「……いや。なにも聞いてない」
稽古後、更衣室に戻る途中で秋也が尋ねてきた。思わず視線を逸らして答えると、ぱっと手首を掴まれる。
「なんかお前、今日元気ねえのな。たまには俺がエナドリ奢ってやるよ」
そのまま強引に引っ張られ、問答無用で自販機まで連れていかれる。「ほれ」と秋也から渡された冷たい黄色い缶を受け取り、そのまま二人でベンチに腰を下ろした。
ちびちびと薬臭いエナドリを啜っていると、秋也が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「瑛斗、なんかあった?」
「なんもねぇって! それより、お前は高体連に向けて調子どうなの。今日も動き良さそうだったな」
努めて明るい声を出す。秋也は「まぁ、稽古は順調かな」とぐるぐる肩を回した。
「今日は親父にも捕まらなかったし、久々に早く帰れるわ。マジで、起きてる時間の半分は稽古してるからな……。今日は気分転換に『オルリン』やろっと! みんないるかなぁ」
弾んだ声を聞いた瞬間、喉の奥から吐き気のような罪悪感が込み上げてきた。
このままZが理由も言わずにいなくなったら、こいつはどうするんだろう。
俺が作った嘘の女を、ずっと待ち続けちゃったら、どうしよう。
昨日までなら、適当に笑って誤魔化せたかもしれない。
でも、今は。
『PICO:昨日はサボってホムセン行った』
『PICO:おまえと』
ふと、ぴこたんのログがフラッシュバックした。
今はもう、画面の向こうで何も知らない誰かを騙し続けることに、耐えられそうになかった。
「……来ないよ」
「え?」
「Z、来ないよ」
「……え」
秋也が呆然とした顔でこちらを見た。「なんで……お前が、その名前……」と戸惑ったような声を出す。
瑛斗は秋也の真っ直ぐな視線から顔を背け、深く、深くため息を吐いた。
「俺が、Zなんだよ」
「……は? え、どゆこと?」
秋也は訳がわからない、というように細めた目を瞬かせた。
「だから! 俺がZを作って、女のふりしてお前にゲーム内で近づいたの!」
瑛斗が声を荒らげて叫ぶと、秋也は言葉を失ったように固まった。
重い沈黙。
自販機のブーッという低い稼働音だけが、やけに大きく耳に響く。
しばらくして、俯いていた秋也が「……なるほどな」と顔を上げた。
その目を見た瞬間、ああ、軽蔑されたんだと思った。
「……また、お前と冬梧の悪ふざけか。女の子に縁がない俺をネカマで騙して、裏で二人でゲラゲラ笑ってたわけか」
違う。冬梧は関係ない。
そう否定する前に、秋也は勢いよく立ち上がり、そのまま立ち去ろうとした。
「ちげえって!」
反射的に秋也の腕を掴んだが、バチンッ!と、強く弾かれた。
「マジで、今回だけは笑えない」
吐き捨て、再び踵を返す。行かせるわけにはいかなかった。
瑛斗は「ちげえっつってんだろ!」と、今度は秋也の肩を力強く掴んだ。
直後、猛然と振り返った秋也に肩を押し返され、瑛斗の背中がガンッと自販機にぶつかった。
「じゃあなんでそんなことしたんだよ!」
グッと道着の胸元を掴まれる。至近距離で、秋也の怒りに満ちた視線とぶつかった。
「……好きだったんだよ。お前のことが」
「え」
絞り出すようにそう呟くと、秋也の手にこもっていた力がふっと抜けた。
「……ゲームの中の女としてなら、少しは、俺のこと好きになってくれるかと思ったんだよ」
秋也は言葉を失ったように目を見開き、瑛斗の胸ぐらからぱっと手を離した。そのままゆっくりと数歩後ずさる。
瑛斗はその動揺しきった顔を見て、思わず自嘲するように笑った。
——あぁ、色々終わった。でももう、なんでもいいや。
「悪ふざけじゃない。でも……騙したのは悪かったよ」
それだけ言って、秋也の顔を見ないように更衣室へと走る。
ロッカーからカバンだけを引っ張り出し、道着も着替えず、逃げるように道場を後にした。

