ある日突然、不良が俺だけの忠犬なった

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 どうやら俺は、求められると欲がなくなるらしい。意味不明な口約束をしてしまった結果、今まで以上に瀬田は俺に懐いてしまった。授業を真面目に受け、午後の授業もサボらず最後まで出席している。俺の目を見ては嬉しそうに笑い、犬歯を見せて自慢げな顔をする。

「褒めて」と言われている気がしてむずむずする。あれほど勉強嫌いだったのに、俺の一言でこんなにも人間は変わるのかと、身に余るほどの権力を手に入れたような気持ちになった。

「お前は何が目的何だよ」

頼んでもいないイチゴジャムのパンとココアを手渡され、さすがに問い詰める。クラスメイトも訝しげにこちらを見ていた。

「目的は前に言っただろ。どう。いらない?いらないなら、そこのゴミ箱に捨ててくるけど」
「バカか。勿体ない。……捨てるなら、もらう」
「甘いの好き?」
「好きじゃない。甘さは控えめがいい」
「そっか、了解。じゃあ今度から気をつけるな」

 そして屈託なく笑うのだ。何よりも嬉しそうに。俺はこいつに何を与えたのだろう。犬でも従う相手は選ぶものだ。こんな状況が長く続けば周りにも変な目で見られるし、最悪、職員室からの呼び出しもあるかもしれない。

 それだけはどうしても避けたかった。

折角いままで積み上げてきた内申点。良い大学へ行くための日頃の行いを無下にはできない。だからといって、この勝負を降りたくても、自分の意志では降りられなかった。

自分を嫌いな人間が、どうやって自己肯定感をすぐに上げられるというのだ。

「あ、委員長。丁度良いところにいるな。この宿題のノートと問題集を運んでおいてくれ。いつもの所にな」

 数学の先生が、チャイムと同時にそのまま教室から出て行く。その身軽な後ろ姿を見て、瀬田がぼそりと言った。

「あの先生って、いつも神崎くんに持って来させるよな。自分も運べば良いのに」
「先生もお忙しいんだよ。ほら、どいてくれ。仕事を頼まれたから行ってくる」

椅子から立ち上がるものの、従順な犬はなぜか動かない。俺の声が聞こえなかったかと問いただしたくなるが、彼は腕を組んだまま先に口を開いた。

「なんで言わねーの?」
「……何を」
「俺に運ばせれば良いじゃんか。お前、俺の犬だから代わりに運べってさ」
「馬鹿かよ。お前を昨日今日でパシリにできるほど、肝は据わってない」
「優しいなあ、神崎くんは。普通、あんな事言われたら、俺なら真っ先に食い物買ってこいとか、宿題やれとか言うのに」
「嘘つけ」
「嘘?」
「お前、何考えているか分からないし、多少強引ではあるけど、性格は悪くないだろ。なんだかんだ、優しい所がある」
「……」

突然、時でも止まったように固まった。俺が変な事を言ったせいで、ついにこいつの頭が正気に戻ったかと思ったけれど、次の瞬間白い歯を見せて破顔した。
「いやあ、これだから神崎くんは、愛くるしいなぁ」
「……気持ちわるい」
「お、神の暴言いただきました。有り難く録音させていただきます」

 駄目だ。この男はネジの一本どころではない。何十本も抜けているから、まともに会話したところで決着はつかないのだ。どうすれば俺からの興味をなくしてくれるのか。いっそのこと、辞書で調べたありったけの暴言を浴びせてみるか。……いや、怖い。これだけ従順だったとしても、もし何かのスイッチが入って暴力を振るってきたら。こいつは元々不良である。手段など選ばずに襲ってくる可能性もある。

 だったらまずは、段階を踏むか。と地雷を探り当てる事にした。

「分かった。じゃあ、運ぶの手伝え」
 俺がノートを持つから、重い問題集の方運べよ。と言おうとしたのに、すでに瀬田は問題集を先に持ち、さらにノートも半分上に重ねて持ち上げた。

「よし。じゃあ残りは頼むわ。これ以上載せるとバランス崩して落とすから」

もしも自分が女子なら、ときめくポイントはあるのかもしれない。事実、周りの女子からの評価は、ここ数日で格段に変わっていた。体格が良くて顔も悪くない。そして、今みたいなさりげない優しさを出せる。それをベースに毎日生活すれば良いのに、俺の前にだけ限定しないで欲しい。

「なあ、瀬田って実は英才教育受けてたりすんのか?」
「なんだよ、急に。神崎くん。俺のこと見直した?」
そうやって笑う顔も、犬らしくて愛嬌がある。勿体ないなぁ、と人のことなのに残念がってしまった。

「俺の家は貧乏だよ。母さんしか身内はいねぇし、家帰ってもいつも1人だ」
「……そうか」
 あまり深く聞いては駄目な話題だったな、と会話を止める。人の家庭事情にそう簡単に踏み込む事は良くない。何か話題を変えるかと、渡り廊下の掲示板にあるポスターに目が留まった。
「……林間学校」
「え?」
「林間学校。お前もサボらず行くよな?」
毎年1年の夏に開催される、キャンプ場での野外活動である。そういえばもう2週間を切っているのだ。ポスターを見るまで忘れていたな、と家に帰ったらカレンダーに書いておこうと心にとどめた。

「この暑い時期に林間学校?この学校頭おかしいんじゃねぇのか」
「一応避暑地だから、そこまで暑くないし、川の近くだから比較的涼しいらしいぞ」
「……まあ、行くけど」
「泊まりだから、着替えとか忘れるなよ」

はいはい、とだるそうに返事する瀬田には、やはりサボるという選択肢もないらしい。本当に人が変わったみたいだな、とお利口な犬を撫でてやりたくなった。

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 その日の夜、母親が「あっ!」と突然声を上げた。
「ごめん、お風呂やばいかも」
何があったのだと顔を覗かせてみると、湯船に濁った水が溢れていた。

「水道管がこわれたのかなぁ。シャワーも駄目になってるし、今日だけ銭湯に行こっか」

「分かった」

「あ、でもお父さん帰ってきてからにしよっか。ちょっと待ってて」

 緊急事態に母親は家中を駆け回って、修理業者に連絡したり、ネットで検索を掛けたりしている。

「俺に何か出来ることある?」
「じゃあ、晩ご飯のお惣菜買ってきてくれる?作ってたんだけど、それどころじゃないから」
「分かった」

 近所のスーパーまでは自転車を使えば5分で行ける。家の鍵と自転車の鍵を持ち出し、スマホだけ持って出かけた。

 7月だけど夜は比較的涼しい。漕いでいると風になった気分で気持ちが良いな、と一瞬目を閉じた瞬間に、「神崎くん!」と声がした。

「……瀬田の声。いや、まさか」

 ついに付き纏われ過ぎて幻聴が聞こえ始めたかと末期の自分が怖くなる。しかしスーパーの光の方を見ると、大きく手をふる瀬田の姿をくっきりと見えた。

「なんで、いんの?」
「それはこっちの台詞だって。俺はいつも家で1人だって言っただろ。だからご飯の買い足しに来たんだよ。神崎くんはなんで」

「まあ、おつかい頼まれて」

「……そう。ならいいや」

 何が良いんだと、不可思議な言動を疑う。彼の手には既にビニールの袋があり、レトルトご飯と焼き鳥の缶詰が見えていた。

「飯って、その缶詰だけなのか」
「まあな。料理はできないし、レンジで温めるだけで充分美味いし。最近は毎日夜これ食ってるかも」
「栄養が偏りそうだな」
「はは。そこまで管理してくれるなんて、さすがうちの委員長だ」
「……もう少し、自分のこと大事にしろよ」
 
沈黙が生まれた。ただ本心から出た言葉なのに、瀬田が黙ってしまうから気まずくなる。自転車から降りて、そのまま駐輪場の方へとハンドルを向けた。

「じゃあ、俺これから買うから」

 逃げるつもりで背中を向けるが、咄嗟に手を掴まれる。大きくて骨張った手だった。

「待って。俺も一緒に買い物していく。……そういえば、ちょっと飽きてきたんだよ。追加でもう少し買うわ」

ふわふわと髪が風でなびく。そのアホ毛をぼんやり見ていると、「そうか。飽きたなら、買った方がいいな」と間抜けな返事をしてしまった。

 惣菜売り場を物色している間、瀬田は隣で質問を始めた。

「神崎くんはさ、なんで部活入ってねーの?」
「運動音痴で音楽や美術の才能もない。料理は一番苦手。勉強以外に自分の強みがないから、興味も湧かなかった」
「さすが。真面目な考え方だなぁ」
「そういうお前はなんで……」

言いかけて辞める。あまりに不自然な途切れ方をしたせいで、瀬田に言葉の続きを勘づかれてしまった。

「なんで問題児やってるかって?」
「……うん」
「中学までは、別に普通だったんだよ。そこそこ真面目に学校行って勉強して、部活もやってて」
「バスケ部?」
「そう。……あ、その唐揚げ美味そうだな。俺も買おうかな」
「鶏肉と鶏肉で被っているけど」
「……あ、そっか。さすがに無理あるよな」

身長も高くて体格に恵まれている。こいつがレギュラーで活躍する姿は、容易に想像できるのに。怪我でもしたのか挫折する何かがあったのかと、彼の過去を想像の中で完結させた。

「続ければ良かったのに。バスケ」
「……それがさあ、無理になったんだよ。もう、何もかも。全部が遠いなって感じちまったんだよ」
「……遠い?」
「そう。俺ってまじでいる意味ないなって思う事があってさ。部活でも、学校でも、家でも。この前神崎くんには話したよな。うちの家族は母親が1人だけだって」
「うん」
「俺、全然知らなくてさ。母親がずっと苦しんでいたの。公式戦のあと、部活から家に帰ってきたら、顔にでっかい痣つけて母さんが倒れていたんだよ。どうしたんだよ、何があったんだよって声を掛けても無反応でさ。心ここにあらず、ってやつ。その後に、父親が暴力を振るっていたとか、親戚の家から嫌がらせを受けていたとか、家族なのに蚊帳の外で色々あったって知ったんだよ。その時思ったんだ。俺って、いる意味なくないかって。それからもう、バスケしてても集中できなくてさ。俺いなくてもチームは勝てんじゃん。学校に行かなくても、誰も怒らないし困らないじゃんって」
「……もしかして、瀬田が俺に怪我させたとき、あんなに心配したのって」

 横顔を見る。それはいつものような屈託のない笑顔ではなく、下唇が少し震えた歪なものだった。

「うちの母さん、まじで美人でさ。自慢なんだ」

瀬田の手が、俺の肩を掴んだ。その力の強さに、つい体が強ばってしまう。怖かったのではない。その強い感情に、どう向き合えば良いのか分からなかった。

「なあ、頼むからさ。辛いこととか困ったことがあったら、俺を呼んで。いつでも駆けつけるからさ」
「……つまり、お前は自分の母親と俺が似ているから、こうして犬みたいに寄ってくるのか?」
「違う。似ているかどうかじゃなくて」
「何だよ」
「特別なんだ。誰よりも」

心臓の音が大きくなる。特別。暑苦しいほどに情熱的な好意。それら全てを、俺は受け止めきれるのだろうか。この男の感情に、中途半端に答えて良いものなのか。

「待って、くれないか」

彼の手をそっと離す。首から伝う汗が、ぽたりと落ちる。

「俺がよしって言うまで、待ってて欲しい」

瀬田の表情は強ばっていた。でも弛緩した腕はだらりと落ち、「分かった」と素直に頷いた。