陽が傾き、オレンジ色の街を晴れやかな気持ちで歩く。
家に着いたら志貴に伝えよう。
鼻歌でも歌ってしまいそうなほど浮かれていたけれど、なにかが引っかかって足を止めた。
「なんだっけ?」
頭の中に霞がかかったように、そこにあるのに思い出せない。
「まっ、いっか。大事なことなら、そのうち思い出すだろうし」
いつもより楽観的に考えられるのも、きっと颯と付き合えたからだろう。
自分でもわかるほど、気分が盛り上がっていた。
寝る前に志貴の部屋を訪ねる。
「ねぇ、話を聞いて欲しいんだけど」
ベッドに転がる志貴は、両手で耳を塞いだ。
「嫌だ。聞きたくない」
頬を膨らませて、プイッと顔を背ける。
ベッドに乗って、両手で志貴の右手を引っ張った。右手が耳から離れる。
「どうして嫌なの?」
「由貴が俺の嫌なことを言うから」
「まだなにも言ってないじゃん」
「言わなくてもわかるよ。帰ってきてから、浮かれっぱなしでさ。俺は由貴とずっと一緒にいるんだから」
両手で頬を挟む。
「俺って浮かれてる?」
自分でもそう思っていたけれど、人に指摘されると照れくさい。
「うん、ものすっごくね!」
志貴はものすっごくを強調した。のそのそと起き上がり、後頭部をガシガシと掻く。
「どうしても言いたいの?」
「うん、志貴に聞いてもらいたい」
志貴は大きく肩を落として、長く息を吐き出した。
両手で頬をパチンと叩いて「よし、こい!」と自分に喝を入れる。
「俺ね、颯と付き合うことになった」
志貴は放心したように、後ろへ倒れる。ベッドが背中を受け止めた。
「……やっぱり嫌だ! 絶対に嫌だー!」
志貴は手足をばたつかせて、駄々を捏ねる。
「好きな人はいないって、嘘ついてごめん」
志貴はピタリと動きを止めた。
据わった目と視線が交わる。志貴が勢いよく起き上がり、身を乗り出して顔が近付いた。
「俺が嫌なのは、由貴と颯が付き合うことなの! 嫌だけど、由貴が気に病むことじゃない。全部颯のせいなんだから」
ここまで嫌がられると、どうしても勘繰ってしまう。颯は否定していたけれど、志貴の気持ちは志貴にしかわからないんだから。
「あのさ、志貴は颯が好きだから、俺が颯と付き合うのは嫌なの?」
志貴は鼻を鳴らして、苦いものを噛んだような顔をする。
「なんで俺が颯を好きなんて、的外れなことが言えるの?」
「だって嫌がるし、志貴の好きな人の特徴が颯にピッタリだし」
「全然合ってない! 正反対じゃん!」
志貴は枕を抱いて横たわった。
「もしかして嫌いだから俺と付き合ってほしくないの?」
「違う。友達としては好きだよ。そうじゃなきゃ子どもの頃だって遊ばないし。でも友達以上の関係は嫌なの!」
なかなか複雑な心境のようで、俺には全く理解できなかった。
翌朝はアラームの音で起きたけれど、大きなあくびが止まらない。
昨夜は目が冴えて、なかなか眠れなかった。
身支度を整えてリビングに行くと、母さんが朝食を用意してくれた。
「いただきます」
手を合わせて食べ始める。
母さんが俺の前に座って、じっと顔を覗き込んできた。
「なに?」
味噌汁をすすりながら訊ねる。
「志貴と喧嘩したの?」
変なところに入って、ゲホゴホと咽せた。母さんがティッシュを引き抜いて、俺に向ける。それを受け取って、口を拭った。
「どうして喧嘩したと思ったの?」
「だって昨日の夜、志貴が騒いでたでしょ。それにもう学校に向かったのよ。いつも由貴と行くのに。約束があるからって言ってたけど、そんなに朝早くから約束なんてする?」
もしかして、俺は志貴に避けられたの?
呆然として、箸が止まる。
「喧嘩するのは仲が良い証拠だけどね。ほら、早く食べちゃいなさい。学校に遅れるわよ」
時計に目を向け、ご飯を口に詰め込んだ。
学校に着き、チャイムの直前に教室に滑り込む。間に合った。
席に着くとすぐにHRが始まる。
前に座る颯の後頭部を見ているだけで、頬が緩んでしまった。奥歯を噛んで、口を引き締める。
休み時間に颯に昨日のことを話した。
「やっぱり騒いだんだね」
「うん、帰ったらまた話してみるよ」
「そっか。デートに誘おうと思ったんだけど、残念だな。明日は僕のために、空けといてくれる?」
颯が口に手を添えて、俺の耳元でささめく。耳に熱い吐息がかかり、体温が一気に上がった。俺はコクコクと頷くことしかできない。
放課後になり、まっすぐ家に帰るが、志貴はまだいなかった。
部屋に入って着替えると、眠気に襲われる。自分の部屋で、気が抜けたからかもしれない。
「ちょっとだけ寝ようかな」
ベッドに倒れ込むと、すぐに意識が遠のいた。
目が覚めると、西陽が差し込み、部屋が赤く染まっていた。
「あっ、志貴」
ベッドから飛び起きて、隣の部屋に駆け込む。
扉を開くと、ベッドの前に明るい髪色の男が座っていた。視線が絡み、男は細い眉をひそめる。
「志貴はコンビニに行った。すぐに帰ってくるはず」
低く温かみのある声だった。
目を大きく見開き、耳を疑う。
「俺が志貴じゃないってわかるの?」
「見たらわかるだろ」
彼は切れ長の目を細めた。珍しい物でも見たかのような瞳を向けてくる。
両親以外では二人目だ。俺と志貴を瞬時に見抜くのは。
興味津々で、彼の前に座る。
「ねぇ、どうしてわかるの?」
「どうしてって、志貴じゃねーから」
じゃない方と言われても、あまり傷付かなかった。
もしかしたら、この人も颯と同じだから俺と志貴の見分けがついたのかもしれない。
「志貴のことが好きだから、違うってわかったの?」
不躾な質問に、彼はバツが悪そうに視線を逸らして頭を掻いた。髪から覗く耳が少し赤い。否定をしないってことは、そうなんだ。
「ただいまー。あれ? 由貴、どうしたの? 蓮見先輩と知り合いだった?」
先輩? 志貴の友達だと思って、タメ口で話してしまった。顔から血の気が引く。
「馴れ馴れしく話してしまい、すみませんでした」
勢いよく頭を下げると、蓮見先輩はふっと声を漏らして笑う。そっと顔を上げた。
目尻が下がり、笑って八重歯が覗く。
「やっぱり全然違う。志貴は俺が先輩だってわかってて、最初からタメ口だった」
志貴は蓮見先輩に缶コーヒーとお釣りを渡す。
「えー、でも蓮見先輩もそっちのがいいでしょ? 可愛い後輩に慕われてさ」
「慕ってんなら、下手に出ろよ。朝早くに呼び出しやがってよ」
「でも来てくれるじゃん」
今朝は本当に約束があったのか。志貴に避けられていないことがわかって胸を撫で下ろすけれど、志貴と蓮見先輩を包む空気が甘酸っぱくて、むずむずして居心地が悪い。
「蓮見先輩は、いつ志貴と仲良くなったんですか?」
志貴は部活には入っていないから、他学年と接点なんてないはずだけど。
「去年の体育祭の実行委員で一緒になって懐かれた」
「そう。くじ引きで実行委員になって最初は嫌だったんだけど、蓮見先輩がいたから楽しかったな」
いつもの志貴より、声のトーンが高い。蓮見先輩のことが大好きって隠さず伝えているみたいで、こちらまでドキドキしてしまう。
「弟はこの間の球技大会で負かしたな」
急に話をふられて、目を見開く。
記憶を辿り、「あっ!」と声を上げた。
「めちゃくちゃ上手いGKの人ですか? 俺たち、全部止められました」
蓮見先輩は得意げに顎を出す。
「えー、俺も見たかった」
志貴は不満を露わに、口を尖らせた。
志貴と蓮見先輩の顔を見比べる。
いつもより少し甘えたような表情や弾む声の志貴と、ぶっきらぼうな口調ながらも柔らかい目で志貴を見つめる蓮見先輩。
俺は志貴が好きな人と一緒にいられて、自分のことのように嬉しい。できれば志貴にも、俺と颯のことをそう思って欲しい。
志貴と笑い合っていた蓮見先輩が、急にこちらに目を向ける。先ほどまでの慈愛に満ちた瞳は、やっぱり志貴専用みたいだ。今は少し呆れたような、力の抜けた目をしていた。
「こいつさ、今朝俺のことを呼び出して、『弟が変な男に引っかかった』ってずっと愚痴ってたぞ」
蓮見先輩が志貴を顎で指し、首をすくめる。
「いえ、変ではないです。優しいですよ」
両手を振ってキッパリと否定する。
「優しい? そんなわけないじゃん。あいつは子どもの頃から、由貴の前では猫をかぶってんだって! だから嫌なの!」
口をひん曲げる志貴の言葉に息を呑む。
思い出した。
ずっと引っかかっていたのは、志貴が言っていた、俺が颯に騙されているということ。志貴と二人の時は、颯の口調も変わっていた。
「普段はガキ大将みたいなのに、由貴の前ではおとなしくて穏やかになってさ。それで由貴のことが好きなんだって気付いて、ずっと二人の間に入ってたんだ」
「それはいつから?」
「さあ? 気付いたらそうだった」
幼稚園の頃ジャングルジムから降りられなくなった時、颯は一生懸命降り方を教えてくれた。もしかして、そんなに前から?
「そんな裏があるやつじゃなくて、本当にいい奴と付き合って欲しいんだって」
「きっと裏なんてないよ。颯は優しいよ」
志貴は片眉を跳ね上げて、声にならない悲鳴を上げる。
「じゃあ白黒つけようか。俺が颯に電話をするから、由貴はなにがあっても黙って聞いててよ」
志貴がスマホを操作して、三人の間に置く。画面には颯の名前があり、スピーカーにしてあるからコール音が部屋に響いていた。
『なに?』
普段より低くて素っ気ない声が聞こえてきた。
志貴は俺に向かって、口の前で人差し指を立てる。俺が頷くと口を開いた。
「なんで電話したか、わかってんだろ?」
『由貴くんとの仲を祝うため?』
「違う。俺は嫌なの! 由貴には本当に優しい人と付き合って欲しい」
『そう思うのは志貴の勝手だけど、決めるのは由貴くんだろ』
蓮見先輩がその通り、とでもいうように力強く頷いた。
以前聞いたみたいに、颯は俺と話すより荒っぽい。
「由貴のことを騙しているやつなんて、いいわけないじゃん」
『騙してねーって。好きな子によく見られたいって思うことの、なにがおかしいんだ? 誰でもカッコつけたり、背伸びしたりするだろ』
声を上げそうになって、慌てて両手で押さえた。
俺に好かれたくて、必死だったってこと?
押さえているのに、口が自然と緩んでしまう。
志貴は鼻を鳴らしてスマホを手に取った。
「今の会話、由貴も聞いてたからな。バーカバーカ」
『は? お前、なにしてん……』
声をひっくり返して狼狽する颯の言葉を遮って、志貴は通話を切った。
「全く問題なくないか?」
蓮見先輩が颯の味方をしてくれて、「そうですよね!」と身を乗り出す。
「志貴だって好きな相手との仲を、弟に否定されたら嫌だろ?」
蓮見先輩の諭すような優しい声に、志貴は口を尖らせて「でも……」ともごもごと口を動かす。
もう一押しっぽい。
「俺が志貴と蓮見先輩が付き合うの嫌! って騒いだら、志貴だって悲しいでしょ?」
俺が蓮見先輩を拒絶することなんてないんだけど。
志貴は顔を真っ赤にして「え? はっ? なに言ってんの!」と叫び出す。蓮見先輩はそっぽを向いて「そんなんじゃねーし」とごちる。耳の先は赤い。
あれ? もしかして付き合ってなかったの? あんなにいい雰囲気で?
甘酸っぱい空気に包まれて、胸焼けしそうだのに?
「ゆっくりしていってください」
蓮見先輩に向かって頭を下げ、部屋から飛び出す。
お邪魔虫は退散。
自室に戻ると、ベッドの上のスマホが震えていた。颯だ。
スマホに飛びついて、通話を繋げる。
「もしもし?」
『あっ、由貴くん? さっき志貴との通話を聞いてたって本当?』
俺の知っている、ぬるま湯にぷかぷか浮かぶような穏やかな声だ。
「うん、ごめん。でも俺は颯のことが知れて、嬉しかったよ」
『僕のこと、嫌いになってない?』
「なってない。むしろもっと、……好きになったっていうか」
照れくさくて、尻すぼみになってしまった。
向こうから、安堵の息が聞こえた。
『よかった』
「だから無理しないでね。俺の前でも普段通りでいいよ」
『僕は由貴くんの、カッコいい彼氏でいたいんだけど』
「どっちもカッコいいよ。どんな颯も好きだから」
本心を告げれば、颯の声は「ありがとう」とみなぎる。蜜を煮詰めたような、甘い顔が頭に浮かんだ。
階下から、母さんが「夕飯ができたよ」と叫ぶのが聞こえる。
「ごめん、夕飯を食べるから切るね」
『うん、また明日ね。放課後のデート、楽しみだな』
「俺も」
通話を切って、余韻に浸りながら胸をときめかせる。
廊下を歩く二人分の足音が聞こえた。
そっと扉を開いて伺うと、志貴と蓮見先輩が手を繋いでいたように見えた。すぐに階段を降りていったから、一瞬ではあったけれど、上手くいったのかな?
俺も階段を降りる。靴を履いている蓮見先輩に会釈をして、リビングに入った。
料理を運ぶのを手伝っていると、志貴が機嫌良く席に着く。幸せオーラが溢れかえっていて、外に漏れていた。
「よかったね」
志貴の隣に座ってコソッと耳打ちすれば、志貴は目尻を下げて頷いた。
「あら? 仲直りしたの?」
母さんが正面に座り、俺たちの顔を見比べる。
「喧嘩なんてしてないし」
「そう? 冷める前に食べちゃいましょ」
母さんは大して気にした様子もなく、手を合わせて箸を口に運ぶ。
「いただきます」
俺と志貴は声を揃えて手を合わせた。
「息ぴったりね」
志貴と顔を見合わせて笑う。
「俺と由貴だし」
「当然だよね」
大きな口を開けてご飯を頬張る。美味しい!
家に着いたら志貴に伝えよう。
鼻歌でも歌ってしまいそうなほど浮かれていたけれど、なにかが引っかかって足を止めた。
「なんだっけ?」
頭の中に霞がかかったように、そこにあるのに思い出せない。
「まっ、いっか。大事なことなら、そのうち思い出すだろうし」
いつもより楽観的に考えられるのも、きっと颯と付き合えたからだろう。
自分でもわかるほど、気分が盛り上がっていた。
寝る前に志貴の部屋を訪ねる。
「ねぇ、話を聞いて欲しいんだけど」
ベッドに転がる志貴は、両手で耳を塞いだ。
「嫌だ。聞きたくない」
頬を膨らませて、プイッと顔を背ける。
ベッドに乗って、両手で志貴の右手を引っ張った。右手が耳から離れる。
「どうして嫌なの?」
「由貴が俺の嫌なことを言うから」
「まだなにも言ってないじゃん」
「言わなくてもわかるよ。帰ってきてから、浮かれっぱなしでさ。俺は由貴とずっと一緒にいるんだから」
両手で頬を挟む。
「俺って浮かれてる?」
自分でもそう思っていたけれど、人に指摘されると照れくさい。
「うん、ものすっごくね!」
志貴はものすっごくを強調した。のそのそと起き上がり、後頭部をガシガシと掻く。
「どうしても言いたいの?」
「うん、志貴に聞いてもらいたい」
志貴は大きく肩を落として、長く息を吐き出した。
両手で頬をパチンと叩いて「よし、こい!」と自分に喝を入れる。
「俺ね、颯と付き合うことになった」
志貴は放心したように、後ろへ倒れる。ベッドが背中を受け止めた。
「……やっぱり嫌だ! 絶対に嫌だー!」
志貴は手足をばたつかせて、駄々を捏ねる。
「好きな人はいないって、嘘ついてごめん」
志貴はピタリと動きを止めた。
据わった目と視線が交わる。志貴が勢いよく起き上がり、身を乗り出して顔が近付いた。
「俺が嫌なのは、由貴と颯が付き合うことなの! 嫌だけど、由貴が気に病むことじゃない。全部颯のせいなんだから」
ここまで嫌がられると、どうしても勘繰ってしまう。颯は否定していたけれど、志貴の気持ちは志貴にしかわからないんだから。
「あのさ、志貴は颯が好きだから、俺が颯と付き合うのは嫌なの?」
志貴は鼻を鳴らして、苦いものを噛んだような顔をする。
「なんで俺が颯を好きなんて、的外れなことが言えるの?」
「だって嫌がるし、志貴の好きな人の特徴が颯にピッタリだし」
「全然合ってない! 正反対じゃん!」
志貴は枕を抱いて横たわった。
「もしかして嫌いだから俺と付き合ってほしくないの?」
「違う。友達としては好きだよ。そうじゃなきゃ子どもの頃だって遊ばないし。でも友達以上の関係は嫌なの!」
なかなか複雑な心境のようで、俺には全く理解できなかった。
翌朝はアラームの音で起きたけれど、大きなあくびが止まらない。
昨夜は目が冴えて、なかなか眠れなかった。
身支度を整えてリビングに行くと、母さんが朝食を用意してくれた。
「いただきます」
手を合わせて食べ始める。
母さんが俺の前に座って、じっと顔を覗き込んできた。
「なに?」
味噌汁をすすりながら訊ねる。
「志貴と喧嘩したの?」
変なところに入って、ゲホゴホと咽せた。母さんがティッシュを引き抜いて、俺に向ける。それを受け取って、口を拭った。
「どうして喧嘩したと思ったの?」
「だって昨日の夜、志貴が騒いでたでしょ。それにもう学校に向かったのよ。いつも由貴と行くのに。約束があるからって言ってたけど、そんなに朝早くから約束なんてする?」
もしかして、俺は志貴に避けられたの?
呆然として、箸が止まる。
「喧嘩するのは仲が良い証拠だけどね。ほら、早く食べちゃいなさい。学校に遅れるわよ」
時計に目を向け、ご飯を口に詰め込んだ。
学校に着き、チャイムの直前に教室に滑り込む。間に合った。
席に着くとすぐにHRが始まる。
前に座る颯の後頭部を見ているだけで、頬が緩んでしまった。奥歯を噛んで、口を引き締める。
休み時間に颯に昨日のことを話した。
「やっぱり騒いだんだね」
「うん、帰ったらまた話してみるよ」
「そっか。デートに誘おうと思ったんだけど、残念だな。明日は僕のために、空けといてくれる?」
颯が口に手を添えて、俺の耳元でささめく。耳に熱い吐息がかかり、体温が一気に上がった。俺はコクコクと頷くことしかできない。
放課後になり、まっすぐ家に帰るが、志貴はまだいなかった。
部屋に入って着替えると、眠気に襲われる。自分の部屋で、気が抜けたからかもしれない。
「ちょっとだけ寝ようかな」
ベッドに倒れ込むと、すぐに意識が遠のいた。
目が覚めると、西陽が差し込み、部屋が赤く染まっていた。
「あっ、志貴」
ベッドから飛び起きて、隣の部屋に駆け込む。
扉を開くと、ベッドの前に明るい髪色の男が座っていた。視線が絡み、男は細い眉をひそめる。
「志貴はコンビニに行った。すぐに帰ってくるはず」
低く温かみのある声だった。
目を大きく見開き、耳を疑う。
「俺が志貴じゃないってわかるの?」
「見たらわかるだろ」
彼は切れ長の目を細めた。珍しい物でも見たかのような瞳を向けてくる。
両親以外では二人目だ。俺と志貴を瞬時に見抜くのは。
興味津々で、彼の前に座る。
「ねぇ、どうしてわかるの?」
「どうしてって、志貴じゃねーから」
じゃない方と言われても、あまり傷付かなかった。
もしかしたら、この人も颯と同じだから俺と志貴の見分けがついたのかもしれない。
「志貴のことが好きだから、違うってわかったの?」
不躾な質問に、彼はバツが悪そうに視線を逸らして頭を掻いた。髪から覗く耳が少し赤い。否定をしないってことは、そうなんだ。
「ただいまー。あれ? 由貴、どうしたの? 蓮見先輩と知り合いだった?」
先輩? 志貴の友達だと思って、タメ口で話してしまった。顔から血の気が引く。
「馴れ馴れしく話してしまい、すみませんでした」
勢いよく頭を下げると、蓮見先輩はふっと声を漏らして笑う。そっと顔を上げた。
目尻が下がり、笑って八重歯が覗く。
「やっぱり全然違う。志貴は俺が先輩だってわかってて、最初からタメ口だった」
志貴は蓮見先輩に缶コーヒーとお釣りを渡す。
「えー、でも蓮見先輩もそっちのがいいでしょ? 可愛い後輩に慕われてさ」
「慕ってんなら、下手に出ろよ。朝早くに呼び出しやがってよ」
「でも来てくれるじゃん」
今朝は本当に約束があったのか。志貴に避けられていないことがわかって胸を撫で下ろすけれど、志貴と蓮見先輩を包む空気が甘酸っぱくて、むずむずして居心地が悪い。
「蓮見先輩は、いつ志貴と仲良くなったんですか?」
志貴は部活には入っていないから、他学年と接点なんてないはずだけど。
「去年の体育祭の実行委員で一緒になって懐かれた」
「そう。くじ引きで実行委員になって最初は嫌だったんだけど、蓮見先輩がいたから楽しかったな」
いつもの志貴より、声のトーンが高い。蓮見先輩のことが大好きって隠さず伝えているみたいで、こちらまでドキドキしてしまう。
「弟はこの間の球技大会で負かしたな」
急に話をふられて、目を見開く。
記憶を辿り、「あっ!」と声を上げた。
「めちゃくちゃ上手いGKの人ですか? 俺たち、全部止められました」
蓮見先輩は得意げに顎を出す。
「えー、俺も見たかった」
志貴は不満を露わに、口を尖らせた。
志貴と蓮見先輩の顔を見比べる。
いつもより少し甘えたような表情や弾む声の志貴と、ぶっきらぼうな口調ながらも柔らかい目で志貴を見つめる蓮見先輩。
俺は志貴が好きな人と一緒にいられて、自分のことのように嬉しい。できれば志貴にも、俺と颯のことをそう思って欲しい。
志貴と笑い合っていた蓮見先輩が、急にこちらに目を向ける。先ほどまでの慈愛に満ちた瞳は、やっぱり志貴専用みたいだ。今は少し呆れたような、力の抜けた目をしていた。
「こいつさ、今朝俺のことを呼び出して、『弟が変な男に引っかかった』ってずっと愚痴ってたぞ」
蓮見先輩が志貴を顎で指し、首をすくめる。
「いえ、変ではないです。優しいですよ」
両手を振ってキッパリと否定する。
「優しい? そんなわけないじゃん。あいつは子どもの頃から、由貴の前では猫をかぶってんだって! だから嫌なの!」
口をひん曲げる志貴の言葉に息を呑む。
思い出した。
ずっと引っかかっていたのは、志貴が言っていた、俺が颯に騙されているということ。志貴と二人の時は、颯の口調も変わっていた。
「普段はガキ大将みたいなのに、由貴の前ではおとなしくて穏やかになってさ。それで由貴のことが好きなんだって気付いて、ずっと二人の間に入ってたんだ」
「それはいつから?」
「さあ? 気付いたらそうだった」
幼稚園の頃ジャングルジムから降りられなくなった時、颯は一生懸命降り方を教えてくれた。もしかして、そんなに前から?
「そんな裏があるやつじゃなくて、本当にいい奴と付き合って欲しいんだって」
「きっと裏なんてないよ。颯は優しいよ」
志貴は片眉を跳ね上げて、声にならない悲鳴を上げる。
「じゃあ白黒つけようか。俺が颯に電話をするから、由貴はなにがあっても黙って聞いててよ」
志貴がスマホを操作して、三人の間に置く。画面には颯の名前があり、スピーカーにしてあるからコール音が部屋に響いていた。
『なに?』
普段より低くて素っ気ない声が聞こえてきた。
志貴は俺に向かって、口の前で人差し指を立てる。俺が頷くと口を開いた。
「なんで電話したか、わかってんだろ?」
『由貴くんとの仲を祝うため?』
「違う。俺は嫌なの! 由貴には本当に優しい人と付き合って欲しい」
『そう思うのは志貴の勝手だけど、決めるのは由貴くんだろ』
蓮見先輩がその通り、とでもいうように力強く頷いた。
以前聞いたみたいに、颯は俺と話すより荒っぽい。
「由貴のことを騙しているやつなんて、いいわけないじゃん」
『騙してねーって。好きな子によく見られたいって思うことの、なにがおかしいんだ? 誰でもカッコつけたり、背伸びしたりするだろ』
声を上げそうになって、慌てて両手で押さえた。
俺に好かれたくて、必死だったってこと?
押さえているのに、口が自然と緩んでしまう。
志貴は鼻を鳴らしてスマホを手に取った。
「今の会話、由貴も聞いてたからな。バーカバーカ」
『は? お前、なにしてん……』
声をひっくり返して狼狽する颯の言葉を遮って、志貴は通話を切った。
「全く問題なくないか?」
蓮見先輩が颯の味方をしてくれて、「そうですよね!」と身を乗り出す。
「志貴だって好きな相手との仲を、弟に否定されたら嫌だろ?」
蓮見先輩の諭すような優しい声に、志貴は口を尖らせて「でも……」ともごもごと口を動かす。
もう一押しっぽい。
「俺が志貴と蓮見先輩が付き合うの嫌! って騒いだら、志貴だって悲しいでしょ?」
俺が蓮見先輩を拒絶することなんてないんだけど。
志貴は顔を真っ赤にして「え? はっ? なに言ってんの!」と叫び出す。蓮見先輩はそっぽを向いて「そんなんじゃねーし」とごちる。耳の先は赤い。
あれ? もしかして付き合ってなかったの? あんなにいい雰囲気で?
甘酸っぱい空気に包まれて、胸焼けしそうだのに?
「ゆっくりしていってください」
蓮見先輩に向かって頭を下げ、部屋から飛び出す。
お邪魔虫は退散。
自室に戻ると、ベッドの上のスマホが震えていた。颯だ。
スマホに飛びついて、通話を繋げる。
「もしもし?」
『あっ、由貴くん? さっき志貴との通話を聞いてたって本当?』
俺の知っている、ぬるま湯にぷかぷか浮かぶような穏やかな声だ。
「うん、ごめん。でも俺は颯のことが知れて、嬉しかったよ」
『僕のこと、嫌いになってない?』
「なってない。むしろもっと、……好きになったっていうか」
照れくさくて、尻すぼみになってしまった。
向こうから、安堵の息が聞こえた。
『よかった』
「だから無理しないでね。俺の前でも普段通りでいいよ」
『僕は由貴くんの、カッコいい彼氏でいたいんだけど』
「どっちもカッコいいよ。どんな颯も好きだから」
本心を告げれば、颯の声は「ありがとう」とみなぎる。蜜を煮詰めたような、甘い顔が頭に浮かんだ。
階下から、母さんが「夕飯ができたよ」と叫ぶのが聞こえる。
「ごめん、夕飯を食べるから切るね」
『うん、また明日ね。放課後のデート、楽しみだな』
「俺も」
通話を切って、余韻に浸りながら胸をときめかせる。
廊下を歩く二人分の足音が聞こえた。
そっと扉を開いて伺うと、志貴と蓮見先輩が手を繋いでいたように見えた。すぐに階段を降りていったから、一瞬ではあったけれど、上手くいったのかな?
俺も階段を降りる。靴を履いている蓮見先輩に会釈をして、リビングに入った。
料理を運ぶのを手伝っていると、志貴が機嫌良く席に着く。幸せオーラが溢れかえっていて、外に漏れていた。
「よかったね」
志貴の隣に座ってコソッと耳打ちすれば、志貴は目尻を下げて頷いた。
「あら? 仲直りしたの?」
母さんが正面に座り、俺たちの顔を見比べる。
「喧嘩なんてしてないし」
「そう? 冷める前に食べちゃいましょ」
母さんは大して気にした様子もなく、手を合わせて箸を口に運ぶ。
「いただきます」
俺と志貴は声を揃えて手を合わせた。
「息ぴったりね」
志貴と顔を見合わせて笑う。
「俺と由貴だし」
「当然だよね」
大きな口を開けてご飯を頬張る。美味しい!



