「明けましておめでとうございます」
毎年恒例の新年の挨拶。
空森家は一月一日の朝七時にリビングに集まり、こうやって新年の挨拶を交わす。そのあとはお年玉をもらい、近くのスーパーで買ったおせちに箸を伸ばした。
テレビからは華やかな振袖を着た芸能人が「明けましておめでとうございます!」と賑やかに会話している。
僕はそれをぼんやり眺めながら伊達巻を突ついていた。
「矢弥、隼ちゃんと結局どうなったの?」
「どうって?」
母さんが数の子の入ったタッパーを開けながら言った。
「ちゃんと仲直りしたのかって訊いてんのよ。まー、あれから今までのあんたを見てると、とてもそうは思えないけど」
母さんの鋭い指摘に、僕は「ほっといてよ」とぶっきらぼうに答えるしかできなかった。
理由は当然、図星すぎるので。
僕が入院した日から、隼とは連絡をとっていない。毎年していた「あけおめ」メッセージのやりとりもない。歴史クラブのグループメッセージ欄は「あけおめ」で賑わっているのに、隼のアカウントは新年の挨拶ひと言以降沈黙したままだ。
多部山からは『国府谷先輩に何かあったんですか?』と個別メッセージが届いた。何かを察しているんだろうか。僕には『大丈夫だよ』と返答する以外にできることはなかった。
「はー辛気臭いったらないわ。さっさと初詣に行きましょうよ、お父さん」
母さんがお雑煮をさっさと平らげて言い出した。
「あっ」
僕の上げた声に家族がいっせいに僕を見た。
「いきなり何よ矢弥」
「まさかの異物混入?」
「喉に何か詰まったか?」
「……いや、大丈夫、です」
そうだ、初詣。
僕の見た、隼と女の人の光景。あれの背景をよくよく思い出してみると、神社の鳥居とか、振袖を着た人の姿があったんだ。
「い、行こう! 初詣!」
初詣にはたしかに我が家も出かける。けれど出発はこれまで繰り返した記憶のとおりなら、もう少しあとだ。早めに行けば隼と出くわす可能性は低い。
隼と会わない日をいつまで続ければいいのか正直わからない。けれどどうしてか、僕は今こうしないといけないと思った。
「そうよお父さん。受験生の時間を奪っちゃったら恨まれちゃうわ」
じゃあ行きましょ、という母さんの見当違いな気遣いが、今はありがたかった。
僕たちの住んでいる地域に古くからある神社は、メジャーではないけれど、そこそこの知名度と規模がある。だから毎年の初詣にはたくさんの出店が並び、人が集まる。
僕たちも人並みに流されながら鳥居をくぐり、本殿前に設置された大きな賽銭箱に小銭を投げ入れ、二礼二拍手一礼をすませた。
「あたしおみくじ引きたい!」
「それ終わったらお守り買うわよ。お姉ちゃんは恋愛で矢弥は学業ね。お父さんは厄除けね」
「おれ全部かぁ」
「あたし一応成就してるしなぁ」
「元サヤって成就になるの?」
なんてわいわいやっている家族をよそに、僕の視線はある一点に釘付けだった。
(隼……!)
時間をずらしたはずなのに、人並みの切れた境内の端に、見慣れた姿があった。
何も考えられなかった。とっさに走り出すと、「先にご挨拶頼むわね!」なんて、背中に母さんの声を受ける。返事はしない。
ただ一心に、彼の元へ走った。
「隼っ」
「矢弥……⁉︎」
僕の姿を見つけて戸惑いを隠せない隼と対照的に、気まずさが消えた僕の心は逆に高揚するのがわかった。
「ごめん、隼。僕、わざと早く出たつもりなんだけど……」
僕がはははと苦笑するのに、隼も気まずさが消えたようで、
「いや……俺も、同じことをしたから」
と控えめな笑みを浮かべた。
「え? そうなの?」
「裏目に出たな」
「……出すぎだよ」
僕たちは顔を見合わせて、プフッと吹き出して笑った。
「……明けましておめでとう、矢弥」
「隼も。明けましておめでとう」
言いながら隼の視線は僕の背後だ。
「ちゃんと、家族みんなで来たんだね」
「うん。僕だけ早く行くのも言い訳が面倒でさ」
「そっか」
隼は白い息を吐きながら、眩しそうに目を細めて僕を見下ろした。
「矢弥、しばらく見ないうちに小さくなった?」
「はぁ? そんなわけないよ、隼がでかくなったんじゃない? ……いや、それはそれでなんかむかつく」
「ははっ」
破顔して僕の頭をポンポン撫でる。いつも隼がやるスキンシップだ。懐かしくて、愛おしくて、悲しい。
そういえば繰り返す記憶の中で、隼はいつもひとりで初詣に来ていた気がする。いや、正確には女の人とふたりで。
「……隼は、今回はひとり……?」
「今回は、って、どうして?」
僕の問いに、きょとんとした表情の隼が訊き返す。
「えっと、だから今までのだったら、誰かと一緒に、」
「きみは、矢弥くんか?」
背後から声が掛けられた。言葉が途切れたまま振り返ると、そこには隼のお父さんが立っていた。
「あ、は、はい」
「会うのは夏休み振りかな。明けましておめでとう」
淡々と話す様子はいつまで経っても変わらないし、慣れない。そんな調子のまま年末の入院を労われた。
「隼が巻き込んでしまったそうで、すまなかったね」
「いっ、いいえ! 巻き込んだのはどっちかっていうと僕の方で……」
あわあわと話しながら、彼の背後にいる小さな陰が気になった。
「……隼には昨夜話したんだがね」
と、隼のお父さんは自分の背後をちょっと振り向いて、立ち位置を少しずらした。
「……え」
そこには千鳥格子柄のコートを着た小柄な女の人が立っていた。
僕が夢で見た人。
僕が神社で見た人だ。
「父の再婚相手だよ、矢弥」
「えっ⁉︎」
呆然とする僕に、女の人は穏やかな笑みで礼をする。ぼっちゃりした頬にできたえくぼが愛らしい。
「こっちは空森矢弥。俺の幼馴染です」
「初めてまして、三木です。よろしくお願いします」
隼が僕を手で示して紹介すると、僕の方にも丁寧に礼をされたので、とても居心地が悪い。
「ね、ねぇ隼」
「うん?」
「僕、別に紹介するような関係性じゃないっていうか」
「そうかな? 俺の大切な幼馴染だと思ったから」
「……」
言葉を継げない僕の代わりのように、三木さんが笑う。
「いいなぁ。私、幼馴染って関係の子がいないから、あなたたちが羨ましいです」
「そ、そう、ですか?」
戸惑う僕に、三木さんはにこにこと続ける。
「ええ、ゆうべもその話になって、」
ピリリリリ
彼女の話を遮るように携帯電話の呼び出し音が鳴る。どこからかと視線をやると、おじさんのポケットからだった。おじさんは躊躇うことなく「はい国府谷です」とその場で話し始めたかと思うと、僕たちに手を挙げて去っていった。
「?」
「国府谷さん……あ、隼くんのお父さんって、本当にワーカホリックでね。休み関係なく、ああして仕事をしているんです」
「そ、そうなんですね」
隼のお母さんが亡くなってから続けている習慣だ。それに加えて僕たちは「他の家族がいる」とずっと思い込んでいた。
とんでもない誤解をしていたんだと、僕がバツが悪そうに隼を見やると、隼は隼で困ったように肩を竦めた。
「親父、副業までしてずっと働き詰めだったんだって。見かねたこの人が声を掛けていろいろサポートしてくれてたんだって。息子がいるなんて最近まで知らなかったみたいだよ」
「えっ、そう、なんだ……」
でもどうしておじさんはそこまでして働くんだろう。
「息子さんを、金銭的に不自由させたくないんですって」
三木さんがおじさんの背中がある方を愛おしげに見つめながら言った。
「隼を?」
隼は恥ずかしそうに苦笑した。
「その息子に見捨てられかけてまで、することないのにな」
「……僕、そんなこと知らずに、たぶんおじさんに結構失礼なこと思ってた……」
「大丈夫だよ。俺もそう思ってたし、俺が気にしないから」
「そ、そっか……」
「幼馴染って、いいですねぇ」
そんな僕たちに何を感じたのか、三木さんがそんな風にしんみりと口を開いた。
「俺には兄弟がいないから余計なんだと思います。何にも変えられない特別な存在で、俺にとっては、もうひとつの家族のようなものなんです」
「……っ」
僕は全身が震えた。あの繰り返した日。その隼の穏やかな、とろけるような笑みを見るたびに、胸に棘が刺さった痛みと、「裏切り」という言葉が頭をよぎっていた。だから僕は身を引いたんだ。
でも、そうじゃなくて。
今、こんな風に僕の話をしていんだとしたら?
(もしかして、これがあの日の本当の姿なんだとしたら……)
途端に体が熱くなった。隼。僕は、本当は、本当は──
「すまない、じゃあ行こうか」
「ごめん!」
用事を終えて戻ってきたおじさんと入れ違いに、僕は彼らに断りを入れて隼の腕を取り、その場から逃げるように飛び出した。
参拝客の波を縫うように早足で進む。隼は何かを聞いたそうにしていたけれど、僕は僕の中がそれどころではなく、口を開こうものなら、うっかり大声をあげそうになっていた。
神社の裏手のようなところから敷地を出て、駐車場を通り抜けて、ひっそりとした雑木林に着く。
「……矢弥、どうしたんだ?」
立ち止まった僕の息荒い背中に、静かに隼が問いかける。不安が滲んだ声だった。違うのに。隼の腕を掴んだままの僕の手は、極寒の元旦の空気に反して、たぶん燃えるように熱い。
白い吐息を追いかけるように隼の方を向き、僕は、言った。
「ごめん!」
「矢弥……?」
ガバッと頭を下げて、あ、これ違うやつ、と慌てて頭を上げる。
「や、違くて! あの、あれは僕の勘違いで!」
隼は慈しむように、僕の頭にポンポンと手を置いた。
「落ち着いて矢弥。深呼吸して」
「う、うん……」
言われるがまま、吸って、吐く。混乱して弾む心が落ち着いた気がする。
「えと……僕、断ったでしょ? 隼の告白」
「……うん、そうだね」
寂しそうに笑む隼が痛ましい。
「あれ、なんでかって言うと、僕が見間違えたからだったんだ」
隼がきょとんと僕を見る。
「……何を?」
「あの時の僕、隼とあの人が親しそうに笑ってるところ、見ちゃったんだ」
「……まさか、さっきの会話を?」
今度は目を見開いて一歩前に出た。
「そう。それを見て、僕は『これは僕がひとりで喜んだり悲しんだりしてただけで、隼は最初から僕をそんな風に見てなかったんだ』って。『隼は幼馴染として僕を好きなだけで、僕だけの独りよがりな感情を押し付けるのはよくない』って、思って……」
視界が滲む。惨めなあの時の感情が蘇ってきて、自分の声が上ずるのを聞いた。
「ちゃんと、話をすればよかった。隼のところへ行って、話をしていたら、こんなに遠回りすること、なかったんだよ」
たとえ隼の心が僕の心と違っていても、
「たしかに俺はその時、矢弥のことを話していたけど……」
隼の顔が赤くなる。「そんな顔をしていたの?」って訊くんだから、あの笑顔は自覚がなかったらしい。本当に、「歪んだ気持ち」なんだろうか、と僕は泣き笑いの気持ちになった。
「待ってくれ……じゃあ、矢弥が『いい友だちでいよう』って言ったのは、その時の俺を見たの? そのせいで……?」
信じられない、と隼は言う。僕は「うん、うん」と泣きながら大きく頷いて、
「僕、隼のこと、本当は……本当に、好きなんだよ。やっぱり、諦められないよ……!」
「──や、ひろ」
体が包まれる。
僕の耳の隣に隼の口がある。「やひろ、やひろ」と呟く声が小刻みに震えているのがわかる。
「ごめん……!」
「隼……」
心が少し冷えてくる。これでも、だめなのか、って。僕を包む隼のぬくもりと繋がらなくて、僕はまた涙をこぼしてしまった。
「言っていいのか、わからない……」
くぐもった声が僕の鼓膜をゆする。
「っ……」
「また、矢弥があんな目に遭わないか、怖いんだ……っ」
それを聞いて、僕は体中の力を抜いた。隼も同じような気持ちだったのかな、と思って、嬉しくなった。
僕は隼の体を抱き返して、背中をポンポンと叩く。
「僕も怖い。でも……大丈夫だよ。だって、あの時とは違う。僕は……隼のことが好きなんだから」
隼の体が不意に離れる。いつも飄々として形のいい瞳が潤みを含み、僕をまっすぐ見つめた。
「矢弥……俺は、矢弥が好きだ。矢弥の心が、すべてが、俺を救ってくれた。こんな……俺を、好きでいてくれるか?」
僕は破顔した。
「もちろんだよ! ……僕も好きだよ、隼」
泣きそうになる隼の顔を、僕は両手でがっしりと捕まえた。
「矢弥? ……!」
本当なら僕からじゃなくて隼からしてもらいたいなって思ったけれど、今は僕からした方がいい気がした。
ほら、隼が驚いている。レア隼だ。
「これで、おあいこかな?」
「……ああ」
すぐに持ち直した隼が、今度は僕をギュッと抱きしめる。
「じゃあこれが、本当の初めてのキスだ」
そして僕の口を優しく塞いだ。
毎年恒例の新年の挨拶。
空森家は一月一日の朝七時にリビングに集まり、こうやって新年の挨拶を交わす。そのあとはお年玉をもらい、近くのスーパーで買ったおせちに箸を伸ばした。
テレビからは華やかな振袖を着た芸能人が「明けましておめでとうございます!」と賑やかに会話している。
僕はそれをぼんやり眺めながら伊達巻を突ついていた。
「矢弥、隼ちゃんと結局どうなったの?」
「どうって?」
母さんが数の子の入ったタッパーを開けながら言った。
「ちゃんと仲直りしたのかって訊いてんのよ。まー、あれから今までのあんたを見てると、とてもそうは思えないけど」
母さんの鋭い指摘に、僕は「ほっといてよ」とぶっきらぼうに答えるしかできなかった。
理由は当然、図星すぎるので。
僕が入院した日から、隼とは連絡をとっていない。毎年していた「あけおめ」メッセージのやりとりもない。歴史クラブのグループメッセージ欄は「あけおめ」で賑わっているのに、隼のアカウントは新年の挨拶ひと言以降沈黙したままだ。
多部山からは『国府谷先輩に何かあったんですか?』と個別メッセージが届いた。何かを察しているんだろうか。僕には『大丈夫だよ』と返答する以外にできることはなかった。
「はー辛気臭いったらないわ。さっさと初詣に行きましょうよ、お父さん」
母さんがお雑煮をさっさと平らげて言い出した。
「あっ」
僕の上げた声に家族がいっせいに僕を見た。
「いきなり何よ矢弥」
「まさかの異物混入?」
「喉に何か詰まったか?」
「……いや、大丈夫、です」
そうだ、初詣。
僕の見た、隼と女の人の光景。あれの背景をよくよく思い出してみると、神社の鳥居とか、振袖を着た人の姿があったんだ。
「い、行こう! 初詣!」
初詣にはたしかに我が家も出かける。けれど出発はこれまで繰り返した記憶のとおりなら、もう少しあとだ。早めに行けば隼と出くわす可能性は低い。
隼と会わない日をいつまで続ければいいのか正直わからない。けれどどうしてか、僕は今こうしないといけないと思った。
「そうよお父さん。受験生の時間を奪っちゃったら恨まれちゃうわ」
じゃあ行きましょ、という母さんの見当違いな気遣いが、今はありがたかった。
僕たちの住んでいる地域に古くからある神社は、メジャーではないけれど、そこそこの知名度と規模がある。だから毎年の初詣にはたくさんの出店が並び、人が集まる。
僕たちも人並みに流されながら鳥居をくぐり、本殿前に設置された大きな賽銭箱に小銭を投げ入れ、二礼二拍手一礼をすませた。
「あたしおみくじ引きたい!」
「それ終わったらお守り買うわよ。お姉ちゃんは恋愛で矢弥は学業ね。お父さんは厄除けね」
「おれ全部かぁ」
「あたし一応成就してるしなぁ」
「元サヤって成就になるの?」
なんてわいわいやっている家族をよそに、僕の視線はある一点に釘付けだった。
(隼……!)
時間をずらしたはずなのに、人並みの切れた境内の端に、見慣れた姿があった。
何も考えられなかった。とっさに走り出すと、「先にご挨拶頼むわね!」なんて、背中に母さんの声を受ける。返事はしない。
ただ一心に、彼の元へ走った。
「隼っ」
「矢弥……⁉︎」
僕の姿を見つけて戸惑いを隠せない隼と対照的に、気まずさが消えた僕の心は逆に高揚するのがわかった。
「ごめん、隼。僕、わざと早く出たつもりなんだけど……」
僕がはははと苦笑するのに、隼も気まずさが消えたようで、
「いや……俺も、同じことをしたから」
と控えめな笑みを浮かべた。
「え? そうなの?」
「裏目に出たな」
「……出すぎだよ」
僕たちは顔を見合わせて、プフッと吹き出して笑った。
「……明けましておめでとう、矢弥」
「隼も。明けましておめでとう」
言いながら隼の視線は僕の背後だ。
「ちゃんと、家族みんなで来たんだね」
「うん。僕だけ早く行くのも言い訳が面倒でさ」
「そっか」
隼は白い息を吐きながら、眩しそうに目を細めて僕を見下ろした。
「矢弥、しばらく見ないうちに小さくなった?」
「はぁ? そんなわけないよ、隼がでかくなったんじゃない? ……いや、それはそれでなんかむかつく」
「ははっ」
破顔して僕の頭をポンポン撫でる。いつも隼がやるスキンシップだ。懐かしくて、愛おしくて、悲しい。
そういえば繰り返す記憶の中で、隼はいつもひとりで初詣に来ていた気がする。いや、正確には女の人とふたりで。
「……隼は、今回はひとり……?」
「今回は、って、どうして?」
僕の問いに、きょとんとした表情の隼が訊き返す。
「えっと、だから今までのだったら、誰かと一緒に、」
「きみは、矢弥くんか?」
背後から声が掛けられた。言葉が途切れたまま振り返ると、そこには隼のお父さんが立っていた。
「あ、は、はい」
「会うのは夏休み振りかな。明けましておめでとう」
淡々と話す様子はいつまで経っても変わらないし、慣れない。そんな調子のまま年末の入院を労われた。
「隼が巻き込んでしまったそうで、すまなかったね」
「いっ、いいえ! 巻き込んだのはどっちかっていうと僕の方で……」
あわあわと話しながら、彼の背後にいる小さな陰が気になった。
「……隼には昨夜話したんだがね」
と、隼のお父さんは自分の背後をちょっと振り向いて、立ち位置を少しずらした。
「……え」
そこには千鳥格子柄のコートを着た小柄な女の人が立っていた。
僕が夢で見た人。
僕が神社で見た人だ。
「父の再婚相手だよ、矢弥」
「えっ⁉︎」
呆然とする僕に、女の人は穏やかな笑みで礼をする。ぼっちゃりした頬にできたえくぼが愛らしい。
「こっちは空森矢弥。俺の幼馴染です」
「初めてまして、三木です。よろしくお願いします」
隼が僕を手で示して紹介すると、僕の方にも丁寧に礼をされたので、とても居心地が悪い。
「ね、ねぇ隼」
「うん?」
「僕、別に紹介するような関係性じゃないっていうか」
「そうかな? 俺の大切な幼馴染だと思ったから」
「……」
言葉を継げない僕の代わりのように、三木さんが笑う。
「いいなぁ。私、幼馴染って関係の子がいないから、あなたたちが羨ましいです」
「そ、そう、ですか?」
戸惑う僕に、三木さんはにこにこと続ける。
「ええ、ゆうべもその話になって、」
ピリリリリ
彼女の話を遮るように携帯電話の呼び出し音が鳴る。どこからかと視線をやると、おじさんのポケットからだった。おじさんは躊躇うことなく「はい国府谷です」とその場で話し始めたかと思うと、僕たちに手を挙げて去っていった。
「?」
「国府谷さん……あ、隼くんのお父さんって、本当にワーカホリックでね。休み関係なく、ああして仕事をしているんです」
「そ、そうなんですね」
隼のお母さんが亡くなってから続けている習慣だ。それに加えて僕たちは「他の家族がいる」とずっと思い込んでいた。
とんでもない誤解をしていたんだと、僕がバツが悪そうに隼を見やると、隼は隼で困ったように肩を竦めた。
「親父、副業までしてずっと働き詰めだったんだって。見かねたこの人が声を掛けていろいろサポートしてくれてたんだって。息子がいるなんて最近まで知らなかったみたいだよ」
「えっ、そう、なんだ……」
でもどうしておじさんはそこまでして働くんだろう。
「息子さんを、金銭的に不自由させたくないんですって」
三木さんがおじさんの背中がある方を愛おしげに見つめながら言った。
「隼を?」
隼は恥ずかしそうに苦笑した。
「その息子に見捨てられかけてまで、することないのにな」
「……僕、そんなこと知らずに、たぶんおじさんに結構失礼なこと思ってた……」
「大丈夫だよ。俺もそう思ってたし、俺が気にしないから」
「そ、そっか……」
「幼馴染って、いいですねぇ」
そんな僕たちに何を感じたのか、三木さんがそんな風にしんみりと口を開いた。
「俺には兄弟がいないから余計なんだと思います。何にも変えられない特別な存在で、俺にとっては、もうひとつの家族のようなものなんです」
「……っ」
僕は全身が震えた。あの繰り返した日。その隼の穏やかな、とろけるような笑みを見るたびに、胸に棘が刺さった痛みと、「裏切り」という言葉が頭をよぎっていた。だから僕は身を引いたんだ。
でも、そうじゃなくて。
今、こんな風に僕の話をしていんだとしたら?
(もしかして、これがあの日の本当の姿なんだとしたら……)
途端に体が熱くなった。隼。僕は、本当は、本当は──
「すまない、じゃあ行こうか」
「ごめん!」
用事を終えて戻ってきたおじさんと入れ違いに、僕は彼らに断りを入れて隼の腕を取り、その場から逃げるように飛び出した。
参拝客の波を縫うように早足で進む。隼は何かを聞いたそうにしていたけれど、僕は僕の中がそれどころではなく、口を開こうものなら、うっかり大声をあげそうになっていた。
神社の裏手のようなところから敷地を出て、駐車場を通り抜けて、ひっそりとした雑木林に着く。
「……矢弥、どうしたんだ?」
立ち止まった僕の息荒い背中に、静かに隼が問いかける。不安が滲んだ声だった。違うのに。隼の腕を掴んだままの僕の手は、極寒の元旦の空気に反して、たぶん燃えるように熱い。
白い吐息を追いかけるように隼の方を向き、僕は、言った。
「ごめん!」
「矢弥……?」
ガバッと頭を下げて、あ、これ違うやつ、と慌てて頭を上げる。
「や、違くて! あの、あれは僕の勘違いで!」
隼は慈しむように、僕の頭にポンポンと手を置いた。
「落ち着いて矢弥。深呼吸して」
「う、うん……」
言われるがまま、吸って、吐く。混乱して弾む心が落ち着いた気がする。
「えと……僕、断ったでしょ? 隼の告白」
「……うん、そうだね」
寂しそうに笑む隼が痛ましい。
「あれ、なんでかって言うと、僕が見間違えたからだったんだ」
隼がきょとんと僕を見る。
「……何を?」
「あの時の僕、隼とあの人が親しそうに笑ってるところ、見ちゃったんだ」
「……まさか、さっきの会話を?」
今度は目を見開いて一歩前に出た。
「そう。それを見て、僕は『これは僕がひとりで喜んだり悲しんだりしてただけで、隼は最初から僕をそんな風に見てなかったんだ』って。『隼は幼馴染として僕を好きなだけで、僕だけの独りよがりな感情を押し付けるのはよくない』って、思って……」
視界が滲む。惨めなあの時の感情が蘇ってきて、自分の声が上ずるのを聞いた。
「ちゃんと、話をすればよかった。隼のところへ行って、話をしていたら、こんなに遠回りすること、なかったんだよ」
たとえ隼の心が僕の心と違っていても、
「たしかに俺はその時、矢弥のことを話していたけど……」
隼の顔が赤くなる。「そんな顔をしていたの?」って訊くんだから、あの笑顔は自覚がなかったらしい。本当に、「歪んだ気持ち」なんだろうか、と僕は泣き笑いの気持ちになった。
「待ってくれ……じゃあ、矢弥が『いい友だちでいよう』って言ったのは、その時の俺を見たの? そのせいで……?」
信じられない、と隼は言う。僕は「うん、うん」と泣きながら大きく頷いて、
「僕、隼のこと、本当は……本当に、好きなんだよ。やっぱり、諦められないよ……!」
「──や、ひろ」
体が包まれる。
僕の耳の隣に隼の口がある。「やひろ、やひろ」と呟く声が小刻みに震えているのがわかる。
「ごめん……!」
「隼……」
心が少し冷えてくる。これでも、だめなのか、って。僕を包む隼のぬくもりと繋がらなくて、僕はまた涙をこぼしてしまった。
「言っていいのか、わからない……」
くぐもった声が僕の鼓膜をゆする。
「っ……」
「また、矢弥があんな目に遭わないか、怖いんだ……っ」
それを聞いて、僕は体中の力を抜いた。隼も同じような気持ちだったのかな、と思って、嬉しくなった。
僕は隼の体を抱き返して、背中をポンポンと叩く。
「僕も怖い。でも……大丈夫だよ。だって、あの時とは違う。僕は……隼のことが好きなんだから」
隼の体が不意に離れる。いつも飄々として形のいい瞳が潤みを含み、僕をまっすぐ見つめた。
「矢弥……俺は、矢弥が好きだ。矢弥の心が、すべてが、俺を救ってくれた。こんな……俺を、好きでいてくれるか?」
僕は破顔した。
「もちろんだよ! ……僕も好きだよ、隼」
泣きそうになる隼の顔を、僕は両手でがっしりと捕まえた。
「矢弥? ……!」
本当なら僕からじゃなくて隼からしてもらいたいなって思ったけれど、今は僕からした方がいい気がした。
ほら、隼が驚いている。レア隼だ。
「これで、おあいこかな?」
「……ああ」
すぐに持ち直した隼が、今度は僕をギュッと抱きしめる。
「じゃあこれが、本当の初めてのキスだ」
そして僕の口を優しく塞いだ。
