きみを知っても終わらない

 帰宅するなり自分の部屋に直行して、ベッドに身体を投げ出した。
 制服がしわになる。汗だっていつもよりかいていた。わかっているのに、身体が動かない。
 指先で手首をなぞる。悠真の声が鮮明に蘇った。
「あぁ、もう」
 額を枕に押し付ける。
 嫌じゃなかった。悠真の伝えたかったことを、ただそのまま受け止めた。困っているし、驚いた。
 嫌だったのは、知っていてほしい、と言い切ったあとの悠真が、いつも通りに戻ったことだ。そこまで言ったなら、もう一歩踏み込んでしまえばいいのに、そうしなかった。
 付き合ってほしいとも、返事がほしいとも言わなかった。
 自分の気持ちだけを伝えて、その先は陽希に預けた。
「……ずるくない?」
 枕に顔を埋めたまま呟く。
 けれど、もし先を望むことを問われたとしたら、自分はどう答えただろう。
 考えてみても、やっぱりわからない。黙り込んでしまう自分が簡単に想像できた。
「いや」
 勝手に納得しかけて、すぐに首を横に振る。
 本人に確かめたわけでもない。それこそ陽希自身がついさっき言っていた、あとからならいくらでも理由なんてつけられる、というやつだ。
 身体を反転させて仰向けになる。目に入った天井はいつもと何も変わらない。
 付き合ってほしいと言われたら、きっと困っただろう。
 けれど、結局なにも言われなくても、困っている。
「どっちつかずだなぁ、俺」
 声に出したところで、むなしく響くだけだ。
 枕元に置いたスマートフォンへ手を伸ばした。画面をつける。通知はいくつか溜まっていたが、そのなかに悠真の名前はなかった。
 そもそも、メッセージを送り合ったことはほとんどない。悠真とのトークルームを開く。連絡先を交換したときのスタンプと、放課後に待ち合わせをしたときのやりとりだけだった。
 入力欄をタップする。カーソルが点滅するのをぼんやりと眺めて、電源ボタンを押す。暗くなった画面に自分の顔が映った。ばたんと腕ごと放り投げるようにスマートフォンを枕元に戻す。
 リビングから母親の声が聞こえた。夕飯の用意ができたらしい。のろのろと起き上がり、制服から部屋着に着替える。催促の声に返事をして、部屋を出た。


 まるで眠れなかった。カーテンの向こう側から薄っすらと光が差し込んでくる。逃げるように布団をかぶっても変わらない。
「らしくねぇ……」
 小さな声で悪態をこぼす。
 昔からあまり思い悩まないタイプだった。寝て起きたら、まあそんなこともあるか、と水に流せる。忘れるわけではないが、心の真ん中からは外れているような感じだ。
 その分、執着は薄かった。
 中学の頃に付き合っていた彼女のことを思い出す。
 好きだったし、一緒にいるのは楽しかった。別れたいと言われた時は、素直に寂しいと感じた。
 それでも、相手が終わりにしたいと言っているものを、無理に続けたいとは思わなかった。高校が別になれば生活も変わる。仕方がないものだと納得できた。
 しばらくは、ふとした瞬間に思い出した。それも日に日に減っていった。忘れたわけではない。ただ、いつの間にか思い返さなくなった。
 間宮に「さすがに淡白すぎるだろ」と呆れたように言われたことを思い出す。
 どう返せばいいのかわからなかった。虚勢を張っているわけではない。好きだったことも嘘ではない。
 ただ〝そういうもの〟として身体に馴染んだだけだ。そうなってしまえば、わざわざ手に取って確かめる必要はなくなる。
 陽希は枕に頬を押しつける。
 なら、今回も同じでいいはずだった。悠真は自分のことが好きだという。そうなのか、と受け入れて、そのままでもよかった。好きだからといって、必ず付き合うという話でもないだろう。
 これまでの関係はきっとそのままだ。別れ際の悠真がそう振る舞ってくれたから、陽希は少しだけほっとした。逃げ道を残してくれた。
 なのに、何度目を閉じても悠真の顔が浮かぶ。
 悠真の気持ちを知ったまま、まったく同じ顔をして隣に立つことが、本当にそのままなのか。
 好きだと告げたときの声。
 掴まれていた手首の熱。
 離されたあとの痺れるような感覚。
「……なんなんだよ」
 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
 目を閉じる。眠れるわけがないのはわかっていた。悪あがきだ。しばらく布団の中で粘ってから、陽希は諦めてスマートフォンを手に取った。
 表示された時刻を見る。五時少し前。もう覚えている。始発電車に間に合う時間だった。
 数秒、画面を眺めたまま動かなかった。
 今日は土曜日だ。体育祭の翌日で、当然学校もない。悠真と朝練をする約束も体育祭が終わったのだから、もう必要なくなっている。
 それなのに、気づけば陽希は布団を抜け出していた。
 顔を洗い、適当に服を着替える。そっと足音を忍ばせながら、玄関に向かった。
 家族がまだ眠っている時間に外へ出るのも、いつの間にか珍しいことではなくなっていた。


 外は思ったよりも冷えていた。パーカーのポケットに両手を突っ込み、人気のない道を駅へ向かう。空はまだ暗かった。肌寒くなるにつれ、日の出の時間がどんどん遅くなっている。
 最初に始発へ乗った朝は、それだけで少し浮き足立っていた。
 普段ならまだ眠っている時間に外へ出て、いつも使っている駅の知らない顔を見る。それが面白かった。
 今はもう、改札前のシャッターが何時頃に開くのかも、この時間のホームがどれくらい静かなのかも知っている。
 スマートフォンをかざして改札を抜ける。通り過ぎたところで陽希は一度だけ足を止めた。数少ない利用者が陽希を避けてホームに向かった。
 一体自分は何をしに来たんだろう。
 今さら浮かんだ疑問がおかしくて、口元が少し歪む。
「ほんと、なにやってんだ」
 自分から出たとは思えないほど、弱々しい声だった。悠真のことになると、いつも通りの自分でいられないと嫌でも自覚する。だからこれは答え合わせでしかない。
 休日の始発はいつも以上に空いていた。車内に乗り込んで、陽希は軽く息を吐いた。
 視線だけが、自然とロングシートの端へ向かう。
 誰もいない。わかっていたことだ。
 それでも、胸の奥がわずかに沈んだ。じくり、と滲むような痛みすらも感じる。
「あー……」
 うつむいて、乱雑に髪をかく。陽希は乗り込んだドアのすぐ隣の席に腰を下ろした。対角線上の空席をぼんやりと眺めながら、ため息をこぼす。
 次の駅で乗り込んできた人がその席に座る。それを見届けてから、ようやく視線を逸らした。
 電車は静かに走り出した。陽希は膝の上で両手を組み、窓の外へ視線を向ける。
 見慣れた駅をいくつか通り過ぎた。休日だからか、乗ってくる人も普段より少ない。扉が開いて、閉まる。そのたびに、今なら降りてもいいな、と頭の片隅で考えた。
 途中で降りて引き返したところで、誰に何を言われるわけでもなかった。
 けれど身体は動かなかった。
 結局、綾森駅までたどり着いてしまった。
 ホームへ降りる。ここまで来たこと自体がおかしいのに、改札までの足取りには迷いがなかった。
 駅を出ると、いつもの通学路が目の前に続いている。
 当然、綾森高校の制服を着ている人はいなかった。部活も活動時間にはまだ早い。
 陽希は駅前で立ち止まった。
 ここから電車に乗り直せば、そのまま家へ帰れる。起きてきた家族に、意味のない外出をしただけだ、と話して終わりにしてもいい。
 ゆるりと首を左右に振る。反響する言い訳を追い払って、通学路へ足を向けた。
 休日の朝は、いつもよりずっと静かだった。駅前も開店前の店がほとんどで、通りを走る車も少ない。
 学校の前まで来る。閉じた校門を横目に、そのまま通り過ぎた。
 目的地は槻瀬川の河川敷だ。もう何度も通った。人が少なくて、静かで、視界が広いから好きだと悠真は言っていた。
 住宅街を抜け、川に突き当たると階段を下りる。初めて訪れた時にはなかった朝露が芝生を濡らしていた。たった一ヶ月と少しで、季節も悠真との関係も変わっていた。
 数歩進んで足元を見下ろす。スニーカーに土の汚れがついていた。
「さすがに寝っ転がれないか」
 濡れちゃうもんな、と自分の呟きに答える。もう嫌になる。自分がこう言ったら、こう返ってくるだろう、という想像が無意識で浮かび上がってしまう。
 大きく息を吐く。
 もう、考えるのにも飽きてきた。
 悠真と同じ意味で好きなのかは、まだわからない。けれど、昨日までと同じでいいとも思えなかった。
 自分のなかに悠真がいる。それも、思っていたよりずっと真ん中に近いところにいるらしい。きっと何をするにしても、悠真のことを思い出すのだろう。これがただの友人へ抱く感情に収まりきっていないことだけは確かだ。
 そこまでわかっているなら、今はもう十分な気がした。
「……よし」
 昨日はなにもできずに閉じてしまったトークルームを開く。「月曜、河川敷に行こう」とそれだけを送った。