志望理由書。
志望する大学や学部を選んだ理由、入学後に学びたいこと、将来の目標などを文章で伝える出願書類。
これまでの経験と進学先での学びを結びつけ、「なぜその大学でなければならないのか」を具体的に示すことが求められる。
♡ ♡ ♡
実力テストと土日を挟んで、翌週の月曜日。
相変わらず過疎りきった〈文芸同好会〉の部室で、俺と先輩は差し向かいに座っていた。
「2週間で3回、」
「ん?」
俺のつぶやきを拾ったのは、今日は制服姿の先輩だった。
第1ボタンを開け、無造作に袖をまくったワイシャツに、緑のネクタイをゆるく締めている。ベージュのブレザーは、隣の椅子に置いた旅行鞄くらい大きなリュックに突っ込まれていた。
「2週間で3回って、どんな進路変更して今に至るんですか」
例の『総合型選抜対策』の本に、せっせと蛍光マーカーを引く先輩に尋ねる。
「あー、それ聞く?」
先輩が手を止めた。開いたページは黄色やピンク、緑の線が入り混じって、元が2色刷りとは思えない色の洪水が起きていた。
「推薦ムリになってから、専門勧められて資料請求したけどちょっと違って、じゃあ大学? ってなって、サッカーアナリストとか管理栄養士とかなれるとこ探して……、でも福祉かなって」
2週間でコレはシャバいわー、と蛍光ペンで先輩は首筋を掻いた。
自分の辞書にはない言葉に、俺の耳がぞわぞわする。
「専門学校は何系を?」
「理学療法士。おれもリハビリやってもらってて、なんとなくイメージついたから」
「……」
さらりと話す先輩の言葉の裏に、どれだけの悔しさや辛さがあったのか、俺には分からない。
「あと、アナリスト。俺、スポーツやらないので詳しくないんですが、選手とか試合のデータ分析をする人で合ってますか?」
先輩は深く、素早く数回首を縦に振った。
「そ! おれ、ユースのチームに帯同してさ、まだ引き出しの少ない選手にプレーの再現性を持たせられたらいいなって思ったんだよね!」
ん? 俺は引っ掛かりを覚えながら、続く先輩の言葉を追いかける。
「肌感でやれることと、フィードバックもらって、自分の外から見た動き把握したり、フォーメーションの展開可能性わかった状態で入るのってやっぱ違うし!」
「せ、先輩?」
蛍光ペンを持った手を激しく動かして、先輩が熱弁を振るっていた。
俺の見積もりより、難しい言葉を使っている。というか、解像度が明確に違う。
でも。
「でもさ、」
先輩自身も、話しながら〈それ〉には気づいていたみたいだった。目の奥が、すっと暗くなる。
「おれのサッカーは、ちゃんと終わらせてきたから」
蛍光ペンの先が、宙をゆらりと彷徨って、止まった。
きっと管理栄養士も、アスリートをサポートできる仕事として候補に上がったんだろう。
〈ボール蹴れないのに、サッカーが傍にある人生ってなんなんだろ〉
先輩が考えているのは、卒業後の進路じゃなくて。
この先ずっと続いていく、人生なんだ。
どうして福祉にしたんですか、といま問うのは違う気がして、俺は長机越しに先輩の手元の本に手を伸ばす。
「俺も読んでいいですか?」
「おーちゃく」
先輩は本を持ち上げ、俺の手から遠ざける。
「こっち来て」
「はい?」
「一緒に見ればいいじゃん」
リュックとは反対側のパイプ椅子を引き、先輩が招いてくる。
曲がりなりにも〈文芸同好会〉の部室。完全部外者なのに、まったく気にするそぶりはなさそうだった。
こういう距離の詰め方は、経験がない。
あなたのことは好ましく思います、を、惜しげもなく晒して、こちらを平気でこじ開けてくるような。
俺の足元で、キュ、と小さくサンダルが鳴った。
「……では」
これ見よがしにルーズリーフの束とペンケースを掴んで、席を立つ。
先輩の隣に腰掛けながら、心にさざなみが起こった。
俺も少しは、可愛げを見せるべきだろうか。
「あっ!」
先輩が真横で声を上げた。
「なんですか」
ふにゃり、と笑う顔を睨みつけてしまった。
「佐倉ん家の柔軟剤、いいねー」
「ん……っ!」
嗅いだのか。ぶわっと一気に汗が噴く。ワイシャツの襟が肌に張り付いた。
首元に指をかけた俺に、追撃が飛んでくる。
「なんてやつ? 昔飼ってた猫のさー、シャンプーしたての腹のにおいに似てる」
褒めてない。
「知らないです……。濃い青の、円筒形のボトルの、」
「えー! それだけじゃわかんないって。めっちゃ似てる」
俺の肩口に近づいてくる先輩の鼻を、掌で遮った。
「親に、聞いておくので」
「ありがとー。じゃ、読む?」
鼻先を押さえてくる後輩の生意気な態度も気にせず、先輩は『総合型選抜』の本を俺の方にずらし、見せてくれた。
蛍光色に彩られた〈志望理由書の構成〉のページを一緒に覗き込む。
「『必要な字数は大学によって600〜2000字と幅がある』。先輩、東央大の社会福祉学部でしたよね。何文字なんですか?」
弁論なら1800字前後でスピーチ原稿を作る。文字数が分かれば、書く内容の深さのイメージがつく。
先輩が首を振った。
「まだ資料、届いてない」
「待つしかないですね」
「そうだねー」
ゆらり、と俺の方に先輩が上半身を傾けた。
また嗅いでないだろうな。
体がこわばる。先輩の気配が、俺の右肩を押さえつけてくるような緊張感。
黙ったままだと余計に、においが立ってしまうような気がした。
「え……っと、構成。構成ですよね。あ、この本、分かりやすいかもっ……!」
ページを指差して、先輩の注意をそちらに向けようと試みる。
=====
◆志望理由書の構成
①概要
将来像を交え、概要を簡潔に述べる
②学部の志望理由
自分の体験と社会課題への気づきを述べる
※将来的な研究テーマに接続される
③大学の志望理由
前段で挙げた内容が、志望大学でこそ実現できる理由を述べる
※安易に施設・設備や就職実績を取り上げない。教育理念や3P(別項記載)、教授名やプログラムの名称を用いるなどし、学びの核の一致と継続性をアピールする
④キャリアビジョン
より詳しく将来像と熱意を述べる
=====
先輩の目が、紙面を滑っていくのが見て取れた。
「少し……、堅めな内容ですね」
同情が滲んでしまった俺の言葉に、先輩は渋い顔をする。
「難しいよね。志望理由書」
他にもっと、いい本があったんじゃないか。
「なんでこの本にしたんですか」
「ゼロからって名前だし、表紙の色きれいだったから」
失敗したかなー、と青色の表紙を見返す先輩に気付かれないよう、ため息をついた。
相手に伝わるように、分かりやすい言葉に言い換える。
弁論の基本だ。
「……志望理由書は、ラブレターなんです」
「ラ、ラブレター?」
先輩が大きくのけぞる。
「たぶん。歌がうまいとかスタイルがいいとか、一方的に褒めるファンレターにするなってことがここには書いてます」
とんとん、と俺は指で2つの※印を叩き、考えながら続ける。
喩えは大げさなくらいで、ちょうどいいはずだ。
「僕は今まで〇〇をやってきて、世の中についてこんな風に思ってる。だから君とはこんなところが合ってるよね。君と二人ならきっと、こんな風に世界を変えていける。だからこれからは一緒にいようよっていう、熱い想いを……」
詭弁が過ぎるな、と思いつつ、視線を感じて言葉を止めた。
先輩が、じっとこちらを見ていた。
「おまえ……」
目がキラキラしていた。俺の説明に感心したような先輩の素振りに、少しのくすぐったさと嬉しさが湧く。
「これで書けそうですか?」
「……書いたことあるの?」
「はい?」
先輩の茶色の目に差す緑は、今日も不思議に光っていた。
「ラブレター」
「ないです!」
本を思いっきり閉じる。
引き受けてよかったんだろうか、この仕事。
その日の夜。
風呂上がりの脱衣所で、群青色の柔軟剤のボトルが目に入った。
ラベルを読もうと手を伸ばしかけて、面倒になってやっぱりいいや、と思って止めた。
◇◆◇◆
翌日は身体測定の日だった。移動が多くて、慌ただしい。
まさか来ないだろう、と思っていたが、放課後も先輩はひょっこり部室にやってきた。
「あれ、誰もいないねー」
俺がいますけど、という毒は心に埋めて、俺は英単語帳を閉じて先輩を迎えた。
「新入生が来てくれなかったので」
「文芸同好会のポスター、情報の授業で作ったみたいなやつだからじゃん?」
「よく知ってますね」
少し驚く。部活掲示板の隅にひっそり張ってある、ワープロソフト感全開の文字だけポスターに気付くなんて。
「まあねー。佐倉は身長、何センチ伸びてた?」
先輩が気軽に出したその質問は、かなり心にくる。
「……3mm縮んでました」
「え、ごめん……」
165.9cm。割りたくないと思っていたその数字を突き付けられて、俺は午前中からそれなりに凹んでいた。
「で、でも、おれもぜんぜん伸びてなかったから」
長机を回って俺の横に腰掛ける先輩を横目で確かめてみる。座高なので不確かだが、170cmは普通に越えていそうなので慰めにもならない。
「早生まれなので、色々諦めてますけど」
学力はともかく、自己肯定感や自己効力感は低下しやすいらしい。俺の自嘲に、先輩が反応した。
「え、誕生日いつ?」
「4月1日です」
「うそ! おれ4月2日。1日違いじゃん!」
そう捉えるか。
「まる2年は離れてますけどね……」
「なんでー? ちょっと遅れたけど誕生日おめでとう〜」
先輩が制服のポケットをあちこち探る。
「なんもないや。ジュースでいい?」
「いや、別に……」
「手伝ってもらうお礼もしてないし!」
手伝うといっても添削くらいのつもりで、こんなに毎日来るとは思っていなかった。
「じゃあ……、コーヒーで」
「もしかしてブラック?」
「はい」
「おっとなー! 行ってくるね!」
俺の反応も確かめず、先輩は渡り廊下の自販機を目指して部室を飛び出していった。
「おれさあ、佐倉の勉強の邪魔はしたくないんだよ」
コーラを片手に、俺から譲り受けたルーズリーフに向かっていた先輩がいきなり言った。
まずは構想メモから作ろう、と方針を立てたところなのだが。
「ごめんね」
「なってませんよ」
俺は英単語帳から顔を上げた。今日の分はあと少しで終わる。
「ほんと? 特進コースの人って、いっつも勉強してるじゃん」
「そうですか?」
俺から見れば、スポーツ・芸術コースの人は練習漬けに見えるので、たぶん同じだ。
私立男子校の翠高には、コースが2つある。
国公立や難関私立大学狙いの特進コースと、プロアスリートやアーティストを多数輩出しているスポーツ・芸術コース。
こんなことでもなければ、接点はなかっただろうな。
「俺は国公立が第1志望ですけど、併願の推薦で私大も受けますから。志望理由書の対策は必要ですよ」
俺の言葉に、机に片肘をついた先輩がふわりと笑う。
「やさしーね」
「別に、そういうわけじゃ」
むずがゆくて、手元の単語帳に視線を戻す。
ぱらぱらと数ページめくれて、進んでいった。
「ありがと」
ページの上に、先輩の声が落ちてくる。
betray[動詞・他]
①裏切る。だます。②……
④〈本心・本音など〉を表す、露呈する
「せ、」
呼びかけようとして、舌がもつれた。
「どした?」
「いえ、あの。志望理由書の文字数、資料待たなくても……、大学のホームページに書いてないかなって」
「んー、募集要項は見たけどさー」
先輩はズボンのポケットからスマホを取り出した。スッスッと画面をスワイプして確認する。
「そういうのはなかったかも」
「いちおう俺も見ていいですか?」
「うん。これねー」
肩を寄せてくる先輩。
人工的な石鹸のにおいの奥に感じる、かすかな温度や湿度。
それらを辿らないよう息を詰めながら、どうして目と違って鼻は閉じれないのかな、と余計なことばかり考えていた。
そして、夜になって。
「あれ?」
風呂上がりの俺は、脱衣所の棚の上を探していた。
ない。
それがあるべき場所に、薄黄色のボトル。赤の割引シール付き。
「母さん!」
濡れ髪のままリビングに駆け込む。ソファに寝転がり、ドラマを観ている母親に声を張る。
「柔軟剤! 変えた?!」
「えー? 前の好きだった? 限定のミモザの香りが安くなってたから、新しくしたの」
そんな母の事情も、深刻な表情で美男美女が向き合うテレビ画面も、今はどうでもいい。
「なんて名前だった? 青のやつ」
俺の髪から雫が落ちて、パジャマの襟に染みる。
「名前? なんだっけ。プラごみにボトルあるから、見てみたら?」
宙に母の指が伸びて、キッチンの方向に向けられた。
「ん……、いい」
さすがに、そこまでして見るほどじゃない。
「母さん」
だけどいちおう、誰かの意見は聞いておこうと思った。
「洗いたての猫って、どんなにおい?」
「猫ぉ? 分かんないけど、お日さまのにおいとかじゃないの」
「お日さま……」
脱衣所に戻り、ドライヤーを掛けながらスマホで画像検索を掛けた。
見覚えのある青のボトルの写真をタップする。
〈リュミエ 軽やかに香りつづくガーデニアミュゲ&ウッディ〉
ミュゲがどんな花かは知らないけど。
お日さまも、腹を出して寝転ぶ猫も。
猫の腹に顔を埋める先輩も、どこにもいなさそうな名前だった。
志望する大学や学部を選んだ理由、入学後に学びたいこと、将来の目標などを文章で伝える出願書類。
これまでの経験と進学先での学びを結びつけ、「なぜその大学でなければならないのか」を具体的に示すことが求められる。
♡ ♡ ♡
実力テストと土日を挟んで、翌週の月曜日。
相変わらず過疎りきった〈文芸同好会〉の部室で、俺と先輩は差し向かいに座っていた。
「2週間で3回、」
「ん?」
俺のつぶやきを拾ったのは、今日は制服姿の先輩だった。
第1ボタンを開け、無造作に袖をまくったワイシャツに、緑のネクタイをゆるく締めている。ベージュのブレザーは、隣の椅子に置いた旅行鞄くらい大きなリュックに突っ込まれていた。
「2週間で3回って、どんな進路変更して今に至るんですか」
例の『総合型選抜対策』の本に、せっせと蛍光マーカーを引く先輩に尋ねる。
「あー、それ聞く?」
先輩が手を止めた。開いたページは黄色やピンク、緑の線が入り混じって、元が2色刷りとは思えない色の洪水が起きていた。
「推薦ムリになってから、専門勧められて資料請求したけどちょっと違って、じゃあ大学? ってなって、サッカーアナリストとか管理栄養士とかなれるとこ探して……、でも福祉かなって」
2週間でコレはシャバいわー、と蛍光ペンで先輩は首筋を掻いた。
自分の辞書にはない言葉に、俺の耳がぞわぞわする。
「専門学校は何系を?」
「理学療法士。おれもリハビリやってもらってて、なんとなくイメージついたから」
「……」
さらりと話す先輩の言葉の裏に、どれだけの悔しさや辛さがあったのか、俺には分からない。
「あと、アナリスト。俺、スポーツやらないので詳しくないんですが、選手とか試合のデータ分析をする人で合ってますか?」
先輩は深く、素早く数回首を縦に振った。
「そ! おれ、ユースのチームに帯同してさ、まだ引き出しの少ない選手にプレーの再現性を持たせられたらいいなって思ったんだよね!」
ん? 俺は引っ掛かりを覚えながら、続く先輩の言葉を追いかける。
「肌感でやれることと、フィードバックもらって、自分の外から見た動き把握したり、フォーメーションの展開可能性わかった状態で入るのってやっぱ違うし!」
「せ、先輩?」
蛍光ペンを持った手を激しく動かして、先輩が熱弁を振るっていた。
俺の見積もりより、難しい言葉を使っている。というか、解像度が明確に違う。
でも。
「でもさ、」
先輩自身も、話しながら〈それ〉には気づいていたみたいだった。目の奥が、すっと暗くなる。
「おれのサッカーは、ちゃんと終わらせてきたから」
蛍光ペンの先が、宙をゆらりと彷徨って、止まった。
きっと管理栄養士も、アスリートをサポートできる仕事として候補に上がったんだろう。
〈ボール蹴れないのに、サッカーが傍にある人生ってなんなんだろ〉
先輩が考えているのは、卒業後の進路じゃなくて。
この先ずっと続いていく、人生なんだ。
どうして福祉にしたんですか、といま問うのは違う気がして、俺は長机越しに先輩の手元の本に手を伸ばす。
「俺も読んでいいですか?」
「おーちゃく」
先輩は本を持ち上げ、俺の手から遠ざける。
「こっち来て」
「はい?」
「一緒に見ればいいじゃん」
リュックとは反対側のパイプ椅子を引き、先輩が招いてくる。
曲がりなりにも〈文芸同好会〉の部室。完全部外者なのに、まったく気にするそぶりはなさそうだった。
こういう距離の詰め方は、経験がない。
あなたのことは好ましく思います、を、惜しげもなく晒して、こちらを平気でこじ開けてくるような。
俺の足元で、キュ、と小さくサンダルが鳴った。
「……では」
これ見よがしにルーズリーフの束とペンケースを掴んで、席を立つ。
先輩の隣に腰掛けながら、心にさざなみが起こった。
俺も少しは、可愛げを見せるべきだろうか。
「あっ!」
先輩が真横で声を上げた。
「なんですか」
ふにゃり、と笑う顔を睨みつけてしまった。
「佐倉ん家の柔軟剤、いいねー」
「ん……っ!」
嗅いだのか。ぶわっと一気に汗が噴く。ワイシャツの襟が肌に張り付いた。
首元に指をかけた俺に、追撃が飛んでくる。
「なんてやつ? 昔飼ってた猫のさー、シャンプーしたての腹のにおいに似てる」
褒めてない。
「知らないです……。濃い青の、円筒形のボトルの、」
「えー! それだけじゃわかんないって。めっちゃ似てる」
俺の肩口に近づいてくる先輩の鼻を、掌で遮った。
「親に、聞いておくので」
「ありがとー。じゃ、読む?」
鼻先を押さえてくる後輩の生意気な態度も気にせず、先輩は『総合型選抜』の本を俺の方にずらし、見せてくれた。
蛍光色に彩られた〈志望理由書の構成〉のページを一緒に覗き込む。
「『必要な字数は大学によって600〜2000字と幅がある』。先輩、東央大の社会福祉学部でしたよね。何文字なんですか?」
弁論なら1800字前後でスピーチ原稿を作る。文字数が分かれば、書く内容の深さのイメージがつく。
先輩が首を振った。
「まだ資料、届いてない」
「待つしかないですね」
「そうだねー」
ゆらり、と俺の方に先輩が上半身を傾けた。
また嗅いでないだろうな。
体がこわばる。先輩の気配が、俺の右肩を押さえつけてくるような緊張感。
黙ったままだと余計に、においが立ってしまうような気がした。
「え……っと、構成。構成ですよね。あ、この本、分かりやすいかもっ……!」
ページを指差して、先輩の注意をそちらに向けようと試みる。
=====
◆志望理由書の構成
①概要
将来像を交え、概要を簡潔に述べる
②学部の志望理由
自分の体験と社会課題への気づきを述べる
※将来的な研究テーマに接続される
③大学の志望理由
前段で挙げた内容が、志望大学でこそ実現できる理由を述べる
※安易に施設・設備や就職実績を取り上げない。教育理念や3P(別項記載)、教授名やプログラムの名称を用いるなどし、学びの核の一致と継続性をアピールする
④キャリアビジョン
より詳しく将来像と熱意を述べる
=====
先輩の目が、紙面を滑っていくのが見て取れた。
「少し……、堅めな内容ですね」
同情が滲んでしまった俺の言葉に、先輩は渋い顔をする。
「難しいよね。志望理由書」
他にもっと、いい本があったんじゃないか。
「なんでこの本にしたんですか」
「ゼロからって名前だし、表紙の色きれいだったから」
失敗したかなー、と青色の表紙を見返す先輩に気付かれないよう、ため息をついた。
相手に伝わるように、分かりやすい言葉に言い換える。
弁論の基本だ。
「……志望理由書は、ラブレターなんです」
「ラ、ラブレター?」
先輩が大きくのけぞる。
「たぶん。歌がうまいとかスタイルがいいとか、一方的に褒めるファンレターにするなってことがここには書いてます」
とんとん、と俺は指で2つの※印を叩き、考えながら続ける。
喩えは大げさなくらいで、ちょうどいいはずだ。
「僕は今まで〇〇をやってきて、世の中についてこんな風に思ってる。だから君とはこんなところが合ってるよね。君と二人ならきっと、こんな風に世界を変えていける。だからこれからは一緒にいようよっていう、熱い想いを……」
詭弁が過ぎるな、と思いつつ、視線を感じて言葉を止めた。
先輩が、じっとこちらを見ていた。
「おまえ……」
目がキラキラしていた。俺の説明に感心したような先輩の素振りに、少しのくすぐったさと嬉しさが湧く。
「これで書けそうですか?」
「……書いたことあるの?」
「はい?」
先輩の茶色の目に差す緑は、今日も不思議に光っていた。
「ラブレター」
「ないです!」
本を思いっきり閉じる。
引き受けてよかったんだろうか、この仕事。
その日の夜。
風呂上がりの脱衣所で、群青色の柔軟剤のボトルが目に入った。
ラベルを読もうと手を伸ばしかけて、面倒になってやっぱりいいや、と思って止めた。
◇◆◇◆
翌日は身体測定の日だった。移動が多くて、慌ただしい。
まさか来ないだろう、と思っていたが、放課後も先輩はひょっこり部室にやってきた。
「あれ、誰もいないねー」
俺がいますけど、という毒は心に埋めて、俺は英単語帳を閉じて先輩を迎えた。
「新入生が来てくれなかったので」
「文芸同好会のポスター、情報の授業で作ったみたいなやつだからじゃん?」
「よく知ってますね」
少し驚く。部活掲示板の隅にひっそり張ってある、ワープロソフト感全開の文字だけポスターに気付くなんて。
「まあねー。佐倉は身長、何センチ伸びてた?」
先輩が気軽に出したその質問は、かなり心にくる。
「……3mm縮んでました」
「え、ごめん……」
165.9cm。割りたくないと思っていたその数字を突き付けられて、俺は午前中からそれなりに凹んでいた。
「で、でも、おれもぜんぜん伸びてなかったから」
長机を回って俺の横に腰掛ける先輩を横目で確かめてみる。座高なので不確かだが、170cmは普通に越えていそうなので慰めにもならない。
「早生まれなので、色々諦めてますけど」
学力はともかく、自己肯定感や自己効力感は低下しやすいらしい。俺の自嘲に、先輩が反応した。
「え、誕生日いつ?」
「4月1日です」
「うそ! おれ4月2日。1日違いじゃん!」
そう捉えるか。
「まる2年は離れてますけどね……」
「なんでー? ちょっと遅れたけど誕生日おめでとう〜」
先輩が制服のポケットをあちこち探る。
「なんもないや。ジュースでいい?」
「いや、別に……」
「手伝ってもらうお礼もしてないし!」
手伝うといっても添削くらいのつもりで、こんなに毎日来るとは思っていなかった。
「じゃあ……、コーヒーで」
「もしかしてブラック?」
「はい」
「おっとなー! 行ってくるね!」
俺の反応も確かめず、先輩は渡り廊下の自販機を目指して部室を飛び出していった。
「おれさあ、佐倉の勉強の邪魔はしたくないんだよ」
コーラを片手に、俺から譲り受けたルーズリーフに向かっていた先輩がいきなり言った。
まずは構想メモから作ろう、と方針を立てたところなのだが。
「ごめんね」
「なってませんよ」
俺は英単語帳から顔を上げた。今日の分はあと少しで終わる。
「ほんと? 特進コースの人って、いっつも勉強してるじゃん」
「そうですか?」
俺から見れば、スポーツ・芸術コースの人は練習漬けに見えるので、たぶん同じだ。
私立男子校の翠高には、コースが2つある。
国公立や難関私立大学狙いの特進コースと、プロアスリートやアーティストを多数輩出しているスポーツ・芸術コース。
こんなことでもなければ、接点はなかっただろうな。
「俺は国公立が第1志望ですけど、併願の推薦で私大も受けますから。志望理由書の対策は必要ですよ」
俺の言葉に、机に片肘をついた先輩がふわりと笑う。
「やさしーね」
「別に、そういうわけじゃ」
むずがゆくて、手元の単語帳に視線を戻す。
ぱらぱらと数ページめくれて、進んでいった。
「ありがと」
ページの上に、先輩の声が落ちてくる。
betray[動詞・他]
①裏切る。だます。②……
④〈本心・本音など〉を表す、露呈する
「せ、」
呼びかけようとして、舌がもつれた。
「どした?」
「いえ、あの。志望理由書の文字数、資料待たなくても……、大学のホームページに書いてないかなって」
「んー、募集要項は見たけどさー」
先輩はズボンのポケットからスマホを取り出した。スッスッと画面をスワイプして確認する。
「そういうのはなかったかも」
「いちおう俺も見ていいですか?」
「うん。これねー」
肩を寄せてくる先輩。
人工的な石鹸のにおいの奥に感じる、かすかな温度や湿度。
それらを辿らないよう息を詰めながら、どうして目と違って鼻は閉じれないのかな、と余計なことばかり考えていた。
そして、夜になって。
「あれ?」
風呂上がりの俺は、脱衣所の棚の上を探していた。
ない。
それがあるべき場所に、薄黄色のボトル。赤の割引シール付き。
「母さん!」
濡れ髪のままリビングに駆け込む。ソファに寝転がり、ドラマを観ている母親に声を張る。
「柔軟剤! 変えた?!」
「えー? 前の好きだった? 限定のミモザの香りが安くなってたから、新しくしたの」
そんな母の事情も、深刻な表情で美男美女が向き合うテレビ画面も、今はどうでもいい。
「なんて名前だった? 青のやつ」
俺の髪から雫が落ちて、パジャマの襟に染みる。
「名前? なんだっけ。プラごみにボトルあるから、見てみたら?」
宙に母の指が伸びて、キッチンの方向に向けられた。
「ん……、いい」
さすがに、そこまでして見るほどじゃない。
「母さん」
だけどいちおう、誰かの意見は聞いておこうと思った。
「洗いたての猫って、どんなにおい?」
「猫ぉ? 分かんないけど、お日さまのにおいとかじゃないの」
「お日さま……」
脱衣所に戻り、ドライヤーを掛けながらスマホで画像検索を掛けた。
見覚えのある青のボトルの写真をタップする。
〈リュミエ 軽やかに香りつづくガーデニアミュゲ&ウッディ〉
ミュゲがどんな花かは知らないけど。
お日さまも、腹を出して寝転ぶ猫も。
猫の腹に顔を埋める先輩も、どこにもいなさそうな名前だった。
