見えない方程式



「ここに座って」

保健室にたどり着くと、沢邑先生は空いているベッドの上にバスタオルを敷いてくれた。

真っ白なその上に座るのは少し抵抗があった、しかしお腹の痛みは消えたわけではないので遠慮を吹き飛ばして腰を下ろす。

瞬間、紺色のスカートに染み込んだ血がバスタオルにも侵略する。

着ている服が水に濡れたときのような、あまり気分のよくない感覚に心音は眉を寄せた。

すると、向かいのベッドが目に入る。

そのままベッドにいるだれかと目が合っていたら、その人物は心音に睨まれていると勘違いしただろう。

けれどそのベッドを囲むようにカーテンが閉められていたため、変な誤解を招かずに済んだ。

カーテンに映る人影の本体はだれなんだろう。

山崎さんとかな――その名前が浮かんだと同時に、山崎佳子に見捨てられた瞬間の記憶も蘇ってしかめられていた心音の眉毛が下がった。

「友永さん。これ、替えのジャージと下着。あとナプキンも」

「あ、は、はいっ」

感傷に浸っていたせいで、ありがとうございます、というお礼が出損ねた。

「すぐ近くにトイレがあるけど、そこで着替える?お腹の痛みがひどいようなら、ここでいいけれど」

「えっと……ここで着替えたいです」

いくらすぐ近くにあるとしても、保健室とトイレを往復すると考えるだけでさらにお腹の痛みが増す。

「ここ?分かったわ。じゃあ、着替え終わったら呼んで頂戴」

「はい」

「カーテン閉めるわね」

「はい」

「あ、一応言っておくけど向かいのベッドで友永さんが着替えるからね、佳子ちゃん」

心音に向けられた言葉ではないのに、はい、とあやうく心音は返事をしてしまいそうになった。

カーテンの閉まったベッドから、佳子ちゃん――山崎さんが、はい、と返事をする。

い、を言い終わると同時に、沢邑先生によって閉められたカーテンの音が響いた。

――「先生、着替え終わりました」

カーテンを開けると、心音は椅子に座っている沢邑先生にそう声をかけた。

1つ頷くと、沢邑先生は黒いビニール袋に、血で汚れた心音の制服のスカートとバスタオルを入れる。

「あ……バスタオル、汚してすみません」

「いいのよ、その前提でバスタオルを敷いたんだから」

沢邑先生は当たり前のように答えた。

「学校用の洗濯機があるから、それでスカートとバスタオル洗濯してくるわね。あ、担任の先生に保健室に行くってこと、言った?」

「いや、言ってません」

「なら、私が伝えてくるわ」

心音が生理痛に苦しまれながら教室を出たのは、朝のホームルームが始まる数十分前の時間だった。

当然担任の先生にも伝えていないから、沢邑先生が代わりに伝えてくれるのはありがたい。

「ありがとうございます」

「いえいえ。じゃあ、10分くらいで戻ってくるからね」
その言葉を残して、沢邑先生は汚れたスカートが入った

黒いビニール袋を手に保健室から出ていった。

「……」

「……」

当たり前に沈黙が流れる。

心音はジャージに着替えたからか、あるいはナプキンをつけたからか少し痛みの和らいだお腹をさする。

そしてだれかに言い訳するかのように、山崎さんがいるベッドのカーテンの向こうをちらりと見た。

――「あ、そうそう、友永さん」

しかし、去ったはずの沢邑先生が扉から顔を出した。
「え?」

「友永さんが踊り場でうずくまっていることを、私に報告してくれたのは佳子ちゃんなのよ。だからお礼、ちゃんと言っておきなさいね」
「え?」

同じ返事をした心音に構わず、沢邑先生は今度こそ去っていった。

「……え?」

沢邑先生の足音が耳が拾えなくなるくらい遠ざかると、心音の口からはびっくりするくらいまぬけな声が出た。
静かな空間でお腹が鳴った時みたいに恥ずかしくなり、慌てて口を押さえたが意味はない。

すると、シャツ、と気持ちいい音が響いた。

「え、えっと」

開けられたカーテンの向こうからから姿を現した山崎さんは、目が本当に魚みたいにあちこち泳いでいた。

まさかこの2人きりになる瞬間にカミングアウトをされるとは思わなかったのだろうか、いいことをして心音を救った側とは思えないほど気まずそうにしている。

「余計なことして、ごめんな、さい。私の力じゃ、沢邑先生みたいに保健室へ運べないかなって思ったから、えっと」

「ありがとうっ」

「え?」

「言い訳することじゃないよ……ありがとう」

繰り返された5文字のお礼に、山崎さんは奥二重の瞳をぱちぱちとまたたかせる。

だがその意味をかみしめたように頷き、照れたように笑った。

「どういたしまして……!」

手をかざすだけで温まる暖炉の火のような笑顔は、心音心にぽかぽかと温度を加えてくれた。

「あっ。そうだ!お腹、大丈夫ですか!?」

「えっ、あ、はい」

思い出したかのように生理痛を訳してたずねられ、心音もつられて敬語で答えた。

「あ、いや完全に痛みがなくなったわけじゃないけど、おかげさまでだいぶ」

「よかった……!!私は生理痛、あんまり重くないから友永さんの辛さは分からないかもしれないけど……同じ女子なんだから、なにかあれば相談してね……あ、いや全然迷惑なら大丈夫だよ、私は保健室登校してるんだしそんなのに相談とか嫌だろうし。ご、ごめんなさい急に!」

気遣いに自己嫌悪に謝罪。

感情の起伏が激しい山崎さんを前に、心音は呆然とする。

「え?」

「あ、ご、ごめんなさいっ」

「ありがとう……」

目を見開いた山崎佳子を前に、心音は彼女の手を握りたい衝動に駆られながら口角を上げた。

「嫌なわけないよ……嬉しい」

瀬那と玲亜とは正反対のことを言われた嬉しさは、想像以上の大きさだった。

体の奥が熱くなり、涙がじわじわと滲んでくる。

――「おはようございまーす!……あれ?」

しかしそんな大きめの声が、感動ムードを見事なまでに壊した。

少し泣きそうになった心音と驚きに目を見開いていた山崎さんは、示し合わせよう同時に保健室の入り口を見る――ちなみに心音の涙は出番はないとばかりに引っ込んでしまった。

「……あっ、琴里ちゃん」

「琴里ちゃん?」

疑問符がついたのは、心音は『琴里』という名前をどこかで聞いたことがある気がしたからだ。

「佳子先輩おはよー」

「うん、おはよう」

「ね、ね、この人……もしや新入り!?」

なんの?

開口一番に浮かんだその言葉を口に出す前に、山崎さんが首を横に振る。

「ううん。友永さん、友永心音さんはちょっと理由があって来ただけだよ」

「なーんだ、仲間が増えたかと思ったのに」

もしや心音は琴里に一瞬でも、新たに保健室登校をしにやって来た人、と見られたのだろうか。

それにしても『仲間』ということは、琴里も保健室登校をしているのだろうか。

改めて琴里の格好を見てみると、踊り場でうずくまっていた自分の第一発見者になった山崎さんと同じでリュックを背負っていた。

怪我人などだったらそれを背負ってくるわけもないので、そういうことかと心音は納得する。

「ねぇねぇ佳子先輩、昨日のおすすめに流れてきたドラマの切り抜きでさ、めっちゃくちゃどタイプの俳優さん見つけちゃったんだけど!!」

「琴里ちゃん、シー!友永さんがいること忘れないで……」

「あっ!ごっめんなさい友永先輩!」

本当に悪気はなさそうだが、謝罪まで声のボリュームが大きい。

「はは、大丈夫だよ」

「ありがとうございます、友永先輩神すぎる~!!…あれ、友永ってなんか聞き覚えが。そうだ、私のクラスに友永愛音ちゃんがいるからだ!あれ、友永先輩って名前、心音ですよね?名前もちょっと似てる……よく見たら顔も愛音ちゃんと雰囲気似てる!?」

芋づる方式で、琴里の頭には1つの可能性が浮かんだことだろう。

「…実は、愛音は私の妹で」

「やっぱり!!」

「友永さんって、姉妹いたんだね」

「私も佳子先輩も一人っ子だからいいな~!!」

「いや、姉妹ってそんなにいいものじゃないよ」

その言葉に、意図せず棘が混じってしまった。

例の裏サイトの投稿と写真が頭をよぎり、わずかにぶり返してきたお腹の痛みとは別の理由で顔が歪む。

……妹のせいで、関係ない私まで瀬那に『気持ち悪い』って言われたんだから。

「友永先輩?」

「…あっ。ごめん、ボーッとしちゃってた」

琴里と山崎さんの不思議そうな顔2つを前に、慌てて笑みを作る。

「ええ!ボーッとしてたって、大丈夫ですか!?やっぱ私がうるさすぎたせい?」

「え、そんなことないよ!」

「ならいいけど、ちょっとでも具合悪くなったら言ってくださいね?」

少ししつこいくらいの気遣いが逆に心に染みる。

「琴里ちゃんって優しいね……クラスでも人気者だったんじゃない?」

「え?」

「山崎さんなら分かるけど、男子にも女子にもモテそうな琴里ちゃんが保健室登校って、結構意外。人間って分からないね」

――『それがさ、今日、保健室登校のお仲間が増えたらしくて!千波と同じクラスの、たしか名前は……琴里』

『そうそう。千波が言うには、琴里はむしろ隠れ人気者、って感じで保健室登校するようなイメージはゼロだったんだって』

そうだ、琴里の名前を知ったのは裏サイトの件が起こる前の日の、瀬那がきっかけだった。

その日浮かんだ感想を、今日も全く同じ感想を抱いたため、口に出す。

――「ただいま。あら、琴里ちゃん!来ていたの」

「……はい」

「なんか元気がないわね。大丈夫?」

「大丈夫です、沢邑先生」

「ならいいけど……あっ、友永さん。スカートは洗濯したから、乾いたら届けに行くわね」

「ありがとうございますっ」 

「大丈夫よ。だけど、まだここで休んでる?」

その言葉に、心音は壁掛け時計を見上げた。

保健室のベッドのように白いそれは、対照的に黒い針が5時間目の終わり頃を指していた。

「いや、ちょうどいい時間だしもう戻ります」

「たしかに、教室に着く頃には5分休みになっていそうだね。でもお腹は大丈夫なの?」

「お腹……そういえば、あんまり痛みもなくなってきたかも」

清潔な衣服に着替え、ナプキンもつけたから『汚れるかもしれない』という不安はいくぶんか消え去った。

保健室という教室とは違う空間で休めたこともあり、心音の体をがんじがらめに縛っていた鎖がバラバラに解けたような、開放的な気分だ。

例え一時的な気持ちだとしても、瀬那や玲亜はいるけど教室に戻ろう、と思えるくらい自分がびっくりするほど前向きな人間に生まれ変わった錯覚さえ受ける。

沢邑先生にもそれが伝わったのか、朗らかににこにこ笑ってくれる。

「力になれてよかったわ。じゃあ、いってらっしゃい。またお腹が痛くなったらここに戻ってきていいからね」
「はい。さようなら」

「さようなら」

「山崎さんと琴里ちゃんも、またね。話してくれてありがとう」

沢邑先生に振った手を、山崎さんと琴里の2人に向かって移動させる。

「……え?」

しかし心音は、数秒も経たないうちにきょとんとした。
山崎さんは小さく手を振り返してくれる。

なぜか悲しそうに、眉を下げながら。

そして琴里は……今、心音に手を振られていることさえも気づいていないようだった。

うつむく彼女の、つけまつげのような長いまつげが目元に影を落としている。

だが唇は隙間なく結ばれ、悲しそうとも悔しそうとも取れる表情だった。

「琴里ちゃん?」

「……さようなら、友永先輩」

心音の顔を見ずに放たれた言葉の端には、早く出ていってほしいというような圧力があった。

山崎さんは隣の琴里をちらちら見ながら、促すように保健室の扉に視線を向けている。

これ以上1秒でもいるのはなぜか発生した気まずさのせいで怖気づき、心音は逃げるように保健室から出た。
後ろ手に扉を閉じると、体が冷たいアルミの上によりかかった。

――短時間でも、私は楽しく話せたと思っていたのに。
心音が保健室からいなくなる直前、あんな失礼な態度を取られるとは思っていなかった。

悲しみよりも、その理不尽さに心臓が暴れる。

ドクドクと表現するにはとても追いつかないスピードで鼓動が打ち鳴らされ、体の奥底からどろりとした熱い塊がこみ上げてくる。

「心音?」

しかし、一言だけでも名前を呼ばれたからか心音は一瞬で現実に引き戻された。

だが動きを止めた塊が、喉元に向かって再びこみ上げ始める。

「どうしてそこによりかかってるの……?気分悪い?」

「……」

「あ、私は体育でリレーやったんだけど、つまづいちゃったんだよね。心音は、怪我はしてなさそう。よかった」

「……」

なにも聞いていないどころか口さえ開いていない心音を前に、愛音は一方的にそう言い切った。

心音が苛む理由は違うが、ジャージ姿の愛音は、たしかに剥き出しの右足――体育の授業中はいつもハーフパンツだ――の膝を擦りむいていた。

水道で洗ったのか汚れはほとんどないが、それが逆に赤黒い傷を引き立てている。

それを見た心音が思わず目を背けそうになったのは、傷が痛々しかったからだと心の中で言い訳した。

すると、愛音は困ったように心音を見上げた。

「えっと、心音……喋れなくて動けないくらい、具合悪いって感じ?」

――愛音は昨日、姉に怒鳴られたことを忘れたのだろうか。

「どうしよう。あ、【在籍してます】の札ある。ならここからでも、声出せば中にいる沢邑先生に聞こえるかもね」

でも忘れられるはずもない、それならなぜ、理不尽な怒りをぶちまけられたことへの負の感情が一切愛音から感じられないのか。

「てか、ここ静かだしこの会話も聞こえてたりして」

「……どいて」

「わっ。ちょっと、心音!?」

すれ違いざま、わざと愛音の肩にぶつかったのは自分なのに……なぜか心音が泣きそうになっていた。

唇を強く噛んでいなければ、琴里や山崎さんに対する怒りとは別の理由でこみ上げてきた『それ』に負けそうだった。