調査書。
高校での学習成績や出欠状況、学校活動の記録などを記載した書類。高校が発行し、志願者が大学に提出する。
部活動や委員会活動、資格・検定、ボランティアなど、高校生活で積み重ねてきた取り組みも記載され、総合型選抜ではその内容や継続性が評価材料となることがある。
指導上参考となる事柄がなければ、〈特記事項なし〉と記載されることもある。
♡ ♡ ♡
キーンコーンカーンコーン。
朝からの雨で湿ったプリントは、シャーペンの先が引っかかってライティングに向いていなかった。
「はい。じゃあ解答用紙だけ後ろから前に回してー」
先生の声と無情な鐘に合わせて深く溜め息を吐き、俺は机の上の消しカスと折れたシャー芯を集める。
掌にシャー芯が刺さって、ちくりと痛んだ。
終わった。
……いや、別にテストは「終わって」ない。全科目、それなりに自信はある。最後の科目までやり終えた、というだけで——。
自分に言い訳をしながら、背後から差し出された答案の束を受け取り、自分の分も載せて前に回す。
斜め前の宮元と目が合った。ニヤついている。お前も英語、得意だからな。
こっちの手応えを探りたそうだったので、目線を外して放っておく。
周りがガタガタと席を立つ中で、俺は一人体を丸めた。
どうして「次」なんて指定してしまったのか。
辰野先輩と会わなくなってから、もう3週間近くになる。
通学路。校庭。全校集会。
それらしい人を見掛けはしたものの、近付いて確かめる気にはなれなかった。
〈だいたい『専願』って重さわかってるんですか〉
3年の先輩相手にあんな言い掛かりを付けて、「次」があると思うなんておこがましい。
先生に頼れるようになった以上、俺が添削に関わる理由なんてないのに。
でも。
「会いた……、うわ」
口をついた言葉は、途中で止めた。
まだテストの余韻が残る頭を、いつか長文読解で拾った余計な知識が過ぎていく。
At the touch of love everyone becomes a poet.
(愛に触れると、人はみな詩人になる。)
満面の笑みで近づいてくる宮元と、脳内の哲学者を黙らせたかった。
中間テストのみで解放されることはなく、午後は普通に進路ガイダンスがあって、特進コースは講堂に集められた。同じ時間に、体育館では芸術・スポーツコース向けのキャリアガイダンスをやっているらしい。
進路とキャリア。なんでもカタカナにすればいいってものでもないと思う。
先輩は今ごろ、どんな話を聞いているんだろう。
俺は配られたプリントのQRコードをスマホで読んで、進路調査に回答していく。
国公立、文系、一般入試。
ガイダンスが終わり、帰路に着く頃には雨は上がっていた。
夕方の電車が、いつになく混んでいた。車内アナウンスが流れる。
《——駅でイベント開催のため、本日は快速列車も臨時停車——》
男性アイドルのライブでもあるのか、気合の入った服装に大荷物の女の人たちが目立つ。ぎゅう、と大きなトートバッグに押された流れで、俺はなんとか奥の扉の方へ退避した。
周囲には香水か整髪料か、男子高にはない甘い香りが充満している。においを嗅ごうとするなんて痴漢行為だ、と息を殺して俯いた。
……平気で人のにおいを嗅いでくる人、いたよな。
居心地の悪さを感じながら、俺は体の前に回したリュックから英単語帳を取り出した。できるだけ肘を縮めながら、リュックの上に本を載せてページを開く。痴漢冤罪はごめんなので、両手の所在をはっきりさせておきたかった。
もっともらしく言葉を継いで、自分を守ろうとする癖は昔からだ。
先輩のことだってそうだ。
縋ろうとした。「お前はもう要らない」と言外に言われた気がして。
俺はただ、進路に迷っていた先輩の袋小路に偶然立ってただけで、人生に干渉する権利なんてなかったのに。
あれ、こういう比喩表現もプラトン節なのか?
歯噛みする。ちょっと〈失恋〉したくらいで(ああ、ついに認めてしまった……)ポエマーになんてなりたくなかったのに。
先輩はたぶん、あれで「元通り」になったんだ。
素晴らしいことだ。おめでとうございます。
〈好きだった人〉の回復を喜べないなんて、身長だけじゃなくて器も小さいのか、俺。
「ちっさ」
「は?」
上から降ってきた低い声に、反射的に返す。
顔を上げる。面積の広すぎるカッターシャツの上に、発信者を認めた。
「……お疲れ様です」
「おう」
笹木(先輩)だった。俺の頭越しに、両手をドアガラスについてくる。この人も痴漢冤罪、怖いんだな。
「……」
袖をまくったシャツから伸びる笹木の太い腕の中に入れ込まれ、リュックを挟んで向かい合う形になった。目は合わずに済むが、密着しすぎて所在がない。
「お前さあ、」
図体に反して、密やかな声だった。低音が艶めく。
「混んでる電車では瞑想でもしてろ。本広げたら周りに迷惑だろーが」
「すみません……」
真っ当な指摘に、俺は最小限の動きで単語帳を閉じる。
「てかテスト終わったばっかなのに勉強してんの、特進ってやばいな」
「スポーツの人だって、いつも練習してるじゃないですか。今日はやらないんですか」
「グラウンドべちゃってるから自主練」
電車が駅に着いて、さらに人が押してくる。
「ラグビーの奴より強え」
自然と俺を庇う形になった笹木が踏ん張っていた。視線の先で、尖った喉仏が動く。
顎の下に、髭の剃り残しが数本あった。
俺は辰野先輩が好きだっただけで、別に男が好きなわけではなかったんだなあ、と、妙な材料で理解する。
サンプル数1なのに、それだけは確信があった。
「英単語」
笹木の声がまた落ちてくる。まだ会話、続ける気なのか。
「4500個も覚えてどーすんの。英検1級とか取れんの?」
単語帳の表紙の数字は、別に収録語数ではない。
「準1にも足りないです……」
「あそ」
笹木が息を吐くと、俺の前髪が揺れた。
「オレは漢検2級持ってる」
「え?」
意外すぎるひけらかしに戸惑う。笹木が続ける。
「サッカー部の3年はだいたい」
辰野先輩と検定の話はしたことがなかった。もしかして、先輩も取っていたんだろうか。
「……晴人も持ってる」
笹木に思考を見透かされたようで、体が勝手にびくついた。
「お前、晴人に何した?」
笹木の口から唾が飛んだように見えて、これが本当に喋りたかったことだと察する。
「関係なくないですか」
それ以外の言葉はない。
「晴人、テスト終わったら坊主にするって」
「は?」
坊主?
「野球部にバリカン借りてた。相手誰かしんねーけど、ケジメつけて詫びるって。なんかしたのお前だろ」
笹木から矢継ぎ早に繰り出される情報を受けていく。
こっちが何かしたのに謝られる側って、言ってておかしいと思わないんだろうか。
それにしても……、坊主?
「あなたに、謝りたいのでは」
「オレは謝るとかそういうのじゃない」
「……ずっと避けられてるんですよね?」
「先週の体育、柔軟組んだ」
満足気に他愛もないことを差し出せる笹木が、少し羨ましかった。
「返事待つ」
ふん、と笹木が鼻息を吐く。
先輩は社会共創の道に進むんです、とは、とても言い出せない。
なんでまだ、話してないんだろう。
……それこそ俺には関係ない話だ。
「てか晴人、さっきからあっちにいるけど」
「え??!!!」
「電車で騒ぐな」
小声で一喝される。探したいのに笹木の体が邪魔で、何も見えなかった。
「……」
「……」
そこから10分近く。次の次の駅で、どっと人が降りるまで、しばらくそのまま身動きが取れなかった。
笹木がガラスに付いていた手を放す。脇の下をすり抜けて、車内を見回した。……いた。
先輩。
夏服の紺のポロシャツだった。栗色の髪はいつも通りのセンター分けで、ふわふわと揺れている。
近づいてくる。
え?
目を合わせたくなくて、俺はとっさに笹木の体の陰に引っ込む。
「なんでお前が佐倉といんの」
久しぶりに聞いた先輩の声は露骨に不機嫌そうで、少し怖かった。
こんな組み合わせ、見たくもないだろうに。
「制空権取れるから」
笹木が俺の頭上の空間を指差した。さすがに、なんかすごく失礼なことを言われているのは分かる。
「ばーか」
呆れ顔の先輩が、笹木の腕を取った。笹木の表情が、驚きから一瞬へにゃりと崩れかけて、すぐ引き締まった顔に戻る。
先輩が笹木を、どこかへ引っ張っていこうとする。
笹木の体越しに、先輩の横顔が見えた。
これが、最後?
「——先輩!」
先輩と、笹木が同時にこちらを見る。
「あの……、坊主は……」
続く言葉が出てこなくて、語尾が消えていく。
笹木の体に半分隠れた先輩が、目を細めた。
「……またね、佐倉」
隣の車両へと二人で消えていった。
ガタタン。連結部のドアの音だけが残る。
『またね』?
先輩は社交辞令を言う人ではない。変な気の回し方はしない。
思ったことが自然に口をついて出た、おおかたそんなところだ。
ということは。
「次……、普通にある?」
◇◆◇◆
翌週、2年生は修学旅行に出発した。四国と広島を巡る3泊4日の旅。
宮元とその他、よく分からないメンバーとくっついた即席グループで、「地味に面白い」という前評判のとおり、前半は道後温泉や香川のうどん打ち体験にはしゃいで過ごした。
そして後半、宮島で。
土産物屋の店頭にずらりと並んだ「看板杓子」の一角を、宮元が指差した。
「ここはスタンダードに〈合格〉か?」
「〈必勝〉じゃない?」
俺はしゃがんで、足元にじゃれてきた看板猫の耳を掻きながら答える。しゃもじの表面に、厳島神社の鳥居と願掛けの筆文字が堂々と書かれた名産品。広島に行くならこれは買うよな、と二人で事前に話していた。
「合格後も使えるやつの方がいいじゃん」
「お前は欲深いな」
「合理的って言って」
「おっ、〈絶対合格〉もあるぞ」
俺の要望を無視した宮元は、あっさり選び取ったようだった。
「佐倉も覚悟決めろ」
「御守り買うのに覚悟は要らないよ……」
反論しつつ猫を抱き上げ、「それ」と目が合う。
〈躍進〉。
渡す当てもないのに。
その二文字が似合う人に、墨文字の踊るしゃもじを買った。
修学旅行から帰ってきても先輩から連絡はなかった。
通学路では、いつもなんとなく目で探していた。最初は栗色の髪を目印にしていたが、思い直して坊主頭も目で追いかけるようにした。
6月10日を過ぎて、6月中旬っていつだろうと考え始めた頃。松木先生に、国語準備室に呼び出された。
「本当に、ごめんなさいね」
「いえ。俺も勧誘活動をしなかったので。……私物化してすみませんでした」
目の前の松木先生に、俺は頭を下げる。
呼び出しの内容は、文芸同好会の部室を二学期から空けてほしいとのことだった。
つまり、一学期で活動休止。三年生のメンバーはもう同意していて、あとは俺が出ていくだけ。四人くらい仲間を集めれば存続できるらしいが、もちろんそんな熱意はない。
松木先生は終始、すごく申し訳なさそうな顔をしていた。俺が弁論部から出るとき、顧問を兼任しているから、と文芸同好会への移籍を提案してくれたのが先生だったからだろう。
「では、」
「待って、佐倉君」
去りかけたところを呼び止められる。
「弁論部に戻る気はない?」
「……えと、」
「去年の三年生は、何度注意してもあなたに当たりが強くて——、理不尽な思いをさせてしまったけど」
松木先生は言葉を選んで喋っているふうだが、俺は別に理不尽さは感じていなかった。「お前を選んだのが間違い」とか「翠高の恥」とかの文句はもっともで、単にこそこそ言うのが卑怯で煩わしかったという話だ。
「1学期通して見たけど、今はちゃんと、切磋琢磨できるメンバーになってるの。佐倉君の実力は、2・3年生の子は知ってる。また来てくれたら、きっといいライバルになれると思う」
意外なほど、返答に迷わなかった。
「弁論には戻りません」
「どうして?」
「今は——、」
先輩は、俺を〈言葉で戦っている人〉と言ってくれたけど。
「競うよりも、色々考える方に時間を使いたいので」
もう一度、今度は深く頭を下げる。
「去年はずっと添削に付き合ってくださって、ありがとうございました」
ゆっくりと頭を上げて、国語準備室を辞した。
◇◆◇◆
梅雨空が続いた金曜日の午後。リビングで流れていた夕方のニュースに、目を吸われた。
《梅雨の雨風に負けず、夏咲きのコスモスが次々と開花しています》
「——もう?」
テレビ画面の中では、ピンクや赤の花が数本、雨に打たれて震えていた。
《純潔や調和などの花言葉を持つコスモスですが、名前の由来はギリシャ語の「秩序」を意味するKosmosから。このように、規則正しく花びらが並ぶ様子から名付けられています》
ズームアップされる花弁。
俺はキャスターの解説をよそに、スマホをテレビに向かって構えた。数度、シャッターボタンをタップする。
カシャ。
カシャ。カシャ。
《漢字で書くと「秋の桜」。◯◯公園では、11月中旬まで様々な品種のコスモスが楽しめるということです。ぜひ、足を運んでみてはいかがでしょうか》
画面がスタジオに切り替わる。
ブレてしまった写真を持て余して、ゴミ箱の絵の上で指が迷った。
撮って、どうするんだ。
どうしたいんだ?
ヴッ。
スマホの震えに、答えを出された気がした。
通知に触れる。
「……ブレブレじゃないですか」
俺よりもひどい、ピンクのぼわぼわした塊の写真が送られてきた。
その下に、たった一言。
〈みにいこ〉
俺はすぐに返信したい気持ちを抑えて、地図アプリを開く。
調べることは色々ある。開園時間、最寄り駅、ルート。
電車賃は、通学定期プラス片道210円。一駅歩けば、160円だった。
共有ボタンを押す。
明日の11時で、とフリックする指が踊り出しそうだった。
高校での学習成績や出欠状況、学校活動の記録などを記載した書類。高校が発行し、志願者が大学に提出する。
部活動や委員会活動、資格・検定、ボランティアなど、高校生活で積み重ねてきた取り組みも記載され、総合型選抜ではその内容や継続性が評価材料となることがある。
指導上参考となる事柄がなければ、〈特記事項なし〉と記載されることもある。
♡ ♡ ♡
キーンコーンカーンコーン。
朝からの雨で湿ったプリントは、シャーペンの先が引っかかってライティングに向いていなかった。
「はい。じゃあ解答用紙だけ後ろから前に回してー」
先生の声と無情な鐘に合わせて深く溜め息を吐き、俺は机の上の消しカスと折れたシャー芯を集める。
掌にシャー芯が刺さって、ちくりと痛んだ。
終わった。
……いや、別にテストは「終わって」ない。全科目、それなりに自信はある。最後の科目までやり終えた、というだけで——。
自分に言い訳をしながら、背後から差し出された答案の束を受け取り、自分の分も載せて前に回す。
斜め前の宮元と目が合った。ニヤついている。お前も英語、得意だからな。
こっちの手応えを探りたそうだったので、目線を外して放っておく。
周りがガタガタと席を立つ中で、俺は一人体を丸めた。
どうして「次」なんて指定してしまったのか。
辰野先輩と会わなくなってから、もう3週間近くになる。
通学路。校庭。全校集会。
それらしい人を見掛けはしたものの、近付いて確かめる気にはなれなかった。
〈だいたい『専願』って重さわかってるんですか〉
3年の先輩相手にあんな言い掛かりを付けて、「次」があると思うなんておこがましい。
先生に頼れるようになった以上、俺が添削に関わる理由なんてないのに。
でも。
「会いた……、うわ」
口をついた言葉は、途中で止めた。
まだテストの余韻が残る頭を、いつか長文読解で拾った余計な知識が過ぎていく。
At the touch of love everyone becomes a poet.
(愛に触れると、人はみな詩人になる。)
満面の笑みで近づいてくる宮元と、脳内の哲学者を黙らせたかった。
中間テストのみで解放されることはなく、午後は普通に進路ガイダンスがあって、特進コースは講堂に集められた。同じ時間に、体育館では芸術・スポーツコース向けのキャリアガイダンスをやっているらしい。
進路とキャリア。なんでもカタカナにすればいいってものでもないと思う。
先輩は今ごろ、どんな話を聞いているんだろう。
俺は配られたプリントのQRコードをスマホで読んで、進路調査に回答していく。
国公立、文系、一般入試。
ガイダンスが終わり、帰路に着く頃には雨は上がっていた。
夕方の電車が、いつになく混んでいた。車内アナウンスが流れる。
《——駅でイベント開催のため、本日は快速列車も臨時停車——》
男性アイドルのライブでもあるのか、気合の入った服装に大荷物の女の人たちが目立つ。ぎゅう、と大きなトートバッグに押された流れで、俺はなんとか奥の扉の方へ退避した。
周囲には香水か整髪料か、男子高にはない甘い香りが充満している。においを嗅ごうとするなんて痴漢行為だ、と息を殺して俯いた。
……平気で人のにおいを嗅いでくる人、いたよな。
居心地の悪さを感じながら、俺は体の前に回したリュックから英単語帳を取り出した。できるだけ肘を縮めながら、リュックの上に本を載せてページを開く。痴漢冤罪はごめんなので、両手の所在をはっきりさせておきたかった。
もっともらしく言葉を継いで、自分を守ろうとする癖は昔からだ。
先輩のことだってそうだ。
縋ろうとした。「お前はもう要らない」と言外に言われた気がして。
俺はただ、進路に迷っていた先輩の袋小路に偶然立ってただけで、人生に干渉する権利なんてなかったのに。
あれ、こういう比喩表現もプラトン節なのか?
歯噛みする。ちょっと〈失恋〉したくらいで(ああ、ついに認めてしまった……)ポエマーになんてなりたくなかったのに。
先輩はたぶん、あれで「元通り」になったんだ。
素晴らしいことだ。おめでとうございます。
〈好きだった人〉の回復を喜べないなんて、身長だけじゃなくて器も小さいのか、俺。
「ちっさ」
「は?」
上から降ってきた低い声に、反射的に返す。
顔を上げる。面積の広すぎるカッターシャツの上に、発信者を認めた。
「……お疲れ様です」
「おう」
笹木(先輩)だった。俺の頭越しに、両手をドアガラスについてくる。この人も痴漢冤罪、怖いんだな。
「……」
袖をまくったシャツから伸びる笹木の太い腕の中に入れ込まれ、リュックを挟んで向かい合う形になった。目は合わずに済むが、密着しすぎて所在がない。
「お前さあ、」
図体に反して、密やかな声だった。低音が艶めく。
「混んでる電車では瞑想でもしてろ。本広げたら周りに迷惑だろーが」
「すみません……」
真っ当な指摘に、俺は最小限の動きで単語帳を閉じる。
「てかテスト終わったばっかなのに勉強してんの、特進ってやばいな」
「スポーツの人だって、いつも練習してるじゃないですか。今日はやらないんですか」
「グラウンドべちゃってるから自主練」
電車が駅に着いて、さらに人が押してくる。
「ラグビーの奴より強え」
自然と俺を庇う形になった笹木が踏ん張っていた。視線の先で、尖った喉仏が動く。
顎の下に、髭の剃り残しが数本あった。
俺は辰野先輩が好きだっただけで、別に男が好きなわけではなかったんだなあ、と、妙な材料で理解する。
サンプル数1なのに、それだけは確信があった。
「英単語」
笹木の声がまた落ちてくる。まだ会話、続ける気なのか。
「4500個も覚えてどーすんの。英検1級とか取れんの?」
単語帳の表紙の数字は、別に収録語数ではない。
「準1にも足りないです……」
「あそ」
笹木が息を吐くと、俺の前髪が揺れた。
「オレは漢検2級持ってる」
「え?」
意外すぎるひけらかしに戸惑う。笹木が続ける。
「サッカー部の3年はだいたい」
辰野先輩と検定の話はしたことがなかった。もしかして、先輩も取っていたんだろうか。
「……晴人も持ってる」
笹木に思考を見透かされたようで、体が勝手にびくついた。
「お前、晴人に何した?」
笹木の口から唾が飛んだように見えて、これが本当に喋りたかったことだと察する。
「関係なくないですか」
それ以外の言葉はない。
「晴人、テスト終わったら坊主にするって」
「は?」
坊主?
「野球部にバリカン借りてた。相手誰かしんねーけど、ケジメつけて詫びるって。なんかしたのお前だろ」
笹木から矢継ぎ早に繰り出される情報を受けていく。
こっちが何かしたのに謝られる側って、言ってておかしいと思わないんだろうか。
それにしても……、坊主?
「あなたに、謝りたいのでは」
「オレは謝るとかそういうのじゃない」
「……ずっと避けられてるんですよね?」
「先週の体育、柔軟組んだ」
満足気に他愛もないことを差し出せる笹木が、少し羨ましかった。
「返事待つ」
ふん、と笹木が鼻息を吐く。
先輩は社会共創の道に進むんです、とは、とても言い出せない。
なんでまだ、話してないんだろう。
……それこそ俺には関係ない話だ。
「てか晴人、さっきからあっちにいるけど」
「え??!!!」
「電車で騒ぐな」
小声で一喝される。探したいのに笹木の体が邪魔で、何も見えなかった。
「……」
「……」
そこから10分近く。次の次の駅で、どっと人が降りるまで、しばらくそのまま身動きが取れなかった。
笹木がガラスに付いていた手を放す。脇の下をすり抜けて、車内を見回した。……いた。
先輩。
夏服の紺のポロシャツだった。栗色の髪はいつも通りのセンター分けで、ふわふわと揺れている。
近づいてくる。
え?
目を合わせたくなくて、俺はとっさに笹木の体の陰に引っ込む。
「なんでお前が佐倉といんの」
久しぶりに聞いた先輩の声は露骨に不機嫌そうで、少し怖かった。
こんな組み合わせ、見たくもないだろうに。
「制空権取れるから」
笹木が俺の頭上の空間を指差した。さすがに、なんかすごく失礼なことを言われているのは分かる。
「ばーか」
呆れ顔の先輩が、笹木の腕を取った。笹木の表情が、驚きから一瞬へにゃりと崩れかけて、すぐ引き締まった顔に戻る。
先輩が笹木を、どこかへ引っ張っていこうとする。
笹木の体越しに、先輩の横顔が見えた。
これが、最後?
「——先輩!」
先輩と、笹木が同時にこちらを見る。
「あの……、坊主は……」
続く言葉が出てこなくて、語尾が消えていく。
笹木の体に半分隠れた先輩が、目を細めた。
「……またね、佐倉」
隣の車両へと二人で消えていった。
ガタタン。連結部のドアの音だけが残る。
『またね』?
先輩は社交辞令を言う人ではない。変な気の回し方はしない。
思ったことが自然に口をついて出た、おおかたそんなところだ。
ということは。
「次……、普通にある?」
◇◆◇◆
翌週、2年生は修学旅行に出発した。四国と広島を巡る3泊4日の旅。
宮元とその他、よく分からないメンバーとくっついた即席グループで、「地味に面白い」という前評判のとおり、前半は道後温泉や香川のうどん打ち体験にはしゃいで過ごした。
そして後半、宮島で。
土産物屋の店頭にずらりと並んだ「看板杓子」の一角を、宮元が指差した。
「ここはスタンダードに〈合格〉か?」
「〈必勝〉じゃない?」
俺はしゃがんで、足元にじゃれてきた看板猫の耳を掻きながら答える。しゃもじの表面に、厳島神社の鳥居と願掛けの筆文字が堂々と書かれた名産品。広島に行くならこれは買うよな、と二人で事前に話していた。
「合格後も使えるやつの方がいいじゃん」
「お前は欲深いな」
「合理的って言って」
「おっ、〈絶対合格〉もあるぞ」
俺の要望を無視した宮元は、あっさり選び取ったようだった。
「佐倉も覚悟決めろ」
「御守り買うのに覚悟は要らないよ……」
反論しつつ猫を抱き上げ、「それ」と目が合う。
〈躍進〉。
渡す当てもないのに。
その二文字が似合う人に、墨文字の踊るしゃもじを買った。
修学旅行から帰ってきても先輩から連絡はなかった。
通学路では、いつもなんとなく目で探していた。最初は栗色の髪を目印にしていたが、思い直して坊主頭も目で追いかけるようにした。
6月10日を過ぎて、6月中旬っていつだろうと考え始めた頃。松木先生に、国語準備室に呼び出された。
「本当に、ごめんなさいね」
「いえ。俺も勧誘活動をしなかったので。……私物化してすみませんでした」
目の前の松木先生に、俺は頭を下げる。
呼び出しの内容は、文芸同好会の部室を二学期から空けてほしいとのことだった。
つまり、一学期で活動休止。三年生のメンバーはもう同意していて、あとは俺が出ていくだけ。四人くらい仲間を集めれば存続できるらしいが、もちろんそんな熱意はない。
松木先生は終始、すごく申し訳なさそうな顔をしていた。俺が弁論部から出るとき、顧問を兼任しているから、と文芸同好会への移籍を提案してくれたのが先生だったからだろう。
「では、」
「待って、佐倉君」
去りかけたところを呼び止められる。
「弁論部に戻る気はない?」
「……えと、」
「去年の三年生は、何度注意してもあなたに当たりが強くて——、理不尽な思いをさせてしまったけど」
松木先生は言葉を選んで喋っているふうだが、俺は別に理不尽さは感じていなかった。「お前を選んだのが間違い」とか「翠高の恥」とかの文句はもっともで、単にこそこそ言うのが卑怯で煩わしかったという話だ。
「1学期通して見たけど、今はちゃんと、切磋琢磨できるメンバーになってるの。佐倉君の実力は、2・3年生の子は知ってる。また来てくれたら、きっといいライバルになれると思う」
意外なほど、返答に迷わなかった。
「弁論には戻りません」
「どうして?」
「今は——、」
先輩は、俺を〈言葉で戦っている人〉と言ってくれたけど。
「競うよりも、色々考える方に時間を使いたいので」
もう一度、今度は深く頭を下げる。
「去年はずっと添削に付き合ってくださって、ありがとうございました」
ゆっくりと頭を上げて、国語準備室を辞した。
◇◆◇◆
梅雨空が続いた金曜日の午後。リビングで流れていた夕方のニュースに、目を吸われた。
《梅雨の雨風に負けず、夏咲きのコスモスが次々と開花しています》
「——もう?」
テレビ画面の中では、ピンクや赤の花が数本、雨に打たれて震えていた。
《純潔や調和などの花言葉を持つコスモスですが、名前の由来はギリシャ語の「秩序」を意味するKosmosから。このように、規則正しく花びらが並ぶ様子から名付けられています》
ズームアップされる花弁。
俺はキャスターの解説をよそに、スマホをテレビに向かって構えた。数度、シャッターボタンをタップする。
カシャ。
カシャ。カシャ。
《漢字で書くと「秋の桜」。◯◯公園では、11月中旬まで様々な品種のコスモスが楽しめるということです。ぜひ、足を運んでみてはいかがでしょうか》
画面がスタジオに切り替わる。
ブレてしまった写真を持て余して、ゴミ箱の絵の上で指が迷った。
撮って、どうするんだ。
どうしたいんだ?
ヴッ。
スマホの震えに、答えを出された気がした。
通知に触れる。
「……ブレブレじゃないですか」
俺よりもひどい、ピンクのぼわぼわした塊の写真が送られてきた。
その下に、たった一言。
〈みにいこ〉
俺はすぐに返信したい気持ちを抑えて、地図アプリを開く。
調べることは色々ある。開園時間、最寄り駅、ルート。
電車賃は、通学定期プラス片道210円。一駅歩けば、160円だった。
共有ボタンを押す。
明日の11時で、とフリックする指が踊り出しそうだった。
