「308号室、藤倉と柏木~」
「はい」
「はい」
「よし、2人ともいるな。柏木はどうだ、荷物の片付け終わったか?」
「はい、大体は」
「そうか。急なことで災難だったが、まぁ頑張れ。ちゃんと寝ろよ」
22時45分頃に点呼の先生が来て、去っていった。
「いつも同じ順で回ってるから、大体この時間」
と、藤倉が教えてくれる。ちなみに課題が終わってないそうで、机でせっせと作業しながらだ。
「そ、そっか」
おれも自分のデスク周りを整頓しながら相槌を打った。
「柏木、いつも寝るのは何時くらい?」
「ええっと……日によるけど、12時くらいかな……」
「お、規則正しいほうだな」
「別に、普通……」
「いやいや。消灯後も布団の中で明け方までソシャゲやってるやつとか、いくらでもいるぞ」
「へ、へぇ……」
そんな話をしているうちに5分経った。
さらに5分経った時、藤倉が「よしっ」と言ってパタンとノートを閉じる。
「ギリ終わった~。明日当たるんだよな、俺」
「お、お疲れさま」
「おう。そっちも荷物整理終わった? 明日の準備できてる?」
「うん……できてる」
「そか。んじゃ電気消すか」
「えっ!?」
「えっ?」
つい大声を出してしまって、驚いたように藤倉が目を丸くした。
「あ……ご、ごめん」
(もう57分か。ちょっと早いけど、そうだよな。することなくなったら早めに消したって……)
「まずかった? まだなんかすることあった?」
「う、ううん、ない。ほんとごめん」
おれはベッドに入ると、横になって布団を頭の上まで引き上げた。
「……?」
藤倉が不思議そうにしている気配がする。でもおれは何も言えない。
「……じゃ、おやすみ」
壁際まで歩いた藤倉がパチンとスイッチを押す音がした。
とたんに、ぎゅうっと心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚える。
(ほんと……どうしてなんだよ)
布団を被っていて、目をつぶっていて、室内は見えていないのに。
今、視界は黒一色で、目を開けていても閉じていても大して変わらない状態のはずなのに。
(でも、理屈じゃないんだよな……)
直接的な恐怖とリンクした強迫観念。今おれは、明かりが消えた暗闇の中にいる。
その事実を認識しているだけで、どうしようもなく……怖い。
ドッドッドッドッ。
藤倉の足音や布団に入る音より、自分の鼓動が大きく聞こえていた。
(考えない、何も考えない)
必死に念じる。
でも念じれば念じるほど、さっきまで見ていた室内の光景が闇にのまれたところを想像してしまう。
(考えるな。考えるなって)
「っ……」
(……ダメだ……)
「……柏木?」
離れた位置から控えめな声が聞こえた。
おれのベッドは窓側、藤倉のベッドは反対側の壁沿い。距離は少しあいている。
「柏木? なぁ……」
声を出せずにいると、衣擦れの音が大きくなった。
布団をめくって、ベッドを出た……?
「大丈夫か?」
今度の声はさっきまでより近い。スリッパの足音もする。
肩のあたりに少し負荷が掛かった。
「震えてね、柏木?」
「…………」
(布団の中に隠れてたら、バレないかと思ったんだけどな)
そんなに震えてただろうか。それとも、藤倉が鋭いのか。
「ご……ごめん」
布団を巻き付けるようにくるまったまま、おれはかすれる声で謝った。
「実はおれ……暗所恐怖症なんだ」
「え……」
布団越し、肩に置かれた藤倉の手がピクッと動く。
「暗所……え、暗いところダメってやつ?」
「う、うん……」
「いや、言えよ!」
手が離れ、壁際に歩いていこうとする気配を感じる。
とっさにおれは身体を起こした。
「待って。つ、点けなくていいよ」
(暗い)
この寮は設備が古い。照明に常夜灯はなく、消すか点けるかしかないことは調べてあった。
カーテン越しのわずかな月灯りだけの、真っ暗闇。まだ目も慣れていないのでとにかく暗い。
でもそんな光景を想像はしていたので、怖さ自体はそこまで変わらないのだけれど。
(思った通り暗いな。でも……)
「点けてたら、規則違反になるでしょ」
「や、けど……怖いんだろ?」
「……決まりなら仕方ないから」
高校生にもなって、暗いのが怖くて電気つけてないと寝られません、なんて。
そんなこと、堂々と言う勇気もないんだ。情けないって、誰より自分が思ってるから。
「……わかった」
藤倉がこちらに戻ってくる。目が慣れてきて、その姿も見えるようになってきた。
傍まで来ると、困ったような、心配そうな顔をしているのもなんとなくわかる。
「悪い。俺、そういうのよく知らないんだけど……パニックとか起こらないのか?」
上半身を起こしたおれの傍らに立って、藤倉は気遣わしげに尋ねてきた。
おれは深い呼吸を心掛けて、拳を強く握って耐えながら言葉を探す。
「そこまでの症状が出たことはないから……大丈夫だと思う」
断言はできないけれど、多分。症状としては、世間一般的にはきっと軽度なほうだ。
「怖くて、すごく緊張して……動悸みたいのはあるけど、それだけだから……」
「それだけって。充分大変じゃん」
藤倉の凛々しい眉がぐんと下がったのが、かろうじて見えた。
「はは、まぁ……。でもぎりぎり耐えられるレベルだよ。修学旅行とかもなんとか耐えたから」
(実は布団の中で泣いちゃったけど)
「そうなのか? けど……」
藤倉が片膝をついた。
目線の高さが同じくらいになって、背中にそっと手のひらが触れる。
「まだ震えてる」
「……どうしようもなくて」
こんなふうに話していても、心音はずっと速い。
真っ黒で大きくて、とても怖いものに追いかけられているような恐怖が付きまとう。
「こうやったら少しは落ち着く?」
首の下あたりにあった手のひらが、そろそろと位置を下げた。
黙っているともう一度上まで戻って、またゆっくり下りていく。
ごつごつした感触に似合わない優しい強さで、そうして何度か背中を撫でてくれた。
(……感触は全然違うけど、なんか懐かしいかも)
「ありがと。小さい頃は、母さんもこんなふうに撫でてくれた」
だからといって恐怖が消えるわけじゃない。
でも、よりどころにはなる。ほんの少しだけでも、安心できる。
「そうなんだ」
嬉しそうに言って、藤倉は背中から髪に手を移した。
今度は頭のてっぺんから後頭部へ、大きな手が往復する。
「柏木の髪の毛、サラサラだなぁ」
「そうかな」
「そうだよ。羨ましいわ。俺剛毛だし、癖あるし」
癖毛なのか。短めだからあまり気にならないけど、言われてみればそうかもしれない。
猫っ毛でボリュームの出ないおれからしたら、むしろそっちが羨ましいけど。
「藤倉はそれがかっこいいからいいんじゃない」
そう伝えると、一瞬だけ動いていた手が止まった。
「……そっか」
「うん」
そこで会話は切れたけれど、藤倉は頭を撫で続けてくれている。
(誰かにこんなに撫でてもらったの、どれくらいぶりだろ)
(……気持ちいいな)
とはいえ、いつまでも藤倉にこんなことさせてはいられない。
「えと……ありがとう、藤倉。もういいよ」
「そう? 落ち着いた?」
「……うん」
暗い中にいる限り、この怖さは消えるものじゃない。でも本当に、いくらか気を紛らわせてもらった。
「…………」
「……藤倉?」
頭頂部に手を置いたまま藤倉が動かないので、おれは首をかしげて呼ぶ。
「よし」
返ってきた声は返事になっていない。
掛け声と共に立ち上がった藤倉は──俺の下半身に掛かっていた布団を、バサッとめくった。
「え?」
「奥ずれて、柏木」
「えっ?」
(ずれる? なんで?)
面食らっていると、腰と膝裏に腕が伸びて身体が浮く。一瞬のうちにひょいっと壁際へ動かされた。
「は? へ?」
「怖いものは怖いんだろ。だったらもう、さっさと寝るに限る」
言いながらベッドへ上がってくる。そしておれの肩をやんわり押して寝かせた。
「狭いのは我慢で」
自分はおれのほうへ身体を横向けて、片手で頬杖を突く。
(ま、まさかこれは……)
「任せろ。俺、小さい弟いるから寝かしつけ得意なんだよ。中学の時ほぼ毎晩やってた」
(やっぱり!)
まさかでもなんでもなく、おれに添い寝するつもりらしい。
「い、いいよ、そんなの!」
慌てて藤倉の肩を押し戻そうとする。でも、びくともしない。
「大きな声出さないの、先生来るよ。ほら、寝た寝た」
起こした身体を再びベッドに押し付けられた。
「少しでも気が紛れてるうちに寝ちゃうのが一番いいだろ」
「……っ」
返す言葉がない。
撫でるのが気休め程度にしかなっていないことも、まだ怖いのも見抜かれている。
(それに実際、最善策ではある……)
「はい、目つぶって」
大きな手が今度は目に被さった。指が長くて、両目ともすっぽり覆われてしまう。
「でも、ふじく──」
「目つぶって」
「…………」
手は離れていかない。おれは諦めて、言われた通り目を閉じた。
(あったかいな。使ったことないけど、蒸気ホットアイマスクってこんな感じなのかな)
そんなことを考えた時、ようやくそっと手が外れる。
そのまま動いて、布団越し、胸のあたりに載った。
ポン、ポン。
間延びしたリズムで布団を叩く。おれは目を閉じたまま、その感覚を感じていた。
「そういえば、一個聞いていい? 言いたくなかったらいいんだけど」
ボリュームを抑えた、抑揚のない声で藤倉が話しかけてくる。
おれにもまだ眠気は訪れない。
(これも、気を紛らわせようとしてくれてるのかな)
「なに?」
目は閉じたまま聞き返す。
「その……寮に入った理由」
「ああ……そうだよね、気になるよね」
「下世話でごめん。でも急な事情ってのは聞いてるし、さっき先生が『災難だったな』って……」
(そういえば言われたな)
「俺、あんま器用じゃないから気になることほっとけないし、気づかないうちにひどいこと言いたくないから。あ、でもホント言いたくなかったら──」
「いいよ、平気」
薄く笑って藤倉の言葉を遮った。
こんな時期の入寮なんて訳ありに決まっているんだから、気にするのは当然だ。
「新築で買った家が欠陥住宅で、住めなくなったんだ。それで、行くとこなくて」
「うわ、マジか。欠陥って、アスベストとかそういう?」
「違うけど、まぁそういう感じの法的に問題なやつ。これから裁判とかいろいろ大変で」
「おお……」
「うち母子家庭なんだけど、母親は経営してる店に住み込みでしのいで、おれはここに入れてもらうことにした。一番大変なのは母さんだから、おれいないほうが楽だろうし」
「……お母さんのためってこと?」
「不安材料は少しでも減らしてあげないとね」
おれが物心つく前に離婚した母さんは、女手一つでおれを育ててくれた。
めちゃくちゃ働いて、5年前に店を持って、コツコツ貯めた貯金を元手に念願の家も買って。
それなのにこんなトラブルに巻き込まれてしまって、裁判とか被害者団体とか。おれには難しい話も多いけれど、本当に大変そうだった。
実家は遠くて頼れないし、新居を探すのも一苦労。
ならいっそ、今は離れて暮らしたほうが彼女の負担を減らせる。寮なら学校はすぐ近くだし、健康的な食事も提供されるし。
「親思いなんだ、柏木」
「普通だよ。家族なんだから」
「普通ってさらっと言えるのがけっこうすごいと思うけど。やっぱいいやつだな、おまえ」
(……やっぱ?)
その言葉が少しだけ気になった。
(いいやつだって言われるようなこと、他にもあったっけ?)
考えてみるけれど心当たりがない。
というか、いつの間にか思考が散漫になっていた。
話しながらも藤倉は一定のリズムでトントンしてくれていて、心地いい。意識しないうちに眠りの世界へ片足を突っ込んでいたようだ。
「…………」
(気持ちいい……このまま、寝れそう……)
「……おやすみ、柏木」
優しいその声を最後に、おれの記憶は途切れた。



