十一月に入った。
クラス制作のトリックアートは、隼の予言した通りジャージ姿での作業が増えた。絵心がなくても、下絵と色指定に従って筆を丁寧に走らせると案外うまくいく。割り振られた箇所を隼と塗っていく作業が思いのほか楽しい。
歴史クラブの制作もどうにか完成した。A1サイズという、人生で初めて取り扱うサイズの紙を買った時は情けなくも緊張してしまった。そこへ、レイアウトから配色、見出しの作り方まで一年が監修してくれて、僕ら上級生は彼女たちの指示に従いながら作り上げていった。
展示そのものは部室が狭いので、西村先生の許可をもらって部室前の廊下の壁や窓に貼ることになった。旧校舎は立ち入る場所がそもそもないので、案内の矢印も一緒に作っておいた。
「ガムテープ足りなくない?」
木の椅子の上に立つ新浜がそう叫んだ。
イメージしていたよりも掲示する範囲が広くなり、買い込んだガムテープでは足りない可能性が出てきたらしい。
「今日の帰りに買ってこっかー?」
と鯖田が応じる。
「わざわざ買うのもなぁ。あ、それか、少しだけだし、先生に借りたら?」
それに多部山が提案した。
「僕訊いてくるよ」
「俺も」
立候補した僕が部室を出ようとすると、すかさずという風に隼も立ち上がった。それを僕が制する。
「隼はみんなに付いててくれないかな? 三年の判断いることあるかもだし」
「……そう、だな。わかった。頼むよ」
「うん」
ついでにトイレに寄りたいだけの立候補なので、隼には心の中でごめんと謝っておいた。
職員室に行ってみると、ガムテープの貸し出しは文化祭実行委員に頼むようにという返答だった。なので僕はその足で生徒会室に走り、ガムテープ貸し出しの許しをもらう。結構な遠回りになってしまった。
そうして僕はようやく旧校舎に戻り、その足でトイレに向かった。
「──あ」
用を足し終え、足を部室に向けたその時、僕は感じた。
あの既視感。
いや、これはそれとは違う。
まるで夢が現実になったような、これはそんな感覚だった。
僕の足は廊下の奥に向かう。静かに階段を登り、〈開かずの教室〉へ。
引き戸の上に付いている南京錠がぷらぷらと揺れている。
鍵は、開いていた。
「うそ……」
体は止められず、引き戸の取手に僕の指が置かれた。カラカラ、と扉の音が響く。誰かに見つからないかヒヤヒヤしたが、僕は誰にも見咎められることなくその教室に入ることができた。
当然誰もいない。なのに、ひどく懐かしい人の匂いがした。
誰だっけ、と思い出す間もなく、僕の足はふらふらと進み、迷うことなくとある棚の一角に近寄った。
埃をかぶった箱が積み重なって置いてある。
慎重に埃に触れないように、そのうちひとつの箱を取り出す。蓋を開けると、
「石……?」
そこには青い色の石がひとつだけ入っていた。
そっとそれを持ち上げる。
海よりさらに深い青色。勾玉みたいな大きさで、ティアドロップのような丸みがある。天井にかざすと、室内のわずかな光を取り入れて、中の傷のようなものがチリチリと輝きを放った。
「綺麗……」
次の瞬間、僕の頭にぶわっと何かが飛び込んできた。
──ネガイヲ──
(……っ?)
辛うじてそれだけは聞き取れたものの、その他の大量のいろんな記憶や感情に押し流されるように、僕は気付いたら床に座り込んでいた。
「な……なに、これ」
誰にともなく問いかける。しんとした部屋の中で、僕の声だけが響いた。
「……も、戻らなきゃ」
よたよたと立ち上がる。
学校の中にあるのなら、これは学校の持ちものだから、勝手に持って帰るのは今までの僕なら絶対にしないはず。
それなのになぜそうしたのか。言い訳がましく聞こえるけれど、あとで思い返しても不可解極まりないのだけれど、僕は何かの誘惑に逆らえず、その青い石をジャージのズボンのポケットに入れてしまった。
そして埃だらけの箱の蓋を慎重に戻し、箱を元の場所に置き、何も触っていない状態に戻した。
心臓はバクバク言っている。
(これじゃ……泥棒だ)
そう頭では痛いほどわかっていたのに、僕は何食わぬ顔で部室に戻った。
「空森先輩、遅かったですね」
「ご、ごめん……。ガムテープは生徒会室まで取りに走ることになっちゃって、結局、明日実行委員の人から借りてって言われた。で、走ったらなんかちょっと途中でお腹痛くなっちゃって……」
言葉を濁すと、鯖田が「腸弱いっすねぇ」と同情してくれる。僕は「だよねぇ」と笑って乗っかった。
「矢弥は肝心なところでヘタレの部分があるし、仕方ないよ」
なんのフォローにもなってない隼のひと言に、一同に「ですよね」なんて感心されてしまった。
「ちょっと隼、僕のそこまで高くない信頼を貶めるのはやめてほしいんだけど……」
「俺は事実を言っただけ。矢弥は、そうやって自分を貶めるのをやめること」
「むぅ……」
いたずらめいた笑みで隼は肩を竦ませた。その動きもなんだか絵になるから腹立つ反面見惚れる。悔しい。
「──隼の言った通りになったね」
「何が?」
帰りのバスの車内は少し混雑していた。ちょうど会社勤めの大人たちが帰る時間帯と被ったらしい。
僕らは吊り革に掴まり、心地よい疲労感に包まれながら揺られていた。
「体育祭の日に、僕が『ジャージ姿は見納めだね』って言ったら、隼が『文化祭があるよ』ってさ。クラブもだし、隼の予想的中じゃんって」
僕は来ていたジャージの上着を指で摘みながら言った。
「……だろ? 矢弥はもうちょっと先を読もうな」
「それは隼にお任せします」
なんだそれ、と苦笑した隼から小突かれ、僕は幸せな気持ちになった。
こんな生活も、あと半年もしないうちに終わる。卒業しても僕たちは、これまでみたいに会ったり遊んだりできるのだろうか。僕にはぼんやりでも思い描くことがどうしてもできなかった。おかげで不意に不安が押し寄せ、僕はギュッと唇と引き締めた。
「矢弥?」
心配そうに僕を覗き込む隼。僕は隼の瞳の奥に同じような不安があるような気がして、ジッと覗き込みそうになった。
それをグッと抑え込み、僕はただ、
「明日、楽しみだね」
と笑った。
※
バスケの試合を僕が見ている。
応援している。
隼が真剣な表情で走り、ボールを操り、リングを狙う。
僕は大声で応援している。
勝った。代表だ。
隼がコートから僕の方を見た。
目が合った気がした。
とても満足そうに微笑み、「やひろ」と口が動いてピースサインを送った。
僕は胸がいっぱいになる。
隼が輝いている。
バスケと隼は、ニコイチなんだから仕方がない。
※
目が覚めて最初に考えたのは、僕はとんでもないことをしてしまったのではないかということ。
隼がバスケをしている夢だった。
念願のインターハイに出られる夢。
三年生でやっと叶った。
そのあり得たかもしれないもうひとつの世界を、僕は隼から奪ってしまったんじゃないかって。
隼はあくまで自分の意思でバスケ部を辞めたと言うんだろう。歴史クラブに来てくれたのは素直に嬉しかったけど、時に隼を独り占めしているようで幸せな時間だったけど。
(……でも、本当にそれでよかったのかな?)
バスケ部を辞めたことを、あとで聞かされた僕が言えた義理じゃないけど、やっぱりその選択は正しいとは思えない。
今さらすぎてどうにもできないことなのに、今からどうにかならないのか、なんて頭を抱える。
秋晴れの今日、僕は陰鬱とした気分でそんな文化祭当日の朝を迎えた。
ガムテープは無事に借りられて、歴史クラブの展示は完成した。当初は場所が場所だけに誰かを常駐させる必要もないかな、と思っていた僕に、「入部希望者が来るかもじゃないですか!」と一年が力強く諭してくれた。なので今回は一時間ごとになんちゃって見張り役を置くことになった。
クラス展示の案内係にも協力した。トリックアートとの写真撮影を手伝ったり説明をしたりと、口下手な僕には荷が重すぎる役だけど、クラスのひとり一回は必ず振り分けられた仕事だから頑張らないといけない。
「これってどっちから撮ればいいんですか?」
「順番待ちの列はどっち?」
「あっ、これは、えっと……」
でも、僕がパンクしそうになった時は、さりげなく隼がその役を買って出てくれた。
「矢印を目印にしてください。こっちの作品はこの列、あの作品はこっちの列に並んでください」
お客さんも隼の接客の方がいいみたいだ。僕はその間ゴミ拾いとかそういう小さい役目を引き受けることにした。人には得手不得手というものがあるんだから。
「……あれ? 隼……?」
ようやく交代の時間になった時、ちょうど人の出入りが多いタイミングにぶつかった。人波に押されて、気付けば隼の姿はどこにもない。
隼の姿を探してキョロキョロしていると、窓から二階の渡り廊下を歩く隼の背中を見つけた。
「あ、しゅ……」
言葉が止まる。隼の隣に女子生徒がぴったりと寄り添っているのがわかったから。
「……」
(そう、だよね……最後だもんね。みんな、隼といたいって、本当は思ってたよね)
それなのに、僕はそんなことにも考えが及ばず、今までずっと隼とつるんでいた。隼は「気にしてない」と言葉と態度で示してくれるけど、僕と違って隼には友だちがたくさんいて、バスケ部の仲間がいて、かっこいいから女子生徒も気になってて、隼だって男の僕より女子といたいって思う時間もあるはずなんだ。
隼の時間を僕だけが独り占めする権利なんて、本当はあるわけない。
ましてや、男の僕は隼のことを好きでいるんだから。
僕は隼のうしろ姿を見送って、歴史クラブの展示がある場所にひとりで移動した。あくびしていた鯖田に声を掛け、時間が早いけど見張り役を代わってもらう。
「先輩、文化祭ラストっすよ? 国府谷先輩とかと回んねぇっすか?」
「隼は隼で忙しいし、僕は文化祭に未練なんてないから、大丈夫だよ」
ほら僕陰キャだし、と自虐ネタで鯖田をウケさせると、「あざっす!」と屈託のない笑顔を見送った。
旧校舎の扉は開放されていて、たまにここの卒業生なのか、興味津々で見に来る人がついでに覗いてくれてはいる。けど基本的にはひと通り見たらスッと去っていく。
それも仕方がない。旧校舎の廊下は、本校舎の喧騒が遠くに聞こえるくらい一種独特な雰囲気だし、初めて来る人は怖気付いてしまうかもしれないから。
おかげで暇は暇なんだ──西村先生や調査に協力してくれた先生なんかは来てくれた──けど、僕はマイペースで時間を過ごすことができた。
何も知らない隼がやってきたのは、それから十分もしないうちだ。僕は本当なら嬉しいはずなのに、気分がズンと沈んだ。
「暇ならお茶しない?」
隼はそう言いながら、僕にお茶のペットボトルを渡した。
僕がいなくなったのでわざわざ探しにきたんだろうか。
「……そんなナンパに引っかかる女の子、今時いないと思うよ」
「ははっ。何度かやればいつかは引っかかるって」
「そんな努力、隼には不要だと思うけど」
「買い被ってくれてありがとう」
隣、いい? と、スチール椅子を引き寄せて、隼は僕の隣に座った。フワリと知らない匂いがして、心がざわついた。
「姿が見えないから探したよ」
「……仲よさそうな人とかといたから、いいかなって」
隼は一瞬ぽかんとして、合点が言ったように「なるほど」と言った。
「それバスケ部のマネージャーな。自分のクラスの展示寄ってけって、強引に連れてかれたんだ。矢弥探したけど、人多くて。メッセージしたろ?」
見ていなかった。
「二年のクラスでくじ引きの店だったよ。そこでお茶当てたんだ。……連れてかれるとこ見られてたんだな、恥ずかし」
隼は頭をポリポリとかいた。
「インターハイ、予選で負けたんだっけ」
足立もその悔しさを僕たちにぶつけたんだろう。隼がいてくれてたら、もしかしたらって。
「……ああ。後輩に夢を託して、三年は引退だ」
「そっちついてった方がよかったんじゃない? 最後の三年なんだし」
「なんだよ突然。矢弥が気にすることないよ。俺が決めたんだから」
「でも、その決断で、悔しい思いをした人がいるんだよ。そりゃうちに入ってくれて、正直嬉しかったよ。でも、これは自虐でもなんでもなくて、バスケ部を辞めてまで歴史クラブに入ることなんて、本当はなかったんだよ」
ふと隼の目とかち合った。深い深い悲しみが見えたような気がする。
「……なんで、俺を遠ざけるの? 最後の……三年なのに」
「だから……だよ」
僕はとっさに目を逸らしてしまった。
「僕たちさ、なんだかんだで今までずっと一緒だったし、……ほら、最後なんだから、他の人とも思い出作らないと」
僕は無理矢理笑った。
「必要ない」
でも隼はこうやって切り捨てる。それも既視感関係なくなんとなくわかってて、心の底ではそれを期待している自分がいて、嫌だった。
「だって、彼女……とかも、作っといた、ほう、が……」
口の中がカラカラだ。
「俺には彼女が必要なのか?」
「なのか、ってか……作らないの?」
「いらない。そんなのより大事なことがあるから。……矢弥は、そういうのを俺に作ってほしいの?」
僕は思わず首を振ってハッと頭を鷲掴みにした。
「いやっ、作ってほしい、わけじゃなくて……でも隼のために、作ってもらわないと」
「俺のため? 俺のことを矢弥が考えてくれるのは嬉しい。でもそれは俺のためじゃないよな? 矢弥の都合だろ?」
「で、でも……」
頭がこんがらがってきた。本音と建前がぐちゃぐちゃに絡まって落とし穴に落ちている気分だ。隼の機嫌が悪くなった。言わなきゃよかった。
「だ、だって……、バスケでインターハイ出られるの、ようやくなのに……っ」
「──何を、言ってるんだ?」
隼の声が硬くなる。
僕は慌てて夢の話をした。あくまで夢の中のできごとなのに、妙にリアリティがあって、まるで本当にそうなっていたかもしれないと思わせてくれる。明晰夢というやつだっけ?
「──も、もしかしたらそうやって、達成できてた道があったかもしれないのに……隼が何に焦っているのか僕には知りようがないけど、でもそのせいで隼が本当にやりたかったことを邪魔してるんなら、僕のせいだし」
「そんなことない!」
「っ」
僕は隼の胸の中におさまっていた。隼の心臓の鼓動が早く聞こえる。僕のはもっと早いかもしれない。
「矢弥は心配することない。俺がちゃんと……ちゃんとするから……今度こそ……」
隼から解き放たれた僕は呆然と隼を見上げた。立ち上がった隼は僕を見下ろして、「ごめん」と言って立ち去った。
クラス制作のトリックアートは、隼の予言した通りジャージ姿での作業が増えた。絵心がなくても、下絵と色指定に従って筆を丁寧に走らせると案外うまくいく。割り振られた箇所を隼と塗っていく作業が思いのほか楽しい。
歴史クラブの制作もどうにか完成した。A1サイズという、人生で初めて取り扱うサイズの紙を買った時は情けなくも緊張してしまった。そこへ、レイアウトから配色、見出しの作り方まで一年が監修してくれて、僕ら上級生は彼女たちの指示に従いながら作り上げていった。
展示そのものは部室が狭いので、西村先生の許可をもらって部室前の廊下の壁や窓に貼ることになった。旧校舎は立ち入る場所がそもそもないので、案内の矢印も一緒に作っておいた。
「ガムテープ足りなくない?」
木の椅子の上に立つ新浜がそう叫んだ。
イメージしていたよりも掲示する範囲が広くなり、買い込んだガムテープでは足りない可能性が出てきたらしい。
「今日の帰りに買ってこっかー?」
と鯖田が応じる。
「わざわざ買うのもなぁ。あ、それか、少しだけだし、先生に借りたら?」
それに多部山が提案した。
「僕訊いてくるよ」
「俺も」
立候補した僕が部室を出ようとすると、すかさずという風に隼も立ち上がった。それを僕が制する。
「隼はみんなに付いててくれないかな? 三年の判断いることあるかもだし」
「……そう、だな。わかった。頼むよ」
「うん」
ついでにトイレに寄りたいだけの立候補なので、隼には心の中でごめんと謝っておいた。
職員室に行ってみると、ガムテープの貸し出しは文化祭実行委員に頼むようにという返答だった。なので僕はその足で生徒会室に走り、ガムテープ貸し出しの許しをもらう。結構な遠回りになってしまった。
そうして僕はようやく旧校舎に戻り、その足でトイレに向かった。
「──あ」
用を足し終え、足を部室に向けたその時、僕は感じた。
あの既視感。
いや、これはそれとは違う。
まるで夢が現実になったような、これはそんな感覚だった。
僕の足は廊下の奥に向かう。静かに階段を登り、〈開かずの教室〉へ。
引き戸の上に付いている南京錠がぷらぷらと揺れている。
鍵は、開いていた。
「うそ……」
体は止められず、引き戸の取手に僕の指が置かれた。カラカラ、と扉の音が響く。誰かに見つからないかヒヤヒヤしたが、僕は誰にも見咎められることなくその教室に入ることができた。
当然誰もいない。なのに、ひどく懐かしい人の匂いがした。
誰だっけ、と思い出す間もなく、僕の足はふらふらと進み、迷うことなくとある棚の一角に近寄った。
埃をかぶった箱が積み重なって置いてある。
慎重に埃に触れないように、そのうちひとつの箱を取り出す。蓋を開けると、
「石……?」
そこには青い色の石がひとつだけ入っていた。
そっとそれを持ち上げる。
海よりさらに深い青色。勾玉みたいな大きさで、ティアドロップのような丸みがある。天井にかざすと、室内のわずかな光を取り入れて、中の傷のようなものがチリチリと輝きを放った。
「綺麗……」
次の瞬間、僕の頭にぶわっと何かが飛び込んできた。
──ネガイヲ──
(……っ?)
辛うじてそれだけは聞き取れたものの、その他の大量のいろんな記憶や感情に押し流されるように、僕は気付いたら床に座り込んでいた。
「な……なに、これ」
誰にともなく問いかける。しんとした部屋の中で、僕の声だけが響いた。
「……も、戻らなきゃ」
よたよたと立ち上がる。
学校の中にあるのなら、これは学校の持ちものだから、勝手に持って帰るのは今までの僕なら絶対にしないはず。
それなのになぜそうしたのか。言い訳がましく聞こえるけれど、あとで思い返しても不可解極まりないのだけれど、僕は何かの誘惑に逆らえず、その青い石をジャージのズボンのポケットに入れてしまった。
そして埃だらけの箱の蓋を慎重に戻し、箱を元の場所に置き、何も触っていない状態に戻した。
心臓はバクバク言っている。
(これじゃ……泥棒だ)
そう頭では痛いほどわかっていたのに、僕は何食わぬ顔で部室に戻った。
「空森先輩、遅かったですね」
「ご、ごめん……。ガムテープは生徒会室まで取りに走ることになっちゃって、結局、明日実行委員の人から借りてって言われた。で、走ったらなんかちょっと途中でお腹痛くなっちゃって……」
言葉を濁すと、鯖田が「腸弱いっすねぇ」と同情してくれる。僕は「だよねぇ」と笑って乗っかった。
「矢弥は肝心なところでヘタレの部分があるし、仕方ないよ」
なんのフォローにもなってない隼のひと言に、一同に「ですよね」なんて感心されてしまった。
「ちょっと隼、僕のそこまで高くない信頼を貶めるのはやめてほしいんだけど……」
「俺は事実を言っただけ。矢弥は、そうやって自分を貶めるのをやめること」
「むぅ……」
いたずらめいた笑みで隼は肩を竦ませた。その動きもなんだか絵になるから腹立つ反面見惚れる。悔しい。
「──隼の言った通りになったね」
「何が?」
帰りのバスの車内は少し混雑していた。ちょうど会社勤めの大人たちが帰る時間帯と被ったらしい。
僕らは吊り革に掴まり、心地よい疲労感に包まれながら揺られていた。
「体育祭の日に、僕が『ジャージ姿は見納めだね』って言ったら、隼が『文化祭があるよ』ってさ。クラブもだし、隼の予想的中じゃんって」
僕は来ていたジャージの上着を指で摘みながら言った。
「……だろ? 矢弥はもうちょっと先を読もうな」
「それは隼にお任せします」
なんだそれ、と苦笑した隼から小突かれ、僕は幸せな気持ちになった。
こんな生活も、あと半年もしないうちに終わる。卒業しても僕たちは、これまでみたいに会ったり遊んだりできるのだろうか。僕にはぼんやりでも思い描くことがどうしてもできなかった。おかげで不意に不安が押し寄せ、僕はギュッと唇と引き締めた。
「矢弥?」
心配そうに僕を覗き込む隼。僕は隼の瞳の奥に同じような不安があるような気がして、ジッと覗き込みそうになった。
それをグッと抑え込み、僕はただ、
「明日、楽しみだね」
と笑った。
※
バスケの試合を僕が見ている。
応援している。
隼が真剣な表情で走り、ボールを操り、リングを狙う。
僕は大声で応援している。
勝った。代表だ。
隼がコートから僕の方を見た。
目が合った気がした。
とても満足そうに微笑み、「やひろ」と口が動いてピースサインを送った。
僕は胸がいっぱいになる。
隼が輝いている。
バスケと隼は、ニコイチなんだから仕方がない。
※
目が覚めて最初に考えたのは、僕はとんでもないことをしてしまったのではないかということ。
隼がバスケをしている夢だった。
念願のインターハイに出られる夢。
三年生でやっと叶った。
そのあり得たかもしれないもうひとつの世界を、僕は隼から奪ってしまったんじゃないかって。
隼はあくまで自分の意思でバスケ部を辞めたと言うんだろう。歴史クラブに来てくれたのは素直に嬉しかったけど、時に隼を独り占めしているようで幸せな時間だったけど。
(……でも、本当にそれでよかったのかな?)
バスケ部を辞めたことを、あとで聞かされた僕が言えた義理じゃないけど、やっぱりその選択は正しいとは思えない。
今さらすぎてどうにもできないことなのに、今からどうにかならないのか、なんて頭を抱える。
秋晴れの今日、僕は陰鬱とした気分でそんな文化祭当日の朝を迎えた。
ガムテープは無事に借りられて、歴史クラブの展示は完成した。当初は場所が場所だけに誰かを常駐させる必要もないかな、と思っていた僕に、「入部希望者が来るかもじゃないですか!」と一年が力強く諭してくれた。なので今回は一時間ごとになんちゃって見張り役を置くことになった。
クラス展示の案内係にも協力した。トリックアートとの写真撮影を手伝ったり説明をしたりと、口下手な僕には荷が重すぎる役だけど、クラスのひとり一回は必ず振り分けられた仕事だから頑張らないといけない。
「これってどっちから撮ればいいんですか?」
「順番待ちの列はどっち?」
「あっ、これは、えっと……」
でも、僕がパンクしそうになった時は、さりげなく隼がその役を買って出てくれた。
「矢印を目印にしてください。こっちの作品はこの列、あの作品はこっちの列に並んでください」
お客さんも隼の接客の方がいいみたいだ。僕はその間ゴミ拾いとかそういう小さい役目を引き受けることにした。人には得手不得手というものがあるんだから。
「……あれ? 隼……?」
ようやく交代の時間になった時、ちょうど人の出入りが多いタイミングにぶつかった。人波に押されて、気付けば隼の姿はどこにもない。
隼の姿を探してキョロキョロしていると、窓から二階の渡り廊下を歩く隼の背中を見つけた。
「あ、しゅ……」
言葉が止まる。隼の隣に女子生徒がぴったりと寄り添っているのがわかったから。
「……」
(そう、だよね……最後だもんね。みんな、隼といたいって、本当は思ってたよね)
それなのに、僕はそんなことにも考えが及ばず、今までずっと隼とつるんでいた。隼は「気にしてない」と言葉と態度で示してくれるけど、僕と違って隼には友だちがたくさんいて、バスケ部の仲間がいて、かっこいいから女子生徒も気になってて、隼だって男の僕より女子といたいって思う時間もあるはずなんだ。
隼の時間を僕だけが独り占めする権利なんて、本当はあるわけない。
ましてや、男の僕は隼のことを好きでいるんだから。
僕は隼のうしろ姿を見送って、歴史クラブの展示がある場所にひとりで移動した。あくびしていた鯖田に声を掛け、時間が早いけど見張り役を代わってもらう。
「先輩、文化祭ラストっすよ? 国府谷先輩とかと回んねぇっすか?」
「隼は隼で忙しいし、僕は文化祭に未練なんてないから、大丈夫だよ」
ほら僕陰キャだし、と自虐ネタで鯖田をウケさせると、「あざっす!」と屈託のない笑顔を見送った。
旧校舎の扉は開放されていて、たまにここの卒業生なのか、興味津々で見に来る人がついでに覗いてくれてはいる。けど基本的にはひと通り見たらスッと去っていく。
それも仕方がない。旧校舎の廊下は、本校舎の喧騒が遠くに聞こえるくらい一種独特な雰囲気だし、初めて来る人は怖気付いてしまうかもしれないから。
おかげで暇は暇なんだ──西村先生や調査に協力してくれた先生なんかは来てくれた──けど、僕はマイペースで時間を過ごすことができた。
何も知らない隼がやってきたのは、それから十分もしないうちだ。僕は本当なら嬉しいはずなのに、気分がズンと沈んだ。
「暇ならお茶しない?」
隼はそう言いながら、僕にお茶のペットボトルを渡した。
僕がいなくなったのでわざわざ探しにきたんだろうか。
「……そんなナンパに引っかかる女の子、今時いないと思うよ」
「ははっ。何度かやればいつかは引っかかるって」
「そんな努力、隼には不要だと思うけど」
「買い被ってくれてありがとう」
隣、いい? と、スチール椅子を引き寄せて、隼は僕の隣に座った。フワリと知らない匂いがして、心がざわついた。
「姿が見えないから探したよ」
「……仲よさそうな人とかといたから、いいかなって」
隼は一瞬ぽかんとして、合点が言ったように「なるほど」と言った。
「それバスケ部のマネージャーな。自分のクラスの展示寄ってけって、強引に連れてかれたんだ。矢弥探したけど、人多くて。メッセージしたろ?」
見ていなかった。
「二年のクラスでくじ引きの店だったよ。そこでお茶当てたんだ。……連れてかれるとこ見られてたんだな、恥ずかし」
隼は頭をポリポリとかいた。
「インターハイ、予選で負けたんだっけ」
足立もその悔しさを僕たちにぶつけたんだろう。隼がいてくれてたら、もしかしたらって。
「……ああ。後輩に夢を託して、三年は引退だ」
「そっちついてった方がよかったんじゃない? 最後の三年なんだし」
「なんだよ突然。矢弥が気にすることないよ。俺が決めたんだから」
「でも、その決断で、悔しい思いをした人がいるんだよ。そりゃうちに入ってくれて、正直嬉しかったよ。でも、これは自虐でもなんでもなくて、バスケ部を辞めてまで歴史クラブに入ることなんて、本当はなかったんだよ」
ふと隼の目とかち合った。深い深い悲しみが見えたような気がする。
「……なんで、俺を遠ざけるの? 最後の……三年なのに」
「だから……だよ」
僕はとっさに目を逸らしてしまった。
「僕たちさ、なんだかんだで今までずっと一緒だったし、……ほら、最後なんだから、他の人とも思い出作らないと」
僕は無理矢理笑った。
「必要ない」
でも隼はこうやって切り捨てる。それも既視感関係なくなんとなくわかってて、心の底ではそれを期待している自分がいて、嫌だった。
「だって、彼女……とかも、作っといた、ほう、が……」
口の中がカラカラだ。
「俺には彼女が必要なのか?」
「なのか、ってか……作らないの?」
「いらない。そんなのより大事なことがあるから。……矢弥は、そういうのを俺に作ってほしいの?」
僕は思わず首を振ってハッと頭を鷲掴みにした。
「いやっ、作ってほしい、わけじゃなくて……でも隼のために、作ってもらわないと」
「俺のため? 俺のことを矢弥が考えてくれるのは嬉しい。でもそれは俺のためじゃないよな? 矢弥の都合だろ?」
「で、でも……」
頭がこんがらがってきた。本音と建前がぐちゃぐちゃに絡まって落とし穴に落ちている気分だ。隼の機嫌が悪くなった。言わなきゃよかった。
「だ、だって……、バスケでインターハイ出られるの、ようやくなのに……っ」
「──何を、言ってるんだ?」
隼の声が硬くなる。
僕は慌てて夢の話をした。あくまで夢の中のできごとなのに、妙にリアリティがあって、まるで本当にそうなっていたかもしれないと思わせてくれる。明晰夢というやつだっけ?
「──も、もしかしたらそうやって、達成できてた道があったかもしれないのに……隼が何に焦っているのか僕には知りようがないけど、でもそのせいで隼が本当にやりたかったことを邪魔してるんなら、僕のせいだし」
「そんなことない!」
「っ」
僕は隼の胸の中におさまっていた。隼の心臓の鼓動が早く聞こえる。僕のはもっと早いかもしれない。
「矢弥は心配することない。俺がちゃんと……ちゃんとするから……今度こそ……」
隼から解き放たれた僕は呆然と隼を見上げた。立ち上がった隼は僕を見下ろして、「ごめん」と言って立ち去った。
