恋して覚える♡総合型選抜〜先輩、言語化も深掘りもできてません〜

 ボランティア。
 個人の自発的な意思に基づく自主的な活動(厚生労働省)と定義される、社会貢献活動。
 高校生にとっては、啓発的経験や他者との関わりを通し、自己と地域の社会的接続を知る貴重な機会となる。
 受験生諸君は、くれぐれも「調査書の充実」を目的とした活動としないよう留意されたい。

 ♡ ♡ ♡

 放課後の無人の廊下に、窓ガラスを叩く雨音が響く。

「佐倉、」

 俺の耳元で囁く先輩の声は、いつもより少し低く聞こえた。
 背中に当たる階段脇の防火扉は冷たくて、
 でも俺の体を包む先輩の体温は熱かった。

「大丈夫だから」

 俺の腰に回された、先輩の腕の力が強くなる。
 先輩の唇が、耳たぶを掠めた。

「おれしかいないから」

 熱く湿った息が掛かって、ぞくりとする。
 叫び出したいような、もうこのまま身を投げ出してしまいたくなるような。
 大きな感情のうねりに、飲み込まれそうだった。

「辰野先輩……」

 先輩の肩口に顔を埋める。
 そのとき確かに、俺は「この人とキスがしたい」と思っていた。



 ◇◆◇◆



 15分前。

 指定サンダルの下で、雨に濡れた廊下がキュッキュッと鳴る。

「けっこう上から目線だったよね」
「ですね」

 例の参考書を抱えた先輩の言葉に、深く相槌を打つ。
 昨日「ボランティアに行く」と決めた俺たちは今、昇降口で落ち合い、新校舎のボランティア掲示板に向かっている。

 先輩が言っているのは、参考書にあったコラムだ。
 ボランティアの項目に「調査書の充実に使うな」と説教くさく書かれていて、思わず二人で苦笑した。

「おれ、調査書目的なのかな」
「そんなことはないと思いますけど……」

 並んで階段を上がり、4階を目指す。
 福祉への解像度を上げて、進路を明確にしたい、というのは。

「啓発的経験に、くくっていいんじゃないですか」

 大雨の放課後。運動部は室内練習で、色とりどりのユニフォームを着た生徒たちは皆もう、旧校舎の部室棟へと流れていった。
 俺たちのいる新校舎は人影も少ない。雨音が廊下にこだまして、静けさが心地よかった。

「それって自己啓発とかのケーハツだよね」
「はい。ボランティアを自己成長につなげるっていう」
「なんかなー」

 考え込むような表情をした先輩は、階段を一段飛ばしに上っていき、踊り場に立った。
 手術痕が痛んだりはしないのだろうか。
 見上げた俺に、先輩が振り向いて言う。

「ボランティアって、人のためにやるもんじゃないかな。ちょっとやらしくない?」

 先輩の言うことはもっともだけれど。

「なんでもまったく下心を持たないって言うのは、無理な話でしょう」
「そう?」

 先輩が宙に目をやって考えているあいだに、俺も踊り場に追いついた。

「自己実現欲求とか、超越欲求とか。二年の保健の授業でやりませんでした?」

 俺は先週、習ったところだ。

「欲求かぁ……」

 先輩が俺の肩を引き寄せ、耳打ちしてくる。

「佐倉って、ほんとはけっこうエロなの?」

 エ、エロ?

「……違います。テストに出そうだから、覚えてただけです」
「エロだー」
「それは先輩の方じゃないですか」

 先輩が笑いながら階段を駆け上がっていく。また引き離された。
 今日は金曜日。先輩と出会ってまだ半月にしかならないのに、こんなやり取りが日常になっていた。



「ありがとね、佐倉」

 階段を上り切って4階の廊下に出ようというとき、先輩がぽつりと言った。

「おれ一人で行く勇気なかったから」
「言い出したのは俺なので」

 廊下の先を見遣る。
 ボランティア掲示板は、進路指導室の前にあった。

〈ちょこっと気まずくなっちゃって〉
〈この2週間で3回くらい、進路変更しちゃったから〉

 校内掲示板を見に行く。
 ボランティア活動に向けた、先輩と俺の最初のミッションだった。


 ぺた。サンダルが床に張り付く感覚が、靴下越しに足を上がってくる。
 俺の前に立った先輩が、よろめくように2、3歩下がってきた。

「誰か出てくるかも」
「どうですかね……」

 階段前から廊下の中ほどにある進路指導室まで、まだまだある。
 すぐ傍にある男子トイレの扉をちらりと見て、先輩が細い声を上げた。

「佐倉。おれ、シッコ行ってきてもいい……?」
「俺は行きませんよ」

 ここまで来て、連れションはない。
 階段脇の壁に埋まる防火扉に体を預け、先輩が大きく溜め息をつく。

「心整えるから、ちょっとだけ待ってくれる?」
「はい」

 小声で頷き返す。トイレは早々に諦めたようだ。
 代わりに見てきて、とならないのは先輩らしいな、と思う。

「あと30秒で行く」
「分かりました」

 廊下の死角になる防火扉の陰から、そっと廊下を覗う。

「「あ」」

 二人同時に声が出た。進路指導室の扉が開き、本当に人が出てきたのだ。
 俺には見覚えがない若い男の先生と、3年生らしき生徒。
 深く礼をした生徒が、廊下の奥に歩いていく。
 見送りに出たらしい先生は、生徒の背が遠ざかるまでそのまま待っているようだった。

「あの先生、何の教科の先生でした?」

 明らかに動揺を見せる先輩の気を紛らわそうと、こそっと話しかけた。

「探究のオーエセンセ」
「……探究って、専門の先生いるんですか?」

 1年生のときは理数系・地歴系のテーマに分かれてポスターセッションをした。
 それぞれの科目の先生が担当になっていたが、コースによって違うのかもしれない。

「キャリアなんとかって、先生とはちょっと違う人」
「大江先生が?」
「うん」
「先生ってつくのに?」
「じゃあやっぱりセンセだったかも」

 取りとめもない会話のあいだに、大江先生が進路指導室に引っ込んでいく。
 仕草が丁寧で、どこか浮世離れした感じは倫理の先生っぽいな、と当てずっぽうで考えてみる。
 先輩は少し落ち着いてきたみたいだった。

「30秒経ってますよ」
「今のはノーカン。次で行く」

 とんとん、と先輩がサンダルのつま先で床を叩く。

「こういう緊張、高校受験の面接ぶり」

 サッカーで呼んでもらったんだけど、と付け加えた先輩の、そこだけ日焼けしていない耳裏をぼんやりと見る。
 選ばれた人なのだ。

 先輩が膝を曲げて、上体をやや前に倒す。

「3、2、」

 手がこちらに伸びてきた。

「1!」
「ちょっ?!」

 俺の腕を取り、先輩は勢いよく走りだした。
 
 体が浮く。
 目まぐるしく動く景色が眩しい。
 強く腕を引く力。
 先輩の笑い声。
 
 本当は、華やかな場所に立つべき人なんだろう。
 自分ですべて台無しにした俺と違って。

「……っ!」

 捻じ切るように、俺は先輩の手を振り払った。
 急制動に体が付いていかず、濡れた廊下で足がもつれる。
 視界がぐらつく。

「あぶなっ?!」

 俺に向かって、先輩がとっさに腕を差し出してきた。
 先輩の胸に抱き止められる。
 勢いを殺しきれず、二人して廊下に倒れ込んだ。

 床に膝を打つ、鈍い感触。
 遅れて、ばさっ、と乾いた音を立てて、例の参考書が床を滑っていった。

「佐倉、だいじょぶ?」

 尻もちをついた先輩が、俺の背に手を置いた。
 背中から伝わる優しさを受け入れられず、俺は激しく首を横に振った。

「ごめん。おれ急に——、」

 先輩の言葉は、そこで途切れた。

「……どしたの?」

 肩の震えが止まらなかった。

「……う、」

 どうして、俺は。
 息が詰まる。
 俯いた俺の頬を、熱いものが流れていく。
 顎を伝って落ちたそれが、床に模様を描く。

 がらっ、と、教室の扉が開く音がした。

「大丈夫? 大きな音したけど」

 訝しげな先生の声が聞こえてくる。

「すみません、ちょっとふざけちゃって!」

 先輩が朗らかな声で返していた。

「そっちの子は2年生? どこか打ってない?」
「だいじょぶです! 行こ、佐倉」

 俺の頭を胸に押し付け、庇うようにして先輩が起き上がった。
 先輩に支えられながら、二人一緒に立ちあがる。
 一瞬、先輩の肩越しに先生の姿が見えた。さっきの〈大江先生〉のようだった。

「……雨、強くなってきたね。階段も気を付けて」
「はい、しつれーしました!」

 明るく振る舞う先輩に押され、先生に背を向けた。
 雨音がひときわ激しくなっていた。



 廊下を二人で戻っていく。階段に近づくと、先輩は防火扉の陰に俺を引っ張りこんだ。

「佐倉、どしたの」

 先輩の戸惑った表情と声は、当然の反応だった。

「何も……。すみません、」

 俺なんかに構わないでほしい。
 自己嫌悪が首をもたげる。

「佐倉」

 俺の両肩に、先輩の手が置かれた。
 強く揺すられるのかと思ったが、先輩の掌はブレザー越しに俺の肩から二の腕、手首までを柔らかくさすって、指まで降りてきた。
 俺の左手を、先輩が両手で覆う。親指で俺の掌を押して、揉み始める。

「ゆっくりでいいから、話せることだけ教えて」

 俯いた先輩のおでこと前髪の奥から、労わるような低い声が落ちてきた。
 先輩の熱い指が、冷えた俺の手を温めていく。
 少し呼吸が楽になる。

「俺は、」

 言葉が口をついて出る。

「この高校、弁論やりたくて入ったんです」
「うちの弁論部、強いもんね」

 ぐ、と親指の付け根に先輩の指が入ってくる。
 痛気持ちいい。
 張り詰めたものが、解されていく。

「なのに俺、全国……。だめでした」

 失敗した。不安になって、本番直前に原稿をいじった。

「他の人を押し退けて、獲った代表だったんです」

 自業自得だ。
 また目のふちが熱くなってきて、一度、目をきつく閉じて耐える。

「自分でも必死だったとは思います。でも、俺が目指すような弁士のふるまいはできなくて」

 身振り手振りも、視線も、喉から出ていく一音一音も、焦りと不安で空回りしていった7分間のスピーチだった。
 無様な自分。
 それを、目の前のこの人は〈言葉で戦ってる人〉だと言ってくれた。

「結局居づらくなって、辞めました」

 先輩の掌が、俺の左の指先を覆った。
 反対の手でも同じように、右手を取ってくる。

「文芸にいるの、書かないためって」

 骨ばった指が俺の指を挟んできた。指の側面を押しながら、水かきまでゆっくりと下ろされていく。
 そんなことまで話してたっけ、俺。

「そうですね。俺の言葉は嘘が多くて、嫌になって……」

 じんわりと血が通っていく感覚に包まれながら、俺は自分の手を見下ろして——、あれ?
 日焼けした先輩の指が、俺の生白い指と絡んでいた。

「おれ知ってるよ」

 先輩が尖った鼻先を上げた。少し漏れた息が伝わる。
 なんかこの構図おかしくないか、と思った瞬間、目が合った。

「佐倉が、言葉が好きって知ってる」
「……!」

 先輩の眼差しと体温に遅れて、肯定の言葉が届く。

「ほんとに嫌いだったら、おれの手伝いなんかしてないでしょ」

 先輩が鼻をひとすすりして、付け加えてくる。
「と、思いました」

 指の力が強められて、照れ隠しなんだと分かった。

「丁寧語はわざとでしょう」
「ばれちゃった?」

 ふふ、と笑いを洩らす先輩は、空気が緩んだのに指を離してくれない。
 俺もなぜか、自分から振りほどけないままだった。

「佐倉。おれの受験の神様になってね」

 願い事を唱えるような調子に、そう土下座されて始まったんだと思い出す。

「神様はもう止めてくださいよ」
「なんで? サクラ咲くって言うじゃん」

 そういう駄洒落だったのか。

「桜じゃ遅いですよ。総合型、結果出るの秋なんですから。秋桜(コスモス)にでも咲いてもらわないと——、」

 そこで初めて、目を向けていなかった事実に到達する。
 総合型選抜の受験スケジュールは早い。
 9月に出願と入試、11月に結果発表。
 手伝うとしても、入試直前のプレゼン練習までのはずだ。
 もうすぐ4月が終わる。……あと5ヶ月?

「佐倉?」

 あ、だめだ。
 さっき堪えたはずの涙が、また込み上げてくる。
 繋いでいた指が解かれた。心細さと一緒に、涙が溢れる。

「だいじょうぶ」

 先輩が俺の体に腕を回し、ゆっくりと抱きしめた。
 放課後の無人の廊下に、窓ガラスを叩く雨音が響いていた。

「佐倉、」

 俺の耳元で囁く先輩の声が、いつもより少し低く聞こえる。
 背中に当たる防火扉の冷たさと、俺の体を包む先輩の体温の熱さに頭の中が掻き回される。

「大丈夫だから」

 俺の腰に回された、先輩の腕の力が強くなった。

「おれしかいないから」

 先輩の唇が耳たぶを掠めた。熱く湿った息が掛かって、ぞくりとした。
 ここには先輩しかいない。だから、泣いてもいい。
 先輩が言いたいのは、そういうことなんだろう。
 でも、今の俺には違う意味に受け取れてしまう。

「辰野先輩……」

 先輩の肩口に顔を埋めた。涙が先輩のシャツに染みる。
 ごめんなさい、と口の中で小さく謝った。
 先輩しかいない。
 叫び出したいような、もうこのまま身を投げ出してしまいたくなるような。
 大きな感情のうねりに、飲み込まれそうだった。

「辰野先輩」

 もう一度名前を呼んだ。

「どしたの?」

 柔らかい声。鼓膜だけでなく全身が震わされてしまったかと思った。

「先輩の、長所は。傾聴力とか、観察力とか、共感……」

 心の渦の中から、言葉をたぐり寄せようとする。
 けれど、今の俺の語彙では入れるべきものが見つからなかった。

 先輩が耳打ちしてきた。

「寄り添う力も、ある?」
「……あります」
「よかった」

 先輩が笑うと、抱きしめられた俺の体も揺れた。
 雨音のあいだに、途切れ途切れに吹奏楽部の金管の音が混じっていた。
 同じフレーズを、何度も、何度も。

 音が繰り返されるたび、俺の体温が勝手に上がっていく。
 石鹸の香りの中に、肌と少しの汗のにおい。

 この人とキスがしたい。
 俺の中の欲求だけが、勝手に言葉になっていた。