間宮とだらだらと喋りながら本屋を散策し、ラーメンを食べ帰宅したあと、母に明日もお弁当はいらないと伝えた。いつもより早めに布団に入り部屋の電気を消す。目を瞑ってから記憶が途切れるまでは一瞬だった。
翌朝、陽希は再び始発電車に乗り込んだ。昨日と同じく三両目だ。今日は何気なく周りを見るのではなく、一人の姿を探して視線を巡らせた。
(あ、いた)
もしかしたらという予感は、ものの見事に的中した。ロングシートの端に座る彼のもとへ足を向け、吊り革に掴まりながら、おはよう、と声をかける。
「早いじゃん」
言葉を重ねると、彼――悠真はゆっくり顔を上げた。口元や頬から自然に力が抜けて、どこかぼんやりしたような表情に見える。
悠真はじっとこちらを見つめ、小さく息を吸った。
「……おまえもな」
声音は少し硬かった。
「まあね。お隣、座ってもいい?」
「どうぞ」
足元に置かれた大きなスポーツバッグをより自分の方に引き寄せながら、悠真は身を縮こまらせるように座り直した。嫌がっているわけではないらしい。
それにホッとしながら、陽希も腰を下ろす。
ガタン、ゴトン。電車の揺れに身を任せながら、なにを言おうか迷う。昨日とは違い、今日はわざわざアラームをかけてまで早起きをしてこの電車に乗った。
突き動かしたのは単純な好奇心だ。しかし、いざ悠真を目の前にしたときにその無粋な感情をぶつけるのは良くないと思った。
足の間で組んだ手が落ち着かない。指の上下を何度か変えながら、窓の外を流れる見慣れた景色に意識を逸らす。
無言の時間はどれくらいだっただろうか。先に口を開いたのは、悠真だった。
「……どうしたんだ、とか言わないんだ?」
「あー、うん、興味がないと言ったら、そりゃ嘘になるけどさ」
なにか嫌なことでもあったのか。教室での姿は演技なのか。有り体に出てくる疑問は陽希のなかにも湧いている。
「聞いてもいいけど」
悠真は反対側の手すりの方へと寄りかかる。発せられた言葉の意味と表情は食い違っているようだった。
きっと陽希が思い浮かんだことを問われるのだろうと、悠真も想定しているのだと思う。
「聞いても……あんま意味ないんじゃない、かな」
「はぁ?」
「だって、俺っておまえのことあんまり知らないし。そうだって言われても、そうじゃないって言われても、否定も肯定もできないだろ」
悠真が寄りかかっていた身体を戻す。こちらの反応を窺っているようだった。
「……他人の言うことは素直に受け止めたほうがいいんじゃないか。とくにそいつ自身のことなら」
陽希の本意を探るように、悠真が言葉を重ねる。
なんと言おうか。少し悩む。自分のなかにあるけれど、うまく言葉にならないものをどう伝えるべきなのか。一呼吸置いて、口を開く。
「そうだけどさぁ。んー……、例えば、アイスが好きな友達がいて、そいつの言う〝好き〟がどういう好きなのかって、人によってちょっと違うだろ?」
同意を求めて視線を向けると、悠真は小さく頷いた。
「でもそれって普段のそいつを知ってれば、なんとなくわかったりするじゃん。人の言ってることを、まるっきり信じてないとかそういうんじゃなくて……なんて言うのかな。どれだけ相手を知ってるかで、自分が踏み込んでいい範囲も変わるんじゃないの」
口に出しているうちに、だんだんと自分のなかでも整理できてきた。
興味がある、というのは、一足飛びに、悠真が始発電車にいる理由を聞きたいのではなかった。たぶん、この人自身のことをもっと知りたいと思った。
こくり、と悠真が喉を鳴らす。陽希よりも高い位置にある瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。
車内アナウンスが次の駅への到着を知らせる。
「ま、結局他人だから、わかんないことも多いけどさ」
ふたりの間に流れていた緊張感がほどけていく。ふ、と悠真が手の甲を口元に当てながら小さく笑った。
「なんか、親身なんだかそうじゃねぇんだかわかんないな、お前」
「別に普通の男ですよ、俺は」
茶化したように返答する。悠真はさらに笑みを深めた。
綾森駅まではあと十分ほどだ。到着してもまだ六時を回らない。
「バスケ部の朝練ってそんな早いの?」
「んなわけないだろ。この時間じゃ校門も開いてない」
呆れたように悠真は首を左右に振った。
「それこそ、潮見は昨日なにしてたんだよ。あんな早く着いて」
暇だろ、と直球に問われ、あはは、と陽希は眉を下げた。
「やー……それな。どうしようもないから朝マックで時間潰してた」
「あぁ、駅前のか」
「そうそう。てか朝マック行ったことなかったんだけど、フライドポテトって売ってないんだな。知らなかった」
「わかる。俺もマックはポテト食いに行くくらいの気持ちだから、朝はないのかよって思う」
「ハッシュドポテトじゃだめなの?」
「ぜんぜん違う。求めてる方向性が違うんだよ。ハッシュドポテトの気持ちと、フライドポテトの気持ちはぜんぜん違う」
「めっちゃ言うじゃん」
笑い声を上げながら背もたれに身体を預ける。こつん、と後頭部が窓に当たった。
「笑いすぎだろ」
「知らなかった。高野がそんなにこだわりあるとはな。発見、発見」
ふう、と息を落ち着けて、目尻を指先で押さえる。ツボに入りすぎて涙が滲んでいた。
横目で悠真を覗き見ると、困惑と不満が混じり合ったように眉を下げていた。
「……ちなみに、細いポテトと太いポテトならどっちが好き?」
「まだ深掘りすんのかよ、この話」
「いいだろ。なあ、どっち?」
自分の太ももに片手を乗せ、悠真のほうへと身を乗り出した。
悠真は若干身体を引きながらも、ううん、と唸りながら唇をきゅっと軽く内側に巻き込む。どうやら考えるときの癖のようだ。
「そうだな、太いほうが好きかな。ホクホクのやつ」
「へぇ。でもマックのポテトも好きなんだ」
「どっちも好きだからな。天秤に乗せたら、ギリギリ勝つかなーくらいのもんだよ」
ふ、と息を吐くように悠真が微笑む。思わずこぼれたような表情が、やっぱり教室で見る笑顔とは違う。
ただ、どちらかが本当で、どちらかが嘘というわけではなさそうだった。
「潮見は?」
「え?」
悠真は首を傾げる。
「いや、だからポテト。細いのと太いの、どっちが好きかって」
「あぁ……俺? うーん、こだわりないんだよな、あんまそういうの」
「人には聞いたくせに?」
今度は悠真が身体を寄せてきた。少しだけ背中を丸めて、こちらを覗き込む。
瞳から逃れるように、ずるりと腰を滑らせる。
「だって、なぁ……」
どちらの好きなところもすぐに浮かぶ。選んでいいよと言われても、おまかせで、と返したくなる。それでどちらを差し出されても同じくらい嬉しいだろう。
答えを出せないままに黙りこくると、先に根を上げたのは悠真だった。
「じゃあ他に好きなものはなんかあんの?」
「好きなものねぇ」
また考え込む。悟ったように、悠真はさらに質問を変えた。
「部活は?」
「入ってない」
「中学のときとかは?」
「一応ソフトテニス部入ってたけど、一年も続かなかったんだよなー。それ以降は科学部入ってた」
「科学好きなのか」
「いや、ほぼ活動してなかったから入っただけ。あー、ただ部室、っていうか科学室だけど、そこでウーパールーパー飼っててさ。世話みたいなことはしてた」
「ウーパールーパー?」
「知らない?」
「名前は知ってるけど、実物見たことない」
「だよな。俺も物珍しくて興味持ったんだよ」
両手を顔の横に持ち上げる。指先をひらりと動かした。
「ここにエラがあって、口がニコーって笑ってるみたいに見えるんだよな。でも、なんか目は感情抜け落ちてるみたいな、そんなちょっとチグハグな感じ? それがけっこう可愛かった」
真っ黒でまんまるな瞳が水槽越しにこちらを見つめてくる。きっと餌をくれる人間と認識されていたのだろう。数年前の記憶を思い返すと自然と笑みが浮かぶ。
「自分で飼ったりはしないのか?」
「しないよ。世話の仕方はわかるけどさ、やっぱり命の責任を持つのはちょっとなぁ。部外者だから気楽に関われた、みたいなところあるし」
部活の引退時期を過ぎてもたまに様子を見に行っていたが、もうその頃にはほとんど科学部の顧問が面倒を見ていた。もともとその先生が連れてきたというから、あるべき形に戻っただけだ。
「たしかに。……迎え入れたら、もう家族だもんな」
悠真は神妙に頷いた。なにか彼自身でも繋がる経験があったのかもしれない。
「高野は? 中学からバスケ部?」
「そう。ミニバスからやってたから、ほかは考えたことなかった」
「すごいな。俺、そこまで続けてるものってないからさぁ。やっぱりバスケ好きなの?」
「ああ、好きだ」
間髪入れずに返ってきた言葉は、陽希が思っていた以上に真摯だった。一瞬気圧される。
緊張を解放するように息を吐く。電光掲示板を確認すると、次が降りる駅だった。もうそんなに時間が経っていたのか、と驚く。
「そういや、学校も開いてなくて朝練もなくて、高野はいつも何してんの」
「うーん……とくに何も」
「突っ立ってるわけでもないでしょ、さすがに」
開門まで一時間くらいはある。悠真の言う通り、突っ立ってそれを待っていたのだとしたら、ただの不審者になってしまう。
「そういう意味だと散歩、になるのか? ぶらぶら歩いて時間つぶしてる」
「一時間も?」
「そう」
首肯しながら、悠真はまぶたを下ろした。
整った横顔からどこか壁を感じた。普通に会話をしてくれるからと好き勝手に話しかけていたが、踏み込みすぎてしまっただろうか。
わからない。いまの自分はあまりに悠真のことを知らない。
「……そう、なんだ」
ふうん、と重ねて相槌を打つ。
「ほら、もう着くぞ。降りるだろ」
スポーツバッグの紐を肩にかけながら悠真が立ち上がる。座席の上の荷物置きに手を添えながら、潮見? と名前を呼ばれた。
『次は綾森、綾森』
気づけば電車はすっかり減速していた。右側の扉が開きます、とのアナウンスに慌てて鞄を持った。
「潮見は今日も朝マック行くのか?」
改札を抜けたところで、悠真が足を止め振り返る。陽希は首を横に振った。
「二日連続はいいや」
「飽きるか」
「まぁね」
肩を竦める。
「――じゃあ、一緒に歩く?」
え、と小さく声がこぼれた。電車のなかで感じたラインの向こう側から手招きされたようだった。
息を詰める。ゆらりと視線を揺らした。
「いいのか」
「いいよ」
悠真の言葉にはまっすぐな力があった。戸惑いがあっという間に晴れる。彼がそう言うのならば、問題ないんじゃないか。無条件に信じさせられる。
悠真の隣に並んで、「どこ行くんだ」と問いかける。
「槻瀬川」
「え、いや、槻瀬川……あぁ、あの川? 結構遠いだろ」
「ちょっと歩くけどさ、ちょうどいいんだよ」
悠真はにこりと微笑む。陽希はさっそく歩き始めた悠真を追いかけた。
綾森駅を出ると、駅前の小さな広場を囲むように低いビルが並んでいる。ファストフードやドラッグストア、カフェといったチェーン店のあいだに、昔からありそうな飲食店や個人商店が混じっていた。
駅前から続く通りをまっすぐ進めば、自分たちの通う県立綾森高校があり、その先は店が減って住宅街になる。さらに進んだ先を、槻瀬川が横切っていた。
悠真の目的地はそこだろう。名前は知らなかったがこの辺りで川といえば、それくらいしか思い浮かばない。
「結構って、三十分くらいだろ」
往復で一時間。たしかにちょうど良いが。
「……え、高野ってそのあと朝練して、そんで授業ってこと?」
「そうだよ」
「はー……、体力あるな」
信じられないという気持ちで首を左右に振った。肩からずり落ちた鞄の紐をかけ直す。
昨日世話になったマックの前を通り過ぎる。昼や放課後なら人の流れが絶えない通りも、この時間は別の場所のように静かだった。
気温の上がりきっていない空気はわずかに湿っている。真夏のそれとは違い、心地良い。
同じ制服を着た人は、自分たち以外にいなかった。
「いつもこんな感じ?」
「さあ」
悠真は首を傾げた。
「一応言っとくけど、別に俺だって毎日始発乗ってるわけじゃないよ」
「へぇ」
「昨日も、今日も、偶然」
「頻度の高い偶然だな」
「ま、そういう気分の時もあるだろ」
それからしばらく会話はないまま、こぶしひとつ分くらいの距離で隣に並んで歩いた。厳重に閉まった校門を横目にまっすぐ進む。
振り返ると、学校の姿が少しずつ小さくなっていた。駅前から続いていた店もほとんどなくなり、代わりに塀や生け垣を構えた一軒家が道の両側を占めている。
このあたりに住んでいる人だろうか。のんびりと歩く老人とすれ違い、ふたり揃って小さく会釈をする。
ちらりと視線を斜め上に向ける。まっすぐ道の先を見ながら歩く悠真の表情は、電車のなかで見せていたものより柔らかくなっているように感じた。
「随分静かだな」
「あんまりこっち来たことなかった?」
こくりと頷く。
「駅前はだいぶ整備されたらしいけど、この辺までは来なかったんだって。だから昔から住んでる人の家が結構残ってるらしい」
「そうなのか。だから庭も広いのかな」
「たぶん。村岡の家ってこのあたりらしくて。なんかの話のときに言ってたんだよ」
村岡と言われ、短髪で日焼けの目立つクラスメイトの顔を思い出す。悠真がよく一緒に過ごしている面々のひとりだ。
「じゃあ徒歩通学? いいな」
「いいよな。通学時間だと電車ってすげえ混むし」
人と人に圧迫される感覚を思い出して、顔をしかめる。そういう意味でも始発はストレスが少なくて良いかもしれない。代わりに睡眠時間を削ることにはなってしまうけれど。
ひたすら道なりに歩いていくと、緩やかな上り坂の先でT字路に突き当たった。
家並みが途切れ、一気に視界が開ける。道路の向こうには槻瀬川が横たわっていた。川に沿って、堤防の上を細い道路が左右に伸びている。
「あっちに階段がある」
「降りるのか」
「うん」
慣れたように進む悠真の半歩後ろをついていく。こころなしか、少しだけ早足になっているようだった。
堤防の斜面には、河川敷へ下りるための階段が埋め込まれるように続いている。悠真は小さめの段差を一段飛ばしで降りていく。おい、と投げかけた声は耳に届いていない。
陽希もあとを追う。堤防の下には舗装された細い道があり、その先には短く整えられた芝生が広がっていた。
悠真は芝生のなかへと数歩足を踏み入れると、ようやく歩みを止める。スポーツバッグを重力に任せて足元に落とし、うつむきながら大きく息を吸い込んだ。
「……ここ、好きなのか?」
「うん」
「どんなとこが?」
陽希も芝生を踏みしめながら悠真に歩み寄る。
「静かなところ。人が少なくて、視界が広いところ」
そう言いながら、悠真はその場にしゃがみ込んだ。片手で大きなバッグを引き寄せて枕代わりに寝転がる。
「汚れるだろ」
「大丈夫、大丈夫。最近雨降ってないし」
あはは、と何がおかしいのか、悠真は楽しげに笑っていた。顔を隠すように乗せた腕の隙間からこちらを見上げてくる。
「潮見も」
今日だけで何度このまっすぐな瞳に捉えられただろう。はあ、と深くため息をこぼしながら、陽希も悠真の隣に寝転がった。
薄水色の空が視界いっぱいに広がる。綿のように薄くかかる雲が、ゆっくりと風に流されていく様子をぼんやりと見つめた。
「……視界が広いってのはわかるな」
わずかに開いた唇から小さく呟く。
「だろ? 俺のお気に入り」
「いつもここに来てるの?」
「たまに」
「ひとりで?」
「うん。誰か連れてきたのは、今日が初めて」
返事をするまでに、ほんの少し間が空いた。
悠真がひとりで過ごしている場所に、今日は自分がいる。そう考えると、さっきまでとは少しだけ景色が違って見える。
「……いいもの教えてもらった」
すん、と鼻から息を吸うと、青々しい香りが伝わってくる。
近くにあるはずなのに、普段は見逃してしまっているものに気づかされた気分だった。
翌朝、陽希は再び始発電車に乗り込んだ。昨日と同じく三両目だ。今日は何気なく周りを見るのではなく、一人の姿を探して視線を巡らせた。
(あ、いた)
もしかしたらという予感は、ものの見事に的中した。ロングシートの端に座る彼のもとへ足を向け、吊り革に掴まりながら、おはよう、と声をかける。
「早いじゃん」
言葉を重ねると、彼――悠真はゆっくり顔を上げた。口元や頬から自然に力が抜けて、どこかぼんやりしたような表情に見える。
悠真はじっとこちらを見つめ、小さく息を吸った。
「……おまえもな」
声音は少し硬かった。
「まあね。お隣、座ってもいい?」
「どうぞ」
足元に置かれた大きなスポーツバッグをより自分の方に引き寄せながら、悠真は身を縮こまらせるように座り直した。嫌がっているわけではないらしい。
それにホッとしながら、陽希も腰を下ろす。
ガタン、ゴトン。電車の揺れに身を任せながら、なにを言おうか迷う。昨日とは違い、今日はわざわざアラームをかけてまで早起きをしてこの電車に乗った。
突き動かしたのは単純な好奇心だ。しかし、いざ悠真を目の前にしたときにその無粋な感情をぶつけるのは良くないと思った。
足の間で組んだ手が落ち着かない。指の上下を何度か変えながら、窓の外を流れる見慣れた景色に意識を逸らす。
無言の時間はどれくらいだっただろうか。先に口を開いたのは、悠真だった。
「……どうしたんだ、とか言わないんだ?」
「あー、うん、興味がないと言ったら、そりゃ嘘になるけどさ」
なにか嫌なことでもあったのか。教室での姿は演技なのか。有り体に出てくる疑問は陽希のなかにも湧いている。
「聞いてもいいけど」
悠真は反対側の手すりの方へと寄りかかる。発せられた言葉の意味と表情は食い違っているようだった。
きっと陽希が思い浮かんだことを問われるのだろうと、悠真も想定しているのだと思う。
「聞いても……あんま意味ないんじゃない、かな」
「はぁ?」
「だって、俺っておまえのことあんまり知らないし。そうだって言われても、そうじゃないって言われても、否定も肯定もできないだろ」
悠真が寄りかかっていた身体を戻す。こちらの反応を窺っているようだった。
「……他人の言うことは素直に受け止めたほうがいいんじゃないか。とくにそいつ自身のことなら」
陽希の本意を探るように、悠真が言葉を重ねる。
なんと言おうか。少し悩む。自分のなかにあるけれど、うまく言葉にならないものをどう伝えるべきなのか。一呼吸置いて、口を開く。
「そうだけどさぁ。んー……、例えば、アイスが好きな友達がいて、そいつの言う〝好き〟がどういう好きなのかって、人によってちょっと違うだろ?」
同意を求めて視線を向けると、悠真は小さく頷いた。
「でもそれって普段のそいつを知ってれば、なんとなくわかったりするじゃん。人の言ってることを、まるっきり信じてないとかそういうんじゃなくて……なんて言うのかな。どれだけ相手を知ってるかで、自分が踏み込んでいい範囲も変わるんじゃないの」
口に出しているうちに、だんだんと自分のなかでも整理できてきた。
興味がある、というのは、一足飛びに、悠真が始発電車にいる理由を聞きたいのではなかった。たぶん、この人自身のことをもっと知りたいと思った。
こくり、と悠真が喉を鳴らす。陽希よりも高い位置にある瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。
車内アナウンスが次の駅への到着を知らせる。
「ま、結局他人だから、わかんないことも多いけどさ」
ふたりの間に流れていた緊張感がほどけていく。ふ、と悠真が手の甲を口元に当てながら小さく笑った。
「なんか、親身なんだかそうじゃねぇんだかわかんないな、お前」
「別に普通の男ですよ、俺は」
茶化したように返答する。悠真はさらに笑みを深めた。
綾森駅まではあと十分ほどだ。到着してもまだ六時を回らない。
「バスケ部の朝練ってそんな早いの?」
「んなわけないだろ。この時間じゃ校門も開いてない」
呆れたように悠真は首を左右に振った。
「それこそ、潮見は昨日なにしてたんだよ。あんな早く着いて」
暇だろ、と直球に問われ、あはは、と陽希は眉を下げた。
「やー……それな。どうしようもないから朝マックで時間潰してた」
「あぁ、駅前のか」
「そうそう。てか朝マック行ったことなかったんだけど、フライドポテトって売ってないんだな。知らなかった」
「わかる。俺もマックはポテト食いに行くくらいの気持ちだから、朝はないのかよって思う」
「ハッシュドポテトじゃだめなの?」
「ぜんぜん違う。求めてる方向性が違うんだよ。ハッシュドポテトの気持ちと、フライドポテトの気持ちはぜんぜん違う」
「めっちゃ言うじゃん」
笑い声を上げながら背もたれに身体を預ける。こつん、と後頭部が窓に当たった。
「笑いすぎだろ」
「知らなかった。高野がそんなにこだわりあるとはな。発見、発見」
ふう、と息を落ち着けて、目尻を指先で押さえる。ツボに入りすぎて涙が滲んでいた。
横目で悠真を覗き見ると、困惑と不満が混じり合ったように眉を下げていた。
「……ちなみに、細いポテトと太いポテトならどっちが好き?」
「まだ深掘りすんのかよ、この話」
「いいだろ。なあ、どっち?」
自分の太ももに片手を乗せ、悠真のほうへと身を乗り出した。
悠真は若干身体を引きながらも、ううん、と唸りながら唇をきゅっと軽く内側に巻き込む。どうやら考えるときの癖のようだ。
「そうだな、太いほうが好きかな。ホクホクのやつ」
「へぇ。でもマックのポテトも好きなんだ」
「どっちも好きだからな。天秤に乗せたら、ギリギリ勝つかなーくらいのもんだよ」
ふ、と息を吐くように悠真が微笑む。思わずこぼれたような表情が、やっぱり教室で見る笑顔とは違う。
ただ、どちらかが本当で、どちらかが嘘というわけではなさそうだった。
「潮見は?」
「え?」
悠真は首を傾げる。
「いや、だからポテト。細いのと太いの、どっちが好きかって」
「あぁ……俺? うーん、こだわりないんだよな、あんまそういうの」
「人には聞いたくせに?」
今度は悠真が身体を寄せてきた。少しだけ背中を丸めて、こちらを覗き込む。
瞳から逃れるように、ずるりと腰を滑らせる。
「だって、なぁ……」
どちらの好きなところもすぐに浮かぶ。選んでいいよと言われても、おまかせで、と返したくなる。それでどちらを差し出されても同じくらい嬉しいだろう。
答えを出せないままに黙りこくると、先に根を上げたのは悠真だった。
「じゃあ他に好きなものはなんかあんの?」
「好きなものねぇ」
また考え込む。悟ったように、悠真はさらに質問を変えた。
「部活は?」
「入ってない」
「中学のときとかは?」
「一応ソフトテニス部入ってたけど、一年も続かなかったんだよなー。それ以降は科学部入ってた」
「科学好きなのか」
「いや、ほぼ活動してなかったから入っただけ。あー、ただ部室、っていうか科学室だけど、そこでウーパールーパー飼っててさ。世話みたいなことはしてた」
「ウーパールーパー?」
「知らない?」
「名前は知ってるけど、実物見たことない」
「だよな。俺も物珍しくて興味持ったんだよ」
両手を顔の横に持ち上げる。指先をひらりと動かした。
「ここにエラがあって、口がニコーって笑ってるみたいに見えるんだよな。でも、なんか目は感情抜け落ちてるみたいな、そんなちょっとチグハグな感じ? それがけっこう可愛かった」
真っ黒でまんまるな瞳が水槽越しにこちらを見つめてくる。きっと餌をくれる人間と認識されていたのだろう。数年前の記憶を思い返すと自然と笑みが浮かぶ。
「自分で飼ったりはしないのか?」
「しないよ。世話の仕方はわかるけどさ、やっぱり命の責任を持つのはちょっとなぁ。部外者だから気楽に関われた、みたいなところあるし」
部活の引退時期を過ぎてもたまに様子を見に行っていたが、もうその頃にはほとんど科学部の顧問が面倒を見ていた。もともとその先生が連れてきたというから、あるべき形に戻っただけだ。
「たしかに。……迎え入れたら、もう家族だもんな」
悠真は神妙に頷いた。なにか彼自身でも繋がる経験があったのかもしれない。
「高野は? 中学からバスケ部?」
「そう。ミニバスからやってたから、ほかは考えたことなかった」
「すごいな。俺、そこまで続けてるものってないからさぁ。やっぱりバスケ好きなの?」
「ああ、好きだ」
間髪入れずに返ってきた言葉は、陽希が思っていた以上に真摯だった。一瞬気圧される。
緊張を解放するように息を吐く。電光掲示板を確認すると、次が降りる駅だった。もうそんなに時間が経っていたのか、と驚く。
「そういや、学校も開いてなくて朝練もなくて、高野はいつも何してんの」
「うーん……とくに何も」
「突っ立ってるわけでもないでしょ、さすがに」
開門まで一時間くらいはある。悠真の言う通り、突っ立ってそれを待っていたのだとしたら、ただの不審者になってしまう。
「そういう意味だと散歩、になるのか? ぶらぶら歩いて時間つぶしてる」
「一時間も?」
「そう」
首肯しながら、悠真はまぶたを下ろした。
整った横顔からどこか壁を感じた。普通に会話をしてくれるからと好き勝手に話しかけていたが、踏み込みすぎてしまっただろうか。
わからない。いまの自分はあまりに悠真のことを知らない。
「……そう、なんだ」
ふうん、と重ねて相槌を打つ。
「ほら、もう着くぞ。降りるだろ」
スポーツバッグの紐を肩にかけながら悠真が立ち上がる。座席の上の荷物置きに手を添えながら、潮見? と名前を呼ばれた。
『次は綾森、綾森』
気づけば電車はすっかり減速していた。右側の扉が開きます、とのアナウンスに慌てて鞄を持った。
「潮見は今日も朝マック行くのか?」
改札を抜けたところで、悠真が足を止め振り返る。陽希は首を横に振った。
「二日連続はいいや」
「飽きるか」
「まぁね」
肩を竦める。
「――じゃあ、一緒に歩く?」
え、と小さく声がこぼれた。電車のなかで感じたラインの向こう側から手招きされたようだった。
息を詰める。ゆらりと視線を揺らした。
「いいのか」
「いいよ」
悠真の言葉にはまっすぐな力があった。戸惑いがあっという間に晴れる。彼がそう言うのならば、問題ないんじゃないか。無条件に信じさせられる。
悠真の隣に並んで、「どこ行くんだ」と問いかける。
「槻瀬川」
「え、いや、槻瀬川……あぁ、あの川? 結構遠いだろ」
「ちょっと歩くけどさ、ちょうどいいんだよ」
悠真はにこりと微笑む。陽希はさっそく歩き始めた悠真を追いかけた。
綾森駅を出ると、駅前の小さな広場を囲むように低いビルが並んでいる。ファストフードやドラッグストア、カフェといったチェーン店のあいだに、昔からありそうな飲食店や個人商店が混じっていた。
駅前から続く通りをまっすぐ進めば、自分たちの通う県立綾森高校があり、その先は店が減って住宅街になる。さらに進んだ先を、槻瀬川が横切っていた。
悠真の目的地はそこだろう。名前は知らなかったがこの辺りで川といえば、それくらいしか思い浮かばない。
「結構って、三十分くらいだろ」
往復で一時間。たしかにちょうど良いが。
「……え、高野ってそのあと朝練して、そんで授業ってこと?」
「そうだよ」
「はー……、体力あるな」
信じられないという気持ちで首を左右に振った。肩からずり落ちた鞄の紐をかけ直す。
昨日世話になったマックの前を通り過ぎる。昼や放課後なら人の流れが絶えない通りも、この時間は別の場所のように静かだった。
気温の上がりきっていない空気はわずかに湿っている。真夏のそれとは違い、心地良い。
同じ制服を着た人は、自分たち以外にいなかった。
「いつもこんな感じ?」
「さあ」
悠真は首を傾げた。
「一応言っとくけど、別に俺だって毎日始発乗ってるわけじゃないよ」
「へぇ」
「昨日も、今日も、偶然」
「頻度の高い偶然だな」
「ま、そういう気分の時もあるだろ」
それからしばらく会話はないまま、こぶしひとつ分くらいの距離で隣に並んで歩いた。厳重に閉まった校門を横目にまっすぐ進む。
振り返ると、学校の姿が少しずつ小さくなっていた。駅前から続いていた店もほとんどなくなり、代わりに塀や生け垣を構えた一軒家が道の両側を占めている。
このあたりに住んでいる人だろうか。のんびりと歩く老人とすれ違い、ふたり揃って小さく会釈をする。
ちらりと視線を斜め上に向ける。まっすぐ道の先を見ながら歩く悠真の表情は、電車のなかで見せていたものより柔らかくなっているように感じた。
「随分静かだな」
「あんまりこっち来たことなかった?」
こくりと頷く。
「駅前はだいぶ整備されたらしいけど、この辺までは来なかったんだって。だから昔から住んでる人の家が結構残ってるらしい」
「そうなのか。だから庭も広いのかな」
「たぶん。村岡の家ってこのあたりらしくて。なんかの話のときに言ってたんだよ」
村岡と言われ、短髪で日焼けの目立つクラスメイトの顔を思い出す。悠真がよく一緒に過ごしている面々のひとりだ。
「じゃあ徒歩通学? いいな」
「いいよな。通学時間だと電車ってすげえ混むし」
人と人に圧迫される感覚を思い出して、顔をしかめる。そういう意味でも始発はストレスが少なくて良いかもしれない。代わりに睡眠時間を削ることにはなってしまうけれど。
ひたすら道なりに歩いていくと、緩やかな上り坂の先でT字路に突き当たった。
家並みが途切れ、一気に視界が開ける。道路の向こうには槻瀬川が横たわっていた。川に沿って、堤防の上を細い道路が左右に伸びている。
「あっちに階段がある」
「降りるのか」
「うん」
慣れたように進む悠真の半歩後ろをついていく。こころなしか、少しだけ早足になっているようだった。
堤防の斜面には、河川敷へ下りるための階段が埋め込まれるように続いている。悠真は小さめの段差を一段飛ばしで降りていく。おい、と投げかけた声は耳に届いていない。
陽希もあとを追う。堤防の下には舗装された細い道があり、その先には短く整えられた芝生が広がっていた。
悠真は芝生のなかへと数歩足を踏み入れると、ようやく歩みを止める。スポーツバッグを重力に任せて足元に落とし、うつむきながら大きく息を吸い込んだ。
「……ここ、好きなのか?」
「うん」
「どんなとこが?」
陽希も芝生を踏みしめながら悠真に歩み寄る。
「静かなところ。人が少なくて、視界が広いところ」
そう言いながら、悠真はその場にしゃがみ込んだ。片手で大きなバッグを引き寄せて枕代わりに寝転がる。
「汚れるだろ」
「大丈夫、大丈夫。最近雨降ってないし」
あはは、と何がおかしいのか、悠真は楽しげに笑っていた。顔を隠すように乗せた腕の隙間からこちらを見上げてくる。
「潮見も」
今日だけで何度このまっすぐな瞳に捉えられただろう。はあ、と深くため息をこぼしながら、陽希も悠真の隣に寝転がった。
薄水色の空が視界いっぱいに広がる。綿のように薄くかかる雲が、ゆっくりと風に流されていく様子をぼんやりと見つめた。
「……視界が広いってのはわかるな」
わずかに開いた唇から小さく呟く。
「だろ? 俺のお気に入り」
「いつもここに来てるの?」
「たまに」
「ひとりで?」
「うん。誰か連れてきたのは、今日が初めて」
返事をするまでに、ほんの少し間が空いた。
悠真がひとりで過ごしている場所に、今日は自分がいる。そう考えると、さっきまでとは少しだけ景色が違って見える。
「……いいもの教えてもらった」
すん、と鼻から息を吸うと、青々しい香りが伝わってくる。
近くにあるはずなのに、普段は見逃してしまっているものに気づかされた気分だった。
