きみを知っても終わらない

 週明けの月曜日、陽希はまた始発電車に乗った。
 最近どうしたの、と訝しげな母親を曖昧な笑みでかわした。自分でも少しおかしい気がしている。
 最初の好奇心は満たされているはずだ。朝の澄んだ空気も、いつもと違う乗客の顔ぶれも、もう知らないものではない。それでもあくびを噛み殺しながら、駅への道を歩く。
 いつもの車両に悠真の姿はなかった。確かに毎日いるわけじゃないと本人も言っていた。今日はそういう日だったらしい。
 悠真が座っていた座席に腰を下ろす。まぶたを閉じたまま、学校の最寄り駅までの時間を一人過ごした。


「なあ」
「ん?」
 昼休み、間宮との会話が一瞬途切れた。少しばかり居心地悪そうに、その場で座り直してそっと顔を近づけてくる。
「……なんかずっと見られてる気がするんだけど」
 心当たりがありすぎて黙りこくった。
 ジュースを奢るという話をしてから一週間近くが経っていた。もちろん、奢られっぱなしにするつもりはない。放課後なり、二人になった時なり、そのうち返せばいいと思っていた。
「何したんだよ、おまえ」
「いや、まあ……うん。ちょっと」
 陽希が視線を上げる。間宮の肩越しに覗き込むと、案の定、悠真と目が合った。
 逸らす。気まずくなって、戻す。
 責めるような、それでいて期待するような目と再びかち合った。嫌味な感じはしないのに、口約束を放置してしまったバツの悪さがある。
 長く息を吐き、陽希は立ち上がった。
「モメたとかはないよな?」
「うん。そこは大丈夫」
 深く頷きながら答える。間宮は安堵に目元を緩めた。
 まさか「こっち来い」の無言の催促だとは、間宮も思わないだろう。
 陽希の様子に気づいたからか、今度はわざとらしいくらいこちらを見ない。
 悠真が仲のいい面々は揃いも揃ってガタイが良い。近づくとなおさらそれを痛感する。
「……高野」
「お、潮見? どうしたん?」
 真っ先に反応したのは、大川――バスケ部のひとりだった。たぶん身長は悠真よりも大きい。細身の身体をひょいと伸ばしてこちらを見る。
「悠真に用だろ? 名前呼んでた」
「何、おまえ日直か何かだったっけ」
「そういうの悠真は忘れないだろー」
 ぽんぽんと言葉が飛び交う。興味の矛先が自分に向かっているのを感じた。
 四方から飛んでくる声を適当にいなしながら、陽希は悠真をうかがう。ニコニコとした微笑みは、誰よりもこの状況を楽しんでいるように見えた。
 悠真がそのつもりなら、と目を細める。
「……実は大した用じゃないんだけど」
「え、そうなん」
「でもなぁ、もしかしたら高野が恥ずかしがるかも?」
 とぼけたように顎に手を当てる。瞬間、沸騰したように盛り上がった。なんだよそれ、とその場の標的が悠真に移ったのを見送ると、陽希は一歩後ろに下がった。
 仕返しというほどではないが、追いかけてこい、という思いのままに回れ右をして教室から出る。向かう先は中庭にある自販機だ。


 中庭へ向かう通路の途中で肩を掴まれた。走ってきたらしく、髪がわずかに乱れている。
「なんて言ってごまかしたんだ?」
「ごまかす? 別に正直に言ったよ」
「ジュース奢られるの待ってたって?」
 はは、と笑う。悠真はそうじゃなくて、と首を横に振った。
「仲良くなったんだって。教室でも普通に話しかけてよってお願いしてたって言った」
「それは……若干語弊があるだろ」
「だいたい合ってるでしょ」
 悠真の言葉を頭のなかで反芻する。素直に頷けないけれど、かといって否定するのも違う。
「……まあ、いいけど」
 軽く流して陽希は止めた足を再び動かす。自販機はすぐそこだ。
「何飲む?」
「選んでいいのか」
「当たり前だろ。おまえが選ばなくてどうするの」
 二台横並びの自販機を眺めながら、悠真が、うーん、と腕を組んだ。悩んでいる悠真のとなりで、陽希はさっさと自分の分のお茶を買った。
 ガタンという音とともにペットボトルが落ちてくる。取り出し口から指の間にキャップを引っ掛けるようにして引っ張り出す。
「高野は? 早く決めて」
 陽希は悠真の背を軽く叩いた。顎で自販機の方を指し示す。
「急かすなって。急かされると、まあスポドリでいいかってなる」
 結局、悠真はスポーツドリンクを指差した。小銭を二枚入れて、ボタンを押す。
「さすがスポーツマン。体育祭も楽しみなタイプ?」
 ペットボトルを差し出しながら問いかける。
 昼休み後のロングホームルームの時間を使って、来月頭の体育祭の参加競技を決めることになっていた。
「まあね」
「なんか立候補すんの?」
 問いかけた瞬間に予鈴が鳴った。顔を見合わせる。
「戻るか」
「だな」
 早足で教室へと引き返す。
 答えは聞けなかったが、どうせすぐにわかることだ。悠真は短距離も速いし、持久力もある。学年初めのころの体育ではそりゃあ目立っていた。きっとどの種目に出ても活躍するのだろうなと思った。


「おまえさぁ……」
 放課後、部活に向かう直前の悠真を捕まえた。悪気のない笑みを向けられ、問いただしてやろうとしていた心意気が徐々にしぼんでいく。
 かと言って何も言わないのはよくない、と息を吸った。
「あんな、その、ある程度ちゃんと練習しないと周りに迷惑かけまくる競技に……俺を……誘うなよ……」
「あ、そっち?」
 誘ったことを怒られるのかと思った、と悠真はからりと笑う。
「そこは別に。ちょうどいい運動部じゃないやつって俺くらいだろ」
「潮見が察してくれて助かった。それにもう、迷惑かけても誰も文句言わないだろ。あの空気から教室を救ったヒーローって言ったって良いくらいだし」
 はは、と苦笑いをこぼす。続けて深くため息を吐いた。もう決まってしまったものはどうしようもないのはわかっていた。
 ――体育祭の競技決めは白熱した。どちらかというと、マイナス方向へと。
 昨年、運動が得意な生徒ばかりを集めて圧勝したクラスがあったらしく、今年からペア競技では運動部同士で組めないことになっている。そのせいで、運動部ではない側も、誘う側も互いに遠慮していた。
 牽制し合うように教室が静まり返ったなかで、悠真はこちらに視線を向けた。
 まさか、と目を瞬かせる。それは問いかけというより、事前予告だったのだと思う。
 悠真が手を上げた。黒板の前で困り果てていた実行委員の表情が明るくなる。
「俺出るよ。相手は潮見、どう?」
 クラス中の視線が突き刺さる。実行委員まで、期待するようにこちらを見ていた。
 陽希は頷く以外の選択肢がなかった。
 そのあと、面白がったのか間宮も「じゃあ俺も出ようかな」と手を上げた。「俺と同じくらいの身長で、俺に合わせてやるって気概のあるやつ」というストレートな注文に、サッカー部の村岡が応じる。
 運動が得意ではない間宮まで堂々と名乗りを上げたことで、張り詰めていた空気も緩んだらしい。そこからは残りの枠も順番に埋まっていった。
「なあ」
「あ、悪い。部活行かないとだよな」
「それもあるけどさ。二人三脚、練習するだろ? 明日、朝練とかどう?」
「朝練って……」
 悠真はバスケ部の朝練もあるはずだ。ということは――。
 窺うように視線を上げる。悠真は首を縦に振った。
「始発。どう? 早起き得意だろ」
「……得意ではないよ」
 自然に目が覚めたのは最初だけだ。それからは、わざわざ目覚ましをかけてまで起きている。
 けれどそんなことを悠真は知らない。
「わかった。始発な。寝坊するなよ」
「たぶん大丈夫。……はは。初めてだな、始発に乗るって前の日に決めるの」
「そうなのか?」
「偶然だって言ってただろ?」
 予定を取り決めると、悠真は「そろそろ行くな」と言って駆け足で体育館へと向かっていった。