きみを知っても終わらない

 開いたドアをくぐり抜けると、いつも同じ場所に視線を向けてしまう。そこに悠真の姿を見つけて、陽希は一瞬だけ足を止めた。
 わかった、と返信が来ていた。だから不安に思うことはなかったはずだが、ホッと身体から力が抜けるようだった。
 悠真もすぐ陽希に気づいた。じっとこちらに向いていた瞳が細くなる。
「おはよう」
「おはよ」
 悠真の隣に腰を下ろす。足元にはいつもの大きなスポーツバッグがあった。今日もこのあと朝練なのだろう。
 電車が発車する。ガタン、と身体が揺れ、肩が触れた。悠真が自然な仕草で身体を反対側に寄せる。
「……元気?」
「会話下手すぎだろ」
 ふ、と悠真が笑った。本当にその通りだった。
「誰のせいだと思ってんの」
「俺?」
「半分くらいは」
 ぴたりと悠真の動きが止まる。居心地悪そうに足を引いて、膝に手を当てる。
「……全部じゃないのか」
 とっさに言い返そうと口を開きかけたが、結局吸い込んだ息をそのまま吐き出した。唇を噛む。
 自分がまだなにも伝えられていないのに、踏み込むのはやりすぎだと思った。
 言いたいことはもう決めている。
 けれど、いざ本人を前にすると、土日のあいだに考えていた言葉がどれもしっくりこなかった。
 悠真のように、まっすぐな言葉をそのまま差し出せたらどれほどよかっただろうか。羨んでも、陽希は悠真とは違う。
「ちゃんと話すから。ちょっと待って」
 陽希は背もたれに身体を預けた。
 悠真が何を考えているのか、全部わかるわけではない。それでも、急かさないことくらいは知っている。自分が黙っていても、気まずさを埋めるためだけに喋り続けたりもしない。
「わかった」
 思っていた通りの返答に安堵した。


 槻瀬川の河川敷の芝生は今日も濡れていた。
 悠真が、こっち、と手招く。二人三脚を練習していた場所に向かう道とは反対方向へ進む。数分で屋根の付いた大きめのベンチが見えてきた。
「こんなとこあったんだ」
「寒くなってくるとどうしてもな。雨の日とかもちょうどいい」
 悠真がスポーツバッグを足元に置く。ベンチに腰を下ろし、隣をトントンと叩いた。身体半分ほどの距離を開けて陽希も座る。
 ふー……、と長く息を吐いた。
「金曜のことなんだけど」
 悠真の身体がこわばったのが伝わってくる。
 腹のなかから取り出して見せられたら簡単なのに、それができないから必死になって言葉を組み合わせる。今までは「まあ、いいか」と消化していたものを、ちゃんと誠実に吐き出さないといけない。
「ずっと考えてた。あの後、付き合ってくれって言われたら、俺は頷いたのかなって」
「……頷く可能性があったのかよ」
 驚いたように悠真はそっと身を乗り出す。まるでそんなことは頭になかったという表情だった。男同士だろ、と消え入りそうな声で続けた。
「そりゃ、偏見はなさそう、というか……たぶんおまえは素直に受け取ってくれるんだろうなって甘えてた。でもさ、それと、本当に先に進めるかは、別の話だろ……」
 悠真の視線が下がっていく。つむじが見えていた。
「だからそういうのも含めて、ちゃんと考えたんだよ」
 悠真の手首を掴む。こっち見て、と声をかけた。陽希は悠真を正面から見る。
「……うん」
 ようやく視線が合った。いまにも泣き出しそうな表情だった。こんな悠真は見たことがない。
 怯えと緊張がこちらにまで伝わってくる。
「そんな顔すんなよ。……いや、させてるのは俺か。ごめん。あと、これからもっとひどいこと言う。それも、ごめん」
 息を詰める。口元が震えた。声が出づらい気がした。
「……同じ好きを返せるかは、考えてもわかんなかった」
 悠真の表情がこわばる。反射的に距離を取ろうとしたのを、手首を掴む力を強めて引き止める。
「でも、悠真が特別ってことはわかった。たぶん、俺ってあんまり人にも物にも執着しない。こんな感じなんだ、って思ったら、もういいかってなる。……でも、ずっと悠真のことだけは気になって仕方なかった。早起きだって、別に得意でもないのにさ、もう、何回乗ったかわかんないだろ? ぜんぶ、ぜんぶ、おまえに会いたくて、おまえと喋りたくてやってた」
 畳み掛けるように言葉を重ねる。いつもより早口になってしまっているのは自覚していた。
 不格好な言い訳にしか聞こえないだろう。けれど、これが剥き出しの本心だった。
「友達って言えば友達なんだろうけど、でも、俺、べつに間宮にそんなことしないし……昔の彼女とだってそんなことしたことない。なにと比べても、どう考えても、俺は、おまえに対してだけ、なんか、おかしいんだよ」
 そこまで言って、ようやく少し息を吐いた。
「……これで、おまえの好きと同じものを返せるかな」
 悠真の眉がわずかに動く。繋いでいるのとは反対の手で、悠真は自分の口元を覆った。
「なんでわかんねぇの」
 らしくない、吐き出すような声音だった。
「そこまで言って、なんで」
 悠真の困惑の理由は理解している。だから視線を逸らした。
「俺に聞かないで」
「おまえ以外の誰に聞くんだよ。だって……それ、どう考えても俺のこと好きだろ」
 悠真は本気でわからないという顔をしていた。
 陽希は少しだけ眉を寄せる。
「……やっぱり?」
「でも、陽希ってそうだったな。好きなもの聞いても、曖昧な答えしか返してこねぇし」
「そうだっけ」
 はあ、と悠真はため息をこぼした。張り詰めた空気がほどけていく。
「正直そんなところに俺は救われてるから、それでいいよ。陽希らしいよ、本当に」
「……そっか」
 悠真の言葉を噛みしめる。ぐるぐると悩み続けていたのは、自分だけで考えていたからだろう。
 とん、と優しく背中を押されたようだった。
 違うと言い張る理由はもうなかった。
「じゃあ、俺、悠真のこと好きなんだな」
 悠真が笑う。
 その顔を見て、陽希も少しだけ口元を緩めた。
「……好きだよ、悠真。俺と恋人になってほしい」
 今度は、確かめるためではなく口にした。
 一秒、二秒。思っていたよりも長い沈黙に、陽希の方が不安になってくる。わがままを言い過ぎて幻滅されたのだろうか。一瞬だけ嫌な想像がよぎる。
 けれど悠真の耳を見れば、その想像に意味がないことがすぐにわかった。
「……悠真」
「ちょっと待って、無理」
「耳赤い」
 悠真は片手で顔を覆った。横を向くから、むしろ真っ赤に染まった耳がよく見えた。
「嬉しすぎて無理」
「紛らわしい言い方するなぁ」
 思わず肩の力が抜けた。
 それと同時に、ずっと悠真の手首を掴んでいた力が抜ける。離そうとした手を、今度は悠真が捕まえた。
 するりと手首から手のひらへ位置がずれる。そのまま指を絡めるわけでもなく、ただ包み込むように握られた。
 悠真の指先は冷たかった。自分のせいなのだろう。
 顔を上げた。悠真のまっすぐな瞳に見つめられると、どうしてか目の奥が熱くなってくる。じわり、と滲んでくる涙の意味がわからなかった。
「俺も陽希の恋人になりたい」
 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に詰まっていたものが一気にほどけた。知らずに止めていた息を吐く。
 悠真も同じだったのかもしれない。繋いだ手に額を寄せる。祈るような仕草だった。
 しばらく、どちらもなにも言わなかった。
 河川敷を吹き抜ける風が、屋根の下まで入り込んでくる。濡れた芝生が朝の光を反射していた。
 変わらない朝だった。乗ってきた電車も、歩いてきた道も、この場所も、なにも変わっていない。
 変わったのは自分たちだけだ。あの日から少しずつ、自分たちにとっては短くない時間をかけて、変わっていった。
 ついさっきまで、好きという言葉すら自分のものにしていいのかわからなかったのに、不思議とそれはぴったりとはまるような気がした。
 握られた手に視線を落とす。
 悠真の指先はまだ冷たい。そのくせ手のひらは少し汗ばんでいて、どれだけ緊張していたのかが伝わってくる。
 陽希は指を動かして、その手を握り返す。
 悠真が顔を上げる。目元が少し赤かった。陽希は自分のことを棚に上げて、からかい混じりに呟く。
「……泣く?」
「泣かない」
「ほんと?」
「たぶん」
 金曜日、自分の手首を掴んだ悠真の手は震えていなかった。きっと隠していただけだ。それでも、あのとき先に一歩を踏み出したのは悠真だった。
 手を繋いだまま、電車で隣に座るときのように距離を縮めた。肩が触れる。電車の中ではすぐに離れていったのに、今はどちらも動かなかった。
 恋人になったからといって、なにをすればいいのかはまだわからない。
 急に何かが変わるわけでもないだろう。学校に通って、授業を受けて、悠真は部活をする。朝に会うかもしれない。休み時間に話すかもしれない。放課後は一緒に帰るかもしれない。
 目に見えるものが同じでも、互いのなかに自分の居場所があると知った。それだけで、同じ毎日も昨日までとは違うものになる気がした。