「矢弥。これあげる」
クリスマスまであと三日と迫ったある日。
夕食を終えた僕がリビングでバラエティ番組を見ていると、不意にあの既視感に包まれた。直後、ドタドタと帰ってきた姉から無造作に何かを渡される。
「何これ……」
姉の半泣きの原因はなんだったか、と思い出そうとするのを中止して、僕は渡されたチケット二枚を眺めた。
そこには「クリスマスマーケット」と書いてあって、場所は市の中心駅近くにある広場。そうだ、昔、家族と行った覚えがある。
「おかえりお姉ちゃん。あら懐かしい。それ『彼氏と行く』って言ってなかった?」
横から入ってきた母さんが姉に訊いた。それが地雷なので姉は「やめてよ言うのー!」とまた泣き出してしまい、僕と母さんはふたりしてげんなりした。
「で、なんで僕なの……」
泣き喚きの合間にそろそろと訊いたら、「隼と行ってきな! これ命令!」と無茶振りをしてきた。
「なんで隼と……てか僕、受験生なんだけど……」
「いいから命令! お土産期待してるからね!」
まったく期待していない言い方で姉はそう言い捨てて部屋に上がっていってしまった。
「また彼氏とケンカしたんでしょ。今度はお正月までかかるかなぁ。いいじゃない矢弥、せっかくだからリフレッシュがてら、隼ちゃん誘って行ってきたら?」
「え、いや、でも……」
「受験勉強も大事だが、友だちとの遊びも大きくなればしたい時にできなくなるんだ。今のうちにやっておきなさい」
父さんまで背中を押そうとする。
「あ、クリスマスツリーのオーナメントとか買ってきてよ! 本場の可愛いの」
「ええー……?」
母さんはウキウキと肩を揺らしてキッチンに戻っていった。行きたいなら母さんたちが行けばいいのに、と言い返したが、「いーのいーの」と謎に勧め返されてしまう。
諦めて部屋に戻り、カレンダーを確認する。今日が二十三日で、イベントの開催は二十五日まで。喧嘩するならせめてクリスマス当日にするとか、もうちょっとタイミングを考えてほしい。
僕にだって難しいことはある。
「よりによって今かぁ」
今の隼に、こんな誘いをすることなんてできるだろうか。既視感が生まれないことがこんなにも不安にさせるなんて思ってもみなかった。
いや待てよ。僕と行くのを少しでも躊躇ったら引けばいいんだ。隼が受験生の僕のことを「心配だから」という理由で躊躇うなら、「じゃあやめておく」に変えればいい。そうすれば誰も悪くない。
(うん、それでいこう)
僕は早速隼にメッセージを送った。
『クリスマスマーケット行く?』
返事は思ったより早く来た。
『いきなりすぎ』
僕は思わずクスッと笑ってしまった。普段通りの穏やかに笑う隼の顔が浮かぶ。直接顔を見ない分、気が楽だ。
『わかる』
『いつ?』
『25日まで。駅前広場でやってるんだって』
リレーが止まった。隼が悩んでいるんだと思って、僕は思わず祈ってしまった。断りますように──って。
でも心の隅で、隼は断らない気がした。これは既視感ではなく、ただの予想。
『行くよ。明日がいい』
僕はスマートフォンを取り落とした。やっぱり、という気持ちと、どこか拭えない違和感が膨らむ。
「……」
『じゃあ、明日夕方に迎えに行くね』
逸る心臓の鼓動を抑えながら、僕はゆっくりとキーをタップし、送信した。
顔を合わせていたら、僕は確実に言葉に詰まり挙動不審になっていたところだ。逆にそっちの方が断る口実を作りやすかったかも知れない。僕は失策に呻いた。でも今さらどうしようもなくて、僕は腹を括って寝た。
※
夢見の悪い朝はもう慣れたけど、今回は緊張した寝不足だった。それを昼寝なんかでなんとか誤魔化して、僕は約束の時間に隼の家に行った。
アウターのポケットには、いつか学校で拾った──というか勝手に持って帰った──青い石を忍ばせてある。会話に困った時にこれを見せて懺悔でもしたら、隼は笑ってくれないだろうか。
「ごめんな、迎えに来てもらって」
「い、いいよ、こっちからバス乗った方が早いし」
僕は内心目をすがめながら言った。休日のラフな恰好をした隼は、眩しいくらいにかっこいい。
ただ、僕に負けず劣らず、心なしか憔悴したように見える。
「寝不足?」
「えっ?」
僕も訊きたかったのに、隼に先を越された。
「疲れて見える」
「そ、そうかな? 勉強、結構頑張っててさ」
僕はへらりと笑った。半分本当だから、大丈夫だ。
「そっか。頑張ってるんだな」
嬉しそうに隼が僕の前髪に触れた。
──祈りを込める。
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
「隼も、なんか疲れてる感じがする」
「……そう、かな」
前髪から指が離れた。言わなきゃよかったかな、と悔やんだ。
「就職活動、難しいの?」
訊きながら、(これは違うな)と確信があった。
隼は「そうだな」と返す。
「次はもうないから、今を精一杯過ごそうかと思う」
「……」
答えになっていない。でもこれ以上訊けない。そんな空気が怖くて、僕はできるだけ声を高くした。
「じゃあ、今日は楽しもうね」
「……ああ、そうしよう」
いつも通学で使っているバスに乗って、今日は学校を通り過ぎ、終点の駅前まで行く。
そこは平日の夕方で冬休みということもあってか、会社勤めの多くの人に混じって、僕たちのような学生や大学生くらいの年齢の人たちが多く集まっていた。みんな駅前広場のクリスマスマーケットが目当てみたいだ。
会場はたくさんの人で賑わっていた。色とりどりのイルミネーションで飾り付けられたアーチをくぐると、そこは本当に外国のようだった。
クリスマスの本場で食べられているというシュトーレンやチョコレートドリンクなんかの甘い匂いが漂い、人々のさざめきを縫うように、アコーディオンやバイオリンの演奏音が響いている。
「うわぁ……やっぱすご」
僕はバス車中のぎこちない空気をすっかり忘れて、目の前の煌びやかな光景に圧倒されていた。
「矢弥は、ここ初めて?」
「えっ? そ、そうだよ、初めて来る……いや、家族で昔一度来たことあったような……」
曖昧に首を傾げてみた。これも半分本当のことだ。もう半分──僕はここに来たことがある。
ずっと考えていたことがあった。
僕のこれまで感じてきた既視感というもの。
既視感とは、脳の処理ミスというのが大体の解釈だとネットでは書いてあった。初めて得た情報を、頭が受け取る時にタイムラグを起こして、「さっき見た・感じたこと」と錯覚する。または似たような過去の記憶と脳がごちゃ混ぜにしてしまう。
バスでサラリーマンが眼鏡を踏むこと。
歴史クラブのノートのタイトルがわかったこと。
体育祭でクラスメイトが救急搬送されること。
(これが、本当に錯覚なの?)
「──矢弥」
ハッとして見ると、隼が心配そうな顔で僕の手首を掴んでいた。
「……あ、あれ? 隼、どうしたの?」
「何度も呼びかけたのになんの反応もなかった。どうしたのは矢弥だよ。……何か、あった?」
「な、何もない、よ? てか、お店とかいっぱいあってキラキラしてて目が眩みそうだね」
僕はまたへらりと笑って周囲を見渡した。
すでに太陽は駅前ビルの向こうに消えてあたりは薄暗く、イルミネーションで着飾った街路樹や屋台のライト、演奏用の舞台のライトなとでまばゆいばかりに煌めいている。
僕は隼とのぎこちない空気から逃げるように、あちこち視線をやり、非日常を楽しもうとした。
隼もそんな僕の心情を察したのか、あれこれと会場巡りに付いてきてくれた。温かいチョコレートドリンクで冷えた体をあたためると、心が少しだけ軽くなった気がする。
「勉強、頑張ってるんだよな」
ベンチに腰掛けた隼が、白い息を吐きながら訊ねる。
「うん。自分史上最高にって感じで。……隼は?」
「なかなかうまくいかないな」
「就職組は先生からいろいろおすすめされてるって聞いたけど、あんまりいいのがない感じ?」
うん、と隼は曖昧に微笑んだ。
「俺は自分で探すってことにしてるから」
「そっか。隼のおじさんから何か言われない?」
お節介とわかってはいるのに、僕は訊かずにはいられない。
「あの人は大丈夫だよ。自分のことは自分でなんとかするさ」
「でも」
僕は言いかけて止まる。
「俺のことも心配しなくても大丈夫だよ。今は矢弥の進路の方が切実だから」
「な、なんだよそれ。僕こそ大丈夫っぽいって思ってるから、水を差されると困ります」
冗談めかして言うと、隼は案の定ハハハと笑ってくれた。
「……それにね、心配にもなるよ」
「ん?」
隼の視線を受けながら、僕は両手で抱えたチョコレートドリンクをすする。
「なんだかさ、隼が自分から、ひとりぼっちになろうとしているような気がするんだ」
「矢弥……」
「全然、気のせいだったらいいんだけどさ。僕の不安に、隼を巻き込んでるだけって可能性、あるじゃん? そうだったら、ごめんって思って、」
不意に僕の左肩が何かに包まれた。これは隼の腕だ。僕の左肩に腕を回して、隼の方へ抱き寄せられている。
「っ、隼? ど、したの?」
跳ね上がる心臓の音を聴かれてやしないかとヒヤヒヤした。僕の頭は隼の首元に埋まるようにすっぽりはまり、はたから見たら恋人同士が肩を寄せ合っているようなんだから。
だから隼の顔が見えなくて、その声の切実な調子の原因がわからない。
「矢弥、俺……」
「……」
続く言葉がなくて、僕は隼と一緒に黙り込んでしまった。コート越しに隼の体温は感じる。でも心臓の音までは聞こえないことに変な寂しさを覚えた。
〈Herzlich willkomm auf dem Weihnachtsmarkt!〉
「‼︎」
突然、会場のスピーカーからそんなアナウンスが音楽とともに流れてきて、僕はハッとして身を起こした。
「そっ、そうだ! 母さんからお土産買ってきてって言われてたんだった!」
「……そうなんだ。じゃあ、それ探しに行こうか」
「う、うん、そうだね!」
ぎこちない会話。結局、隼が何を言うつもりだったのかわからなくなってしまった。
飲み干した紙コップをくずかごに入れて、僕たちは再びマーケットの屋台を見て回った。心なしか頭がツンツンしてきたのは、たぶん体が冷えかけてきたからだろうと思ったんだ。
「おばさんは何を買えって?」
「あー、たしかツリーのオーナメントだったかな。本場っぽいやつって」
「じゃあ、こういうのかな」
その時、僕はふと閃いて、隼が示した店の隣に移動した。
「矢弥、そこは……」
そこは地元ドイツの民芸品を扱っている屋台で、ペン立てや木彫りの人形、キーホルダーなんかが売ってあった。
「いらっしゃい、ここら辺は残り少ないから、よかったら見ていってね」
店員の女の人がにこやかに言う。僕は素直に売りものを見渡して、とあるキーホルダーを手に取った。
「ねぇ隼、これ見てよ。トランちゃんに似てない?」
それは塔覧高校の生徒会が作成した、認知度の低い学校マスコットにそっくりだった。デフォルメされた虎がノートとペンを持っているデザインで、生徒会発信の何やらで目にしたことがある。
「……こっちが元祖って感じだね」
「だね。残念ながらこっちの方が僕は好みだなぁ」
このキーホルダーの虎には目と尻尾の部分にカラーバリエーションがあり、僕は好きな色の青を探した。
「ほら、青色があったよ」
「よかった。じゃあ隼も買おうよ。前は売り切れてたんだよね……、……?」
僕も隼も手が止まった。ふたりで顔を見合わせる。僕は今、何を言った?
「矢弥……?」
隼が信じられないものを見るような目で僕を見た。
「いや、ち、違くて……」
「落ち着いて、矢弥、いいんだ、わかってる」
僕は混乱した頭を振り絞って、手に持ったキーホルダーを売り場に戻し、あとずさりで店を離れた。
会場を巡るイルミネーションの明かりが途切れたような場所、そこまで足が止まらない。
「矢弥、待ってくれ。大丈夫だから」
僕の肩を掴んだ隼が、自分も落ち着かせるような声音で言う。
「わ、わかってるよ、大丈夫、だって本当は明日だもんね、来るの」
「──や、ひろ……っ」
泣きそうになる隼の顔が見えた。
「ぁ……?」
ああ、頭が痛い。
「だっ、て、明日、……ほんと、は、僕、嬉しくて……っ」
「やひろ、待って、だめだ、思い出さないで」
脳内と、目の前にドッと流れ込んでくるものがあった。
それは、幸せな気持ち。
クリスマスの日に、隼と来たクリスマスマーケット。
屋台で見つけた可愛いキーホルダーは、青色が売り切れていた。
とても気落ちしていた僕に、隼はいろいろ慰めてくれた。そしてそのあと、
──俺は矢弥が好き。
聞き間違いかと思って、僕は天に舞い上がりそうになる気持ちを押し留めて、「ありがとう」とだけ答えた。
返事がほしい、と言われて、僕は混乱して「テストの日まで待って」と言った。
そんなに待たせる気なんて本当はなかったのに、僕は自分の気持ちを土壇場で返す勇気が持てなかった。
だから天罰が降ったんだ。
青い空の下、初詣に家族と行った神社で、僕は知らない女性と笑う隼を見かけた。
僕にする、その穏やかな笑顔が、その人に向けられていた。
僕は家に帰ってから机に向かったまましばらく動けなかった。
いつの間にか問題集のテキストとノートが広げられ、僕は猛然と勉強していた。何も考えずにいるには、これが一番よかったんだ。何度も解きすぎて答えが全部頭に入るくらい、何も他に入れる余地を作らせないように。
学校が始まって、何ごともない雰囲気の隼と登校して、当たり障りのない会話をして、帰って、机に向かう。
隼は僕の「返事を待て」に忠実に従っていたんだろう。
あの女の人は誰? 笑っていたのはなぜ? やっぱりあれは違うんだ。僕たちは幼馴染だ。僕の好きと隼の好きは違うんだ。僕はここにいてはいけない。隼には隼の人生がある。僕なんかで隼をダメにしてはいけないんだよ。
共通テスト当日。
僕の応援と、返事をもらうために、隼も付いてきてくれた。
僕は決めていた。隼の返事をするんだ、と。
──僕も好きだよ。いい友だちを持って嬉しいよ。また遊ぼうね。
愕然としたような表情の隼なんて見るのは初めてで、僕はうっかり笑ってしまったんだ。
──ごめん。じゃあ、行ってくるね。
涙は出なかった。せめて試験を受ける教室に入るまで、留めておかないといけない、と心に強く決めていたから。
横断歩道を渡って、建物の入り口に向かう。
遠くで金属の軋む音が聞こえた。何かにぶつかる音と、悲鳴。
振り返ると、隼が僕の方に手を伸ばすところだった。
僕は横断歩道をまだ渡り終えていない。
なんだろう、と音のした方向を見る。
白い鉄の塊のようなものが向かってくる。それは僕の目の前まで来て、全身の感覚が消えた。
次に見えた青い空はすっきりと晴れていて、視界のふちを彩る赤に、僕は(ああ、どうせなら青色がよかったのに)と悔やむ。でも、それも。
──いつか、笑って受け入れられる未来があると、僕も、隼も、いつか──
「あああああっ‼︎」
「矢弥っ‼︎」
僕の突然の叫びに、隼も周囲の人も驚きざわめいた。
隼は僕の肩を掴んで止めようとするけど、僕自身に止められないのにどうすることもできない。
僕の頭の中は今までの何度とも知らない真っ赤な光景が繰り返されていた。
「なんでっ、僕、なんでこんなに、何回も……⁉︎」
「──っ」
隼の顔が歪む。
「なんで⁉︎ 怖い……! 助けて、隼‼︎」
僕は隼に縋りつき、けれど恐怖に囚われて隼の体を弱々しく殴りつけてしまう。
騒ぎを聞きつけた会場のスタッフが心配そうに尋ねるものの、誰もこの騒ぎを説明できない。
僕はもうどうしようもなくなって、隼を押し出し、走り出した。
「矢弥っ、待って!」
隼が叫びながら僕の方に手を伸ばす。
僕にはそれすら恐ろしく、一度振り返ったことを後悔しながら、必死になって走った。行く当てもない。
ただただ、ここから逃げ出したかった。
クリスマスまであと三日と迫ったある日。
夕食を終えた僕がリビングでバラエティ番組を見ていると、不意にあの既視感に包まれた。直後、ドタドタと帰ってきた姉から無造作に何かを渡される。
「何これ……」
姉の半泣きの原因はなんだったか、と思い出そうとするのを中止して、僕は渡されたチケット二枚を眺めた。
そこには「クリスマスマーケット」と書いてあって、場所は市の中心駅近くにある広場。そうだ、昔、家族と行った覚えがある。
「おかえりお姉ちゃん。あら懐かしい。それ『彼氏と行く』って言ってなかった?」
横から入ってきた母さんが姉に訊いた。それが地雷なので姉は「やめてよ言うのー!」とまた泣き出してしまい、僕と母さんはふたりしてげんなりした。
「で、なんで僕なの……」
泣き喚きの合間にそろそろと訊いたら、「隼と行ってきな! これ命令!」と無茶振りをしてきた。
「なんで隼と……てか僕、受験生なんだけど……」
「いいから命令! お土産期待してるからね!」
まったく期待していない言い方で姉はそう言い捨てて部屋に上がっていってしまった。
「また彼氏とケンカしたんでしょ。今度はお正月までかかるかなぁ。いいじゃない矢弥、せっかくだからリフレッシュがてら、隼ちゃん誘って行ってきたら?」
「え、いや、でも……」
「受験勉強も大事だが、友だちとの遊びも大きくなればしたい時にできなくなるんだ。今のうちにやっておきなさい」
父さんまで背中を押そうとする。
「あ、クリスマスツリーのオーナメントとか買ってきてよ! 本場の可愛いの」
「ええー……?」
母さんはウキウキと肩を揺らしてキッチンに戻っていった。行きたいなら母さんたちが行けばいいのに、と言い返したが、「いーのいーの」と謎に勧め返されてしまう。
諦めて部屋に戻り、カレンダーを確認する。今日が二十三日で、イベントの開催は二十五日まで。喧嘩するならせめてクリスマス当日にするとか、もうちょっとタイミングを考えてほしい。
僕にだって難しいことはある。
「よりによって今かぁ」
今の隼に、こんな誘いをすることなんてできるだろうか。既視感が生まれないことがこんなにも不安にさせるなんて思ってもみなかった。
いや待てよ。僕と行くのを少しでも躊躇ったら引けばいいんだ。隼が受験生の僕のことを「心配だから」という理由で躊躇うなら、「じゃあやめておく」に変えればいい。そうすれば誰も悪くない。
(うん、それでいこう)
僕は早速隼にメッセージを送った。
『クリスマスマーケット行く?』
返事は思ったより早く来た。
『いきなりすぎ』
僕は思わずクスッと笑ってしまった。普段通りの穏やかに笑う隼の顔が浮かぶ。直接顔を見ない分、気が楽だ。
『わかる』
『いつ?』
『25日まで。駅前広場でやってるんだって』
リレーが止まった。隼が悩んでいるんだと思って、僕は思わず祈ってしまった。断りますように──って。
でも心の隅で、隼は断らない気がした。これは既視感ではなく、ただの予想。
『行くよ。明日がいい』
僕はスマートフォンを取り落とした。やっぱり、という気持ちと、どこか拭えない違和感が膨らむ。
「……」
『じゃあ、明日夕方に迎えに行くね』
逸る心臓の鼓動を抑えながら、僕はゆっくりとキーをタップし、送信した。
顔を合わせていたら、僕は確実に言葉に詰まり挙動不審になっていたところだ。逆にそっちの方が断る口実を作りやすかったかも知れない。僕は失策に呻いた。でも今さらどうしようもなくて、僕は腹を括って寝た。
※
夢見の悪い朝はもう慣れたけど、今回は緊張した寝不足だった。それを昼寝なんかでなんとか誤魔化して、僕は約束の時間に隼の家に行った。
アウターのポケットには、いつか学校で拾った──というか勝手に持って帰った──青い石を忍ばせてある。会話に困った時にこれを見せて懺悔でもしたら、隼は笑ってくれないだろうか。
「ごめんな、迎えに来てもらって」
「い、いいよ、こっちからバス乗った方が早いし」
僕は内心目をすがめながら言った。休日のラフな恰好をした隼は、眩しいくらいにかっこいい。
ただ、僕に負けず劣らず、心なしか憔悴したように見える。
「寝不足?」
「えっ?」
僕も訊きたかったのに、隼に先を越された。
「疲れて見える」
「そ、そうかな? 勉強、結構頑張っててさ」
僕はへらりと笑った。半分本当だから、大丈夫だ。
「そっか。頑張ってるんだな」
嬉しそうに隼が僕の前髪に触れた。
──祈りを込める。
ふと、そんな言葉が浮かんだ。
「隼も、なんか疲れてる感じがする」
「……そう、かな」
前髪から指が離れた。言わなきゃよかったかな、と悔やんだ。
「就職活動、難しいの?」
訊きながら、(これは違うな)と確信があった。
隼は「そうだな」と返す。
「次はもうないから、今を精一杯過ごそうかと思う」
「……」
答えになっていない。でもこれ以上訊けない。そんな空気が怖くて、僕はできるだけ声を高くした。
「じゃあ、今日は楽しもうね」
「……ああ、そうしよう」
いつも通学で使っているバスに乗って、今日は学校を通り過ぎ、終点の駅前まで行く。
そこは平日の夕方で冬休みということもあってか、会社勤めの多くの人に混じって、僕たちのような学生や大学生くらいの年齢の人たちが多く集まっていた。みんな駅前広場のクリスマスマーケットが目当てみたいだ。
会場はたくさんの人で賑わっていた。色とりどりのイルミネーションで飾り付けられたアーチをくぐると、そこは本当に外国のようだった。
クリスマスの本場で食べられているというシュトーレンやチョコレートドリンクなんかの甘い匂いが漂い、人々のさざめきを縫うように、アコーディオンやバイオリンの演奏音が響いている。
「うわぁ……やっぱすご」
僕はバス車中のぎこちない空気をすっかり忘れて、目の前の煌びやかな光景に圧倒されていた。
「矢弥は、ここ初めて?」
「えっ? そ、そうだよ、初めて来る……いや、家族で昔一度来たことあったような……」
曖昧に首を傾げてみた。これも半分本当のことだ。もう半分──僕はここに来たことがある。
ずっと考えていたことがあった。
僕のこれまで感じてきた既視感というもの。
既視感とは、脳の処理ミスというのが大体の解釈だとネットでは書いてあった。初めて得た情報を、頭が受け取る時にタイムラグを起こして、「さっき見た・感じたこと」と錯覚する。または似たような過去の記憶と脳がごちゃ混ぜにしてしまう。
バスでサラリーマンが眼鏡を踏むこと。
歴史クラブのノートのタイトルがわかったこと。
体育祭でクラスメイトが救急搬送されること。
(これが、本当に錯覚なの?)
「──矢弥」
ハッとして見ると、隼が心配そうな顔で僕の手首を掴んでいた。
「……あ、あれ? 隼、どうしたの?」
「何度も呼びかけたのになんの反応もなかった。どうしたのは矢弥だよ。……何か、あった?」
「な、何もない、よ? てか、お店とかいっぱいあってキラキラしてて目が眩みそうだね」
僕はまたへらりと笑って周囲を見渡した。
すでに太陽は駅前ビルの向こうに消えてあたりは薄暗く、イルミネーションで着飾った街路樹や屋台のライト、演奏用の舞台のライトなとでまばゆいばかりに煌めいている。
僕は隼とのぎこちない空気から逃げるように、あちこち視線をやり、非日常を楽しもうとした。
隼もそんな僕の心情を察したのか、あれこれと会場巡りに付いてきてくれた。温かいチョコレートドリンクで冷えた体をあたためると、心が少しだけ軽くなった気がする。
「勉強、頑張ってるんだよな」
ベンチに腰掛けた隼が、白い息を吐きながら訊ねる。
「うん。自分史上最高にって感じで。……隼は?」
「なかなかうまくいかないな」
「就職組は先生からいろいろおすすめされてるって聞いたけど、あんまりいいのがない感じ?」
うん、と隼は曖昧に微笑んだ。
「俺は自分で探すってことにしてるから」
「そっか。隼のおじさんから何か言われない?」
お節介とわかってはいるのに、僕は訊かずにはいられない。
「あの人は大丈夫だよ。自分のことは自分でなんとかするさ」
「でも」
僕は言いかけて止まる。
「俺のことも心配しなくても大丈夫だよ。今は矢弥の進路の方が切実だから」
「な、なんだよそれ。僕こそ大丈夫っぽいって思ってるから、水を差されると困ります」
冗談めかして言うと、隼は案の定ハハハと笑ってくれた。
「……それにね、心配にもなるよ」
「ん?」
隼の視線を受けながら、僕は両手で抱えたチョコレートドリンクをすする。
「なんだかさ、隼が自分から、ひとりぼっちになろうとしているような気がするんだ」
「矢弥……」
「全然、気のせいだったらいいんだけどさ。僕の不安に、隼を巻き込んでるだけって可能性、あるじゃん? そうだったら、ごめんって思って、」
不意に僕の左肩が何かに包まれた。これは隼の腕だ。僕の左肩に腕を回して、隼の方へ抱き寄せられている。
「っ、隼? ど、したの?」
跳ね上がる心臓の音を聴かれてやしないかとヒヤヒヤした。僕の頭は隼の首元に埋まるようにすっぽりはまり、はたから見たら恋人同士が肩を寄せ合っているようなんだから。
だから隼の顔が見えなくて、その声の切実な調子の原因がわからない。
「矢弥、俺……」
「……」
続く言葉がなくて、僕は隼と一緒に黙り込んでしまった。コート越しに隼の体温は感じる。でも心臓の音までは聞こえないことに変な寂しさを覚えた。
〈Herzlich willkomm auf dem Weihnachtsmarkt!〉
「‼︎」
突然、会場のスピーカーからそんなアナウンスが音楽とともに流れてきて、僕はハッとして身を起こした。
「そっ、そうだ! 母さんからお土産買ってきてって言われてたんだった!」
「……そうなんだ。じゃあ、それ探しに行こうか」
「う、うん、そうだね!」
ぎこちない会話。結局、隼が何を言うつもりだったのかわからなくなってしまった。
飲み干した紙コップをくずかごに入れて、僕たちは再びマーケットの屋台を見て回った。心なしか頭がツンツンしてきたのは、たぶん体が冷えかけてきたからだろうと思ったんだ。
「おばさんは何を買えって?」
「あー、たしかツリーのオーナメントだったかな。本場っぽいやつって」
「じゃあ、こういうのかな」
その時、僕はふと閃いて、隼が示した店の隣に移動した。
「矢弥、そこは……」
そこは地元ドイツの民芸品を扱っている屋台で、ペン立てや木彫りの人形、キーホルダーなんかが売ってあった。
「いらっしゃい、ここら辺は残り少ないから、よかったら見ていってね」
店員の女の人がにこやかに言う。僕は素直に売りものを見渡して、とあるキーホルダーを手に取った。
「ねぇ隼、これ見てよ。トランちゃんに似てない?」
それは塔覧高校の生徒会が作成した、認知度の低い学校マスコットにそっくりだった。デフォルメされた虎がノートとペンを持っているデザインで、生徒会発信の何やらで目にしたことがある。
「……こっちが元祖って感じだね」
「だね。残念ながらこっちの方が僕は好みだなぁ」
このキーホルダーの虎には目と尻尾の部分にカラーバリエーションがあり、僕は好きな色の青を探した。
「ほら、青色があったよ」
「よかった。じゃあ隼も買おうよ。前は売り切れてたんだよね……、……?」
僕も隼も手が止まった。ふたりで顔を見合わせる。僕は今、何を言った?
「矢弥……?」
隼が信じられないものを見るような目で僕を見た。
「いや、ち、違くて……」
「落ち着いて、矢弥、いいんだ、わかってる」
僕は混乱した頭を振り絞って、手に持ったキーホルダーを売り場に戻し、あとずさりで店を離れた。
会場を巡るイルミネーションの明かりが途切れたような場所、そこまで足が止まらない。
「矢弥、待ってくれ。大丈夫だから」
僕の肩を掴んだ隼が、自分も落ち着かせるような声音で言う。
「わ、わかってるよ、大丈夫、だって本当は明日だもんね、来るの」
「──や、ひろ……っ」
泣きそうになる隼の顔が見えた。
「ぁ……?」
ああ、頭が痛い。
「だっ、て、明日、……ほんと、は、僕、嬉しくて……っ」
「やひろ、待って、だめだ、思い出さないで」
脳内と、目の前にドッと流れ込んでくるものがあった。
それは、幸せな気持ち。
クリスマスの日に、隼と来たクリスマスマーケット。
屋台で見つけた可愛いキーホルダーは、青色が売り切れていた。
とても気落ちしていた僕に、隼はいろいろ慰めてくれた。そしてそのあと、
──俺は矢弥が好き。
聞き間違いかと思って、僕は天に舞い上がりそうになる気持ちを押し留めて、「ありがとう」とだけ答えた。
返事がほしい、と言われて、僕は混乱して「テストの日まで待って」と言った。
そんなに待たせる気なんて本当はなかったのに、僕は自分の気持ちを土壇場で返す勇気が持てなかった。
だから天罰が降ったんだ。
青い空の下、初詣に家族と行った神社で、僕は知らない女性と笑う隼を見かけた。
僕にする、その穏やかな笑顔が、その人に向けられていた。
僕は家に帰ってから机に向かったまましばらく動けなかった。
いつの間にか問題集のテキストとノートが広げられ、僕は猛然と勉強していた。何も考えずにいるには、これが一番よかったんだ。何度も解きすぎて答えが全部頭に入るくらい、何も他に入れる余地を作らせないように。
学校が始まって、何ごともない雰囲気の隼と登校して、当たり障りのない会話をして、帰って、机に向かう。
隼は僕の「返事を待て」に忠実に従っていたんだろう。
あの女の人は誰? 笑っていたのはなぜ? やっぱりあれは違うんだ。僕たちは幼馴染だ。僕の好きと隼の好きは違うんだ。僕はここにいてはいけない。隼には隼の人生がある。僕なんかで隼をダメにしてはいけないんだよ。
共通テスト当日。
僕の応援と、返事をもらうために、隼も付いてきてくれた。
僕は決めていた。隼の返事をするんだ、と。
──僕も好きだよ。いい友だちを持って嬉しいよ。また遊ぼうね。
愕然としたような表情の隼なんて見るのは初めてで、僕はうっかり笑ってしまったんだ。
──ごめん。じゃあ、行ってくるね。
涙は出なかった。せめて試験を受ける教室に入るまで、留めておかないといけない、と心に強く決めていたから。
横断歩道を渡って、建物の入り口に向かう。
遠くで金属の軋む音が聞こえた。何かにぶつかる音と、悲鳴。
振り返ると、隼が僕の方に手を伸ばすところだった。
僕は横断歩道をまだ渡り終えていない。
なんだろう、と音のした方向を見る。
白い鉄の塊のようなものが向かってくる。それは僕の目の前まで来て、全身の感覚が消えた。
次に見えた青い空はすっきりと晴れていて、視界のふちを彩る赤に、僕は(ああ、どうせなら青色がよかったのに)と悔やむ。でも、それも。
──いつか、笑って受け入れられる未来があると、僕も、隼も、いつか──
「あああああっ‼︎」
「矢弥っ‼︎」
僕の突然の叫びに、隼も周囲の人も驚きざわめいた。
隼は僕の肩を掴んで止めようとするけど、僕自身に止められないのにどうすることもできない。
僕の頭の中は今までの何度とも知らない真っ赤な光景が繰り返されていた。
「なんでっ、僕、なんでこんなに、何回も……⁉︎」
「──っ」
隼の顔が歪む。
「なんで⁉︎ 怖い……! 助けて、隼‼︎」
僕は隼に縋りつき、けれど恐怖に囚われて隼の体を弱々しく殴りつけてしまう。
騒ぎを聞きつけた会場のスタッフが心配そうに尋ねるものの、誰もこの騒ぎを説明できない。
僕はもうどうしようもなくなって、隼を押し出し、走り出した。
「矢弥っ、待って!」
隼が叫びながら僕の方に手を伸ばす。
僕にはそれすら恐ろしく、一度振り返ったことを後悔しながら、必死になって走った。行く当てもない。
ただただ、ここから逃げ出したかった。
