僕は十八歳の春を君と迎えたい

 まさかあのまま本当に寝てしまうとは思ってもみなくて、僕は混乱した頭で保健室の天井を見ていた。

「うっそ」

 独り言のはずだったのに、カーテンの向こうに人の気配があって口をつぐんだ。保健の先生かなと思っていたのに、カーテンを開けたのはまさかの人物だった。

「……隼、なんで……」

 隼はいつもと変わらない雰囲気のまま、ベッドの端に腰掛けて僕の額に手を置いた。

「軽い熱中症だってさ。気分はどう?」

 新しい事実を突きつけられて、額の熱に溶かされるように、僕はまた頭がぐらぐらしそうだった。

「だ、大丈夫、と、思う」

 隼はフッと呆れたように笑って、熱くなっていたかもしれない額から手を離した。

「熱はないんじゃないかと思うけど、先生呼んでくる。その間に水飲んでろよ」
「う、うん……」

 隼は僕に水の入ったペットボトルを渡すと、そう言ってカーテンの向こうに消えた。

「……そうだ、体育祭は?」

 静かになった室内でそう呟き、急いで身を起こすと少し頭が痛んで「うっ」となる。それをやり過ごしてから、今度はゆっくりと立ち上がって窓に近付いた。

 保健室から校庭は見えないけど、空は太陽が沈みかけているようにオレンジ色が混じっている。人のざわめきも感じられない。

「終わったんだ」

 声に出して、後悔する。言うんじゃなかった。
 ふと唇に手をやった。

 隼が塞いだ、もうひとつ。

「……っ」

 僕は途端に手で顔を覆ってうずくまった。

(夢? 夢じゃないよね?)

 そんなことない。だって僕は救急車が来ることを予知したし、現実に来た。
 それで、体が固まって動けなくなって──

「はぁー……」

 大きく息を吐いて、僕はその場でうずくまった。
 予知の衝撃もそうだけど、今の僕はそれどころではなかった。

 僕は隼と、世間で言うところの、キスをした。

 目的は隼の言う通り、わけもわからず叫ぶ僕を止めること。腕をやたらめったら振り回して隼を遠ざけようとしていた記憶はある。だから隼は手で僕の口を塞ぐという手段が取れなかった。
 苦肉の策、というやつだ。

 けれど、隼は苦しそうだった。泣きそうだとも思った。

「そりゃそうだよね……。隼からすれば、何が悲しくて男にキスしなくちゃいけないんだって思ったはずだし……」

 でも隼はそういうことを口には出さない。元はと言えば僕が悪いのは重々承知しているんだから。体が竦み上がってガチガチになっている僕を気遣ってくれたんだ。隼はそういう奴なんだ。

 だからこそ僕は辛い。

 ファーストキスはもっとロマンチックなタイミングでやるものだと想像していた。馬鹿にされると思うけれど、そんな風に夢見ていたんだ。

 もちろん相手は、希望を最大限叶えられるのなら、隼。笑っちゃいそうなくらいの妄想だ。

 けれど、こんなかたちで実現するなんて思いもよらなくて、こんなかたちになってしまったのがことのほかショックで、僕は保健室の先生を連れた隼が戻ってくるまで、うずくまったまま動けなかった。



「──うん、平熱だし、大丈夫」

 体温計の数字を見た保健の先生から太鼓判をもらい、僕は安静を条件に帰宅が許された。
 予想通り今は午後五時を過ぎていて、体育祭はとっくにお開き、生徒もみんな帰っていた。

「矢弥以外も何人か保健室に運ばれた生徒がいたって。今日は思ったより気温が上がったからだろうって、先生が」

 バス停に向かう道。隼が隣に並んで歩いている。僕の歩調に合わせているみたいだ。僕はなんだかいたたまれなくなって俯いた。

 バスが来る間、来たバスに乗って揺られている間、僕たちは口を開かなかった。別に体調がよくなかったわけではないけれど、隼はそう考えているのか、時折気遣うように声をかけてくる。

「吐き気とか、ないか?」
「……うん、ないよ」
「だるいとかは?」
「大丈夫」
「……そ、か」
「……」

 隼はあのキスのこと、どう思っているんだろう。僕は車を流れを車窓から眺めながら思った。やっぱり不測の事態で、緊急事態で、選択肢がなくて、ああするしかなかった、と納得しているんだろうか。

 幼馴染が相手とは言え、男だし、謝ってくれたし、なかったことにしないと、と思っているんだろうか。
 僕のために、そう考えるのが隼だしな。

「……」
「矢弥? 大丈夫か?」

 隼がまた声をかける。
 あとは僕次第だ。僕が「ごめん、忘れよう」と言えば、隼は忘れる。あれはアクシデントだから、ノーカウントだ。そう隼はやさしく言う。

「うん」

 言いたくないなぁ、と思った。
 


〈──次は、城山台、城山台です〉

 案内アナウンスが車内に響いた。

「……今日さ、泊まりって話」

 隼の言葉に、僕はハッとなった。金曜夜の晩御飯を一緒に食べて、隼の家で泊まる。僕たちは昨日そう約束していた。

「また今度にしよう。あんなことがあったところだし、今週末はゆっくり休んでほしい」

 僕はとっさに隼のジャージの袖を掴んだ。僕の口を拭った袖。僕は言葉が続かなかった。
 隼は〈止まります〉ボタンを押した。

「……隼」
「先生も言ってたろ。安静にしてた方がいい」

 思いのほか強い口調だった。見上げた隼の瞳とは全然違う。
 僕の指が隼のジャージの袖から丁寧に外される。

「……じゃあ、また来週月曜に」

 バスの動きが止まり、隼が椅子から立ち上がる。縋ってはいけない。隼の気持ちを裏切ってはいけない。
 僕はキュッと口を引き結んで頷くだけで返事をした。

 隼が降り、バスが発進する。
 バス停の看板近くに立つ隼は、微笑みながら僕に手を振っていた。僕はそれに何も返せず、ジッと彼を見返すだけだった。
 

「矢弥、あんたのとこ病院送り出たって?」

 家に帰って晩御飯を食べていると、姉がノートサイズの鏡に向かって化粧をしながら話しかけてきた。人が食べてる横で粉を塗り広げるのはやめてほしい
 と、母さんからすかさず「お姉ちゃん、それはあっちでやんな」と注意が入った。

「なんで知ってんの」

 訊くでもなく返したら、「弓道部の後輩から教えてもらったの」とのこと。「大騒ぎだったってね。その子も弓道部の子でさ、クラブ対抗リレーに出る予定だったらしくって、三年がひとり二周走ったんだって」

 おかげで順位は散々だったということだ。

「……」

 僕は不安に駆られた。隼はクラス対抗リレーに出たんだろうか? 結果も聞いていない。まさか僕が目覚めるまでそばにいた、なんて少女漫画みたいなことはしてない、と思うけど……。

「てか矢弥、今日は隼のとこに泊まるんじゃなかったん?」

 姉が思い出したように余計なことを言った。

「そうよね、隼ちゃんのお父さん、今晩も帰ってこないって話でしょ?」

 ひとりで夕飯食べて寂しくないかしら? と母。
 既視感がなくても、そう言うだろうな、とは思った。

「……忘れてた。行ってくる」

 僕が箸を置いてそう答えると、母さんが「あらま」と驚いていた。

「はぁっ? ばっかじゃないのぉ?」

 洗面所に続く廊下から呆れた声を上げる姉を、僕は無視した。
 言い訳を考えるのが億劫、という理由もある。

 それよりも、隼をひとりにできない、と妙な焦りを感じたんだ。

 母さんに適当におかずを詰めてもらって、おにぎりも作ってもらった。これを詰めるのは僕。

 僕がもやもやするのは仕方がない。でも隼もやっぱりもやもやしているんじゃないか、と根拠のない確信があった。

 隼の家とはバスの停留所の数で言うと五つ先だけれど、直線距離で言うと、自転車で十分くらいで着く。
 僕は自転車の前カゴに、着替えを入れたトートバッグとビニール袋に入れたタッパーを載せて、慎重にペダルを漕いだ。

(隼、驚くだろうな。……嫌な顔するかな)

 ──なんで安静にしてないんだ。

 こんな言い草はしないと思うけど、もし言ったら、僕は笑いながら帰ればいい。

(笑うんだぞ、絶対)


「──あの、晩御飯、まだかなって、思って……」

 驚くでもなく嫌な顔をするでもない隼は、ポカンとした表情で僕を出迎えた。そして僕の訪問理由に文句をつけることなく、苦笑しながら小さくため息をついただけだった。

「いや、まだだよ。……入って」

 何度も遊びに来た隼の家。二階建て木造アパートの一階にある。
 昔は塗装の剥げた階段にふたりで腰掛け、よく僕の持ってきたカードゲームの攻略本を読みふけっていた。ゲームそのものはなくて、攻略本だけ買ってもらったんだ。その中身を読みながら、僕たちは「これは強い」とか「カッコいいけど弱いからダメ」とか、好き勝手に言い合っていた。

 今も塗装が剥がれている階段は相変わらずで、けれど鉄サビ剥き出しの範囲が広くなっているのが、時間の経過を否応なく突き付けてくる。

「お邪魔します」

 小さく呟くように言って靴を脱ぐ。おじさんの靴はたたきにはなかった。

「安静にしてなくていいのか? 具合は?」

 台所の冷蔵庫から冷えたお茶を取り出しながら隼が訊く。

「さっきまでしてたから、もう全然大丈夫。ごめんね、心配かけて」

 少しの嘘を混ぜて心持ち明るめのトーンで返した。
 隼はそれを聞いて安心したのか、穏やかな笑みを浮かべて「そっか」と言った。

「これ。母さんから。余ったからよかったら食べてってさ」

 半分嘘。隼もタッパーに詰められたおにぎりを見て察したと思う。

「ありがとう。おばさんにお礼言っといて」
「うん」
「矢弥はもう食べた?」
「あー、うん。食べたよ」

 隼はもう一度「そっか」と言って、僕が広げたタッパーの中身を取り皿にいくつか移した。

「俺だけ食べるの、心苦しいな」
「……じゃあ、エビマヨもらおうかな」

 僕の提案が受け入れられ、隼と一緒の晩御飯が再開された。

 しんと静まり返った室内に、僕と隼のふたりだけの咀嚼音が響く。テレビはこの家にはない。見てもいない公共放送の集金がしつこい、とおじさんが集金に来た人の目の前でテレビを投げ落として壊したらしい。

「──そう言えばさ」

 口の中のを飲み込んでから僕は訊いた。隼はまだ噛んでいる途中なので相槌だけ。

「うん」
「リレー。勝った?」

 隼はもぐもぐと続けてから、お茶で流し込むように飲み込んだ。

「……ビリ。負けた」
「うそ⁉︎」
「本当。俺は頑張ったよ。ふたり抜かしたんだ。けど、バトンパスでミスって順位を落としてそのまま。僅差のビリだしってみんなは慰めてくれたけど」
「そっか……」

 僕は別の意味で安堵した。隼は僕に構わず、ちゃんとクラスのメンバーとしての責任を果たしたんだって。

「悔しいね」
「うん。頑張るって約束したのに、果たせなかった」
「約束ってほどじゃなかったよ」

 言いながら僕はちょっと嬉しかった。

「三田さんが救急搬送されたのも影響して、みんなちょっと浮ついてたのがあるかもしれない」
「……だったら、なおさら悔しいよ」

 僕はその上、応援すらできなかった。

「三田さん、クラブ対抗リレーに出る予定だったんだって」
「僕も聞いたよ。姉ちゃんが弓道部のOBなんだ」
「ああ、そういえばそうだったね」

 お茶がなくなったので次を淹れようと立ち上がる。

 冷蔵庫の扉には付箋やプリントなんかが貼ってある。うちも同じだ。町内会の旅行の日程だとか、資源ごみの回収予定日だとか、買い足さないといけないものリストなんかも、マグネットタイプのホワイトボードに書き連ねてある。
 隼の家の冷蔵庫には預金残高が印字されたレシートとか買ったもののレシートなんかが貼ってある。その中に〈三者面談〉のタイトルのペラ紙が無造作にマグネット留めしてあった。

「そっか、今月末にあるんだっけ」

 隼は僕の呟きを察して、「四時間授業でラッキーだね」と言った。

「おじさん……来れるの?」

 僕の問いに隼は肩を竦ませた。

「話はしてあるけど、どうだろうな」

 三年になったばかりの時は来たから、と消極的な見解だ。

「やっぱり、就職は変わらない?」
「進学は費用がかかるからな」
「そう、だよね……」

 同じところ、とはまではいかないが、隼と大学生をやってみたい気持ちもなかったとは言えない。けれど彼の家庭事情がそうはさせてくれないだろうことも、痛いほどよくわかる。

 でも、隼はそんな自分を本当に受け入れているんだろうか。
 いいや。隼の将来は隼のものだ。僕みたいな他人がどうこうする権利もない。

 でも──

(知りたい)

 そもそもなぜ僕は隼のことがわからないんだろう。数秒先でもいいのに、隼にだけ僕の既視感が生まれないのはなぜなんだろう。

「ありがとう」
「っえ?」

 僕はびっくりした。僕の中に埒もない願望が生まれたのがバレたのかと思った。

「お茶、淹れてくれて」
「あ、ああ、そんなの、なんてことないよ」

 当然、そんなことはない。僕は内心ほっとした。

「矢弥は俺のこと気にせず、自分のやりたいことをしたらいいよ。俺は矢弥の夢を応援する」
「ははっ、その言い方、親より優しいね」

 つい笑ってしまった。

「矢弥のおじさん、厳しいの?」
「いやぁ、厳しいのは母さんの方かな。学費もバカになんないのはうちも同じだから、進学するんなら奨学金取れるように成績上げるか、今からでもバイトして学費稼ぐかって……」

 言いながら現実を突きつけられている気分になって、僕はうんざりしていく。

「矢弥ならどっちを選んだってできるよ」
「応援ありがとー……やばい、現実逃避したい」
「ははは」

 なんだかんだで和やかに晩御飯を食べ終わって、ふたりで皿洗いをする。他愛もない会話はいつも通りで、僕はホッとしていた。隼がひとりで寂しいかも、だなんて、僕の杞憂だったのかもしれない。

「じゃあ次、これやろうよ。現実逃避」

 僕はトートバッグから取り出した携帯ゲーム機を隼に見せた。隼は心得たとばかりにニッと笑い、「負けないぞ」と腕まくりするフリをした。
 リズムゲーム、レースゲーム、パズル対戦ゲーム。
 隼といつもしていたゲーム、やりたかったゲーム。

 僕は満ち足りた気持ちでいた。
 本当は隼に話そうかどうか悩んでいたんだ。どうして体育祭のあの時、あんなに怖かったのか。どうして「未来」というくらい先のことがわかってしまったのか。
 隼があのキスを本当はどう思っているのかも。

 でも僕には勇気がなかった。
 自分に変なことが起こっていることより、これを訊いたことによって、僕の気持ちが隼にバレる方が、よほど怖い。
 隼だって、あのキスを掘り返してもらいたくはないと思う。

 だから僕は、なかったことにすることにした。
 あれはアクシデント。緊急事態。やむを得ない対処。

 ……ひどい言い訳だ。

 要は隼には、変わらないでいてほしいという、僕の醜い願望に過ぎない。
 僕達はこれまで通り、近所に住む幼馴染で、誰も何も進まない。

 これでいいんだ。



 ゲームも飽きて、時間は夜中も過ぎた。うとうとする僕に、隼はタオルケットを掛けてくれた。

「いいよ……隼も、さ」

 隼が使いなよ、これ。と、ふにゃふにゃとしか喋れなくなっている僕に、隼は呟いた。

「なんでこう、違ってばっかりなんだろうな」

 耳は生きていたから「どういう意味?」と訊きたかったけれど、僕の口は何も紡げなかった。

「おやすみ、矢弥」

 隼が小さい声で呟くように。
 おやすみ。僕の返事が届いたか、わからない。