アイドル様とは一緒にいられない

 八月に入った。夏休みが始まって、学校は休み。志望理由書はあの後だいぶ先生の赤ペンが入って、何度も書き直して提出し終えた。束の間の休みをごろごろと何もしないで過ごしていると、遠くでスマホが鳴る。億劫に思いながら手を伸ばすがギリギリ届かない。また後ででいいかと諦めた途端、今度は通話の着信音が鳴る。
 せっかく寝転がってたのに! イラつきながら立ち上がって、テキトーにスマホを操作した。

「もしも……」
「ただいま」

 ちょっと低くて甘い声。全身の血が沸き立つ。

「拓也!」

 思ったよりも大きな声が出てしまって、電話の向こうで拓也が呆れながら笑っているのが聞こえた。

「ただいま遥、約束通り一番に電話した」
「おかえり」

 心がソワソワする。話したいことがいっぱいあったのに、何を話したらいいか分からない。黙っていたら拓也が話し始めた。

「すごく楽しかったよ。いろんな人と関わった。はじめての経験がたくさんあって、友達もできたよ。何度も遥の手紙読んでさ……励まされた。ヘアバンドしながら寝た日もあったかな。遥の言葉を何度も思い出して……あ、シグナルソング見てくれた?」
「見たよ……すごかった……俺、行く前の拓也を知ってるからこそ、すごい努力したんだって思って……冗談抜きで百回は見た」
「そんなに?」
「うん、でなんか、俺もすんごい励まされてさ」
「うん」

 久しぶりに聞く拓也の声。こんなに大人びてたっけ。どこか違う感じっていうのかな……成長した感じがするのに、すごく近くに感じる。

「どのくらいこっちにいるの?」
「一ヶ月くらいかな。放送が始まって、生存してたらまた向こうに戻れる」
「うん……あ! そのあと視聴者観覧投票あるのか! 絶対当てるわ」
「アハハ、じゃあうちわとか持ってきてね。遠くにいても絶対見つけてファンサするから」
「もちろん、そういうの作るの俺の本業」

 二ヶ月ぶりなのに、話したいことだらけなのに、いつもみたいにくだらない話に逸れていく。それが心地いい。

「こっちいる間はさ……会えるの?」
「うん! でも、番組が無料でレッスン受けられるように手配してくれてて、任意なんだけど多分それに通い詰めるんだよね」
「そっか、それはそっち優先だな」

 もう俺たちの秘密の特訓はお役御免か。ちょっと寂しく感じたけど、今は一番に拓也が電話をしてくれたことで頭がいっぱいだった。

「遥は順調?」
「うん、色々書類とかも送り終わって……あとは受けるだけ」
「そっか」

 何気ない会話も、少し真面目な会話も、全てが幸せ。ここ二ヶ月で一番笑った。



 拓也が帰ってきた日から数日も経たないうちにアイプロの放送が始まった。一、二週目は練習生の紹介みたいな感じ。オーディション番組のセオリーだ。拓也もたくさん取り上げてもらっていた。キラキラしているが真面目で不器用な青年って感じでキャラ付けされていて人気はうなぎ登り。俺が思っている拓也の良いところがしっかりと出ていた。これはきっと番組プロデューサーに好かれてるな……とか、オタク特有の考察をしてしまうのだけはどうにかしたい。
 三、四週目は、練習生がいくつかのグループに分かれてパフォーマンスを練習して、審査員に披露する。その一連の流れを見た視聴者が投票で生存者を決めるって感じだ。今日は三週目の放送日。最近ハマっているナチョスをお供として用意してテレビの前で待機した。拓也は家で親と見るらしいから、連絡は後でまとめてしようかなと思っている。
 放送が始まって大体一時間後。ついに拓也たちのグループの出番だ。五人のメンバーで超有名曲を披露するらしい。とりあえずみんなで練習に取り組むが、拓也が足を引っ張ってしまっている。まぁそうだよなーこのグループで素人は拓也だけだし……それに、日本語しか話せないから意思疎通も大変そうだ。
 こういう展開はよくあるから慣れているはずなのに、拓也がどんどん暗い表情になっていくからヒヤヒヤしてくる。結局、韓国語で説明されても上手く分からず、ダンスについていけなかった拓也は涙を見せながら部屋を去ってしまった。
 あー……よくあるやつ……これデビューしたら絶対一生ネタにされる。拓也だけを見るつもりで見始めたけれど、番組が面白すぎてオタク目線になってしまう。
 これもセオリー通りではあるが、泣いている拓也を慰めにチームメンバーの一人が廊下にやってきた。小柄で目の大きなすごく可愛い子。ひょっとしたら女の子よりも可愛いんじゃないかな? これで慰めて、チームに戻って仲直りして雰囲気が良くなってって感じだよな〜。そんな風に予想していた。



「拓也、ダイジョブ?」
「……日本語……」

 下を向いて涙を流していた拓也が顔を上げると、追いかけてきたエルが日本語で拓也を慰める。

「拓也ト、タクサンオハナシシタイ。拓也、ガンバル。ワタシオシエル」
「エルヒョン……」

 笑顔で両手を広げたエルの胸に拓也は飛び込んだ。



 ……って何これ! 良い! 絶対ケミ人気も出る! 絶好調の滑り出しすぎるんだけど⁉︎
 俺はナチョスをボリボリ齧りながら、エルのプロフィールを調べてみる。可愛い年上のことをヒョンって呼んで慕うキラキラぶきっちょ弟とか絶対バズる!
 この展開なら初回落ちは免れそうだとほっとしながら見ていたが、だんだん自分の気持ちが落ち込んでいっていることに気がついた。
 エルと拓也が並んでいるとすごく絵になる。絶対に人気が出ると、オタクの勘が言っている。なのに……そうだよな、俺みたいな一般人と番組に出るような奴らは違うよな……
なんか拓也の隣で調子乗って親友面してた俺恥ずかしくない? 明らかにビジュのレベルが違いすぎる。って俺ルッキズマーすぎ?
 一度浮かんできたモヤモヤはなかなか消えてくれない。そのままぼーっとしているうちに番組は終わっていた。



 ペンライト、予備の電池、うちわ、双眼鏡、目薬、ブルーベリータブレット。会場前でもう一度持ち物を確認した俺は、ワクワクして大きく息を吸い込んだ。
 スマホには当選おめでとうございます、の文字。そう、視聴者観覧投票に当たったのだ! アイプロの放送はもう六週目。拓也は無事に一つ目の関門を十五位という好成績で通過した。審査員が拓也の練習量を評価してくれていたのを見て、俺はテレビの前でうんうんと頷きながら見てしまって、母さんに笑われたりした。
 アイプロは韓国のオーディション番組だけれど、日本のスポンサーも沢山ついている。だから、一度目の視聴者観覧投票のパフォーマンス審査は日本で行われる。二度目と、ファイナルは韓国で大々的に行われるっていうのがシーズンワンからの毎度の流れ。俺の推測だと、拓也は日本で視聴者観覧投票を終えたら韓国へ行って、審査員評価のためにもう一曲パフォーマンスを準備する。視聴者観覧投票と、審査員評価期間の視聴者投票の票数を合算した結果で第二関門となる生存式があるはずだ。
 その超レアな日本での視聴者観覧投票のチケットが当たったのだ。今年の運を全て使い切ってしまったかも。流石に親からは受験生の自覚を持てと怒られたが、拓也が出るのだと力説したらしぶしぶ許してくれた。
 会場には可愛くおめかしした女の子たちが沢山。拓也の名前の文字うちわを持っている子もいる。ふふん、拓也かっこいいだろ? あいつは素も良いやつなんだぜ? なんだか自分まで誇らしくなってくる。女の子たちと一緒に列を作って、会場スタッフにチケットを読み込んでもらって。ステージにだんだん近づいていってるぞっていう感覚がして胸がおどる。
 拓也、気づいてくれるかな? 男は少ないし気づくかな。確定ファンサとかもらえちゃうかもな〜。なんか優越感っていうの? 俺は拓也の友達だからって鼻高々な気分。ただの友達がしゃしゃんなっていうのは分かるけどさ。俺、ただの友達じゃなくてガチの親友だから。牛丼食べて将来語る仲だから。あいつが俺に気づいて驚いた顔見るの楽しみだな〜。
 そんなことを思っていたのに、スマホに表示された番号の通りに進んでついた先はほぼ最後列。双眼鏡持ってきてて良かった、肉眼じゃあんま見えなそうだもんな。ま、後方彼氏面ってやつ? え、ちょっと待ってすごくない? ガチではないけどさ、ガチで後方彼氏面できる機会があるとか凄すぎない? やっぱ優越感すごいんだろうな〜! アイドルのリアルの知り合いの気持ちってどんな感じなんだろ。先ほどまでとは全く別のベクトルでテンションが上がっていく。会場の熱気も徐々にあたたまり、視聴者観覧投票のパフォーマンスが始まった。
 パフォーマンスは全部で五曲。どうやら拓也はトリのようで、序盤はオタクとして楽しみまくった。歌うま枠の練習生の生歌は俺のところまでしっかりと届いてきて流石だったし、ビジュ枠の練習生は遠くにいるのに等身がバグってるのが良くわかる。放送で見たパフォーマンスの時に失敗して泣いていた練習生が上手く曲を消化できているのを見た時なんか、その努力に全身の血が沸き立った。
 練習生もみんなファンの前でのパフォーマンスにボルテージが上がっているのか、ものすごく丁寧にファンサしてる。頑張って遠くまで指差してハートを作ったり、愛嬌したり。周りの女の子たちも推しに見つけてもらえたのか、キャーキャー騒いでいて楽しそうだ。流石にこの距離で確定ファンサなわけないだろうけど、ファンサは勘違いしてナンボだからな。
 ついに拓也たちのグループの番が回ってきて、俺もいそいそとうちわを出して胸の前で構えた。心臓がドキドキうるさい。きっと俺も周りの女の子達と同じように、頬を紅潮させて口元を緩ませて、目をキラッキラに輝かせているだろう。
 大きな歓声と共に拓也たちがステージに上がってきた。

「拓也ー!」

 精一杯拓也の名前を呼んだ。うちわも、迷惑にならないギリギリまで掲げた。何度も呼んだ。
 だけど、どちらも拓也には届かなかった。力の限り名前を叫んでも歓声にかき消され、うちわも人混みに紛れてしまう。
 それでも信じていた。拓也は見つけてくれるって。どんなに遠くでも見つけるって言ってくれたから。
 拓也がこっちの方を向いて指をさす。そのままとびきりの笑顔で大きなハートマークをした。一瞬心臓の鼓動を持っていかれそうになる。
 でも分かってるよ、それ、五列くらい前にいる拓也のオタクにやってるよね。俺じゃないよね。だって俺、もう諦めて双眼鏡見てるもん……お腹にぽっかり穴が空いちゃったみたいだ。俺、確定ファンサだって勘違いするの、得意だったはずなのにな。
 ファンサなんかしないでよ。他の子に気取られてないで俺に気づいてよ。俺、ちゃんと来たよ、なんで気づいてくれないの。見つけるって言ったじゃん、嘘つき。
 胸はカラカラに乾燥してるのに、目だけは潤って視界がぼやける。頑張ってる拓也を生で見れるチャンスなんだから、しっかり脳裏に焼き付けたいのに。
 あぁ、俺……拓也のこと好きだったんだ。親友なんかじゃなかったんだ。
 誰にも取られたくない、俺だけの拓也でいてほしい。俺だけを見ていて欲しい。ねぇ、一回で良いからこっち向いてよ。



 結局、ステージに意識を戻すことなく視聴者観覧投票は終わった。アナウンスが流れて退場している途中、隣にいた女の子に声をかけられた。

「もしかして拓也君推しですか? すごい沢山ファンサもらえてましたよね! お兄さんが泣いちゃうから私も感動しちゃって!」

 多分すっごく優しい人。でも俺、もう勘違いなんて出来ないんだ。とりあえず笑顔を作って、当たり障りない会話をした。
 家に帰ると母さんに感想を聞かれた。楽しかったって返した。全然楽しくなんてなかったのに。
 ベッドまで行くのも億劫で、自分の部屋に入るなり床に寝そべる。というか倒れ込む。心の中に生まれた無数の黒いシミを吐き出してしまいたかった。
 何もしていないのに涙が溢れてくる。止めようと思っても全然止まらない。最悪。
 拓也のラインを開いて、「今日見にいったよ、すごかった」と打ってみて消す。どうせ今送ったところで拓也には届かないし。大きな大きなため息をついて目を閉じた。



 後方彼氏面なんて嘘じゃん、苦しくしかならないよ。あの距離で気づける訳ないって最初から分かってたのに、みんなのものになった拓也を見るのは辛いよ。
 俺の勘が正しければ、拓也だって俺のことちょっとは気になってたんじゃないの。じゃないと男同士でネイルオイルなんて贈らなくない? 千日紅の花言葉調べたよ。「色褪せぬ恋」「終わりのない友情」だって。

「ねぇ、拓也……どっちの意味で俺に贈ったのか教えてよ」

 でも俺の気持ちは迷惑でしょう? 拓也は夢のために恋愛はしないって決めたんでしょう? そんなのって無いよ、俺の初恋なのに。俺の気持ちは拓也の重荷になるだけなんだ。
 こんなことならいっその事、オーディションに落ちたらいいって思ってる。アイドルなんてならないで、ぺしょぺしょになって俺の隣に戻ってきてくれたらいいのに。アイドルなんて夢、諦めちゃえばいいのに。
 本当に大好きなんだよ。恋心を自覚した途端に、大好きが溢れ出して止まらないんだ。大好きだから落ちて欲しい。でも、もしそうなった時に俺以外の人を選ばれちゃったら、そっちの方が辛いから今日も拓也に投票したんだ。
 フレネミーなんて軽い言葉で片付けないでよ。友達想いじゃなかったら、こんなに熱心になってない。自分の受験そっちのけで練習付き合って、金欠のくせにアプリに課金して、自分のこと以上に頭悩ませて作戦考えたりしない。全部全部拓也に笑顔になってほしくて、泣いてほしくなくてやってるんだ。大好きじゃなかったら、こんなに悩んでない。みんな、こんなに苦しい気持ちなしに気軽に応援できてずるいな、俺も本心から好きな奴の夢、応援したかったよ。
 拓也がデビュー決まっちゃったらさ、何も言わずにラインブロックしちゃおうかな。ずるずるだらだら続く関係よりも、圧倒的な信頼の元に縁切ったほうが幸せじゃない? 好きって伝えて、信頼されなくなることの方が怖いよ。
 全部怖い。どうすることが一番マシなの?



 あれから毎日、夜はこんなことを考えてしまって涙が出てくる。いくら泣いても足りないんだ。最近は涙を拭うこともやめた。次々溢れてきて無駄だって分かってるから。
 好きな人を純粋に応援できない自分が嫌で、辛くて辛くて辛くて、眠れなくなった。
 誰かに打ち明けてしまいたかった。
 加川が美那ちゃんと付き合う前は、よく夜通し通話して話聞いてやったな。「美那ちゃんがこんな返信くれたんだけど脈アリだよな?」とか聞かれて、恋愛経験も無いくせに一丁前にアドバイスしたりした。デートの誘いを了承された時なんて、サッカー日本代表がゴール決めた時くらい沸いて、叫んでガッツポーズした。楽しかったな。
 市原の方は大恋愛っていうよりも、経験豊富でいろんな恋愛をしてたから、加川と二人でその話を聞いては大人の世界を覗き見したみたいな気分になってたな。
 二人に限らず、修学旅行で同じ部屋になった奴とか、とにかく友達の恋バナを聞くことが好きだった。照れくさそうに、もったいぶって話す横顔が輝いて見えた。俺も初恋を経験したら、きっとそんな風に悩みや惚気を聞いてもらうのだと思い描いていた。
 俺だって誰かに相談したかったよ。でも、俺の恋バナには特殊なところが多すぎるんだ。
 まず、アイドル目指してるほぼ芸能人みたいな奴のことが好きで、なんならいい感じかもって思っちゃうこともあってって……夢小説かよ、馬鹿馬鹿しい。
 俺がそんな相談したら、名前伏せたって話の内容的に拓也以外ありえないし。で、拓也だってバレたら色々まずいでしょう? あいつの夢に迷惑かけちゃうし。俺の友達が俺のこと応援してくれて気を回してくれちゃったりなんかしたら、恋愛禁止って決めてるあいつからしたらうざいだろ。
 それに男同士だし。オーディション中に男同士で恋愛してるなんて暴露でもされたら、きっと拓也の夢は閉ざされちゃう。
 アイドルになりたいっていうあいつの夢を応援したいのか、阻止したいのかすらもうわからなくなっちゃったよ。



俺がどんなに沈んでたって、初恋に苦しんだって時間は平等に進む。毎夜涙を流して腑抜けていても、受験本番は刻一刻と迫ってくる。けれど、何もする気にならなかった。胸の奥が日に日に黒く重くなっていくだけ。そんなコンディションで受けた夏休み明け最初のテストは散々な結果だった。

「あんたこれどうすんの? 公募受験失敗したら一般で受験するんでしょう?」

 机の上にはバツだらけのテスト。向かい側に座る母さんは大きくため息をついた。何か言ったらどうだと目で訴えてくるが、答えが見つからなかった。

「最近暗い顔してるけどなんかあった?」
「……何も」

 言えるわけがなかった。

「志望校変えたいなら、今からだって変えていいんだよ」
「……学校は……今のままでいいと思ってる」
「……そう」

 母さんが俺のことを考えてくれているのは分かっている。けれど、誰にどこまで拓也のことを話していいかも分からないし、伝え方も分からないからやっぱり何も言えなかった。

「何に悩んでるのか分かってあげられなくて申し訳ないとは思ってるけどさ……受験は……特に公募推薦の方は今年の一回、今しかチャンスがないんだよ? もしその悩みが後回しに出来るものなんだったらさ……一旦知らんぷりしてもいいんじゃない?」
「知らんぷり……?」
「そう、今遥がやるべきことは何なのか考えてみてさ……それでもその悩み事の方が重要ならそっちに集中すればいいよ。受験は一般受験もあるし、なんなら浪人する人だって大学進学を選ばずに働く人だっているし」

 なんだか少しだけ心が軽くなった気がした。拓也だって夢に向かって頑張ってる。俺はそんな拓也の隣に立てるような人になりたかったんだ。それが親友なのか、恋人なのかはまだ分からないけど恥じない生き方をしたくて進路を決めたんだ。

「うん、そうしてみるよ」

 何かが大きく進展したわけじゃない。それでも、いろんな生き方があるんだって思えたから。その中で自分の目指す生き方を少しだけ自覚することが出来たから。気を引き締めて頑張ろうと思った。



 それからはアイプロ本編の視聴もほどほどに、勉強に専念した。どうせ拓也は今連絡取れないし、落ち込んでいても仕方がないかと思って。勉強で疲れた時にふと目に入ってくるネイルオイルは今も俺に少しの元気をくれる。
 九月も後半になり、いよいよ俺にも焦りが出てきた。試験科目の小論文に特化して勉強しているから、最近は文章を読んだり書いたりで時間が過ぎていく。
 母さんの言った通り、没頭できるものがあるのは今の俺にとって良いことだった。辛いことも誤魔化せるし、何より自分の将来のために頑張っているんだという事実が自信に繋がった。
 そんな風に勉強に熱中する日々を過ごしているある休日。中高合わせて六年目にして、俺ははじめてゆっくりと文化祭に参加した。
 色とりどりに装飾された廊下をたくさんの人が行き交う。ガヤガヤと騒がしい校内は活気で満ち溢れている。
 今年も加川は美那ちゃんと回るというので、市原と二人で回っていた。屋台で売られていたクレープははじめて食べたけれど、すごく美味しかった。

「そういえば今年も一緒に回る子いなかったの?」
「そー。毎年この時期になると恋愛の神様に見放されるんだよなぁ……」
「なんだそれ」

 市原は口元についたクリームをぺろっと舐めてから続けた。

「んータイプのフリーの子がいない」
「へーどんな子が今のタイプなの?」
「顔が可愛くて面倒見が良い子。女の子っぽい感じでカフェ巡りとかしちゃうような」
「本当にコロコロタイプ変わんね」

 最後の一口を口に突っ込んだ。

「そういうお前はどうなの、好きなタイプ」
「んー……くだらない話で笑ってくれる人」

 全然おしゃれじゃない場所でも、全然意味のない会話でも一緒にいて心地いい人。

「なんか深くね? くだらないってどんなの?」
「漫画とか……?」

 ぽかんとした表情の市原は、一拍おくと神妙な顔つきになった。

「お前ちゃんと人のこと好きになったことないだろ」

 一瞬で脳裏に拓也の顔が浮かぶ。牛丼屋で夢を語ってくれた時の、まだちょっと今よりも垢抜けてない時の顔。視界が潤むが、一生懸命それを悟られないように隠した。

「あるよ……失礼な奴」
「ごめんて。あ、三組よっていい? 友達いる」
「おー」

 なんか俺、本当に好きなんだな。拓也のこと。恋に恋してるんじゃないんだろうな。
 俺がしんみりとそんなことを考えていることなんて知らない市原は、三組のドアの前で早くしろと俺に手招きしている。
 混雑した廊下で立ち止まっていたせいで誰かと背中がぶつかった。遠くで誰かが大声で笑った。女の子たちはみんな頭を派手に装飾してる。この混沌とした笑顔だらけの空間が好きなんだった。最後の文化祭を思いっきり楽しんでやるぞと意気込んで市原の方へ向かった。