「あ、心音」
「おはよう〜、今日早いね?」
「おはよう……うん、家出るのが早くなって」
けれど瀬那と玲亜が登校してきた頃には、謎のお腹の痛みも少し和らいでいた。
しかしまだ完全に痛みはなくなっていないので、机の下でお腹をさすりながらそう返事をする。
「……なんか心音まで気持ち悪く思えてきたかも」
「えっ?」
だがその瞬間だけ、痛みを忘れた。
唐突に悪口を言われ、心音は呆然と瀬那を見上げる。
「えっ、って、昨日のこと忘れたの?裏サイトに千波が投稿したやつ」
「心音の妹ちゃんが女の子と付き合ってました!っていうあの投稿〜?」
玲亜の言葉に、頷いて瀬那は続ける。
「添付写真も鳥肌ものだったけど、まず、普通に同性愛って気持ち悪いじゃん?」
――『同性愛なんて気持ち悪い!!』
心音の脳裏に、昨日、愛音にぶちまけた言葉がありありと蘇った。
動きが止まったが。
「同性愛してるのは妹だけどさ、姉の心音も気持ち悪く思えてきちゃったんだよね」
「……え?」
心臓すら、一瞬止まった気がした。
「ちょっと瀬那〜」
「ホントのこと言ってなにが悪いの。今目の前にいる人の妹が女子と付き合ってるとか、気持ち悪すぎ。玲亜はどう思う?」
「うち?どうだろ、え〜。でも、いくらそういう妹を持ってても、心音は同性愛してるわけじゃないし」
「でも、犯罪者の家族も犯罪者に思えることと同じじゃない?」
「それとこれとは〜……まぁ、別でもないか」
「やっと分かった?」
冷凍食品が解凍されるように、心音の心臓はやっと動くことを再開した気がする。
けれどなぜか、その鼓動はどんどん速さを増し……しまいには心臓のある辺りが少しだけじんじんと熱くなってきた。
瀬那に『気持ち悪い』――そう、自分までそう思われことが原因なことくらい、すぐに分かった。
目の前に〝心音〟がいる。
だが急に〝心音〟――自分は、砂の城のようにサラサラと崩れていく。
瀬那という風のせいで。
そんな錯覚がありありと目の裏に浮かび、心音の全身に鳥肌が立った。
「…っ!!」
反射的に立ち上がったせいで、机の裏に激突した太ももが鈍い痛みを訴えたことも。
その拍子に太ももに激突された机が倒れ、間一髪玲亜のおかげで難を逃れたことも。
全てが他人事のように思えた。
しかし、心音のお腹に――胃に鋭く走った痛みが、思考の全てを塗り替えた。
「……ぅ、うっ」
今さっきの衝撃のせいか、再びぶり返すお腹の痛み。
「心音?」
痛い部分を手で押さえると、体がくの字に折り曲がった。
「えっ、どうしたの心音!?」
心音は、絞られる雑巾みたいに胃がギューッとねじられているような気持ち悪さに邪魔され、返事も出来なかった。
今朝かきこむように食べたヨーグルトの期限が切れていたのだろうか。
だが……今トイレに行っても、なにも出ないような、スッキリしない予感がつきまとっている。
「ね、ねぇ大丈夫〜……?えっとこの場合どうすれば――」
「もしかしてセイリ?」
セイリ。
その漢字も意味も、心音は一瞬入ってこなかった。
だがセイリ――生理を理解した瞬間、しかしタイミングを見計らったかのように、あるいは瀬那の言葉を証明するかのように異物が流れ出た。
物理的に血が出たこともあり、心音の顔から二重の意味で血の気が引く。
ナプキンしてないのに、なんてまだマシな問題はこの際どうでもよかった。
え、生理きちゃったんだ、たぶんねヤバそう、という2人の会話もどちらも規格外に大きな声で話しているわけではないのにお腹の痛みに拍車をかける衝撃になる。
「い、痛……っ」
そう声に出さなくとも、十分心音が苦しんでいるのは伝わったのだろう。
髪をいじりながら、瀬那は言い放った。
「へぇ、そんなになるんだ。心音って重いんだね。うちら軽いほうだから分かんないやー」
半笑いで。
玲亜も心音同様、この世の終わりのような顔で苦しんでいる人を前にしているとは、到底思えない瀬那の反応に目を見開く。
けれど、彼女が驚いている時間はそう長くなかった。
「たしかに、うちも軽いから分かんな〜い。重いとこんなに大変なんだ〜」
玲亜のコメントに入っている『大変』以上に大変な状態の心音は、2人から――全てから逃げるように足を動かした、教室の出口を目指して。
その途中でクラスメイトの反応――特に男子――が気になったけれど、わざわざ傷つく勇気も持ち合わせてはいない。
うつむきがちに移動している間、嫌というほどクラス中の肉眼が自分に向けられているのを肌で感じながら、心音はなんとか教室から出た。
それだけで、難しい数学の問題を解いた時みたいにドッと疲れが押し寄せてくる。
しかし今は疲れに身を任せていい状況ではなく、気力だけで引き続き足を動かす。
でもそういえば、目的地は決まっていない。
教室から逃げたい一心で出て来たが、どこへ向かおう。
もう自分の下半身に身に着けているものは手遅れだと確信している、だからトイレに入って付属のナプキンをつけるのはただ時間と気力を無駄にする作業でしかないだろう。
だったら……保健室に行ってみようか。
1回もお世話になったことはないが、仮にも同じ校舎に1年と半年通っているだけあってその場所は覚えている。
怪我人の処置だけでなく、着替えを用意してくれそうなイメージがあるし、最悪でもそれを貸してもらえるだけでありがたい。
冷静な自分が考えた一連の行動の通りに、まず心音が今いる2階から、保健室がある1階を目指して無心に足を動かす。
少しでも立ち止まれば、どんどんひどくなるお腹の痛みに完全に飲み込まれてしまいそうな気がした。


