神獣後宮の宮姫〜後宮で神獣の蝦蟇さまのお世話をしていたら、帝に興味を持たれたようです〜

 翠が後宮に帰ると、奈子があわてて翠を庭のガマガエルの囲いに連れて行った。
「なに? どうしたの、慌てて」
「見てください、見てください、宮姫さま!」
 そうして、囲いを超えて池のほうに歩くと、奈子はそこにいる小さな黒いにょろにょろを指さしたのだった。
「え、え!?」
「これは、長老さまの生まれ変わりなのではないでしょうか」
「オタマジャクシ……いつの間に」
 わー、と奈子と手を合わせて、翠はぴょんとその場に跳ねた。
 小さなかわいい神獣を見下ろし、「よろしくお願いしますね」といとおしげに手を振った。
「なにをしている」
「わ、え!? しゅ、主上!」
 奈子が気づいて、あわてて囲いから飛び出した。
 翠も奈子に続いて囲いを出たが、うれしさのあまり帝の手を取って、今しがた見たオタマジャクシのもとに帝を連れていく。
「ご覧ください! この子、長老さまの生まれ変わりなんですよ」
「長老? おい、そなたまさか、神獣をそのような名前で呼んでいたりしないだろうな?」
 そわ、と翠が目をそらす。帝はため息をつき頭を抱えた。
「この際、呼び名は咎めぬが。他には聞かれぬように気をつけろ」
「はい。それで、主上」
「なんだ」
「このオタマジャクシも、神獣としてお世話してよろしいのですよね?」
 本来ならば、神獣とは、陰陽師が直々に選んだものを連れてきて庭に飼うのだが、今の翠には酷な話だと帝は思った。
 昨日、長老が死んだ際の落ち込みようを見ているから、無碍にもできない。
「まあ、わたしからそうなるよう手を回そう」
「あ、ありがとう存じます!」
 パッと明るく笑う翠を見て、帝は頬を赤らめた。
 なんだ、今のは。
 後宮には四人の宮姫がいる。
 そのどれもが、神獣の世話をして、未来の妃の座を巡って帝の気を引こうと必死だ。
 しかしこの翠という娘には、それがない。もしも帝に取り入ろうという魂胆ならば、昨日ガマガエルが死んだくらいで、あんなに取り乱すだろうか。
 誰もが神獣など信じていないのに。この翠という娘は、神獣であるなしに関係なく、生き物をいつくしむ人間なのだ。そう気づいたとたん、たまらなくいとおしい気持ちがわき上がってしまう。
「ときに、そなた」
「なんでしょう」
「もうすぐ、宮姫の舞の祭祀があるが、準備は進んでいるか?」
「……え、ええと。はい……」
 あ、これはだめなんだな。
 帝は察して、その件には触れないことにするのだった。

 多邇具久の宮姫の翠がそろったことで、四神獣の宮姫のすべてが後宮にそろった。
 これは、宮姫の歴史百年の中でも数回しかない珍しいことらしく、ゆえに宮姫すべてを集めての祭祀が行われることが決まったのだった。
 今日は十二単(せいそう)の宮姫が、中央後宮の舞の殿に集まっている。
 翠のほかの宮姫は、大口真神の宮姫・晃子、白狐の宮姫・伯子、八咫烏の宮姫・順子。
 みな、出自からして立派なもので、晃子は太政大臣の娘で、宮姫になるべく教育を受けて育ち、伯子は右大臣の娘ゆえにその責を負い、順子は帝の縁戚ゆえにその教育を受けてきた。
 代々の宮姫も同じく、神獣に選ばれるのはそういった、なるべくしてなった姫ばかりなのである。
 なのに、と翠は思う。
 自分はなぜ、宮姫に選ばれたのか。
 確かにあの日、選んでくれと願いはした。雛子の家に戻るくらいなら、という打算的な願いだ。
 でも。今は誇りをもって宮姫を務めあげたいと思っている。
 みんなは、翠のことを蝦蟇姫と揶揄するけれど、それでも翠は、お世話をする中で、ガマガエルたちをいとおしく思い、その生を全うさせてあげたいと思うようになった。少しでも快適に生きてほしいし、囲いで自由がない分、不自由な思いはさせぬようにと。
 いまでも奈子以外の二人の女房は、翠を好ましく思っていないようだけれど。
 前三人の舞が終わって、いざ翠の番が巡ってくる。
 と、翠の裳を、誰かが踏んだ。転びそうになって、すんでのところでこらえた。
 伯子の女房だった。
「こら、凛子。間違ったのなら謝りなさい」
「申し訳ありません、蝦蟇姫……じゃなかったわ。多邇具久さまの宮姫さま」
 くすくす、くすくす。
 笑い声が耳障りだ。
 だけど、舞の失敗は、宮姫としてだけでなく、神獣への不敬にあたる。
 翠は、なんとしても見返したかった。翠だって、いや。
 ガマガエルだって、狐だって烏だって狼だって、同じ神獣なのだ。
 ガマガエルというだけで、周りのみんなは神獣である翠の囲いの中のガマガエルを見下す。嫌悪をあらわに気持ち悪いと言われたこともあった。
 だから翠は、今、ここで舞を成功させなければならない。
 それは自分のためではなく、神獣である多邇具久さまの名誉のため。
 雅楽が流れる。
 バッと、扇を広げて頭上に掲げた。舞は優雅に、足運びは美しく。体の軸を捉えて、ぶれないように足を運ぶ。
 右から左に歩き、振り返り引き返すしぐさは優雅に、けれどつやを出す。
 流し目で、決して足元や先を見てはならない。舞は優雅さが重要だ。
 体の重心を一定に保つためには、血のにじむような努力が必要だ。一朝一夕にはいかない。
 翠がそれらを習得できたのは、ひとえに幼いころ男としてふるまっていたからだ。
 あの頃は重いものを持たされ、遣いに出され、苦労したものだが、無駄ではなかったらしい。
 翠の舞に、誰もが見とれている。
 だんだんと、雅楽と翠の動きが合ってくる。右足、左足。裳が引きずられて音を立てる。
 げーこ、げーこ。カエルが鳴きだす。
 コーン、とキツネが相槌を打った。
 ワオーンと狼の遠吠えが聞こえ、合間にカラスのカアという鳴き声がこだまする。
「なにが起きているんだ?」
「よもや、あの宮姫は、神力があるのか?」
 雅楽の最後、といったところで、しかし翠は最後の気のゆるみから、扇を落としてしまう。
 バタ。
 それを合図に、動物たちの鳴き声が、やんだ。
 翠は慌てて扇を拾って、なんとか最後まで舞を終えた。
「宮姫さま、お疲れさまです」
「奈子。失敗してしまったわ」
「いいえ。見てください。みなさま、肝を抜かしていますよ」
「……? なぜ?」
 心底わからないといったふうに、翠が首を傾げた。奈子は興奮気味に、
「宮姫さまが舞っている間、神獣さまのお声がやまなかったのです」
「神獣さまの?」
 どうやら集中していた翠には聞こえなかったようだ。
 翠はほっと胸をなでおろし、そろりと帝を見た。
 中央後宮の舞の間の上座に座る帝と目が合って、目をそらしたのは帝のほうだった。
「き、嫌われた……?」
「宮姫さま?」
「あ、いいえ。奈子。私、最後に失敗するなんて、だめね」
 そうして、舞は無事に終わり、帝から酒と料理がふるまわれて、祭祀はお開きとなった。

 祭祀を終えて、それぞれの後宮に帰る道すがら、伯子に刺さるような目を向けられた。
「全く。獣たちを操る呪詛の舞なんて、どこで覚えたのかしら」
「呪詛なんて。私は必死で」
「あなたが舞っている間じゅう、いろんな動物が鳴いていたじゃない。本当に、恐ろしい子。いい? 皇后になるのはわたくし。思い上がりはおよしになって?」
「私、そんなつもりは」
「じゃあ、どんなつもりで主上の庖丁人のまねごとをして、神獣の葬儀までさせたというの!」
 ぱしん! と乾いた音が響いた。伯子が翠の頬をたたいたのだ。
 翠の体が投げだされる。その場に尻をつき、恐怖から伯子になにも言えない。
「伯子さま、私……癇に障ったのなら、謝ります」
 そのまま、翠は雛子にしてきたように、地べたに頭をこすりつけた。「いい気味だわ」と伯子が高笑いを漏らす。
 伯子はそのまま狐の宮に帰っていく。
 翠は伯子が見えなくなって、ようやく頭をあげた。
「私、なにを勘違いしていたのだろう」
 雛子に虐げられていたころの、弱気な翠が顔を出す。
「あんたは役立たずな人間なのよ。異国の人間が和の国で生きていられるだけでも感謝しなさい」
 雛子に、何度も何度もそう言われたのだった。
 自分はただ、神獣の気まぐれで宮姫になれただけで、帝の庖丁人や、ましてやあの日の白露という少年との思い出を胸に秘めているなんて、おこがましいにもほどがある。
 そして、いやしくも帝に心惹かれつつある、なんて。
 その日翠は、帝に申し出て、庖丁人(りょうりにん)の任を降りた。
 帝はたいそう怒ったが、翠のかたくなな態度に失望し、また、冷淡な帝へと戻っていった。

 翠は静かに、蝦の宮のガマガエルたちの世話をするようになった。
 夏になって、ガマガエルたちの水あげの回数を増やした。
 あのオタマジャクシは、尻尾は残るが、小さな小さなガマガエルへと成長した。
 その小さなガマガエルを手に載せて、翠は微笑んだ。
「おチビさま。ご機嫌はいかが?」
 げこ、と返事をする長老の生まれ変わりには、おチビさまという名前が付けられた。
 そして、新しい長老も誕生して、今日も蝦の宮は平和だった。
 しかし、夏ゆえことさら暑い。

 そんな折、蔵人(そっきん)から後宮に触書がよこされた。
「主上が夏風邪に倒れられた。宮姫は神獣に祈りをささげるように」
 本当は、いの一番に御殿に見舞いに行きたかった。しかし、腐っても宮姫、病を移されるようなことはあってはならない。
 実質、後宮から出さないための口実だった。
「奈子。後宮から出る道は、ほかにないのかしら」
「出る!? 宮姫さま、どちらに行こうと」
「主上の病を治すのよ」
 こういったことは、幼いころにもあった。
 軟禁されていた帝が熱を出したことが一度だけあった。
 帝は小さい頃はよく笑いよく食べる優しい少年だったが、今はどうなのだろうか。
 記憶と同じならば、帝は風邪になれば食欲がわかずになにも食べられない。
 しかし、ひとつだけ、食べたものがあるのだ。
「奈子。厨を借りるわね」
「ええ、宮姫さまがお料理を!? 私が怒られます」
 とは言いつつ、翠はすでに厨に向かっていた。

 厨で、研いだ米と牛の乳を鍋に入れて炊く。
「かような料理……粥は水で炊くものです」
 女房のひとりがあきれたようにため息をついた。
「よいのです。これを甘く煮て、冷ましたら」
 とろとろに煮崩れるまで米を煮て、貴重品である砂糖を混ぜた、甘い乳粥の完成だ。
「では、私はこれから主上のもとに行きます」
「え、宮姫さま!?」
 奈子の静止むなしく、翠は膳を片手に後宮からつながる、帝の御殿へと歩いていく。
 しかし、門前払いである。
 門には封の札が張られ、外では陰陽師が祈祷している。
「開けてください。食べねば治らぬので」
「だからとて……呪いにはさようなものは」
 と、口を滑らせた蔵人が、はたと翠を見た。翠は聞こえていないように振る舞う。
 やはり帝は、翠以外の宮姫には呪いを知らせていないらしい。
 しかし、門がぎい、と開かれる音がする。
「主上が、入れと申しております」
 医者がこうべをたれて、こちらにと促した。
 翠のやり取りが帝にまで聞こえていたようだ。
 翠は速足で御殿に足を踏み入れる。
「全く。蝦蟇姫さまはなにをお考えかわからぬ」
 そんな陰口なんて気にしない。風邪は体力勝負だ。
 だから、この乳粥を食べて、体力をつけてもらわないと。

 帝の寝室まできて、翠はその場に座り込んだ。
 膳に乗った乳粥は程よく冷えて、鬼食い(どくみ)が一口、それを含んだ。
 甘くとろりとした米の食感が、好ましい。
「毒はありません」
 鬼食いの声とともに、帝はけだるげに起き上がると匙を持ち、乳粥を口に入れる――はずが、どうも思ったより衰弱して、匙が手から落ちてしまう。
「主上。失礼いたします」
 見かねて、翠は匙を持ち、主上に自ら粥を口に運んだ。
 帝は最初、口を開かなかった。しかし、
「召し上がってください。異国の料理がお好きとおっしゃっていたので、様々調べました」
 本当は、この粥なら帝にも食べられることを翠だけが知っている。あの日の少年がそうだったからだ。
 帝は眉間にしわを寄せながら、はく、とそれを口に入れた。
「懐かしい……」
「……さようですか。さあ、もう一口」
 一口、二口と食べさせて、椀が空になるまで翠は根気強く帝の食事を口に運んだ。
 すべて食べ終えて、帝は横になる。
 氷をさらしに包んで、額に載せている。
「熱いですか? 寒いですか?」
「熱いが、悪寒がする」
「お医者さまにも、こまめに寝着を取り替えるように頼んでおきます。それでは、私はこれで」
 翠が立ち上がろうとしたとき、帝が翠の手を取って、静止した。
「主上?」
「もうすこし、ここにいてくれぬか?」
「……しかし。後宮の宮姫には、外出禁止が言い渡されており」
「よい。わたしが許可する」
「……さようですか。ならば」
「ん……そなたといると、安心する。そなたは太陽のようだ」
 帝が翠にふにゃりと笑いかけた。
 帝がこんなに無防備な姿を晒すなんて。いや、確かに幼少時は明るい少年だったが、これはまるで、母や恋い慕うものに甘えるかの様な仕草だった。
 翠はフルフルと首を振って邪念を払った。
 その場に座り直し、帝の汗を濡らしたさらしでぬぐってやる。
 いつもは髪を結っているからわからないが、髪をほどくとひどく幼い。
 話では、翠と同い年だと聞いている。帝に即位したのは、まだ十四の時だったとか。
 翠と出会ったのが十の時で、即位したのは翠と別れてからは三年。
 どんな生活を送ってきたのだろうか。
「主上、変わりませんね」
 眠る帝の汗をぬぐいながら、翠はつぶやいた。

 翌朝、目が覚めると帝のそばには翠の姿はなかった。帝は、夢でも見ていたのかと首をかしげる。
 蔵人たちは、熱が下がったことを大いに喜んだ。
「蔵人頭(くろうどのとう)、昨夜、翠がここに来なかったか?」
「いいえ、そのようなことは」
 翠に頼まれたのである。先日のことは、帝に訊かれたら知らぬふりをしてほしい、と。
 だから帝は、あれが現実だったのか確証が持てない。
 あの優しい手つき、看病するいつくしむ瞳。そして懐かしい乳粥の味。
 帝が昨日のことは熱に浮かされた夢なのだと思った時、厨に、乳粥の残り物を食べる女房達の姿が見えた。
「……さようか。誰も来ておらぬ、と」
「はい、主上。医者以外には、誰も」
 なるほどな、と帝が呟いた。
 どこまでが翠の本心か、わからない。
 庖丁人の任をおりたくせに、こうやって風邪をひいたとなったらいてもたってもいられなくなる。
 さするに、翠はどこかの段階で、帝の正体に気づいている。でなければ、思い出の乳粥を出すはずがない。
 翠という人間は、自分をどうしたいのだろうか。
「さても、難しい人間だな」
 帝が眉間にしわを寄せた。しかし、その口元は笑っている。

 さて。
 蝦の後宮に戻った翠は、招かれざる客に相対していた。
「母上さま、姉上さま、兄上さま……」
 後宮の蝦の宮にて、丁重にもてなされるのは義理の母と兄姉である。
 奈子が茶を出すも、「こんな安物を出すの?」と印象はよくない。
「奈子。他の女房も。下がっていてください」
「しかし。本当にご家族なのですか?」
「はい、私を育ててくれた、正妻の母上さまです」
 それだけで奈子は察した。
 巫女の舞の際、翠は妾(しょう)の子供だと言っていた。つまり、この母親は正妻で、おおよそ、翠のことを邪険に扱ってきたのだろう。
 奈子は警戒心を解かぬままに、すのこ(ろうか)まで下がる。
 ほかの女房は、茶菓子を作りに厨に向かった。
「あなた、市井では有名よ。呪詛の宮姫と」
「私は……呪詛などしておりません」
「でも、神獣を従える力を持つって……ねえ、翠?」
 雛子のこの、猫なで声が嫌いだ。
 翠は蛇に睨まれた蛙のように、動けなくなる。
「翠、少しでいいのよ。反物や玉(ぎょく)、金銀を実家に送ってくれないかしら?」
 それで、今日は兄姉そろって翠を訪ねたというわけか。
 話には聞いている。
 翠の兄たちは大臣になるために賄賂が必要だし、姉たちも婚家を支えるために財産をなげうったと。
 そのせいで、翠が入内する際に与えられた褒賞は、すべて使い切ったのだと。
 翠はなにも言えない。いや、この雛子の言葉には逆らえない。
「では、私の後宮の調度品を……」
「ならぬ! 翠。そなた、なにをしている?」
 そこに、音もなく現れたのは、帝その人だった。
 ぴしゃりと言い放って、帝は翠の隣に座った。
「後宮に入ったものは、わたしのもの。そのわたしの女人から宝物(ほうもつ)を所望するは、帝であるわたしへの侮辱ととるが?」
 帝が翠の手を、そっと握った。驚き、翠は帝を見る。
 柔らかに、笑っていた。
 誰も助けてくれる人なんていないと思っていた。しかし帝は、翠を守ろうとしてくれている。
 翠はすうと深呼吸する。
「母上さま。私はもう、後宮の宮姫。援助はできないことを、どうかご理解ください」
「育ててもらった恩を忘れたのか!」
「母上さま。母上さまは、私を妾の子と、母屋には住まわせてくださいませんでした。重い荷物を持たせ、毎日遣いに行かせ。私は、私はあの家ではいないも同然でした」
 でも。
 この後宮に来て、初めて居場所ができたのだ。ここだけは、雛子に侵されたくない。
 翠の言葉に、雛子が歯噛みする。
 姉兄とともに立ち上がって、
「この、異国かぶれの、役立たず。あんたを育てた自分が憎い。母親とともに、殺しておけばよかったわ」
「……え?」
 口を滑らせた、と雛子が悟られる前に後宮をあとにする。
 翠はここにきて、実母の死の真相を知る。
 異国の人間が侵略に来たと母は殺された。母が殺されたのはほかでもない、雛子の差し金だったのだ。異国の美しい、憎い妾。
 体に力が入らない。立ち上がろうとしてよろめいて、帝に支えられる。たくましい腕だ。
「翠、大丈夫か?」
「はい……少し、めまいがしただけで」
「……そなたが、後宮に来たこと、まことにそれでよかったのか考えることもあったが……あのような母のもとから、引き離せてよかった」
 帝が雛子の後ろ姿を見ながら嘆息した。
「そなた今、幸せか?」
 そんなもの、決まっている。
「はい、幸せです。蝦蟇の神獣さまも、そばにいらっしゃるので」
 そこは、帝がそばにいるから、と言ってほしかった。
 しかし、そんなことは、期待するだけ無駄だ。
 少なくとも、翠が庖丁人(りょうりにん)をおりた時点で、帝と距離を取りたがっているのは明白だったからだ。
「しかし、主上。夏風邪はもうよいのですか?」
「ああ。そうだな。献身的な看病により、今はもう、どこにも不具合はない」
「さようですか」
 ほ、と翠が笑うのを見て、帝の胸が締め付けられた。
 この娘の本心が、わからない。