年内入試。
主として秋(9〜11月)に実施される大学入試の通称。
総合型選抜と、学校推薦型選抜(指定校推薦、公募制・自己推薦等)に大別される。
近年では、大学入学者の半数以上が年内入試を利用して入学を決めているとのデータもある。
出願書類や面接など、十分な対策を要する選抜も多い。
♡ ♡ ♡
バドミントンコート1面を挟んでも、その背中はすぐに見つかった。
学校指定の紺のジャージに派手なオレンジ色のビブスを付けた先輩は、こちらに背を向けて市民体育館の床に正座していた。
小学校低学年くらいの女の子たちを前に、大きな身振り手振りを交えながら話をしている。
先輩の肩が揺れた。……絶対いま、「ねー!」って言ったな。
「あ! 佐倉君。ここ終わったらスコアラー任せていいかな?」
「はい。本部に忘れ物届けて、すぐ戻ります」
すれ違いざまに声を掛けてきた運営チーフにそう答え、俺は右手に持った誰かの忘れ物のタオルを掲げる。
よろしくね、と言うチーフに会釈で返して、またコートの向こうを目で探してしまった。
「おお……」
つい声が洩れた。
先輩の背中に小学生たちが取り付いて、鈴なりになっていた。
自由でいいなあ。
俺は自分の胸に左手を当てる。先輩と同じ、もっさりした学校指定のジャージ。
オレンジ色のビブスに、黒文字で〈ボランティア〉とくっきり書かれていた。
あの雨の日から2日経った、快晴の日曜日。
パラスポーツ・ボッチャ普及のための市民イベントに、俺たちはボランティアとして参加していた。
◇◆◇◆
ざあ、といっそう強くなった雨音が、俺と先輩の体のあいだで反響していた。
「雨やば」
先輩は呟きながら、俺の体に回した腕を解く。体が離れ、混じりあった体温だけが残る。
防火扉に俺の後頭部が小さく当たって、ぐおぉぉん、とこもった音が頭皮に返ってきた。
「あともういっこやばい。本、忘れた」
「ほ、本?」
「総合型の参考書」
さっきは低く感じた先輩の声は、もう普段どおりに戻っていた。表情は分からない。
先輩の顔が見られなくて、階段の下に視線を落としていたから。
キスしたいなんて、無茶苦茶だ。
先輩は慰めようとしてくれただけなのに。
宮元だって、英語の課題が終わらないときは俺に抱きついて懇願してくるのに。
思考が渦を巻く。
「進路指導室の前で落とした。ダッシュしてくるから、佐倉はここにいて」
とん、と先輩が俺の胸を手の甲で叩いた。制服越しに尖った拳の骨を感じて、また感情がうねる。
まだ離れたくない。
「ボランティアは来週見よ」
俺の返事を待たず、先輩は廊下に飛び出していった。
そして先輩は、廊下を駆ける足音を聞きつけ、進路指導室を出てきた大江先生にあっさり捕まった。
「さっきみたいに転んだら危ないよね?」
大江先生の声は、穏やかなのに雨音の中でもよく通る。
不意打ちをくらった先輩は、じゅうぶん釘を刺されたのち、「急だけど明後日空いてる? ボランティアの欠員が2人出ちゃって、友達で一緒に行ける子いないかな?」と滑らかに繋げられているあいだずっと、赤べこみたいにふんふん首を縦に振っていた。
「経験は大事だよ。なんでも、自分の目で見てよく考えるのが一番だからね。いってらっしゃい」
大江先生は、そう言って先輩を送り出していた。
啓発的経験。百聞は一見にしかず、ということだ。
きれいにボランティア活動まで予定が立って、小さな燻りだけが俺に残った。
◇◆◇◆
そんなこんなで、正体不明の欲求を抱えたまま、現在に至る。
イベント運営本部に忘れ物を届けた帰りに、俺はまた先輩の様子を覗ってしまった。
小学生への説明が終わって、ペアを組んだ選手とボッチャの実演に入っているようだった。
オレンジ色のビブスを翻した先輩が、車椅子の選手の前に競技補助具を引き寄せる。
急勾配の滑り台と譜面台の足を合体させたようなスロープは、重度の麻痺などで投球ができない選手が使う「ランプ」という道具だと事前説明で教わった。
先輩がランプの傍に立膝で座る。また身振り手振りをしながら、今度は選手に話しかけていた。
「あれ……?」
先輩の様子が、どこか思っていたのと違う気がした。
障がいのある方に親身になっているとか、寄り添っているとかいう雰囲気ではない。
はしゃいでいるのが、遠目にも分かる。
「ランプオペレーターは、ホントは喋っちゃダメなんだけどね」
スッと俺の横に現れたチーフが、スコア用紙と筆記具を差し出して笑った。朝の準備から誰よりも忙しく動いているのに、こうやって合間合間にボランティアスタッフに声を掛けて回っているみたいだった。
「今日は初めてだから特別。辰野君は、佐倉君の先輩なんだよね? すごく慕ってるみたいに見えるけど」
「あっ……、すみません。余所見してしまって」
気付かれている。
動揺した俺の手の中で、スコア用紙が汗に湿って張り付いた。
「いいよいいよ。ボッチャに興味持ってもらえて嬉しいし」
頭を下げた俺を、チーフは手を振って諌めてくる。
「ほら見て。今から投球するよ」
チーフに促されて、俺はコートに背を向けて立ち上がった先輩に目を向けた。
選手が頭に着けた棒に従って、ランプの位置調整をしている。繊細な操作を要求されるからか、今は選手と先輩のあいだの空気が引き締まっているように感じられた。
「圭介も今日はノってるな」
チーフが感心した調子で続ける。〈圭介〉さんは、先輩のペアの選手の名前だ。
「周りの子どもたちもいい顔してる。なんていうか、辰野君は求心力があるよね」
「求心力……」
俺がチーフの言葉を繰り返したとき、選手が棒でボールを押した。
ランプのレールを、赤い球が勢いよく滑り落ちていく。
宙に浮き、コート内に転がされた白い目標球に向けて、まっすぐに飛んだ。
そうか。
俺も。
赤い球はジャックボールに強くぶつかり、周りの球もコートに散っていく。
先輩たちを囲う赤チームの子どもも、自球をジャックボールから遠ざけられた青チームの子どもも、一斉に声を上げた。
声につられたのか、先輩が振り向き、ボールの行方を目で追った。
「ああ、見るのもダメなのに……」
チーフが苦笑する。俺もつられて笑いが洩れた。
「ほんとに、仕方ないですね」
思わずぼやきが出る。
これは仕方ない。認めるしかない。心の底からそう思った。
俺も。
先輩に、心が吸い寄せられたんだ。
どうせあと5ヶ月で先輩との関わりは切れる。
もうほとんどバグみたいな、感情と欲求の混ぜ物もそれまでの付き合いだ。
コートの向こうでは、先輩が飛び跳ねて笑っていた。
イベントの後片付けを終え、二人で市民体育館を出た頃にはもう夕方6時近くになっていた。
外の運動場の脇、タイルが敷き詰められた道を抜けていく。
「めっっっちゃやばかった!」
先輩の頬は紅潮していた。
「圭介、すごかった! 色々喋ったけど、怪我で車椅子なる前は体操やってたらしくて、やっぱスペースの支配力に立体感が——、」
そのまま地上のカーリング・ボッチャをサッカーの語彙で語り続ける先輩。
ケイスケ。先輩と同じ高校三年生らしかったが、今日一日でそこまで仲良くなったのか。
強い西日にますます朱に染まっていく顔を見たくなくて、俺は目線を落とした。
「佐倉もスコアリング、チーフに褒められてたよね!」
「はい、まあ」
サクラ・ケイ。先輩は俺の下の名前を知っているはずだけど、この違いはなんだろう。
「ああいうのっていいね」
地面に伸びた影の形で、先輩が腕を頭の後ろに組んだのが見て取れた。
「今日おれ、圭介の他にもいろんな人と組んだんだよね。全員とうまくやれたわけじゃないんだけどさ」
俺の視界の端に、先輩が履く藤紫のハーフパンツがある。
「なんか、助ける側とか、助けられる側とかじゃないってめっちゃわかった」
「ええ……」
この体操着が強烈にださいのに、よく外で着れるなあ、と俺は裾の〈辰野〉の刺繍を眺めていた。
「明日、大江先生にお礼と報告行かなきゃ。佐倉も一緒に行く?」
「そうですね……」
生返事を返す俺の横で、先輩が足を止めた。
「疲れた? ちょっと座ってから帰る?」
「いえ、大丈夫です」
余計な心配をかけている。地面に伸びる影の形をたどりながら、首を横に振った。
「ぜんぜん大丈夫じゃないじゃん。めっちゃ顔色悪いし」
悪いのか。
「……赤くなってはないですか」
「ちがう。ドスむらさき。ヤバいよ」
先輩が俺の後ろに回り、電車ごっこでもするかのように肩に手を置いた。
「ハイきゅうけーい」
肩を押され、運動場を見下ろす位置のベンチに連行されていく。
「いいですって」
「おつかれおつかれー」
「大丈夫ですから」
「無理しちゃダメー。アイスの自販機あったから食べよ」
先輩の声は弾んでいた。俺の顔色はいま、本当は何色なんだろう。
「もう帰ったら夜ご飯の時間ですよ」
「いいの」
俺の頬を先輩の髪がくすぐり、ひらめいた。
もしかして先輩は、俺の〈推し〉という存在なのでは?
そう思ったとき、
「——晴人!」
低く響く声が、夕焼け空にこだました。突然の低音に、二人揃って振り向く。
夕陽を背にして影の中に立つ、青翠のジャージと白いハーフパンツの人。
「探したぞ。電話なんで出ないんだよ」
うちの、サッカー部員?
180センチは超えていそうな、がっちりとした体の輪郭が揺れていた。息を切らしている。
くっきりと濃い眉をしかめて、その人は大人びた声を張った。
「さっきお前んち行ったら、おばさんが市民体育館にいるって。なに、筋トレ? 怪我いいのか?」
先輩が俺の肩から手を下ろした。サッカー部員に向き直る。
「ううん、今日はボランティア。知ってる? ボッチャって、」
「は? ボランティア?」
サッカー部員の眉間の皺が、さらに濃くなった。
なんか、こいつ。すごく嫌な——、
「それって調査書の点数稼ぎ? なんでサッカー使わねぇの」
深く響く声が、辛辣な言葉を投げつけてくる。
俺は思わず先輩の顔を見た。
にへら。先輩はすごく中途半端に笑って、
「……ん、」
それだけ言って、黙ってしまった。
「辰野先輩」
俺はひとまず先輩の袖を引く。一刻も早く、ここから離れたかった。
「なあ、あんた」
厳しい表情で見据えられる。
「うちの3年じゃねえよな。晴人、この目付きめっちゃ悪い奴、誰?」
品定めするような視線に、さすがにムッとした。下から見上げてるだけで、別に睨んでない。
俺は口を開きかけた先輩の前に立ち、サッカー部員に言い返す。
「気になるなら、あなたが先に名乗ればいいんじゃないですか」
「は?」
びりびりと圧を感じる。
サッカー部員が、大げさに息を吐いた。
「……スポーツ・芸術コース三年、サッカー部キャプテンのササキ・コタロウ。ふつうのササキじゃなくて、あの、カタカナのケ並べて世界の世の、」
「植物の笹?」
つい問い返してしまった。
「それ。それに、虎と、タロウのロウは桃太郎じゃなくて、なんだっけ、歌手の……、さくら歌ってる、」
「明朗の朗?」
重ねてしまう。
「それ! ややこしい四文字熟語使うな!」
明朗は二字熟語だ。
どこか間の抜けた空気が漂う。
黒い短髪ごしに頭皮を掻き回した笹木虎太朗が、じろりとこちらに目を向けた。
「で、あんたは」
「あ……、佐倉です。2年です」
「アサクラ? モーニングとリネンどっち?」
妙に凝った言い回しで漢字を確かめてくる笹木。辰野先輩も、初対面で名前の漢字説明してきたな。
「どっちでもないです。佐倉です」
「まぎらわしーな!」
吐き捨てた笹木は、回り込むように俺の背を覗き込んできた。
「で? 晴人。お前、始業式からずっとオレのこと避けてるよな?!」
口調も、勢いも強い。
俺の後ろでいま、先輩はどんな顔をしてる?
笹木はこめかみに指を当てた。汗を拭ったようだった。
「部活辞めんのは分かったよ……。お前の代わりに阪口、ホントよくやってるよ」
笹木の声が少し優しくなる。
俺の知らない時間が、この先輩たちのあいだに流れているのだと思った。
「阪口、」
やっと辰野先輩が口を開く。
「体幹強いの、いいよね」
言い終わりに、俺の背中に手を当ててくる。
ジャージの奥の背骨を、一本一本下へたどって確かめているみたいだった。
思わずびくついた俺を、笹木が冷えた目で一瞥する。また先輩の方に視線を戻して、言い聞かせるように返す。
「なあ晴人。高校だけがサッカーじゃねえだろ。マネージャーで戻れとかもう言わねーから、将来はアナリスト目指せよ」
先輩の指先が、俺の腰のあたりで止まる。
俺は横目で、笹木の口元を見ていた。少しめくれた唇から白い歯が覗いて、そこだけやたら愛嬌があるのが腹立たしかった。
「お前ならぜってーやれるって」
揺さぶるな。
「晴人」
呼ぶな。
「オレ、プロになって、先に行って待ってるから」
笹木の視界に、もう俺は入っていないみたいだった。
厳しい色を浮かべていた笹木の目に、沈みかけた夕陽が差した。
せっかくボランティアに来たのに。先輩も何か掴みかけたみたいなのに。
「オレのサッカー、一生支えてくれよ」
笹木の目が眩しく光っていた。
先輩はまだ、俺の腰に触れていた。
その指がいつ俺から離れてしまうのか、先輩に背を向けている俺には分からなかった。
何分経っただろう。
どこからか、夕暮れ時を告げる音楽が流れてきた。
「オレ帰るわ。未読風既読無視すんなよ」
そう言って笹木は踵を返した。
「……本気だから」
かろうじて拾えるくらいの呟きを残して、笹木は走り去っていく。
手ぶらで、本当にこれを言うためだけに来たのは間違いなかった。
一生。
途方もない言葉の射程に何も言えない。
先輩は? と思ったとき、後ろから俺のジャージの裾が引かれた。
「佐倉。おれたちも帰ろ」
労わるような声だった。——なんで?
「先輩……?」
ようやく俺は振り向く。先輩は曖昧な笑みを浮かべていた。
「虎太朗、いかつかったでしょ。ごめんね」
くるくると手首を返して、先輩は俺のジャージの裾を拳に巻き付けた。
中に着た体操着やインナーシャツまで巻き取って、絞っていく。
「ちょっと、先輩?」
胴回りが締め付けられて、少し苦しい。どういう手遊びなんだ、これ。
「あいつさあ、小学校のときから一緒なんだよね。もともとCBじゃなくてGKでさあ」
俺はまだ、先輩のポジションを知らない。
笹木がどんな役割なのかも。
「今あんなんだけど、昔は試合のあとは勝っても負けてもメソメソしてて、ダメダメで」
ぽすん。ボクシンググローブくらいに布を巻いて膨れた拳で、先輩は俺の裸の背を叩く。ぽすん。まったく痛くはなかった。
「だからおれ、毎回ハンドマッサージやって慰めてやってたの。子どものときから、オカンがおれにやってたやつ」
先輩は、言葉も拳も止めてくれない。
「キーグロってくっせえの。おれの手までくっさくなって、くせーくせーって言いながらいつも帰ってた」
ぽすん。拳がまた、俺の背を叩く。
ボクシンググローブじゃなくて、〈キーパーグローブ〉のつもりだったらどうしよう。
そう思ったら、背骨がひどく痛んだ。
「伸びちゃった?」
布の塊から手を抜いて、先輩が尋ねる。
「むしろ、シワシワです」
俺が答えると、先輩は思いっきり伸びをした。
「ごめんねえ、佐倉」
声までも間延びしていた。
「……帰りましょうか」
「顔色、もうふつーだね」
「はい」
俺たちが向かう駅は笹木が去った方角と正反対で、変な安心材料を抱えてしまった。
「そーいや佐倉、猫はやめちゃった?」
俺の隣を歩く先輩が、すぐ先の曲がり角に視線を投げながら訊いてきた。すん、と鼻先が動く。
また、嗅いでたのか。
「今は限定の、ミモザの香りだそうです」
「そっかあ。あのにおい、おれ好きだったのに」
夕焼けは、目を背けたくなるくらい毒々しいオレンジ色に変わっていた。
「始業式の次の日さ、みんなにちゃんと退部の挨拶してから、お前のとこ行ったんだよね」
先輩が背負っていたリュックの肩紐をきつく握る。
「虎太朗はあんなこと言ったけど。おれ、ちゃんと福祉の進路考えてるから」
拳の先まで朱色に染まる。肩紐が捩れて、先輩の肩に食い込んでいく。
ちゃんと、を繰り返す先輩の、内側に向かう怒りがそのまま表れているように感じられた。
なのに。
「だから佐倉は、おれのとこにいてね」
こちらを向いた先輩の目には、いつもと違って金の光がチカチカ差していて。
俺は全てを都合よく解釈しそうだった。
4月最後の日曜日の出来事だった。
主として秋(9〜11月)に実施される大学入試の通称。
総合型選抜と、学校推薦型選抜(指定校推薦、公募制・自己推薦等)に大別される。
近年では、大学入学者の半数以上が年内入試を利用して入学を決めているとのデータもある。
出願書類や面接など、十分な対策を要する選抜も多い。
♡ ♡ ♡
バドミントンコート1面を挟んでも、その背中はすぐに見つかった。
学校指定の紺のジャージに派手なオレンジ色のビブスを付けた先輩は、こちらに背を向けて市民体育館の床に正座していた。
小学校低学年くらいの女の子たちを前に、大きな身振り手振りを交えながら話をしている。
先輩の肩が揺れた。……絶対いま、「ねー!」って言ったな。
「あ! 佐倉君。ここ終わったらスコアラー任せていいかな?」
「はい。本部に忘れ物届けて、すぐ戻ります」
すれ違いざまに声を掛けてきた運営チーフにそう答え、俺は右手に持った誰かの忘れ物のタオルを掲げる。
よろしくね、と言うチーフに会釈で返して、またコートの向こうを目で探してしまった。
「おお……」
つい声が洩れた。
先輩の背中に小学生たちが取り付いて、鈴なりになっていた。
自由でいいなあ。
俺は自分の胸に左手を当てる。先輩と同じ、もっさりした学校指定のジャージ。
オレンジ色のビブスに、黒文字で〈ボランティア〉とくっきり書かれていた。
あの雨の日から2日経った、快晴の日曜日。
パラスポーツ・ボッチャ普及のための市民イベントに、俺たちはボランティアとして参加していた。
◇◆◇◆
ざあ、といっそう強くなった雨音が、俺と先輩の体のあいだで反響していた。
「雨やば」
先輩は呟きながら、俺の体に回した腕を解く。体が離れ、混じりあった体温だけが残る。
防火扉に俺の後頭部が小さく当たって、ぐおぉぉん、とこもった音が頭皮に返ってきた。
「あともういっこやばい。本、忘れた」
「ほ、本?」
「総合型の参考書」
さっきは低く感じた先輩の声は、もう普段どおりに戻っていた。表情は分からない。
先輩の顔が見られなくて、階段の下に視線を落としていたから。
キスしたいなんて、無茶苦茶だ。
先輩は慰めようとしてくれただけなのに。
宮元だって、英語の課題が終わらないときは俺に抱きついて懇願してくるのに。
思考が渦を巻く。
「進路指導室の前で落とした。ダッシュしてくるから、佐倉はここにいて」
とん、と先輩が俺の胸を手の甲で叩いた。制服越しに尖った拳の骨を感じて、また感情がうねる。
まだ離れたくない。
「ボランティアは来週見よ」
俺の返事を待たず、先輩は廊下に飛び出していった。
そして先輩は、廊下を駆ける足音を聞きつけ、進路指導室を出てきた大江先生にあっさり捕まった。
「さっきみたいに転んだら危ないよね?」
大江先生の声は、穏やかなのに雨音の中でもよく通る。
不意打ちをくらった先輩は、じゅうぶん釘を刺されたのち、「急だけど明後日空いてる? ボランティアの欠員が2人出ちゃって、友達で一緒に行ける子いないかな?」と滑らかに繋げられているあいだずっと、赤べこみたいにふんふん首を縦に振っていた。
「経験は大事だよ。なんでも、自分の目で見てよく考えるのが一番だからね。いってらっしゃい」
大江先生は、そう言って先輩を送り出していた。
啓発的経験。百聞は一見にしかず、ということだ。
きれいにボランティア活動まで予定が立って、小さな燻りだけが俺に残った。
◇◆◇◆
そんなこんなで、正体不明の欲求を抱えたまま、現在に至る。
イベント運営本部に忘れ物を届けた帰りに、俺はまた先輩の様子を覗ってしまった。
小学生への説明が終わって、ペアを組んだ選手とボッチャの実演に入っているようだった。
オレンジ色のビブスを翻した先輩が、車椅子の選手の前に競技補助具を引き寄せる。
急勾配の滑り台と譜面台の足を合体させたようなスロープは、重度の麻痺などで投球ができない選手が使う「ランプ」という道具だと事前説明で教わった。
先輩がランプの傍に立膝で座る。また身振り手振りをしながら、今度は選手に話しかけていた。
「あれ……?」
先輩の様子が、どこか思っていたのと違う気がした。
障がいのある方に親身になっているとか、寄り添っているとかいう雰囲気ではない。
はしゃいでいるのが、遠目にも分かる。
「ランプオペレーターは、ホントは喋っちゃダメなんだけどね」
スッと俺の横に現れたチーフが、スコア用紙と筆記具を差し出して笑った。朝の準備から誰よりも忙しく動いているのに、こうやって合間合間にボランティアスタッフに声を掛けて回っているみたいだった。
「今日は初めてだから特別。辰野君は、佐倉君の先輩なんだよね? すごく慕ってるみたいに見えるけど」
「あっ……、すみません。余所見してしまって」
気付かれている。
動揺した俺の手の中で、スコア用紙が汗に湿って張り付いた。
「いいよいいよ。ボッチャに興味持ってもらえて嬉しいし」
頭を下げた俺を、チーフは手を振って諌めてくる。
「ほら見て。今から投球するよ」
チーフに促されて、俺はコートに背を向けて立ち上がった先輩に目を向けた。
選手が頭に着けた棒に従って、ランプの位置調整をしている。繊細な操作を要求されるからか、今は選手と先輩のあいだの空気が引き締まっているように感じられた。
「圭介も今日はノってるな」
チーフが感心した調子で続ける。〈圭介〉さんは、先輩のペアの選手の名前だ。
「周りの子どもたちもいい顔してる。なんていうか、辰野君は求心力があるよね」
「求心力……」
俺がチーフの言葉を繰り返したとき、選手が棒でボールを押した。
ランプのレールを、赤い球が勢いよく滑り落ちていく。
宙に浮き、コート内に転がされた白い目標球に向けて、まっすぐに飛んだ。
そうか。
俺も。
赤い球はジャックボールに強くぶつかり、周りの球もコートに散っていく。
先輩たちを囲う赤チームの子どもも、自球をジャックボールから遠ざけられた青チームの子どもも、一斉に声を上げた。
声につられたのか、先輩が振り向き、ボールの行方を目で追った。
「ああ、見るのもダメなのに……」
チーフが苦笑する。俺もつられて笑いが洩れた。
「ほんとに、仕方ないですね」
思わずぼやきが出る。
これは仕方ない。認めるしかない。心の底からそう思った。
俺も。
先輩に、心が吸い寄せられたんだ。
どうせあと5ヶ月で先輩との関わりは切れる。
もうほとんどバグみたいな、感情と欲求の混ぜ物もそれまでの付き合いだ。
コートの向こうでは、先輩が飛び跳ねて笑っていた。
イベントの後片付けを終え、二人で市民体育館を出た頃にはもう夕方6時近くになっていた。
外の運動場の脇、タイルが敷き詰められた道を抜けていく。
「めっっっちゃやばかった!」
先輩の頬は紅潮していた。
「圭介、すごかった! 色々喋ったけど、怪我で車椅子なる前は体操やってたらしくて、やっぱスペースの支配力に立体感が——、」
そのまま地上のカーリング・ボッチャをサッカーの語彙で語り続ける先輩。
ケイスケ。先輩と同じ高校三年生らしかったが、今日一日でそこまで仲良くなったのか。
強い西日にますます朱に染まっていく顔を見たくなくて、俺は目線を落とした。
「佐倉もスコアリング、チーフに褒められてたよね!」
「はい、まあ」
サクラ・ケイ。先輩は俺の下の名前を知っているはずだけど、この違いはなんだろう。
「ああいうのっていいね」
地面に伸びた影の形で、先輩が腕を頭の後ろに組んだのが見て取れた。
「今日おれ、圭介の他にもいろんな人と組んだんだよね。全員とうまくやれたわけじゃないんだけどさ」
俺の視界の端に、先輩が履く藤紫のハーフパンツがある。
「なんか、助ける側とか、助けられる側とかじゃないってめっちゃわかった」
「ええ……」
この体操着が強烈にださいのに、よく外で着れるなあ、と俺は裾の〈辰野〉の刺繍を眺めていた。
「明日、大江先生にお礼と報告行かなきゃ。佐倉も一緒に行く?」
「そうですね……」
生返事を返す俺の横で、先輩が足を止めた。
「疲れた? ちょっと座ってから帰る?」
「いえ、大丈夫です」
余計な心配をかけている。地面に伸びる影の形をたどりながら、首を横に振った。
「ぜんぜん大丈夫じゃないじゃん。めっちゃ顔色悪いし」
悪いのか。
「……赤くなってはないですか」
「ちがう。ドスむらさき。ヤバいよ」
先輩が俺の後ろに回り、電車ごっこでもするかのように肩に手を置いた。
「ハイきゅうけーい」
肩を押され、運動場を見下ろす位置のベンチに連行されていく。
「いいですって」
「おつかれおつかれー」
「大丈夫ですから」
「無理しちゃダメー。アイスの自販機あったから食べよ」
先輩の声は弾んでいた。俺の顔色はいま、本当は何色なんだろう。
「もう帰ったら夜ご飯の時間ですよ」
「いいの」
俺の頬を先輩の髪がくすぐり、ひらめいた。
もしかして先輩は、俺の〈推し〉という存在なのでは?
そう思ったとき、
「——晴人!」
低く響く声が、夕焼け空にこだました。突然の低音に、二人揃って振り向く。
夕陽を背にして影の中に立つ、青翠のジャージと白いハーフパンツの人。
「探したぞ。電話なんで出ないんだよ」
うちの、サッカー部員?
180センチは超えていそうな、がっちりとした体の輪郭が揺れていた。息を切らしている。
くっきりと濃い眉をしかめて、その人は大人びた声を張った。
「さっきお前んち行ったら、おばさんが市民体育館にいるって。なに、筋トレ? 怪我いいのか?」
先輩が俺の肩から手を下ろした。サッカー部員に向き直る。
「ううん、今日はボランティア。知ってる? ボッチャって、」
「は? ボランティア?」
サッカー部員の眉間の皺が、さらに濃くなった。
なんか、こいつ。すごく嫌な——、
「それって調査書の点数稼ぎ? なんでサッカー使わねぇの」
深く響く声が、辛辣な言葉を投げつけてくる。
俺は思わず先輩の顔を見た。
にへら。先輩はすごく中途半端に笑って、
「……ん、」
それだけ言って、黙ってしまった。
「辰野先輩」
俺はひとまず先輩の袖を引く。一刻も早く、ここから離れたかった。
「なあ、あんた」
厳しい表情で見据えられる。
「うちの3年じゃねえよな。晴人、この目付きめっちゃ悪い奴、誰?」
品定めするような視線に、さすがにムッとした。下から見上げてるだけで、別に睨んでない。
俺は口を開きかけた先輩の前に立ち、サッカー部員に言い返す。
「気になるなら、あなたが先に名乗ればいいんじゃないですか」
「は?」
びりびりと圧を感じる。
サッカー部員が、大げさに息を吐いた。
「……スポーツ・芸術コース三年、サッカー部キャプテンのササキ・コタロウ。ふつうのササキじゃなくて、あの、カタカナのケ並べて世界の世の、」
「植物の笹?」
つい問い返してしまった。
「それ。それに、虎と、タロウのロウは桃太郎じゃなくて、なんだっけ、歌手の……、さくら歌ってる、」
「明朗の朗?」
重ねてしまう。
「それ! ややこしい四文字熟語使うな!」
明朗は二字熟語だ。
どこか間の抜けた空気が漂う。
黒い短髪ごしに頭皮を掻き回した笹木虎太朗が、じろりとこちらに目を向けた。
「で、あんたは」
「あ……、佐倉です。2年です」
「アサクラ? モーニングとリネンどっち?」
妙に凝った言い回しで漢字を確かめてくる笹木。辰野先輩も、初対面で名前の漢字説明してきたな。
「どっちでもないです。佐倉です」
「まぎらわしーな!」
吐き捨てた笹木は、回り込むように俺の背を覗き込んできた。
「で? 晴人。お前、始業式からずっとオレのこと避けてるよな?!」
口調も、勢いも強い。
俺の後ろでいま、先輩はどんな顔をしてる?
笹木はこめかみに指を当てた。汗を拭ったようだった。
「部活辞めんのは分かったよ……。お前の代わりに阪口、ホントよくやってるよ」
笹木の声が少し優しくなる。
俺の知らない時間が、この先輩たちのあいだに流れているのだと思った。
「阪口、」
やっと辰野先輩が口を開く。
「体幹強いの、いいよね」
言い終わりに、俺の背中に手を当ててくる。
ジャージの奥の背骨を、一本一本下へたどって確かめているみたいだった。
思わずびくついた俺を、笹木が冷えた目で一瞥する。また先輩の方に視線を戻して、言い聞かせるように返す。
「なあ晴人。高校だけがサッカーじゃねえだろ。マネージャーで戻れとかもう言わねーから、将来はアナリスト目指せよ」
先輩の指先が、俺の腰のあたりで止まる。
俺は横目で、笹木の口元を見ていた。少しめくれた唇から白い歯が覗いて、そこだけやたら愛嬌があるのが腹立たしかった。
「お前ならぜってーやれるって」
揺さぶるな。
「晴人」
呼ぶな。
「オレ、プロになって、先に行って待ってるから」
笹木の視界に、もう俺は入っていないみたいだった。
厳しい色を浮かべていた笹木の目に、沈みかけた夕陽が差した。
せっかくボランティアに来たのに。先輩も何か掴みかけたみたいなのに。
「オレのサッカー、一生支えてくれよ」
笹木の目が眩しく光っていた。
先輩はまだ、俺の腰に触れていた。
その指がいつ俺から離れてしまうのか、先輩に背を向けている俺には分からなかった。
何分経っただろう。
どこからか、夕暮れ時を告げる音楽が流れてきた。
「オレ帰るわ。未読風既読無視すんなよ」
そう言って笹木は踵を返した。
「……本気だから」
かろうじて拾えるくらいの呟きを残して、笹木は走り去っていく。
手ぶらで、本当にこれを言うためだけに来たのは間違いなかった。
一生。
途方もない言葉の射程に何も言えない。
先輩は? と思ったとき、後ろから俺のジャージの裾が引かれた。
「佐倉。おれたちも帰ろ」
労わるような声だった。——なんで?
「先輩……?」
ようやく俺は振り向く。先輩は曖昧な笑みを浮かべていた。
「虎太朗、いかつかったでしょ。ごめんね」
くるくると手首を返して、先輩は俺のジャージの裾を拳に巻き付けた。
中に着た体操着やインナーシャツまで巻き取って、絞っていく。
「ちょっと、先輩?」
胴回りが締め付けられて、少し苦しい。どういう手遊びなんだ、これ。
「あいつさあ、小学校のときから一緒なんだよね。もともとCBじゃなくてGKでさあ」
俺はまだ、先輩のポジションを知らない。
笹木がどんな役割なのかも。
「今あんなんだけど、昔は試合のあとは勝っても負けてもメソメソしてて、ダメダメで」
ぽすん。ボクシンググローブくらいに布を巻いて膨れた拳で、先輩は俺の裸の背を叩く。ぽすん。まったく痛くはなかった。
「だからおれ、毎回ハンドマッサージやって慰めてやってたの。子どものときから、オカンがおれにやってたやつ」
先輩は、言葉も拳も止めてくれない。
「キーグロってくっせえの。おれの手までくっさくなって、くせーくせーって言いながらいつも帰ってた」
ぽすん。拳がまた、俺の背を叩く。
ボクシンググローブじゃなくて、〈キーパーグローブ〉のつもりだったらどうしよう。
そう思ったら、背骨がひどく痛んだ。
「伸びちゃった?」
布の塊から手を抜いて、先輩が尋ねる。
「むしろ、シワシワです」
俺が答えると、先輩は思いっきり伸びをした。
「ごめんねえ、佐倉」
声までも間延びしていた。
「……帰りましょうか」
「顔色、もうふつーだね」
「はい」
俺たちが向かう駅は笹木が去った方角と正反対で、変な安心材料を抱えてしまった。
「そーいや佐倉、猫はやめちゃった?」
俺の隣を歩く先輩が、すぐ先の曲がり角に視線を投げながら訊いてきた。すん、と鼻先が動く。
また、嗅いでたのか。
「今は限定の、ミモザの香りだそうです」
「そっかあ。あのにおい、おれ好きだったのに」
夕焼けは、目を背けたくなるくらい毒々しいオレンジ色に変わっていた。
「始業式の次の日さ、みんなにちゃんと退部の挨拶してから、お前のとこ行ったんだよね」
先輩が背負っていたリュックの肩紐をきつく握る。
「虎太朗はあんなこと言ったけど。おれ、ちゃんと福祉の進路考えてるから」
拳の先まで朱色に染まる。肩紐が捩れて、先輩の肩に食い込んでいく。
ちゃんと、を繰り返す先輩の、内側に向かう怒りがそのまま表れているように感じられた。
なのに。
「だから佐倉は、おれのとこにいてね」
こちらを向いた先輩の目には、いつもと違って金の光がチカチカ差していて。
俺は全てを都合よく解釈しそうだった。
4月最後の日曜日の出来事だった。
