四月になったとはいえ、陽が傾くと少し肌寒く感じる。
買ったばかりのジャケットに付いている値札を、歯で噛み切った。袖を通す。少し大人っぽくなったみたいで、背筋が伸びる。
気分良く駅前を歩いていると、目の前から歩いてくる男が片手を上げた。
「志貴!」
大きな声を上げて、俺の前に立つ。
「あのさ、明日遊ぶ約束をしてたろ? 時間を変更して欲しいんだけど、いいか?」
志貴と勘違いされているらしい。
「ごめん、俺は由貴だから」
男は目を丸くした後、バツが悪そうに頭を掻いた。
「悪い、間違えた。吉沢弟の方か」
「志貴に伝えとこうか?」
「いや、いい。自分でメッセージ送るわ。呼び止めて悪かったな」
そう言うと、男は手を上げて離れていった。
さっきまで晴れやかだった気分が、一気に萎んでいく。
吉沢弟か……。
俺と双子の兄である志貴は、そっくりらしい。高校二年生になった今でも、両親以外で俺たちを見分けられる人はいない。
俺は由貴なのに。
志貴の弟としてじゃなくて、俺のことを見て欲しい。
「はぁ、帰ろ」
肩を落として足を進める。
十分ほど歩いて、子どもの頃によく遊んだ公園の前を通った。滑り台と鉄棒しか残っていない。昔はジャングルジムやブランコがあったのに。
塗装が剥がれて錆びた滑り台と鉄棒を、こんなに小さかったんだ、と感慨深く眺めた。
「由貴くん?」
名前を呼ばれて、そちらに目を向ける。
柔らかく目を細めた、優しそうな男と視線が絡んだ。
色素の薄い髪が夕日に染まって、赤く色付く。
「あっ、やっぱり由貴くんだ。久しぶり」
「えっ、あっ……、久しぶり?」
首を傾けつつ返す。
誰だっけ? なんとなく見覚えはあるけれど、名前が出てこない。
でも彼の名前も気になるけれど、俺を由貴だと確信して話しかけてきたことに興味が向く。
「僕ね、またこっちに戻ってこられたんだ。ここの公園で、由貴くんとも遊んだよね」
彼は公園に目を向ける。遠い昔を懐かしんでいるような瞳をしていた。
ここで遊んでいたのは、幼稚園に通っていた頃。
頭に映像が浮かぶ。
ジャングルジムの上に登って、降りられなくなった。志貴が「お母さんを連れてくる」と公園を出て行く。その背中を泣きそうになりながら眺めた。
一緒に遊んでいた子が、上までよじ登って「僕と同じように降りたら大丈夫だよ」と降り方を教えてくれた。「由貴くん、足はこっち」そう誘導してくれた。
志貴と仲が良く、それがきっかけで三人で遊ぶようになった子。
「えっと……、結川くんは、なんで俺が由貴ってわかったの?」
「いやだなー。昔みたいに、颯って呼んでよ」
颯は「寂しいな」と眉を下げる。
「あっ、ごめん。どうしてわかったか教えて」
俺の必死な様子に、颯は目を瞬かせた。
気恥ずかしくなって俯く。
「だって由貴くんと志貴は、全然違うじゃん」
違う? 親しか見分けられないのに?
そんなことを言われたのは初めてだった。当たり前のような口調が、胸に沁みる。
視線を上げると、颯は見惚れるほど綺麗な顔で微笑んでいた。
「それに好きな子なら、何年経っても間違えないよ」
……好きな子。
その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、耳の奥まで熱が一気に駆け上がった。
頬が火照り、颯から視線が外せない。
もしかして、颯は俺のことが好きなの?
徐々に胸の音は加速し、膝のあたりから力が抜けていく。
俺だけを捉えて離さない瞳の熱さに、呼吸をするのも忘れる。
颯は口元で人差し指を立てた。
「志貴には内緒にしてね」
急速に熱が引いていく。
好きなのは、志貴のことだったんだ。だから俺が由貴だってわかったんだ。
胸に大きな穴が空いて、冷たい風が通り抜ける。
「ねぇ、由貴くんは明日って予定ある?」
「いや、ないけど……」
勝手に勘違いして喜んで落ち込んで。居た堪れなくなって、ここから走り去ってしまいたい。
「じゃあ僕と遊ばない?」
「……へ?」
驚きすぎて、変なところから声が出た。慌てて口を噤む。
「俺は大丈夫だけど、志貴は友達と遊ぶから、連れていけないよ」
「いつも間に志貴がいたもんね。由貴くんは志貴がいないと嫌?」
勢いよく首を振る。
「じゃあ二人で遊ぼうよ」
俺と二人でいいの? その言葉は喉に引っかかって出てこない。
「うん、いいよ」
下手くそな作り笑いと共に、代わりの言葉を告げた。
連絡先を交換して、颯は「また明日ね」と手を振って帰っていく。その背中をぼーっと見つめた。
いいなー、志貴は。ちゃんと志貴を見てくれる人がいて。
同じ顔なんだから、俺でもいいじゃん。
心の中に澱みのようなものが沈んでいく。
「……俺、最悪」
俺を俺として見て欲しいと思っているのに、同じ顔ってことを利用しようとして。
こんな卑屈なことを、考えているからダメなんだ。
陽は沈み、空は藍色に染まっている。
切れかけの街灯が、チカチカと点滅していた。
背を丸めて俯きながら、家まで歩いた。
「ただいま」
扉を開くと、志貴が階段を降りてくるところで、つい目を逸らす。
志貴が階段を飛び降り、艶のある黒髪がふわりと広がった。家全体が『ドンッ』と揺れる。
「志貴! 階段は歩くって何度言ったらわかるの!」
リビングから母さんが迫力満点の声を上げる。
志貴は大きな瞳を細めて、小さな口から舌をペロッと出した。「ごめんなさい」ととりあえず謝るけれど、またやるんだろうな。
「あっ! そのジャケットいいじゃん。今度貸してよ」
志貴は俺の袖を摘んで、「触り心地もいいね」と屈託なく笑う。
今の俺には、志貴が眩しすぎる。
自分の翳った心を知られたくなくて、無理やり口角を引き上げた。
「志貴がこの間買ったシャツを貸してくれるならいいよ」
志貴は怪訝そうに眉を顰めて、俺の額に触れる。
「熱はないか」
「うん、元気だよ」
「元気じゃないじゃん。由貴が無理して笑ってるのわかるよ。なにか嫌なことがあった?」
「なにもないって、本当に大丈夫だから」
志貴の傍をすり抜け、階段を登って部屋に入った。
言えばよかったのに。颯と会ったよって。
志貴を好きだってことは口止めされているけれど、会ったことは言ってもいいはずだ。
俺のことを間違わずに『由貴くん』と呼んだ、颯の優しい顔が頭から離れない。
志貴と颯は仲が良かったんだ。颯が戻ってきたって言ったら、志貴だってきっと喜ぶ。
志貴のことが好きだからかもしれないけれど、俺のことを俺として見てくれた颯のことが、気になって仕方がない。
夕飯と風呂を終えると、すぐに部屋に篭った。
学習デスクに春休みの宿題を広げるけれど、進みは悪い。
スマホが震えて、画面に目を落とす。颯だ。
『明日の朝十時、駅前で待ち合わせしよ』
『わかった』
すぐに返信をする。自然と頬が緩んでいた。
「ねぇ、由貴」
扉が無遠慮に開かれる。
慌ててスマホの画面を伏せた。
志貴が片眉を上げ、すぐにニタリと意地悪く笑う。
「なに隠したんだよ。エロいの見てたのか?」
「違うって」
「俺にも見せろよ」
「だから違うって言ってんじゃん」
志貴が肘で小突いてくる。それを手で払って口を曲げた。
「怒んなよ。冗談じゃん」
「別に怒ってない」
「そう? じゃあ春休みの宿題を見せて」
「じゃあの意味がわからない。自分でやらないと、身につかないよ」
志貴は俺の顔をジッと見つめ、「よし」と頷いた。
「もういつも通りだな」
目を瞬かせる。
「嫌なことあったら言えよ。俺がぶっ飛ばしてやるから」
志貴がジャブを打つ真似をする。
「弱そう」
「なんだと!」
今度はフックを打つ。やっぱり弱そう。
思い返してみれば、志貴と殴り合いの喧嘩なんてしたことがない。慣れていないから、弱く見えるのは当然か。
「志貴、ありがと」
「なにが?」
「俺の様子を見にきてくれたんでしょ?」
「いや、春休みの宿題を写しにきた。でも断られたから寝るわ。明日出かけるし」
宿題をするんじゃないんだ。
「そういえば、今日志貴の友達に、間違えて話しかけられたよ」
「うん、メッセージ来たから知ってる」
志貴は「おやすみ」と手をヒラヒラと振って、部屋を出て行った。
スマホを手に取る。『たのしみ』と可愛い犬のスタンプがトーク画面に追加されていて、自然と顔がゆるゆるに緩んでいた。
買ったばかりのジャケットに付いている値札を、歯で噛み切った。袖を通す。少し大人っぽくなったみたいで、背筋が伸びる。
気分良く駅前を歩いていると、目の前から歩いてくる男が片手を上げた。
「志貴!」
大きな声を上げて、俺の前に立つ。
「あのさ、明日遊ぶ約束をしてたろ? 時間を変更して欲しいんだけど、いいか?」
志貴と勘違いされているらしい。
「ごめん、俺は由貴だから」
男は目を丸くした後、バツが悪そうに頭を掻いた。
「悪い、間違えた。吉沢弟の方か」
「志貴に伝えとこうか?」
「いや、いい。自分でメッセージ送るわ。呼び止めて悪かったな」
そう言うと、男は手を上げて離れていった。
さっきまで晴れやかだった気分が、一気に萎んでいく。
吉沢弟か……。
俺と双子の兄である志貴は、そっくりらしい。高校二年生になった今でも、両親以外で俺たちを見分けられる人はいない。
俺は由貴なのに。
志貴の弟としてじゃなくて、俺のことを見て欲しい。
「はぁ、帰ろ」
肩を落として足を進める。
十分ほど歩いて、子どもの頃によく遊んだ公園の前を通った。滑り台と鉄棒しか残っていない。昔はジャングルジムやブランコがあったのに。
塗装が剥がれて錆びた滑り台と鉄棒を、こんなに小さかったんだ、と感慨深く眺めた。
「由貴くん?」
名前を呼ばれて、そちらに目を向ける。
柔らかく目を細めた、優しそうな男と視線が絡んだ。
色素の薄い髪が夕日に染まって、赤く色付く。
「あっ、やっぱり由貴くんだ。久しぶり」
「えっ、あっ……、久しぶり?」
首を傾けつつ返す。
誰だっけ? なんとなく見覚えはあるけれど、名前が出てこない。
でも彼の名前も気になるけれど、俺を由貴だと確信して話しかけてきたことに興味が向く。
「僕ね、またこっちに戻ってこられたんだ。ここの公園で、由貴くんとも遊んだよね」
彼は公園に目を向ける。遠い昔を懐かしんでいるような瞳をしていた。
ここで遊んでいたのは、幼稚園に通っていた頃。
頭に映像が浮かぶ。
ジャングルジムの上に登って、降りられなくなった。志貴が「お母さんを連れてくる」と公園を出て行く。その背中を泣きそうになりながら眺めた。
一緒に遊んでいた子が、上までよじ登って「僕と同じように降りたら大丈夫だよ」と降り方を教えてくれた。「由貴くん、足はこっち」そう誘導してくれた。
志貴と仲が良く、それがきっかけで三人で遊ぶようになった子。
「えっと……、結川くんは、なんで俺が由貴ってわかったの?」
「いやだなー。昔みたいに、颯って呼んでよ」
颯は「寂しいな」と眉を下げる。
「あっ、ごめん。どうしてわかったか教えて」
俺の必死な様子に、颯は目を瞬かせた。
気恥ずかしくなって俯く。
「だって由貴くんと志貴は、全然違うじゃん」
違う? 親しか見分けられないのに?
そんなことを言われたのは初めてだった。当たり前のような口調が、胸に沁みる。
視線を上げると、颯は見惚れるほど綺麗な顔で微笑んでいた。
「それに好きな子なら、何年経っても間違えないよ」
……好きな子。
その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、耳の奥まで熱が一気に駆け上がった。
頬が火照り、颯から視線が外せない。
もしかして、颯は俺のことが好きなの?
徐々に胸の音は加速し、膝のあたりから力が抜けていく。
俺だけを捉えて離さない瞳の熱さに、呼吸をするのも忘れる。
颯は口元で人差し指を立てた。
「志貴には内緒にしてね」
急速に熱が引いていく。
好きなのは、志貴のことだったんだ。だから俺が由貴だってわかったんだ。
胸に大きな穴が空いて、冷たい風が通り抜ける。
「ねぇ、由貴くんは明日って予定ある?」
「いや、ないけど……」
勝手に勘違いして喜んで落ち込んで。居た堪れなくなって、ここから走り去ってしまいたい。
「じゃあ僕と遊ばない?」
「……へ?」
驚きすぎて、変なところから声が出た。慌てて口を噤む。
「俺は大丈夫だけど、志貴は友達と遊ぶから、連れていけないよ」
「いつも間に志貴がいたもんね。由貴くんは志貴がいないと嫌?」
勢いよく首を振る。
「じゃあ二人で遊ぼうよ」
俺と二人でいいの? その言葉は喉に引っかかって出てこない。
「うん、いいよ」
下手くそな作り笑いと共に、代わりの言葉を告げた。
連絡先を交換して、颯は「また明日ね」と手を振って帰っていく。その背中をぼーっと見つめた。
いいなー、志貴は。ちゃんと志貴を見てくれる人がいて。
同じ顔なんだから、俺でもいいじゃん。
心の中に澱みのようなものが沈んでいく。
「……俺、最悪」
俺を俺として見て欲しいと思っているのに、同じ顔ってことを利用しようとして。
こんな卑屈なことを、考えているからダメなんだ。
陽は沈み、空は藍色に染まっている。
切れかけの街灯が、チカチカと点滅していた。
背を丸めて俯きながら、家まで歩いた。
「ただいま」
扉を開くと、志貴が階段を降りてくるところで、つい目を逸らす。
志貴が階段を飛び降り、艶のある黒髪がふわりと広がった。家全体が『ドンッ』と揺れる。
「志貴! 階段は歩くって何度言ったらわかるの!」
リビングから母さんが迫力満点の声を上げる。
志貴は大きな瞳を細めて、小さな口から舌をペロッと出した。「ごめんなさい」ととりあえず謝るけれど、またやるんだろうな。
「あっ! そのジャケットいいじゃん。今度貸してよ」
志貴は俺の袖を摘んで、「触り心地もいいね」と屈託なく笑う。
今の俺には、志貴が眩しすぎる。
自分の翳った心を知られたくなくて、無理やり口角を引き上げた。
「志貴がこの間買ったシャツを貸してくれるならいいよ」
志貴は怪訝そうに眉を顰めて、俺の額に触れる。
「熱はないか」
「うん、元気だよ」
「元気じゃないじゃん。由貴が無理して笑ってるのわかるよ。なにか嫌なことがあった?」
「なにもないって、本当に大丈夫だから」
志貴の傍をすり抜け、階段を登って部屋に入った。
言えばよかったのに。颯と会ったよって。
志貴を好きだってことは口止めされているけれど、会ったことは言ってもいいはずだ。
俺のことを間違わずに『由貴くん』と呼んだ、颯の優しい顔が頭から離れない。
志貴と颯は仲が良かったんだ。颯が戻ってきたって言ったら、志貴だってきっと喜ぶ。
志貴のことが好きだからかもしれないけれど、俺のことを俺として見てくれた颯のことが、気になって仕方がない。
夕飯と風呂を終えると、すぐに部屋に篭った。
学習デスクに春休みの宿題を広げるけれど、進みは悪い。
スマホが震えて、画面に目を落とす。颯だ。
『明日の朝十時、駅前で待ち合わせしよ』
『わかった』
すぐに返信をする。自然と頬が緩んでいた。
「ねぇ、由貴」
扉が無遠慮に開かれる。
慌ててスマホの画面を伏せた。
志貴が片眉を上げ、すぐにニタリと意地悪く笑う。
「なに隠したんだよ。エロいの見てたのか?」
「違うって」
「俺にも見せろよ」
「だから違うって言ってんじゃん」
志貴が肘で小突いてくる。それを手で払って口を曲げた。
「怒んなよ。冗談じゃん」
「別に怒ってない」
「そう? じゃあ春休みの宿題を見せて」
「じゃあの意味がわからない。自分でやらないと、身につかないよ」
志貴は俺の顔をジッと見つめ、「よし」と頷いた。
「もういつも通りだな」
目を瞬かせる。
「嫌なことあったら言えよ。俺がぶっ飛ばしてやるから」
志貴がジャブを打つ真似をする。
「弱そう」
「なんだと!」
今度はフックを打つ。やっぱり弱そう。
思い返してみれば、志貴と殴り合いの喧嘩なんてしたことがない。慣れていないから、弱く見えるのは当然か。
「志貴、ありがと」
「なにが?」
「俺の様子を見にきてくれたんでしょ?」
「いや、春休みの宿題を写しにきた。でも断られたから寝るわ。明日出かけるし」
宿題をするんじゃないんだ。
「そういえば、今日志貴の友達に、間違えて話しかけられたよ」
「うん、メッセージ来たから知ってる」
志貴は「おやすみ」と手をヒラヒラと振って、部屋を出て行った。
スマホを手に取る。『たのしみ』と可愛い犬のスタンプがトーク画面に追加されていて、自然と顔がゆるゆるに緩んでいた。



