翠が十八になったころ、宮姫の選別が行われることになった。あの日の少年は、目を覚ましたあとあの御殿に行っても会うことはできなかった。どこかへ行ってしまったらしい。
宮姫は、この国を支える根幹だ。後宮に四人の宮姫がそろってこそ、神獣の加護が国に施される。
「私は嫌よ。蝦蟇の宮でしょう?」
「そうよねえ。わたくしの娘が、蝦蟇の宮なんて」
翠の姉ふたりは、宮姫の選抜をことさら嫌がった。
悪知恵を働かせた雛子は、自分の娘ではなく、翠をその選抜へと向かわせた。
自身の娘二人は、宮姫選抜の触書が出る直前に、貴族との縁を結び終えたところだった。
「あいにく。もう我がいえでは娘はこの子しか残っておりませんの」
「……そちらの……青い目の」
「あらやだ。青い目ですが、れっきとした夫の子ですのよ?」
雛子は、この際、邪魔な翠を宮姫として差し出そうと思ったのだ。
日ごとに美しくなる翠は、貴族の間では有名だった。ぜひ嫁に欲しいと頼まれることも多かったが、今まで嫁がせなかったのは、翠の値を吊り上げるため――つまり、もっと良いところに嫁がせて、利を得ようということだった。
「まあ、かように美しければ、蝦蟇の神獣さまも、気に入るかもしれぬし」
「そうでしょう? いいわね、翠?」
「はい、母上さま」
そうして、翠は蝦蟇の宮姫の選抜に向かうこととなった。
輿に乗せられ、巫女殿に妙齢の女人が集まっている。
皆、巫女殿に座って、今か今かとその時を待つ。
というのは、『自分だけは選ばないでくれ』と願っているのである。
いくら宮姫が帝の妃候補とはいえ、宮姫には神獣の世話が課せられる。つまり、蝦蟇の宮姫は、ガマガエルの世話をしなければならないのだ。
ほかの宮は、狐、烏、狼であるのに対し、蝦蟇の宮姫がいつかないのは、これが理由なのである。
「では、多邇具久さまのご意思のままに」
巫女殿で、ひときわ大きいガマガエルが放たれる。
げこ、と鳴いて、それはぬらりとした肌を光らせて、あっちこっちに飛び回る。
宮姫候補たちは、悲鳴をこらえて身をよじらせる。目を瞑り泣き出すものもいた。
しかし、翠は違った。
ここで選ばらなければ、雛子になにを言われるかわからない。だから、どうか。自分を選んでください。
そんな願いが届いたのか、多邇具久さまが翠の膝に飛びのった。
「そなたが、次の蝦の宮の宮姫じゃ」
巫女が厳かに言った。
翠は立ち上がり、胸の傷跡をひとなでした。
「謹んでお受けいたします」
そうして、翠は帝の寵愛を競う後宮の、『蝦の宮の宮姫』に決まったのだった。
そこからは、雛子はたいそう上機嫌だった。
宮姫ともなれば、褒賞が山のように御殿に届けられた。絹の反物、味噌や塩、醤油に野菜や米。
ありとあらゆるものが山積みにされて、雛子は新しい反物を実子とともに撫でつけていた。
「翠は気に入らなかったけれど。こんなことになるなんてね。でも、蝦蟇の宮姫だものね。他の宮ならともかく、お似合いよ」
この国には、神獣が存在した。しかし今はもう、誰も信じていない。
形式上の神獣は、ただの狐や烏、カエルに狼だ。
それでも、宮姫を決めるのは、ひとえに帝の後宮の体裁を保つためだ。
雛子が翠の耳元に顔を寄せる。
「さようなら、厄介者の異国人」
最後までわかりあうことはできなかった。わかっていてもそれが悲しく、翠は輿に乗って後宮へと居を移す。
帝に参内すると、帳の向こうにかすかな影だけが見えた。
「蝦の宮の宮姫となりました、翠と申します」
「……そなたが新たな宮姫か」
帝が立ち上がる音がする。
翠は、その場にひれ伏したまま、帝の気配だけを感じ取る。
こうべを垂れているから、帝の足元しか見えない。
「おもてをあげよ」
「……できませぬ」
「帝の命ぞ?」
翠は、顔を見られたくなかった。ただでさえ、蝦蟇の宮姫というだけで悪目立ちしているのに、この瞳まで見られたら、帝になんと思われるか。
しかし、帝がしゃがみこむ。
「な……主上!」
ここでようやく、翠が顔を上げた。
帝と目が合う。
「……! 青い目、か。名はどのような漢字を書く」
「……翡翠の翠、で『みどり』と読みます」
「……すい、ではなく?」
「……みどりにございます」
透き通る肌の白さに、青い瞳が相まって美しい翠の容貌に、帝は顔をしかめた。
「神獣には真心を、さすれば神獣は神獣として生きながらえるだろう。そなたはこの意味が分かるか?」
「いえ……なにか、伝承でしょうか」
「宮姫とて単なる人か。その昔、帝は宮姫を通じて四神獣の加護を宿したという。白狐の炎を、大口真神の爪の刀を、多邇具久の癒しの油を、八咫烏の伝達を。そして、それを宿さぬ帝は、四神獣の力に蝕まれ、死ぬ」
帝は上半身の衣を脱ぐ。烏、狐、狼、蝦蟇。その形をした痣が、身体を『締め付けている』。
「……! そちらは……」
「後宮に宮姫を召し上げる理由がわかったか? 宮姫が代々の帝の呪いを解く鍵を握るからだ。しかし、わたしはどの宮姫にも期待はしていない。神獣など言い伝えだと、みなが思っているからな」
ならばなぜ、翠にだけはその痣を見せたのだろうか。今ここで、翠が掛けられる言葉なんて限られている。
「わたくしは、神獣さまに誠心誠意仕えるまでです」
呪いなど単なる伝承だと笑い飛ばされたほうが、どんなにか楽だった。
四神獣の力を使えぬ帝は、無能だと。
帝は自嘲して、翠から顔を逸らした。
「本日より。多邇具久さまの世話にいそしむように」
「承知いたしました」
お目通りは終わり、帝は不機嫌にその場をあとにする。
翠は一つ息を吐き出して、あてがわれた後宮へと足を向けた。
宮姫は、この国を支える根幹だ。後宮に四人の宮姫がそろってこそ、神獣の加護が国に施される。
「私は嫌よ。蝦蟇の宮でしょう?」
「そうよねえ。わたくしの娘が、蝦蟇の宮なんて」
翠の姉ふたりは、宮姫の選抜をことさら嫌がった。
悪知恵を働かせた雛子は、自分の娘ではなく、翠をその選抜へと向かわせた。
自身の娘二人は、宮姫選抜の触書が出る直前に、貴族との縁を結び終えたところだった。
「あいにく。もう我がいえでは娘はこの子しか残っておりませんの」
「……そちらの……青い目の」
「あらやだ。青い目ですが、れっきとした夫の子ですのよ?」
雛子は、この際、邪魔な翠を宮姫として差し出そうと思ったのだ。
日ごとに美しくなる翠は、貴族の間では有名だった。ぜひ嫁に欲しいと頼まれることも多かったが、今まで嫁がせなかったのは、翠の値を吊り上げるため――つまり、もっと良いところに嫁がせて、利を得ようということだった。
「まあ、かように美しければ、蝦蟇の神獣さまも、気に入るかもしれぬし」
「そうでしょう? いいわね、翠?」
「はい、母上さま」
そうして、翠は蝦蟇の宮姫の選抜に向かうこととなった。
輿に乗せられ、巫女殿に妙齢の女人が集まっている。
皆、巫女殿に座って、今か今かとその時を待つ。
というのは、『自分だけは選ばないでくれ』と願っているのである。
いくら宮姫が帝の妃候補とはいえ、宮姫には神獣の世話が課せられる。つまり、蝦蟇の宮姫は、ガマガエルの世話をしなければならないのだ。
ほかの宮は、狐、烏、狼であるのに対し、蝦蟇の宮姫がいつかないのは、これが理由なのである。
「では、多邇具久さまのご意思のままに」
巫女殿で、ひときわ大きいガマガエルが放たれる。
げこ、と鳴いて、それはぬらりとした肌を光らせて、あっちこっちに飛び回る。
宮姫候補たちは、悲鳴をこらえて身をよじらせる。目を瞑り泣き出すものもいた。
しかし、翠は違った。
ここで選ばらなければ、雛子になにを言われるかわからない。だから、どうか。自分を選んでください。
そんな願いが届いたのか、多邇具久さまが翠の膝に飛びのった。
「そなたが、次の蝦の宮の宮姫じゃ」
巫女が厳かに言った。
翠は立ち上がり、胸の傷跡をひとなでした。
「謹んでお受けいたします」
そうして、翠は帝の寵愛を競う後宮の、『蝦の宮の宮姫』に決まったのだった。
そこからは、雛子はたいそう上機嫌だった。
宮姫ともなれば、褒賞が山のように御殿に届けられた。絹の反物、味噌や塩、醤油に野菜や米。
ありとあらゆるものが山積みにされて、雛子は新しい反物を実子とともに撫でつけていた。
「翠は気に入らなかったけれど。こんなことになるなんてね。でも、蝦蟇の宮姫だものね。他の宮ならともかく、お似合いよ」
この国には、神獣が存在した。しかし今はもう、誰も信じていない。
形式上の神獣は、ただの狐や烏、カエルに狼だ。
それでも、宮姫を決めるのは、ひとえに帝の後宮の体裁を保つためだ。
雛子が翠の耳元に顔を寄せる。
「さようなら、厄介者の異国人」
最後までわかりあうことはできなかった。わかっていてもそれが悲しく、翠は輿に乗って後宮へと居を移す。
帝に参内すると、帳の向こうにかすかな影だけが見えた。
「蝦の宮の宮姫となりました、翠と申します」
「……そなたが新たな宮姫か」
帝が立ち上がる音がする。
翠は、その場にひれ伏したまま、帝の気配だけを感じ取る。
こうべを垂れているから、帝の足元しか見えない。
「おもてをあげよ」
「……できませぬ」
「帝の命ぞ?」
翠は、顔を見られたくなかった。ただでさえ、蝦蟇の宮姫というだけで悪目立ちしているのに、この瞳まで見られたら、帝になんと思われるか。
しかし、帝がしゃがみこむ。
「な……主上!」
ここでようやく、翠が顔を上げた。
帝と目が合う。
「……! 青い目、か。名はどのような漢字を書く」
「……翡翠の翠、で『みどり』と読みます」
「……すい、ではなく?」
「……みどりにございます」
透き通る肌の白さに、青い瞳が相まって美しい翠の容貌に、帝は顔をしかめた。
「神獣には真心を、さすれば神獣は神獣として生きながらえるだろう。そなたはこの意味が分かるか?」
「いえ……なにか、伝承でしょうか」
「宮姫とて単なる人か。その昔、帝は宮姫を通じて四神獣の加護を宿したという。白狐の炎を、大口真神の爪の刀を、多邇具久の癒しの油を、八咫烏の伝達を。そして、それを宿さぬ帝は、四神獣の力に蝕まれ、死ぬ」
帝は上半身の衣を脱ぐ。烏、狐、狼、蝦蟇。その形をした痣が、身体を『締め付けている』。
「……! そちらは……」
「後宮に宮姫を召し上げる理由がわかったか? 宮姫が代々の帝の呪いを解く鍵を握るからだ。しかし、わたしはどの宮姫にも期待はしていない。神獣など言い伝えだと、みなが思っているからな」
ならばなぜ、翠にだけはその痣を見せたのだろうか。今ここで、翠が掛けられる言葉なんて限られている。
「わたくしは、神獣さまに誠心誠意仕えるまでです」
呪いなど単なる伝承だと笑い飛ばされたほうが、どんなにか楽だった。
四神獣の力を使えぬ帝は、無能だと。
帝は自嘲して、翠から顔を逸らした。
「本日より。多邇具久さまの世話にいそしむように」
「承知いたしました」
お目通りは終わり、帝は不機嫌にその場をあとにする。
翠は一つ息を吐き出して、あてがわれた後宮へと足を向けた。

