きみを知っても終わらない

## 7

 体育祭当日の教室は、朝からいつもより騒がしかった。
 制服からクラスTシャツに着替えた生徒たちが、教室のあちこちで好き勝手に喋っている。
「陽希、これ後ろどうなってる?」
「結び目に髪巻き込まれてる」
 間宮が雑に結んだはちまきを見ながら、陽希は呆れて笑った。
 陽希と間宮は、出場種目が二人三脚リレーと全員参加の綱引きだけだ。なので、実行委員から移動の声がかかるまでのんびりしているが、忙しく動き回っている面々もいる。
「高野! 村岡! リレーのことなんだけど」
 クラスメイトの声を拾う。ちら、と視線を向けた。呼ばれたふたりは教壇のところに集まって、何かを確認しているようだった。
 お互いの相方が呼ばれたからか、間宮もその声に反応した。
「ガチなリレーのほうか」
「でも俺らだって、結構いい感じになっただろ?」
 直近の練習では、どのペアも転ぶことなく最後までバトンを繋げられた。陽希と悠真もかなり走れるようになったので、クラスに貢献できそうだった。朝に練習した甲斐はあったらしい。
「おまえらはな。俺と村岡はぶっつけ本番に毛が生えた程度」
「でも走れてたじゃん。最初から息合ってただろ」
「はっはー、才能あるのかもな」
「はいはい」
 ちょうどそこで、実行委員が手を叩いた。
「そろそろ校庭移動してー!」
 教室のあちこちから返事が飛ぶ。陽希も椅子の背にかけていたタオルを取り、間宮と一緒に立ち上がった。


 二人三脚リレーは午前最後の競技だったが、思っていたよりも早く出番が回ってきた。
 間宮と村岡は二走目、陽希と悠真は四走目。半周ずつ走るため、四人ともスタート地点の反対側にある中継地点に集合する。
 正午が近づくにつれ、日差しが強くなっていた。クラスTシャツ一枚でもじわりと汗ばむ。
「二年の部に出る人は、そろそろ準備してくださーい!」
 立ち位置は陽希が左側、悠真が右側だ。練習で入れ替えたりもしたが、結果的にこの並びに落ち着いた。
「せーの」
 足を結んだあと、試しに少し歩き回る。短い距離を往復して調子を確かめた。
「きつくない?」
「大丈夫」
 悠真が腰を屈め、念のためとでもいうようにバンドを引っ張る。緩みがないことを確かめると、そのまま立ち上がった。
「おまえら余裕そうだな」
 村岡に話しかけられる。そちらのペアも準備は整ったようだ。肩を組みながら、こちらに向かってくる。
「昨日調子良かったし、今日も良さそうだからな」
「うわ、腹立つ。つーか、潮見。よくこいつと息合ったよな?」
 急に話を振られ、え、と首を傾げた。
「だって悠真って基本的に全部動きがでかいだろ」
 大雑把な言い方だったが、村岡の伝えたいことはわかる。それで苦労する段階はふたりの練習でやりきってしまっただけだ。
「悠真に全部合わせてもらうことにしたんだよ」
「へえ。よくできたな、悠真」
「おまえ、俺のこと何だと思ってるんだよ!」
 悠真と村岡が言い合っているうちに、直前のレースが終わったようだった。歓声と拍手が上がり、すぐに次の競技の準備が始まる。
 トラックの向こう側では、一走目のメンバーがスタート地点に並んでいた。こちら側でも係から声がかかり、待機場所に移動した。
「じゃ、行ってくるわ」
「頑張れ、間宮、村岡」
「おー、運動音痴なりにやってくる」
「目指せ一位!」
「悠真は無駄なプレッシャーかけんじゃねぇよ!」
 第二走の間宮と村岡は、トラックへ移動していく。「仲良いな」と悠真に声をかけた。「そっちこそ」と悠真は笑った。
 その背中を見送りながら軽く膝を曲げた。隣で悠真も同じように足首を回している。
「やっぱ勝ちたいの?」
「え?」
「村岡に言っただろ」
「……まぁ、勝負ごとだとやっぱりな。うちのクラスがこの競技でそう思ってないのは、百も承知なんだけど」
 小さな声で言葉を交わす。距離が近いから息遣いまでも感じられる。
 ふ、と笑う。
「クラス対抗リレーも個人種目も出るのに? あと部活リレーもだっけ?」
「どれも勝ちたいよ」
 拗ねたように悠真は呟いた。自分にはあまりない熱量を持っている。
 だからといって、理解できないわけではない。自分が勝ちにこだわっていなくとも、悠真が勝ちたいならば一緒に頑張りたいと思える。
「……ならさ、俺らだけでも一生懸命やろう。何位でバトン回ってくるかわからないけど、一個でも前の順位目指そう」
 意外そうに悠真が笑う。自分らしくないことを言ったのはわかる。陽希はごまかすように眉を寄せた。
 ピストルの乾いた音が響いた。
 一走目のペアがこちらへ向かってくる。先頭争いは僅差で、その少し後ろにも数組が固まっていた。
 間宮と村岡のペアにバトンが渡る。頑張れ、と声を張り上げた。三走目へ渡す直前で一組抜いて、おお、と声が出た。
 そうこうしているうちに、今度は陽希たちの番が近づいてきた。
 悠真が少しだけ身体を寄せる。
「最初、無理に飛ばさなくていいから」
「わかってる」
「合わせてから上げよう」
「うん」
 向こう側から三走目が走ってくる。自分たちのクラスは今のところ三番手だった。
 陽希は前を向いた。
「悠真」
「うん」
 伸ばした手にバトンが触れる。しっかり握り込み、同時に地面を蹴った。
 最初の数歩だけ声を合わせる。抑えめに入り、それから少しずつテンポを上げていく。せめてひとつくらいは順位を上げたい。
「悠真、っ」
 走りながら名前を呼ぶ。もう少しだけ、もう少し。地面を蹴る足に力を込めた。最初のころは全然合わせられなかったのに、悠真はしっかり陽希のペースに合わせてくれた。
 カーブを抜けるころには、数日前の練習よりもずっと速いスピードに乗っていた。けれど、引っ張られる感覚はなかった。
 ゴールはもうすぐ。ただ、目の前を走るペアとの距離は近づいていた。
「いける!」
 悠真の声が弾んだ。
「っ、は……っ」
 陽希はもう一段だけペースを上げた。悠真も遅れずについてくる。
 足をもつれさせることなく、そのまま残りの直線を駆け抜けた。
 ゴールラインを通り過ぎて徐々に減速する。追いかけてきた係の生徒から、『2』と書かれた順位札を渡される。
「え、抜いた?」
 肩で息をしながらその数字を見つめる。
「陽希!」
 勢いのまま悠真が飛びつくように肩を組んでくる。がくりと膝を崩しつつ、なんとかこらえる。
 差し出された手に、自分の手を合わせた。小さく鳴った音が、周囲の歓声に紛れた。視界の端に走ってくる間宮と村岡が見えた。
 一位ではない。それでも、妙に嬉しかった。
 ひとつでも順位を上げようと言った通り、前のペアを追い抜けた。
「いままでで一番息合ってたよな!」
「……そうかも」
 隣で悠真が楽しそうに笑っている。その顔を見ていると、陽希までつられて頬が緩んだ。


 昼休みを挟んで、午後の競技が始まった。
 午前中よりも日差しが強くなった気がする。陽希はクラスの待機場所でペットボトルの水を飲んだ。ぬるくなりかけた水でも、乾いた喉には心地よかった。
 一息ついて、トラックの方へ視線を向ける。
 次はクラス対抗リレーだ。
 午前中の二人三脚リレーとは違い、こちらは純粋に俊足自慢が集まっている。スタートラインに出場者が並ぶ。そこに悠真もいた。
「おー、高野やっぱ速ぇなー」
「だな」
 隣で同じように観戦している間宮は感心したようにため息をこぼした。
 長い脚が大きく前へ伸びる。中継地点を前にしてさらに速くなったように見えた。
 バトンもスムーズに受け渡しされ、二走目のクラスメイトが走り出していった。わずかな差ではあったが、一番手でバトンを持ってきた悠真に、待機場所のクラスメイトが盛り上がる。
「悠真良いぞー!」
「今年はバテなかったなー!」
「うるせえ!」
 友人からの野次が聞こえたらしい。走り終わったばかりで息が上がっているのに、悠真は振り返って言い返していた。
「今年は?」
 陽希がポツリとこぼす。すると、偶然その言葉を拾ったらしいバスケ部の大川が「あいつ、去年後半めっちゃ失速したんだよ」と教えてくれた。
「へぇ」
 陽希が悠真と同じクラスになったのは今年からだ。去年の体育祭でどう走ったのかも、そのとき誰と一緒にいたのかも知らない。
 リレーはまだ続いている。一位と二位を行ったり来たり。かなり競り合っている。クラスの応援も熱が入っている。
 悠真もトラック横で走者に声援を送っていた。陽希の視線は、競技よりもそちらへ引き寄せられていた。
 そのあとも、次々と競技が行われている。
 陽希が次に参加する綱引きは体育祭の一番最後の競技だ。なのでそれまで応援しかすることがない。日陰に逃げつつだらだら喋っていると、グラウンドの端がにわかに騒がしくなった。
「あ、部活リレーか」
 間宮の言葉につられてそちらを見る。
 部活ごとに集まった生徒たちが、いつもの制服やクラスTシャツとは違う格好で並んでいる。運動部はユニフォーム姿が多く、文化部のなかには競技というより出し物に近い格好をしているところもあった。
 そのなかに、悠真を見つける。
 バスケ部のユニフォームを着て、背の高い男子たちに囲まれていた。クラスで見ると頭ひとつ分大きく見えるが、あの並びでは突出しているわけではないらしい。
 同じクラスの大川もいる。しかし、それ以外はほとんど知らない顔だった。
 悠真より背の高い男子が悠真の背を叩く。笑いながら軽く頭を下げているので、相手は先輩だろう。その後ろから別の男子に声をかけられ、今度はそちらを向く。
 仲がいいのだろう。ただの気安さだけではなく、同じものを追いかけている者同士だからこその結びつきがあるように見えた。
「悠真、何走目だろ」
 ぽつりと呟く。
「どうだろな〜。ってかバスケ部はやっぱりバスケットボールをバトンにすんのかな? 渡しづらくね?」
 部活対抗リレーは、半分くらい余興のような競技だった。バトンは部活に縁のあるものと決められているせいで、最初から大きく不利になっている部活もある。
「バスケ部がボール持ったまま爆走すんのって体育祭だけだよな」
「サッカー部もボール抱えてるな」
「めちゃくちゃだな」
 間宮がぽつりとこぼした言葉に思わず笑う。実際なら反則行為すぎる。
 悠真は三走目だった。
 バトン代わりのバスケットボールを受け取ると、一気に前の走者との差を詰める。午前中から何度走っているのかわからないのに、足取りは軽い。
「元気だなぁ」
 間宮の呟きに陽希も頷いた。
 次の走者にパスをした悠真は、そのままコース脇に避ける。バトンの受け渡しでチェストパスが許されているらしい。いいのかそれで、と思うが、係の生徒が見守っているので問題ないのだろう。
 中継地点で待っていた後輩らしい男子が悠真に駆け寄っている。テンションが上がった様子の後輩を笑顔で迎えていた。走りではしっかりとひとり抜いていたのでさすがだった。


「集合ってそろそろ?」
 クラス席に戻ってきていた実行委員に声をかける。彼は声をかけた陽希に頷きを返したあと、「もーちょいでアナウンスあると思うよ」と答えた。
「俺、もう運動する身体じゃなくなっちゃったけどな」
「そこらへんで飛び跳ねてくれば?」
 えぇ、と不服そうに眉を寄せつつも、間宮は本当にストレッチをしに行った。ずっと座っていたので、陽希も身体が固まっている感覚はわかる。
「はーるき」
「ん? あ、今日大活躍の人だ」
「ずいぶん距離感ある言い方だな」
 悠真が隣にやってくる。朝より髪は乱れていて、近づくと少し汗の匂いがした。
 出場競技が多いのもあるが、クラスの応援旗を持つ役も請け負っていたらしく、ずっと前の方で旗を抱えていた。
「俺にとっての体育祭は、間宮とくだらない話をし続ける時間になってたからな」
「それもいいでしょ。でも俺と二人三脚やったのも忘れるなよ」
 わずかに拗ねたような色を乗せた声音に動きを止める。呆れた笑みを隠すようにうつむいた。
「忘れてないって。今日一番頑張ったやつだ」
 行事が嫌いというわけではない。でも〝なんとなく〟〝それなりに〟で、ずっとやってきた。そんな自分があんなに練習したのだ。それがどれほど大きい出来事かなんて、きっと悠真はわかっていないのだろう。
「本当か?」
「ほんと。少なくとも俺が出た競技では」
「二個しか出ないくせに」
 笑いながら肩を小さくぶつけられる。そうだな、と頷いた。
 午後に入ってから、悠真とはほとんどまともに話していなかった。あちこちに引っ張りだこになっている姿は見ていたのに、こうして隣に立つのは随分久しぶりな気がする。
「部活リレー二位だったな。惜しかった」
 何気なく口にすると、悠真がこちらを見た。
「見てた?」
「見てたよ」
「クラスの方も?」
「当たり前。最初一位でバトン渡してただろ」
 自分でも、よく覚えているなと思う。
 出番が多かったから目についただけかもしれない。けれど、いつ走ったかも、何位だったかも、誰と話していたかも、思い返せばだいたい浮かんでくる。
「見てくれてたんだ」
 悠真はわかりやすく嬉しそうに笑った。
「応援しかすることなかったからな」
「はいはい」
 軽く流される。
 けれど、その笑顔を見ていると、陽希もなんとなく気分がよかった。
 グラウンドでは、最後の競技に向けて係の生徒たちが綱を運び始めている。さっきまで騒がしかった応援席も、少しずつ人が立ち上がり始めていた。体育祭も、もう終わりに近い。
「なあ」
 視線を戻さないまま声をかける。ん、と隣の悠真がこちらを向いたのを感じる。
「今日、部活は?」
「さすがにないよ。片付け終わったら帰る」
 それなら、と陽希はほとんど考える間もなく口を開いた。
「じゃあ一緒に帰ろうよ」
 一呼吸分の間が開く。
「……いいけど」
 悠真らしくもない戸惑いを感じる言葉の揺れに、陽希は視線を向けた。
「方向一緒だろ」
「そうだけど」
 語尾を濁すような様子だった。悠真はまだ何か言いたげにしていたが、やがて諦めたように笑った。
「じゃ、一緒に帰ろう」
 ちょうどそこで、スピーカーからアナウンスが響いた。
 周囲の生徒たちが一斉に動き出す。十分なストレッチをして復活したらしい間宮も戻ってきた。陽希は、「行こう」と悠真を手招いた。