恋して覚える♡総合型選抜〜先輩、言語化も深掘りもできてません〜

 天王山。
 勝敗や成否を決する、重大な局面のこと。
 大学受験では、まとまった学習時間を確保できる夏休みを「受験の天王山」と呼び、半年後に迫る共通テスト・一般入試に向けた準備を進める重要な時期とされる。
 総合型選抜においては、志望理由書や活動報告書等の出願書類の作成、面接・小論文対策、オープンキャンパスへの参加など、出願に向けた準備が本格化する期間となる。
 夏を制する者が、受験を制する。


 ♡ ♡ ♡

 
 待ち合わせの10分前に駅に着くと、先輩はもう改札前に立っていた。

「おはよ」
「おはようございます」

 返す声が上擦ってしまった。私服の先輩だった。
 黒いTシャツとデニム、スニーカー。鞄はなく、スマホとビニール傘だけ。Tシャツに書かれたバンド名らしきものを認めて、俺は先輩のプレイリストの中身も知らないことに気付いた。
 どちらともなく、駅の出口へと連れ立って歩き出す。
 隣にある久しぶりの気配に、緊張と安心がごっちゃになって押し寄せてきた。
 屋根が切れる手前で、先輩がロータリーの奥に目をやって呟いた。

「雨、降ってきちゃった」
「ですね……」

 しとしとと、弱い雨が地面を濡らし始めていた。
 背中のショルダーバッグから折り畳み傘を出しかけた俺を、先輩が片腕で遮る。
 引き締まった前腕が俺の体に当たって、体温がかすかに伝わってきた。

「一緒に入ろ」

 俺が頷くと、先輩は空に向かってビニール傘を広げた。

「濡れちゃうよ」

 静かに肩を寄せられて密着する。あの石鹸の匂いが立つ。

 ……さっきから、なんか。
 隣の先輩を盗み見する。湿気のせいか、いつもよりぺたんと落ちた前髪は大人びて見えた。
 供給過多で、うまく話せないのですが。


 先輩は、一度ちらりとスマホを確認しただけで、迷いなく公園に向かって進んでいた。

「道……?」
「ん。公園の横の運動場、練習で使ったことある」

 なるほど、の代わりに俺はこくりと首を縦に振って返す。
 ぱたぱた、と、繰り返し雨が傘を叩いていた。

「つぎ右ね」

 言葉の終わりに、先輩が、ふ、と息を吐いた。
 雨が降っていてよかった。
 先輩が傘に入れてくれて、よかった。

「佐倉、」

 横を見ると、先輩は前を向いたまま、唇を噛んでいた。

「おれの考え……間違ってたらごめん」

 ばたん。傘にひときわ大きい雫が落ちた。

「おれ、佐倉に頼ってばっかだった」

 そんなことない、と思ったけれど、先輩の言葉には続きがありそうだったので黙って待つ。

「ずっと先生役やらせてごめん」

 交差点を右に折れる。先輩の傘を持つ手が揺れて、俺の肩口に一瞬触れた。

「でも、他の人じゃ今のおれになれなかった」

 それは。
 だって先輩は。
 ただ元どおりに「回復」しただけじゃないのか?
 先輩が俺の方に顔を向ける。下唇のきわが赤くなっていて、強く噛みしめていたのがはっきりと分かった。

「佐倉のおかげ」

 ぱたぱた。ぱたぱた。
 雨音がまた続く。

「だから、おれと友達になって……、また一緒にやってくれる?」

 友達、という語だけがやけに硬く聞こえて、俺は先輩の目を見た。
 先輩の緑がかった茶色の瞳が、強く俺を捉えていた。

 胸が詰まる。
 俺の頭の中の哲学者(プラトン)が、ひょっこりと顔を覗かせる。
 したり顔で物申そうとする。

 うるさい。
 今は、黙れ。

「俺も……」

 ああ。
 大事なときほど。
 言葉が。

 見つからない。
 
 ぱたぱた。
 沈黙の合間を、雨音が埋めていた。
 ぱたぱた。
 曇ったビニール傘越しの空。
 ぱたぱた。

「俺も……」

 繰り返す俺に、口を引き結んだ先輩がゆっくりと首を振った。
 無理に喋らなくていい、ということだろうか。
 今、先輩と肩が触れている。
 温かい。
 言葉なんてもう、要らないのかもしれないと思った。



 目指す場所は、緑化公園の奥の方にあった。

「テレビより映えない」
「……ほんとですね」

 四阿(あずまや)の屋根の下、傷みが目立つ木のベンチに二人で腰かけ、すぐ傍のコスモス畑を見る。
 ぼわぼわした草むらに、ちらほらとピンク色の花。
 雨に打たれて震えるさまは健気とも言えるが、野花、といった風情で見応えはあまりない。

「どーぞ」
「いただきます」

 かしゅっ。先輩に奢ってもらった缶コーヒーのプルタブを起こす。
 熱くて苦いコーヒーが、抒情的にとろけた脳みそを引き締めてくれる。
 せっかく先輩と会えたんだ。
 友達になろうとまで言ってくれて。
 もう充分だ。叶うわけもない思いは、そのうちきっと薄れていく。

 隣で伏目がちにコーラを啜る先輩を盗み見する。
 蒸し暑さのせいで、こめかみに薄く汗が滲んでいた。
 健やかさに当てられて、さすがにちょっと胸が苦しい。

「あっ!」

 先輩が缶をベンチに置いて、素早く地面にかがみ込んだ。

「ダンゴムシの赤ちゃんいる」
「……」

 丸めた背に隠れているが、地面に手を伸ばしているのが分かる。つついているのか。

「かわいーよ」

 肩越しに振り向いた先輩は、数ミリの小さなダンゴムシを手に載せていた。
 ちまちまと懸命に、先輩の掌の上を這っている。右に左に、両手で作った丘を行き来していた。

「ねえ、こいつちょっと佐倉に」
「似てません」

 サワガニといい、どうしてジメジメした感じの生き物ばかり続くんだろう。
 洗いたての猫の方がずっと——、ん?
 ……かわいい?

「強く生きろよー」

 先輩がコスモス畑に向けてダンゴムシを放す。
 かわいい?
 都合の良い三段論法が、俺の脳内を走り始める。

 ダンゴムシの赤ちゃん=かわいい
 ダンゴムシの赤ちゃん=俺
 ∴(ゆえに)……違う、それは違う。
 ダンゴムシ=俺じゃなくて≒俺だ。
 ニアリーイコールに、そんな強制力はない。

 危ない。近寄ってきた脳内哲学者(アリストテレス)を追い払う。
 ベンチに戻ってきた先輩に声をかけた。

「コスモス、11月中旬までいろいろ咲くんですよね」
「そうだよー。おれもコスモス咲かせなきゃー」 

 そうだ。先輩の言葉をトリガーに、すっかり忘れてしまっていたことを思い出す。
 ショルダーバッグを開けて、白い手提げのレジ袋を引っ張り出す。

「あの、先輩。これ……」

 中身だけ渡そうか迷って、気恥ずかしくてそのまま押しつけた。

「なに?」

 ガサガサ、と先輩が受け取ったレジ袋を探る。中の薄い封筒型の紙袋から、それを抜き取った。

「わ、しゃもじー! ありがと!!」

 黒々と〈躍進〉と書かれた宮島杓子を、曇り空にかざす。

「なつかしー。去年、〈必勝〉は買ったんだぁ」
「ああ、もう持ってますよね……」

 修学旅行の行き先は一緒なんだから当然だ。

「ううん。ぜんぜん違う」

 先輩が、しゃもじに張られた透明フィルムの上から墨文字をなぞる。

「〈躍進〉って、ちゃんと佐倉が選んでくれたって感じする」

 ふふ、と機嫌よく先輩が笑った。

「でも、なんで〈躍進〉?」
「それは、その……。合格してからも、その先も——」

 選ぶ言葉はぜんぶ違う意味になりそうで、俺は口をつぐんだ。なのに、先輩は俺を待っていた。

「その先も、ご活躍をお祈り……、です」
「ありがと」

 先輩がしゃもじで空中にマルを描いてから、ビシッとこちらに突きつけてくる。

「試験にもちゃんと持ってくね」
「家で飾ってください……」

 しゃもじの先を押し留めながら、「ちゃんと」の多い人だなあ、なんて関係のないことを考えていた。
 ちゃんと見てくれてて、ありがたいな。

「あ! そーだこれやっとかなきゃ」

 先輩がしゃもじの袋を下げたまま、ビニール傘を広げて四阿を出る。
 雨はもう霧雨に変わっていた。コスモス畑の前に立ち、こちらに振り向く。

「ちょっと虎太朗と通話するね」
「え?」

 傘を肩と首で支えて、スマホを横に構えた。スピーカーモードになった先輩の手元から、割れ気味の大きな呼び出し音が鳴る。

「はよ」
《なんで首折れてんの?》
「傘。外」
《どこ》
「公園。見て」

 先輩が画面をタップしてから、スマホをコスモスに近づけた。

《花?》
「そ。コスモスもう咲いてる。すごくない?」
《秋じゃん》
「うん。秋の桜なんだって」
《いま夏》
「漢字」
《なる》
「それでさ……」

 先輩がこちらに笑顔を向ける。俺が相当険しい顔をしていたのか、口が「だいじょーぶ」という形に動いた。

「合格ってサクラ咲くって言うじゃん? この前言ってた城徳大、11月に合格発表。だから、コスモス咲くの目指してんの、おれ」

 電話口で、笹木は黙ったようだった。どんな表情かは、先輩の手元にあるので見えない。
 ぐるっと葉っぱばかりのコスモス畑を映してから、先輩が尋ねた。

「虎太朗は、指定校の合否いつ出る?」
《……12月》
「じゃああれじゃん。クリスマスの赤い葉っぱ? 花?」

 けらけらと笑う先輩は、ポインセチア、という名前は知らなくてもよさそうだった。

《ぜってー咲かす》
「うん」
《トレーニング戻るわ》
「今日どこの日?」
《上半身》
「がんばって」
《おう》

 通話は終わったようだった。
 俺は先輩に向けて踏み出す。霧雨が柔らかく頬に当たった。
 柄の部分にしゃもじの袋を引っかけた先輩が、傘を差しかけてくれた。

「佐倉」

 電話のときと違って、先輩は弁当のおかずをアルミカップごと食べたときのような顔をしていた。
 向かい合った俺に、空いている方の手を伸べてくる。
 指先を強く握られた。

「おれ、受験終わったら佐倉に言いたいことある」

 は?
 唖然と先輩を見つめる俺の前で、先輩の目元から耳までが、一気に赤く染まっていく。
 は?

「痛……い、です」
「あっごめん!」

 手がぱっと離れて、少し惜しい気持ちになる。
 まあでも、さっきダンゴムシ触ってた手だし。

 ……は?

「かえっ、帰ろっ!」

 先輩が俺に傘を差しかけたまま、体だけ来た道の方を向く。
 ぶん、としゃもじの入ったレジ袋が、先輩と俺のあいだで振れて回っていた。



 その日はもう、どうやって家まで帰ったのかまったく覚えていない。
 お互い無言だった気もするし、公園から駅までの道を間違えて二人で慌てたような気もする。

 それでも家まで耐えて、2階の自分の部屋まで階段を駆け上がって、いつもは絶対やらないのに、着替えもしない湿った服と靴下のまま、ベッドに突っ伏した。

 う、わあああああー。

 タオルケットをバタ足で蹴飛ばす。足に絡まって、逆に動きが制限される。

(わあああああ)

 枕に顔を押し付けた。
 昼飯を食い損ねて、空きっ腹に自分の悲鳴がとどろく。
 枕に伏せたまま深呼吸する。口元にわさわさと枕カバーが張り付く。

 心の中で素因数分解を試したら、2026は一発で終わった。
 別れぎわ、俺は「月曜の朝は一緒に登校しましょう」と誘えていただろうか。
 そんな長い文章、喋った記憶はない。

「……嘘だろ」

 こういうの、なんて言うか知ってる。

「メロついてる?」

 俺が主語じゃなくて、目的語で。
 どう考えても。

「先輩、俺のこと、好き?」


 ◇◆◇◆


「おはよー」
「おはようございます」

 月曜日。俺と先輩は、以前と変わらず朝の待ち合わせをして、登校した。

「——でね、この曲がおれ一番好き」
「詩的な歌詞ですね」
「え、すご! 英語よく分かんなくて」
「訳しましょうか?」
「佐倉が?」
「はい。知らない単語もあって、勉強になるので」
「めっちゃうれしー。じゃあ耳貸して」
「そっち右です」
「こっち?」
「はい」
「佐倉、なんか穴ちっちゃくない? 入る?」
「ちょっと痛いですね」
「や、やめとく?」
「……いえ、入れてもらって大丈夫です」
「あっ、無理しないで!!」

 以前と変わらず、か?
 Bluetoothのイヤホンを片耳ずつ分け合って、先輩の好きな洋楽を一緒に聴きながら登校するのが?
 先輩が私物のカナルイヤホン、俺の耳の穴に思いっきりねじ込んできてるぞ?
 他の人のだったらカナルイヤホンの共有なんて絶対無理だし、サイズが合わなくて耳がじんじんするのに、止められない。

 あと、会話が朝からかなり際どい言葉を擦っているのに、それも止められずにいる。
 先輩なんて途中で気付いて赤くなっているのに、律儀に俺の耳にイヤホンを嵌めてくれている。
 ・好きな曲の開示
 ・イヤホンのシェア
 ・わざわざ付けてくれる
 ・下ネタを茶化さない
 朝からずいぶんな量の収穫だ。
 昨日は一人で無様にジタバタするだけだったが、こうやって「先輩が俺を好きな証拠」を集める行為で逆に冷静になれるのではと閃き、さっそく試すことにした。

 今はゆっくり、たっぷり根拠を集めよう。
 まだ6月中旬なんだから。
 先のことは考えずに、こうやって先輩と青春していたい。


 ◇◆◇◆


 夏のあいだは、とにかく忙しくて、楽しかった。

 総合型選抜の準備ばかりしてもいられなかった。
 総合型の合格発表から3週間後には、学校推薦型選抜——公募制推薦入試が控えている。
 コスモスが咲かなかったときのために、そちらの対策も並行する必要があった。

「公募制は、志望理由書と活動報告書が事前提出で、当日に小論文と面接なんですね」
「志望理由書は使い回していいの?」
「点数化しないって要項に書いてますね。細かい調整が中心かな……。小論文は、大丈夫そうですか?」
「やばい」
「一緒に練習しましょう」
「何したらいいの」
「新聞読んだり、志望分野の本で知識仕入れたりですかね」
「うち新聞とってない」

 休日は毎週、二人で図書館に行くようになった。

 

 7月の終業式の前日、文芸同好会の部室から出た。立つ鳥跡を濁さず。先輩と二人で黒板掃除をしたり、机や窓の水拭きをしたりした。
「3ヶ月しか使ってないけど、さびしーかも」
「静かでよかったですね」
「ほんと感謝」
「2学期から俺、帰宅部です」
「ねえ佐倉」
「はい」
「おれ……、佐倉と同じ学年だったらよかった」
「そしたら会えてなかったですよ」
「そーかな」
「です」
 
 

 そして夏休みはもっぱら、市の無料のスタディルームに通っていた。
 たまにショッピングモールのフードコートやセルフ式カフェで贅沢することもあった。

「海とか、行く?」
「暑いのは嫌ですね」
「夏祭りとか」
「人混みは避けたいですね」
「花火大会も?」
「……手持ちの方なら」

 夏の夜の河原で二人、花火をした。

「暗くてうまく撮れない」
「目に焼き付けましょう」
「だねー」

 お互い張り切って買い込みすぎて、途中からは黙々と火を付けて消化するはめになった。


 
 城徳大の夏のオープンキャンパスには、俺も申し込みをして二人で行った。
 先輩が体験講義を聞いてレポートを書いているあいだに、俺は経済学部と心理学部を見て回った。

「おつかれさまでした」
「レポートんとき、頭のこのへんに佐倉召喚してた」
「どういうことですか」
「なんかね、『結論から簡潔に』とか、『具体的には』って囁いてくんの」
「……お役に立てて、何より」

 城徳大のほか、先輩は先生に勧められた滑り止めの大学を1校、俺は第一志望と第二志望の大学を別々に見に行った。
 互いの志望校の話は色々したが、一緒の大学に行きたい、という展開にはまったくならなかった。

 単に、同じ県内ならいつでも会えるから、というだけではなかった。

 「どうしてそこに行きたいのか」を自分の内に求める大切さを、この春と夏で実感したからだと思う。