自己理解。
自分自身の興味・関心、価値観、強みや特徴などを把握し、自分がどのような人間であるかを理解すること。
総合型選抜においては、これまでの経験を振り返り、そこで何を感じ、何を学び、現在の自分にどうつながっているのかを言語化することが、志望理由や将来の目標を考える上での土台となる。
♡ ♡ ♡
ボランティアから数日経った、ゴールデンウィークの中日。
「それでは始めていきましょう」
「よろしくー」
動画配信者みたいな入りになってしまった。
気恥ずかしさを覚えながら、俺は部室の壁に取り付けられた小さな黒板の前に立った。
先輩は、長机にルーズリーフと大学の資料を広げ、シャーペンを構えている。
今日の目はまた緑に光っていて、何が起こるんだろうとでも言いたげな、楽しそうな様子だった。
「こういうの、ほんと久しぶりだねー」
先輩がシャーペンを器用にひと回しした。
ボランティアからこっち、模試や急な委員会の集まりなどで、まったく放課後の時間が取れないままゴールデンウィークに突入してしまっていた。
とはいえ、朝はずっと一緒に登校していたし、昨日は休日のショッピングモールで偶然先輩と出くわしたりはしたので、二人で過ごすのが久しぶりというわけじゃない。
「……1週間も経ってないんじゃないですか」
あの雨の、先輩に抱き締められた日から。
手元のルーズリーフに何か書き込んでいる、先輩をそっと観察する。
センター分けにした前髪が、おでこに数本乱れて掛かっていた。
無造作にまくったシャツの袖口からは、筋肉の陰影がある腕が伸びる。
表情や仕草とアンバランスな大人っぽさがあって、どこか落ち着かない気分にさせられる。
これが〈推し〉がいる人の気持ちか。
先輩のために。気合いが入る。
「まず、フレームワークを」
俺は黒板の粉受に右手を伸ばす。堆積する白い粉の中から、ちびたチョークを拾い上げた。
俺は左手で持った例の参考書を確認しながら、黒板いっぱいに3つの円からなるベン図を描いた。
円同士の重なりを大きく取り、中央の3つの円が重なる核の部分は黄色のチョークで塗っておく。
円にそれぞれ、名前を書く。
頂点にあたる円に、Will。
左下の円に、Can。
右下の円に、Need。
「佐倉ぁ、」
黒板に正対する俺の背に向けて、先輩が情けない声を上げた。
「なんか目がうようよする」
「……すみません」
筆記体で書いてしまったせいだ。うようよってなんだ、と思いながら付け足した。
Will やりたい
Can できる
Need 求められる
「本には興味・強み・期待役割って書いてますけど、今はこんな理解でいいかと」
カッ、とチョークで黒板を叩いてしまって、これはこれで先生みたいで恥ずかしくなる。
W-C-Nフレームワーク。
3つの円で自分と大学の重なりを見つけ、自己理解を深めるためのツールらしい。
〈自己理解〉という言葉が取っ付きにくくて敬遠していたのだが、なかなか先輩の志望理由書のアイディア出しが進まなかったため、試しに使ってみることにしたのだ。
「さ、佐倉ぁ〜……」
また先輩が声をあげた。語尾が消えていくような、頼りない音。
「なんでしょう」
「やりたいのやの点、もうちょっと大きく書いたほうがいいよ」
すぐ良くない方向に逸れるな、この人。
「それは失礼しました」
俺はチョークをがりがりと往復させ、やの2画目を強調した。
「てか、志望理由書ばっかでプレゼンの準備しなくていいの?」
「今はまだ。先にまとめておきましょうか」
舞うチョークの粉に、軽く咳き込んだ。
「事前提出の志望理由書に、学びの計画のプレゼンテーションが5分、口頭試問と個人面接が15分」
黒板の隅の方を使って、書きながらスケジュールを組み立てていく。
〈予定〉
志望理由書:〜GW(仮)
★中間
プレゼン:5/下〜6/上
★2年修学旅行、期末
面接:7/上〜終業式
「さすがにテスト期間は動けませんから、1学期はおおむねこんな感じです。プレゼンの内容は志望理由書と被るところもあるので、そっちが書けたらスムーズに作れるかと。まずは志望理由書を書き上げて、先生にチェック貰いましょう」
こう書き出してみると、先輩といられる残り時間の短さを思い知る。
夏休みは本格的なプレゼン・面接練習に費やすはずだ。
最後まで本当に、俺が手伝っていいのか?
〈オレのサッカー、一生支えてくれよ〉
俺は振り向いて、先輩の方を見る。先輩はゴソゴソとズボンのポケットを探っていた。
「写真とっていい?」
「あ、はい」
先輩はスマホを取り出し、黒板に向かって構えてくる。
俺は数歩横にずれて、黒板の前を広く空けた。
「もうちょっと右」
「はい」
先輩から見て右かな、とさらに外側に一歩動く。
「逆! 右だってば、右」
内側に寄せるような手の動きで、俺は先輩の思惑を把握した。
「……写りませんよ」
「いいじゃん。ギャルピわかる?」
掌を上にして、こちらにピースサインを差し出してくる先輩。さすがにそれくらい知っている。
中学の卒業式で、女子たちに無理やりやらされた。
「嫌です」
「もー」
パイプ椅子を軋ませて、先輩が席を立った。
サンダルを脱ぎ捨て、長机の上に膝で乗ってくる。机の足が激しく揺れた。
「危ないですよ」
「じゃあ協力して」
ぎっ、ぎっ、と嫌な音を立てる机を膝歩きで渡り、先輩が俺の前まで来た。
「ほら」
机から飛び降りる。靴下のまま黒板の前に立った先輩が、俺の肩を引き寄せて顔を近づけてくる。
「佐倉、」
バランスを崩した俺のこめかみに、かすかに先輩の唇が触れた。……気のせい?
「笑ってー!」
カシャシャシャシャシャシャシャシャ。
響き渡った連写音に驚いて、一瞬の感触も温度も戸惑いも、ぜんぶ吹き飛んでしまった。
「エアドロするね」
俺のすぐ傍のパイプ椅子に掛けて、先輩がスマホの画面をタップする。
「いえ、大丈夫です……」
俺は首を振る。
すごく顔がくっついた写真。
あんな恥ずかしいデータが、Bluetoothだか Wi-Fiだかを通して空間を飛ぶと思うと、耐えられなかった。
あれ? 〈推し〉なら写真は欲しいのか?
迷った末に白チョークを握り直し、右下の円をポイントする。
「まずはNeed。AP中心に、言葉を拾って求められる人物像を書くそうです」
黒板の図と見比べながら、参考書の記述を追っていく。
「ん、それすぐ出るよ」
放り出していたルーズリーフの山を引き寄せる先輩。サンダルは脱ぎっぱなしで、靴下のままだった。
「佐倉に3P大事だよって教えてもらったから」
「大事ですね」
3Pが照れずに言えるようになったのは、大きな進歩だ。
「どこだっけ」
先輩が軽く唇を食んで、湿らせていた。
やっぱりさっき、唇が当たったんじゃないか?
こめかみを掠める何かを持て余して、俺は参考書に目を落とす。W-C-Nの説明の下に、米粒のような字で補足がついていた。
※ビジネスの場面では、NeedをMustとするキャリアデザインのフレームワークが一般的に用いられている
チョークを持ったまま、親指の付け根でこっそりこめかみを押さえた。
先輩がルーズリーフを1枚引き抜き、声を上げる。
「めっちゃすぐあった。『共生社会の創出に関心のある人』」
「はい」
俺は白チョークを動かし、先輩の言うとおりの文言を書く。
「あと、『生活課題・社会課題に真摯に向き合う人』」
「はい」
摯、の漢字に一瞬迷いながら二行目を書く。
「で、『シャカイフクシシを目指す人』。3つでいっか」
ん?
妙に引っかかる言い方だった。
ぱき。黒板に筆圧がかかって、チョークの先が少し欠ける。
よれた文字を消し、書き直す。Needの左斜め上にある円に目をやって、先輩に確かめる。
「Will、やりたいことに行っても大丈夫ですか」
「福祉」
間髪入れずに返ってきた漢字2文字を円に書き込んで、俺はひとつ息をつく。
黒板を向いたまま尋ねた。
「先輩——、なんで福祉なんですか」
今まで訊けなかったことだ。
見せてもらった志望理由書の構想メモには、「人を支えたい」、「人の役に立ちたい」と書いてあった。
そんなの答えになってないじゃないか。
「あー、訊かれちゃった」
俺の背中に届く先輩の声は明るかった。
「おれ、SBやってたの」
肩越しに視線をやる。声に反して、先輩は叱られた子どものような顔をしていた。
「わかる?」
俺は首を振った。知らない。
知りたい。
チョークを置いて、先輩に向き直った。
「教えてください」
「うん。えっと、」
先輩が右手を上げて、自分の右胸のあたりを人差し指で示す。ぐるぐると宙に円を描く。
「ディフェンス。こう、こっちのゴールを守って、サイドから来た相手を止める」
顔の前から下ろしてきた反対の手の指と、右胸の指が交差する。トントン、と指先同士がやり合う。
「で、攻撃は……、このへん相手のゴールね」
頭上をポイントしてゴールを示されたので、頷いて返した。
「攻撃んときは、一気に上がる」
先輩は、右胸から頭の上まで、すーっと縦に線を引いた。
「ボール取られたら、走って戻る。くりかえし」
また胸のあたりまで指を戻す先輩。
思わず唾を飲んだ。とんでもない距離だ。
「90分間ずっとですか」
「えーっと、80分とかもあるけど。ずっと走ってるのは、そう」
先輩は小首を傾げて、困ったような顔をした。
「でも、みんないそがしーよ?」
それはそうなのかもしれないけど。
青い芝生を駆ける先輩を想像する。笹木先輩と違って、大柄なわけじゃない。
きっと、走って走って、ボールに食らいついていたんだろう。
「SBはケンシン的な奴がやるもんだ、ってコーチによく言われてた」
「〈献身〉……」
もしかして。
「だから福祉にしたんですか」
「そ」
先輩は胸のあたりで彷徨わせていた両手を下ろし、膝の上で掌を合わせた。
「佐倉はするどいね」
ふ、と微笑んで、先輩が続ける。
「サッカー捨てられてないの、シャバい?」
「シャバく、ないです」
先輩の語彙に慣れなくて、舌がもつれた。
忘れたいとか、終わらせたとか、捨てるとか。
人には踏み込んでくるくせに。なんでこの人は、自分の頑張ってきたことだけ遠ざけてしまうんだろう。
「サイドバックって、本当にそれだけですか」
傷を抉るような問いなのに、止められなかった。
「え?」
先輩の目が揺れる。
嫌われるかも、という予感に口の中が乾く。
でも、もっと。
「〈辰野先輩〉は、どんなサイドバックだったんですか」
もっと深く。
「先輩のこと、教えてください」
「……」
開いた膝のあいだで椅子の座面を掴んで、先輩が上体を反らす。パイプが軋んで、硬いものが割れるような音がした。
「クロスの精度高い?」
パスの種類か何かのことだろうと当たりを付けて、促す。
「もっと」
「声掛けはけっこう、してた」
「もっと」
反らしていた体を起こして、先輩はぼんやりと壁や黒板を眺めていた。
漂った視線は俺の胸元あたりで止まって、すっと光が入る。
「仲間のこと、よく見てるって言われてた」
「どういうことですか」
チョークを粉受けに置いて、俺は先輩の前に膝をついた。
先輩と視線を合わせ、下から目の中の光を覗き込む。
言葉を探しているのか、先輩はついと俺から目を逸らした。
「今こいつが行きたいかなとか、いつもこう動きたがるからあそこ空くだろうなって」
先輩の手が座面から浮いて、腿の上に落ちる。
「なんか——、勝手に体が動いちゃう?」
本当に動き出そうとする足を止めるかのように、片手はズボンの上から右腿を押さえつけていた。
布に隠れた傷を、俺は知っている。
「それって、」
ためらいを振り切って、問いかけた。
「それって献身ですか」
「ん……」
先輩が喉から声を絞り出した。
「ううん、たのしかったよ」
掠れたその声で、取り返しのつかなさが俺へと伝染していくように感じた。
「辰野先輩」
俺は手を伸ばして、先輩の腿の上にあった手に触れる。
1本1本、傷に置かれた指を引き剥がして、掬うように持ち上げていく。
先輩の日に焼けた指や手の甲に、チョークの粉が移った。
「佐倉の手ってさあ、」
する、と先輩の指が俺の指に絡んできた。
「見た目よりけっこう、ぷにぷに」
握り返される。またハンドマッサージ?
「でもちょっとつめたい」
ふ、と小さく息を吐いた先輩が、ぎゅ、ぎゅ、と何度も手を握り直してくる。
擦れて皮膚の上を広がっていくチョークの粉。先週の雨の日と違う気配が濃くなっていく。
先輩の目を追うが、視線は合う前に外されてしまっていた。
もしかして、怖がってるのか?
それならなおさら、踏み込まなきゃいけない。
やっぱり嫌われるかも、の裏に、できるかも、とじんわり自信が滲んでくる。
〈おれ知ってるよ〉
〈佐倉が、言葉が好きって知ってる〉
そう言ってくれた先輩のことなんだから。
俺は乾いて粘る口を開いた。
「ボランティアもすごく楽しそうでしたよね」
先輩の手が止まる。
「あの、」
俺が深呼吸すると、つないだままの先輩の手も揺れた。
言葉に収束していく。
シャカイフクシシ、の坐りの悪さ。
ボランティアで知った、助ける・助けられるじゃない関わり方。
選手を支えるアナリストでは駄目な理由。
「先輩って、一方的な献身や外からの支えじゃなくて——、」
黒板に目を遣る。
先輩が最初に挙げたAP、〈共生社会の創出〉。
「人と一緒に動いて、何かを創っていきたい人なんじゃないですか」
「——!」
先輩が、目玉が溢れそうなくらい大きく目を見開く。
栗色の頭を左右に振り、呆然とした表情で呟いた。
「ど、」
「?」
「どらねこ」
「……はい?」
いま、なんて?
俺の手を握る先輩の力が、ぐっと強くなった。
「佐倉!!」
ばち、と視線が噛み合う。
「たぶんおれ、ずっとどらねこになりたかったんだぁ!」
どらねこ。
「絵本のやつ、ですか?」
「そう! 人のことよく見てて、ちゃんと体張っておおざかな釣れる猫!」
握った手をぶんぶん上下に振られる。人と猫がごっちゃになっていたが、別にそれでもいいような気がした。
「もう、なりかけてるんじゃないですか?」
「……なんで?」
「人のことよく見てるの、どらねこだけじゃなくて先輩もです」
先輩の顔が少し曇る。
「でもそれ、SBの——、」
「だって先輩、俺のこと見つけてくれましたよね」
遮ってでも伝えたかった。
先輩がずっと、やってきたこと。
俺はつま先に力を入れ、勢いを付けて立ちあがる。
「だから、俺が証拠です」
手は離さなかった。ふらつく足を踏ん張って、控えめに付け加える。
「……これからも」
先輩がまた、呆けた表情になる。
長い沈黙が落ちた。
薄く開けた窓から、5月の陽気を含んだぬるい風が入る。
風に乗って運ばれてくる、グラウンドの土埃と運動部の練習の音。
俺には聞き分けられないけれど、先輩が聞いて、出してきた音もその中に混じっているはずだった。
隙間なく合わさったお互いの掌のあいだで、体温と汗が撹拌されていく。
「そっ、かー」
先輩が大きく息を吐く。顔を上げて、俺を見た。
「佐倉。顔貸して」
「えっ? ……こうですか」
握り合った手を離すタイミングを掴めないまま、俺は上体を傾けて、先輩に顔を寄せた。
「もうちょっと来て」
「それは、……」
俺が口から吐いた息で、先輩の前髪が揺れた。
これ以上近付いたら、駄目になる予感がした。
「ほら、」
先輩が空いている方の手で、俺の横髪をそっと撫でてくる。
「ここ」
髪の隙間から、先輩の指がこめかみをさすった。
「っん!?」
熱い感触に気色悪い声が洩れかけて、俺はとっさに唇を噛む。
「チョークの粉、ついてる」
先輩の手が、ブレザーの生地を滑って俺の腰に落ちてきた。
そのまま引き寄せられる。俺の腹に、先輩が顔を埋めた。
「さくらぁー……」
腹のあたりに温かい湿りを感じる。
つないでいた手がゆるく解かれて、もう片方の手も俺の腰に回された。
すぅー、と先輩が息を吸い込む音が聞こえて、俺の心拍数が一気に上がる。
汗のにおいも変な心臓の音も、ぜんぶ先輩にバレそうだった。
「せ、せんぱ——」
「ありがとぉ……」
くぐもった先輩の声が、揺れていた。
後頭部も、肩も。
「……ぅう、」
ズッ、と先輩が鼻を啜る音がした。
「ふ、う、ぅうう……」
先輩が泣いていた。
「ざぐらぁー、っうう、」
腰にしがみついて、体を震わせて。
「おれっ、」
先輩が大きく一回、しゃくりあげる。
「おれのサッカー、まだ終わってなかったあ……!!」
先輩の涙で、俺のブレザーがぐちゃぐちゃに濡れていく。たぶんチョークの粉も腰回りに擦り付いているだろう。
「ありがとぉ……!」
先輩がさらに強く俺の腰を抱く。
抱きしめ返したら、先輩のことをもっと汚してしまいそうで、とてもそんなことはできなかった。
「辰野先輩……」
俺は震える先輩の頭を見下ろした。
つむじあたりの髪に、白いゴミのようなものが付いていた。なんだろうと思って、凝視する。
小さなダマになった、ヘアワックスだった。
「……」
途方に暮れて、俺は宙を仰ぐ。
これは〈推し〉じゃなくて、〈好き〉だな。
——どうしよう?
◇◆◇◆
「それ書くんですか」
「うん、ジコリカイだから」
「そっちは残しますか」
「ぜんぶ消す!」
Will
福祉(共生、課題解決)
協働
どらねこになりたい
Can
観察
傾聴
共感
寄り添う
自分が動く!
Need
もういっかいさがす!!!
自分自身の興味・関心、価値観、強みや特徴などを把握し、自分がどのような人間であるかを理解すること。
総合型選抜においては、これまでの経験を振り返り、そこで何を感じ、何を学び、現在の自分にどうつながっているのかを言語化することが、志望理由や将来の目標を考える上での土台となる。
♡ ♡ ♡
ボランティアから数日経った、ゴールデンウィークの中日。
「それでは始めていきましょう」
「よろしくー」
動画配信者みたいな入りになってしまった。
気恥ずかしさを覚えながら、俺は部室の壁に取り付けられた小さな黒板の前に立った。
先輩は、長机にルーズリーフと大学の資料を広げ、シャーペンを構えている。
今日の目はまた緑に光っていて、何が起こるんだろうとでも言いたげな、楽しそうな様子だった。
「こういうの、ほんと久しぶりだねー」
先輩がシャーペンを器用にひと回しした。
ボランティアからこっち、模試や急な委員会の集まりなどで、まったく放課後の時間が取れないままゴールデンウィークに突入してしまっていた。
とはいえ、朝はずっと一緒に登校していたし、昨日は休日のショッピングモールで偶然先輩と出くわしたりはしたので、二人で過ごすのが久しぶりというわけじゃない。
「……1週間も経ってないんじゃないですか」
あの雨の、先輩に抱き締められた日から。
手元のルーズリーフに何か書き込んでいる、先輩をそっと観察する。
センター分けにした前髪が、おでこに数本乱れて掛かっていた。
無造作にまくったシャツの袖口からは、筋肉の陰影がある腕が伸びる。
表情や仕草とアンバランスな大人っぽさがあって、どこか落ち着かない気分にさせられる。
これが〈推し〉がいる人の気持ちか。
先輩のために。気合いが入る。
「まず、フレームワークを」
俺は黒板の粉受に右手を伸ばす。堆積する白い粉の中から、ちびたチョークを拾い上げた。
俺は左手で持った例の参考書を確認しながら、黒板いっぱいに3つの円からなるベン図を描いた。
円同士の重なりを大きく取り、中央の3つの円が重なる核の部分は黄色のチョークで塗っておく。
円にそれぞれ、名前を書く。
頂点にあたる円に、Will。
左下の円に、Can。
右下の円に、Need。
「佐倉ぁ、」
黒板に正対する俺の背に向けて、先輩が情けない声を上げた。
「なんか目がうようよする」
「……すみません」
筆記体で書いてしまったせいだ。うようよってなんだ、と思いながら付け足した。
Will やりたい
Can できる
Need 求められる
「本には興味・強み・期待役割って書いてますけど、今はこんな理解でいいかと」
カッ、とチョークで黒板を叩いてしまって、これはこれで先生みたいで恥ずかしくなる。
W-C-Nフレームワーク。
3つの円で自分と大学の重なりを見つけ、自己理解を深めるためのツールらしい。
〈自己理解〉という言葉が取っ付きにくくて敬遠していたのだが、なかなか先輩の志望理由書のアイディア出しが進まなかったため、試しに使ってみることにしたのだ。
「さ、佐倉ぁ〜……」
また先輩が声をあげた。語尾が消えていくような、頼りない音。
「なんでしょう」
「やりたいのやの点、もうちょっと大きく書いたほうがいいよ」
すぐ良くない方向に逸れるな、この人。
「それは失礼しました」
俺はチョークをがりがりと往復させ、やの2画目を強調した。
「てか、志望理由書ばっかでプレゼンの準備しなくていいの?」
「今はまだ。先にまとめておきましょうか」
舞うチョークの粉に、軽く咳き込んだ。
「事前提出の志望理由書に、学びの計画のプレゼンテーションが5分、口頭試問と個人面接が15分」
黒板の隅の方を使って、書きながらスケジュールを組み立てていく。
〈予定〉
志望理由書:〜GW(仮)
★中間
プレゼン:5/下〜6/上
★2年修学旅行、期末
面接:7/上〜終業式
「さすがにテスト期間は動けませんから、1学期はおおむねこんな感じです。プレゼンの内容は志望理由書と被るところもあるので、そっちが書けたらスムーズに作れるかと。まずは志望理由書を書き上げて、先生にチェック貰いましょう」
こう書き出してみると、先輩といられる残り時間の短さを思い知る。
夏休みは本格的なプレゼン・面接練習に費やすはずだ。
最後まで本当に、俺が手伝っていいのか?
〈オレのサッカー、一生支えてくれよ〉
俺は振り向いて、先輩の方を見る。先輩はゴソゴソとズボンのポケットを探っていた。
「写真とっていい?」
「あ、はい」
先輩はスマホを取り出し、黒板に向かって構えてくる。
俺は数歩横にずれて、黒板の前を広く空けた。
「もうちょっと右」
「はい」
先輩から見て右かな、とさらに外側に一歩動く。
「逆! 右だってば、右」
内側に寄せるような手の動きで、俺は先輩の思惑を把握した。
「……写りませんよ」
「いいじゃん。ギャルピわかる?」
掌を上にして、こちらにピースサインを差し出してくる先輩。さすがにそれくらい知っている。
中学の卒業式で、女子たちに無理やりやらされた。
「嫌です」
「もー」
パイプ椅子を軋ませて、先輩が席を立った。
サンダルを脱ぎ捨て、長机の上に膝で乗ってくる。机の足が激しく揺れた。
「危ないですよ」
「じゃあ協力して」
ぎっ、ぎっ、と嫌な音を立てる机を膝歩きで渡り、先輩が俺の前まで来た。
「ほら」
机から飛び降りる。靴下のまま黒板の前に立った先輩が、俺の肩を引き寄せて顔を近づけてくる。
「佐倉、」
バランスを崩した俺のこめかみに、かすかに先輩の唇が触れた。……気のせい?
「笑ってー!」
カシャシャシャシャシャシャシャシャ。
響き渡った連写音に驚いて、一瞬の感触も温度も戸惑いも、ぜんぶ吹き飛んでしまった。
「エアドロするね」
俺のすぐ傍のパイプ椅子に掛けて、先輩がスマホの画面をタップする。
「いえ、大丈夫です……」
俺は首を振る。
すごく顔がくっついた写真。
あんな恥ずかしいデータが、Bluetoothだか Wi-Fiだかを通して空間を飛ぶと思うと、耐えられなかった。
あれ? 〈推し〉なら写真は欲しいのか?
迷った末に白チョークを握り直し、右下の円をポイントする。
「まずはNeed。AP中心に、言葉を拾って求められる人物像を書くそうです」
黒板の図と見比べながら、参考書の記述を追っていく。
「ん、それすぐ出るよ」
放り出していたルーズリーフの山を引き寄せる先輩。サンダルは脱ぎっぱなしで、靴下のままだった。
「佐倉に3P大事だよって教えてもらったから」
「大事ですね」
3Pが照れずに言えるようになったのは、大きな進歩だ。
「どこだっけ」
先輩が軽く唇を食んで、湿らせていた。
やっぱりさっき、唇が当たったんじゃないか?
こめかみを掠める何かを持て余して、俺は参考書に目を落とす。W-C-Nの説明の下に、米粒のような字で補足がついていた。
※ビジネスの場面では、NeedをMustとするキャリアデザインのフレームワークが一般的に用いられている
チョークを持ったまま、親指の付け根でこっそりこめかみを押さえた。
先輩がルーズリーフを1枚引き抜き、声を上げる。
「めっちゃすぐあった。『共生社会の創出に関心のある人』」
「はい」
俺は白チョークを動かし、先輩の言うとおりの文言を書く。
「あと、『生活課題・社会課題に真摯に向き合う人』」
「はい」
摯、の漢字に一瞬迷いながら二行目を書く。
「で、『シャカイフクシシを目指す人』。3つでいっか」
ん?
妙に引っかかる言い方だった。
ぱき。黒板に筆圧がかかって、チョークの先が少し欠ける。
よれた文字を消し、書き直す。Needの左斜め上にある円に目をやって、先輩に確かめる。
「Will、やりたいことに行っても大丈夫ですか」
「福祉」
間髪入れずに返ってきた漢字2文字を円に書き込んで、俺はひとつ息をつく。
黒板を向いたまま尋ねた。
「先輩——、なんで福祉なんですか」
今まで訊けなかったことだ。
見せてもらった志望理由書の構想メモには、「人を支えたい」、「人の役に立ちたい」と書いてあった。
そんなの答えになってないじゃないか。
「あー、訊かれちゃった」
俺の背中に届く先輩の声は明るかった。
「おれ、SBやってたの」
肩越しに視線をやる。声に反して、先輩は叱られた子どものような顔をしていた。
「わかる?」
俺は首を振った。知らない。
知りたい。
チョークを置いて、先輩に向き直った。
「教えてください」
「うん。えっと、」
先輩が右手を上げて、自分の右胸のあたりを人差し指で示す。ぐるぐると宙に円を描く。
「ディフェンス。こう、こっちのゴールを守って、サイドから来た相手を止める」
顔の前から下ろしてきた反対の手の指と、右胸の指が交差する。トントン、と指先同士がやり合う。
「で、攻撃は……、このへん相手のゴールね」
頭上をポイントしてゴールを示されたので、頷いて返した。
「攻撃んときは、一気に上がる」
先輩は、右胸から頭の上まで、すーっと縦に線を引いた。
「ボール取られたら、走って戻る。くりかえし」
また胸のあたりまで指を戻す先輩。
思わず唾を飲んだ。とんでもない距離だ。
「90分間ずっとですか」
「えーっと、80分とかもあるけど。ずっと走ってるのは、そう」
先輩は小首を傾げて、困ったような顔をした。
「でも、みんないそがしーよ?」
それはそうなのかもしれないけど。
青い芝生を駆ける先輩を想像する。笹木先輩と違って、大柄なわけじゃない。
きっと、走って走って、ボールに食らいついていたんだろう。
「SBはケンシン的な奴がやるもんだ、ってコーチによく言われてた」
「〈献身〉……」
もしかして。
「だから福祉にしたんですか」
「そ」
先輩は胸のあたりで彷徨わせていた両手を下ろし、膝の上で掌を合わせた。
「佐倉はするどいね」
ふ、と微笑んで、先輩が続ける。
「サッカー捨てられてないの、シャバい?」
「シャバく、ないです」
先輩の語彙に慣れなくて、舌がもつれた。
忘れたいとか、終わらせたとか、捨てるとか。
人には踏み込んでくるくせに。なんでこの人は、自分の頑張ってきたことだけ遠ざけてしまうんだろう。
「サイドバックって、本当にそれだけですか」
傷を抉るような問いなのに、止められなかった。
「え?」
先輩の目が揺れる。
嫌われるかも、という予感に口の中が乾く。
でも、もっと。
「〈辰野先輩〉は、どんなサイドバックだったんですか」
もっと深く。
「先輩のこと、教えてください」
「……」
開いた膝のあいだで椅子の座面を掴んで、先輩が上体を反らす。パイプが軋んで、硬いものが割れるような音がした。
「クロスの精度高い?」
パスの種類か何かのことだろうと当たりを付けて、促す。
「もっと」
「声掛けはけっこう、してた」
「もっと」
反らしていた体を起こして、先輩はぼんやりと壁や黒板を眺めていた。
漂った視線は俺の胸元あたりで止まって、すっと光が入る。
「仲間のこと、よく見てるって言われてた」
「どういうことですか」
チョークを粉受けに置いて、俺は先輩の前に膝をついた。
先輩と視線を合わせ、下から目の中の光を覗き込む。
言葉を探しているのか、先輩はついと俺から目を逸らした。
「今こいつが行きたいかなとか、いつもこう動きたがるからあそこ空くだろうなって」
先輩の手が座面から浮いて、腿の上に落ちる。
「なんか——、勝手に体が動いちゃう?」
本当に動き出そうとする足を止めるかのように、片手はズボンの上から右腿を押さえつけていた。
布に隠れた傷を、俺は知っている。
「それって、」
ためらいを振り切って、問いかけた。
「それって献身ですか」
「ん……」
先輩が喉から声を絞り出した。
「ううん、たのしかったよ」
掠れたその声で、取り返しのつかなさが俺へと伝染していくように感じた。
「辰野先輩」
俺は手を伸ばして、先輩の腿の上にあった手に触れる。
1本1本、傷に置かれた指を引き剥がして、掬うように持ち上げていく。
先輩の日に焼けた指や手の甲に、チョークの粉が移った。
「佐倉の手ってさあ、」
する、と先輩の指が俺の指に絡んできた。
「見た目よりけっこう、ぷにぷに」
握り返される。またハンドマッサージ?
「でもちょっとつめたい」
ふ、と小さく息を吐いた先輩が、ぎゅ、ぎゅ、と何度も手を握り直してくる。
擦れて皮膚の上を広がっていくチョークの粉。先週の雨の日と違う気配が濃くなっていく。
先輩の目を追うが、視線は合う前に外されてしまっていた。
もしかして、怖がってるのか?
それならなおさら、踏み込まなきゃいけない。
やっぱり嫌われるかも、の裏に、できるかも、とじんわり自信が滲んでくる。
〈おれ知ってるよ〉
〈佐倉が、言葉が好きって知ってる〉
そう言ってくれた先輩のことなんだから。
俺は乾いて粘る口を開いた。
「ボランティアもすごく楽しそうでしたよね」
先輩の手が止まる。
「あの、」
俺が深呼吸すると、つないだままの先輩の手も揺れた。
言葉に収束していく。
シャカイフクシシ、の坐りの悪さ。
ボランティアで知った、助ける・助けられるじゃない関わり方。
選手を支えるアナリストでは駄目な理由。
「先輩って、一方的な献身や外からの支えじゃなくて——、」
黒板に目を遣る。
先輩が最初に挙げたAP、〈共生社会の創出〉。
「人と一緒に動いて、何かを創っていきたい人なんじゃないですか」
「——!」
先輩が、目玉が溢れそうなくらい大きく目を見開く。
栗色の頭を左右に振り、呆然とした表情で呟いた。
「ど、」
「?」
「どらねこ」
「……はい?」
いま、なんて?
俺の手を握る先輩の力が、ぐっと強くなった。
「佐倉!!」
ばち、と視線が噛み合う。
「たぶんおれ、ずっとどらねこになりたかったんだぁ!」
どらねこ。
「絵本のやつ、ですか?」
「そう! 人のことよく見てて、ちゃんと体張っておおざかな釣れる猫!」
握った手をぶんぶん上下に振られる。人と猫がごっちゃになっていたが、別にそれでもいいような気がした。
「もう、なりかけてるんじゃないですか?」
「……なんで?」
「人のことよく見てるの、どらねこだけじゃなくて先輩もです」
先輩の顔が少し曇る。
「でもそれ、SBの——、」
「だって先輩、俺のこと見つけてくれましたよね」
遮ってでも伝えたかった。
先輩がずっと、やってきたこと。
俺はつま先に力を入れ、勢いを付けて立ちあがる。
「だから、俺が証拠です」
手は離さなかった。ふらつく足を踏ん張って、控えめに付け加える。
「……これからも」
先輩がまた、呆けた表情になる。
長い沈黙が落ちた。
薄く開けた窓から、5月の陽気を含んだぬるい風が入る。
風に乗って運ばれてくる、グラウンドの土埃と運動部の練習の音。
俺には聞き分けられないけれど、先輩が聞いて、出してきた音もその中に混じっているはずだった。
隙間なく合わさったお互いの掌のあいだで、体温と汗が撹拌されていく。
「そっ、かー」
先輩が大きく息を吐く。顔を上げて、俺を見た。
「佐倉。顔貸して」
「えっ? ……こうですか」
握り合った手を離すタイミングを掴めないまま、俺は上体を傾けて、先輩に顔を寄せた。
「もうちょっと来て」
「それは、……」
俺が口から吐いた息で、先輩の前髪が揺れた。
これ以上近付いたら、駄目になる予感がした。
「ほら、」
先輩が空いている方の手で、俺の横髪をそっと撫でてくる。
「ここ」
髪の隙間から、先輩の指がこめかみをさすった。
「っん!?」
熱い感触に気色悪い声が洩れかけて、俺はとっさに唇を噛む。
「チョークの粉、ついてる」
先輩の手が、ブレザーの生地を滑って俺の腰に落ちてきた。
そのまま引き寄せられる。俺の腹に、先輩が顔を埋めた。
「さくらぁー……」
腹のあたりに温かい湿りを感じる。
つないでいた手がゆるく解かれて、もう片方の手も俺の腰に回された。
すぅー、と先輩が息を吸い込む音が聞こえて、俺の心拍数が一気に上がる。
汗のにおいも変な心臓の音も、ぜんぶ先輩にバレそうだった。
「せ、せんぱ——」
「ありがとぉ……」
くぐもった先輩の声が、揺れていた。
後頭部も、肩も。
「……ぅう、」
ズッ、と先輩が鼻を啜る音がした。
「ふ、う、ぅうう……」
先輩が泣いていた。
「ざぐらぁー、っうう、」
腰にしがみついて、体を震わせて。
「おれっ、」
先輩が大きく一回、しゃくりあげる。
「おれのサッカー、まだ終わってなかったあ……!!」
先輩の涙で、俺のブレザーがぐちゃぐちゃに濡れていく。たぶんチョークの粉も腰回りに擦り付いているだろう。
「ありがとぉ……!」
先輩がさらに強く俺の腰を抱く。
抱きしめ返したら、先輩のことをもっと汚してしまいそうで、とてもそんなことはできなかった。
「辰野先輩……」
俺は震える先輩の頭を見下ろした。
つむじあたりの髪に、白いゴミのようなものが付いていた。なんだろうと思って、凝視する。
小さなダマになった、ヘアワックスだった。
「……」
途方に暮れて、俺は宙を仰ぐ。
これは〈推し〉じゃなくて、〈好き〉だな。
——どうしよう?
◇◆◇◆
「それ書くんですか」
「うん、ジコリカイだから」
「そっちは残しますか」
「ぜんぶ消す!」
Will
福祉(共生、課題解決)
協働
どらねこになりたい
Can
観察
傾聴
共感
寄り添う
自分が動く!
Need
もういっかいさがす!!!
