日曜日の夜、Jの父は息を引き取った。
Jは映画館の最後列に座っていた。
週の始まりを前に、退屈を紛らわせようと入った映画館で、左のスピーカーから雑音が聞こえるような気がして、耳障りだと思っていた。
入ってきたときにはかすかな雨音のようだったものが、場内の後ろでは、まるで人の息づかいのように聞こえた。
映画が始まって一時間。
男女の主人公が交わす静かな会話に集中すべきところで、かえって雑音に神経を逆撫でされ、苛立ったJは映画館を出た。
スマートフォンの電源を入れると、母からの不在着信が十二件あった。
二十時四十分から、一分に一度ほどの間隔でかかってきていた。
そして、また新たな着信があった。
嫌な予感がする。
母は病院の名前を二度言った。
最初に言ったとき、Jが返事をしなかったからだ。
タクシーに乗ったJは病院の名前を告げ、スマートフォンの画面を見た。
待ち受け画面に表示された丸い時計の右下が、歪んでいるように見えた。
心臓の鼓動が喉元まで伝わってきた。
Jは知らず知らず固く握りしめていた拳を開き、指の食い込んだ跡をじっと見つめた。
葬儀場には、かなりの人が来た。
台の上に置かれた遺影の中で、父は晴れやかに笑っていた。
喪主を務めるJは更衣室で喪服に着替えながら、ズボンに足を引っかけ、壁に手をついた。
ポケットには何も入れていないのに、腰のあたりがわずらわしかった。
葬儀場に並ぶ供花は、父と一緒に仕事をしていたという人たちから届いたものだった。
伯父は入ってくるなり、父が急に電話に出なくなったと言った。
弔問客たちは故人の写真の前に膝をつき、立ち上がると、父と最後に交わした言葉をJに伝えた。
来月会う約束だった、送ってもらったものがまだ家にある、一度くらい連絡しておくべきだった。
人が帰っていくたび、その最後の言葉がJのもとに残った。
母はほとんど食べなかった。
Jは汁を小さな器によそって母の前に置いたが、母は熱いからと脇へ押しやった。
ずいぶん経ってから、Jが冷めた汁に口をつけたときには、肉のひと切れをただ何度も噛むばかりだった。
Mは午後三時を過ぎてから来た。
短い黒髪に、きちんとしたパンツ姿だった。
しばらく遺影をじっと見つめていたMは、やがてJに声をかけた。
「電話に出られた方ですよね」
Jは頷いた。
彼女はもう一度、自分の名前を言った。
Jには、以前に呼んだことのある名前のように思えた。
Mは携帯電話に保存された写真を見せた。
父が前日に送ってきたものだという。
「写真と録音ファイルを送ってくださったんです。変な音がする、とおっしゃって」
「聞いてみたんですか?」
「私が受け取ったファイルには、雑音しか入っていませんでした」
写真には、「13」という数字だけが記された、黒い本体の蓄音機が写っていた。
「何に使うものなんですか?」
「そこまでは、よくわかりません。詳しいことはあとで教えてくださるというお話で。でも、そもそも変わった音は何も聞こえないんです」
「父は、こういうものを時々集めていましたから」
実際、Jの父は何の役にも立たない骨董品を集めるのが好きだった。
そんなものを持ち帰っても、家のどこに置くつもりなのかと思っていたけれど、
それは、いつしか朽ちてゆく自分自身と同じように、先に朽ちていった者たちへの、父なりの憐れみの表し方だったのではないか。
あまりにも突然の心臓疾患だったということが、ただ信じられなかった。
すべての生き物には、始まりと終わりがある。
脈を打ち、呼吸をしているあいだは生きて動けるものも、その脈と呼吸が止まり、もう動けなくなれば、外側はただ腐り、朽ちてゆくだけだ。
蝉が騒がしく鳴きたてる真夏が過ぎ、その声を響かせていた胴が空っぽになる晩夏には、公園の木々に、外形だけをとどめた蝉が、動かないまま残されるものだ。
人の場合、生前の営みのなかでつくり出してきたあらゆる殻――衣服や、暮らしのなかで使われたもの、名刺、通帳、印鑑、記念品といったものが、すべてそうした姿になる。
さらに、人々の精神的な結びつきをつないでいた者がいなくなると、それまで辛うじて形を保っていた集団も、ほかに何らかの動機がなければ瓦解してしまう。
葬儀が終わった翌日、父の部屋に残されたものを片づけた。
母は、まず大事な書類から探してほしいと言った。
どこにあるのか、自分も正確には知らないと付け加えた。
ほかのものはどうするのかと尋ねると、ひとまずそのままにしておくようにという答えが返ってきた。
家の中でいちばん小さな部屋だった。
父の書斎には、本よりも箱が多かった。
大きさの違う箱が隙間なく詰め込まれ、机の下にも、膝を入れる場所がないほどものが積まれていた。
椅子を後ろへ引くと、キャスターに押しつぶされた紙袋がかさりと鳴った。
机の上には、水の少し残ったグラスが置かれていた。
最後に使ったのはいつだったのか、グラスの下には丸い跡が乾いてこびりついていた。
持ち上げると、紙が一枚ついてきた。
どこのものとも知れないレシートだった。
Jは紙を剥がし、グラスを机の隅へ移した。
いちばん上の引き出しからは、乾電池と小銭、古い眼鏡が出てきた。
その下の引き出しには説明書がまとめてあった。
通帳はいちばん下の引き出しで見つかった。
印鑑は、通帳のあいだに挟んであった小さなファスナー付きの袋に入っていた。
通帳と印鑑を食卓に置いて戻ってきたJは、机の下から箱をひとつ取り出した。
やるべきことは、それで終わりだった。
父がこの部屋で何をしていたのかは、大体わかっていた。
父はこの部屋に入ると、いつもドアを閉めた。
ときどき外へ音楽が漏れてきたが、最後まで続く曲は少なかった。
同じところを何度も繰り返しかけていることもあった。
Jがうるさいと言えば父は音を小さくしたが、翌日にはまた元に戻っていた。
箱は封をされていなかった。
上で折り重なった段ボールを開くと、白いタオルが出てきた。
何度も洗われ、縁が薄くなったタオルだった。
それをめくると、黒い本体が現れた。
葬儀場でMが見せてくれたものだった。
Jはタオルに包まれた機械を取り出し、机の上に置いた。
上面の片側に、小さな金属板がついていた。
13.
製造元の名前も、ほかの表示もなかった。
数字は印刷ではなく、金属に直接刻まれていた。
Jは指でその溝を一度なぞった。
蓋を開けたとき、内側に何か異質なものが見えた。
Jは手を止めた。
いつからそこにとまっていたのか、蓋の内側に黒い蝶が一匹いた。
Jは初め、それをちぎれた布切れだと思った。
黒い蝶は、左の翅の先が一か所、少し傷んでいた。
車の通り過ぎる音とともに、窓から生ぬるい風が入ってきた。
蓋の下には、一枚の円盤が載っていた。
ラベルが貼られる中央の部分まで黒かった。
斜めに光を当てると、表面の細い溝が浮かび上がった。
脇に置かれた針の先には、白っぽい埃がついていた。
Jは携帯電話を取り出し、Mにメッセージを送った。
「写真で見せていただいた機械が見つかりました。父から、ほかに何か聞いていませんか?」
写真を撮って、一緒に送った。
数字は小さいながらも画面に写っていた。
Jは携帯電話を脇に置き、机の下に身をかがめてプラグを差し込んだ。
側面のスイッチを上げると、円盤が回り始めた。
モーターの音はほとんど聞こえなかった。
針のついたアームを持ち上げ、円盤の縁に置いて初めて、短い摩擦音と雑音がし始めた。
人が呼吸をするような周期で聞こえる雑音。
あるときには雨音のようで、幾重もの窓を閉め切った部屋の中で、はるか遠くに降る雨音を聞いているようでもあり、
一定の周期で呼吸するかのような、吸う息と吐く息が耳元に聞こえるような感覚に、Jは、父が息を引き取った日の映画館で、左のスピーカーから流れていた不快な音を思い出した。
映画館で聞いた音と同じだという思いが、次第に強くなった。
まったく同じだとは言えなかった。
あのときは映画の台詞や音楽が混じっていたし、今は開いた窓の向こうを車が通っていた。
それでも、一度そう思うと、もう別の音には聞こえなかった。
息を吸うほうは短く、吐くほうは少し長かった。
終わり際に、何かが引っかかるような音がした。
Jは窓を閉めた。
部屋の中には、蓄音機の音だけがあった。
雑音のあいだから、小さな咳が聞こえた。
Jの背筋が冷えた。
父は何か言い出す前に、ときどきそんな咳をした。
咳払いとも普通の咳ともつかない、短い音だった。
電話がつながっても父が何も言わないと、Jはその音を聞いて、先に用件を尋ねたものだった。
Jの手が、スイッチの上で止まった。
「よし」
父の声だった。
何かをやり終えたときの口調だった。
誰に向けた言葉なのか、どこから聞こえる言葉なのか、わからなかった。
Jは息が止まるような気がして、蓄音機から目を離せなかったが、
そのあとには、何の言葉も続かなかった。
円盤の中央では、回転する金属の軸に、窓から差す光が一定の間隔で反射していた。
父が自分で録音しようとして、機械を試すつもりで声を吹き込んだのかもしれなかった。
それでも、もうひと言くらい聞けたらよかったのに。
緊張が少し緩むと、そんな考えがJの脳裏に浮かんだ。
母を呼ぶとか、ちゃんと録音できているかと尋ねるとか。
生きていたときなら、返事をするのも面倒に思ったような言葉でもよかった。
もうひと言だけ聞けば、今聞こえたのが本当に父なのか、はっきりわかるような気がした。
衣服の擦れるような音がした。
続いて、何かが硬いところにぶつかった。
一度目は鈍く、次は少し軽く。
ガシャン。
Jはびくりとした。
何かの割れる音だった。
小さな破片が床に散らばる音まで続いた。
「母さん、入ってこないで。ガラスが落ちてる」
今度は別の声だった。
Jは顔を上げた。
部屋のドアは閉まっていた。
声があまりに小さく録音されていて、誰なのか聞き分けにくかった。
いや、音量のせいだけではなかった。
語尾を曖昧にする、その話し方に覚えがあった。
録音された自分の声を初めて聞いたときのように、知っている声なのに、聞き間違えたような気がした。
スイッチを下げると、円盤はゆっくりと止まった。
部屋の外で母が咳をした。
続いて、足を引きずる音が聞こえた。
携帯電話が短く鳴った。
Mから返事が来ていた。
「今、音は出ていますか?」
Jは画面を見下ろした。
何と書けばいいのか、少し考えた。
まず、父の声が入っていると伝えればいいのだろうか。
親指で最初の文字を打ちかけたところで、ドアの取っ手が回った。
「通帳は見つかった?」
「食卓に置いた」
Jは母を振り返りながら、携帯電話を置いた。
肘に何かが触れた。
グラスが机の縁で傾いていた。
Jは手を伸ばしたが、指先はグラスの底を押しただけだった。
グラスは椅子の下のほうにぶつかり、床で一度跳ねた。
ガシャン。
母が敷居のところで足を止めた。
スリッパを履いていない足が見えた。
「母さん、入ってこないで。ガラスが落ちてる」
言い終わってから、Jはようやく口を閉じた。
グラスのかけらがまだひとつ、床の上で回っていた。
小さな円を描いて揺れ、縁が床を擦る音を立てて止まった。
「どこか怪我してない?」
Jは答えなかった。
「手で触らないで。ほうき、持ってくるから」
母が背を向けた。
Jは引き止めようとして、手を下ろした。
割れたグラスを見下ろした。
机の下の暗がりにも、破片が入り込んでいた。
大きな破片のひとつには、乾いてこびりついた水垢がそのまま残っていた。
机の上の蓄音機は止まっていた。
どれほどそうして立っていたのか、わからなかった。
母がほうきとちりとりを持ってきて、ドアの前の破片を掃き集めた。
Jはどいてと言われて初めて、椅子を横へ引いた。
「これも捨てるの?」
母が机の上の機械を見て尋ねた。
「いや」
母は少しのあいだJを見たが、それ以上は尋ねなかった。
床をもう何度か掃き、小さな破片が残っているかもしれないから裸足で歩かないようにと言った。
ちりとりの中で、ガラス同士が触れ合った。
母は部屋の片づけをもう少し急ぐようにせかした。
その足音が、台所のほうへ遠ざかっていった。
床の片隅に、片づけきれなかったガラスの破片が見えた。
窓から入った光が、その上で小さく凝っていた。
止まっているはずの蓄音機から、また雑音が聞こえ始めた。
衣服の擦れる音。
二度の衝突。
ガラスの割れる音。
その次には、自分の声がした。
今度は聞き分けられた。
「母さん、入ってこないで。ガラスが落ちてる」
Jは円盤の縁を見た。
小さくえぐれた傷が、針の横で止まっていた。
いくら見つめても、位置は変わらなかった。
スイッチは確かに下がっていた。
それでも、雑音は続いていた。
Jは机の下に手を入れた。
いくつものコードの中から、蓄音機につながっているものを選んで引いた。
机の脚に引っかかっていたコードがぴんと張り、それから緩んだ。
プラグを抜くと、雑音も途切れた。
部屋のドアを開けると、母が寝室を片づけているのが見えた。
「さっき、何か聞こえなかった?」
「割れたとき?」
「それじゃなくて。誰かが話してるような声」
「聞こえなかったけど」
Jは首を振り、部屋に戻ってドアを閉めた。
携帯電話を取り上げると、Mのメッセージがまだ画面に残っていた。
「今、音は出ていますか?」
文字で説明しようとすると、どこから書けばいいのかわからなかった。
Jは通話ボタンを押した。
呼び出し音が何度か鳴ってから、Mが電話に出た。
「はい」
「音がするんです」
「機械からですか?」
「父の声みたいなものが入っているんです」
電話の向こうで、何かがかさかさと鳴った。
「お話しされている声ですか?」
「ひと言だけです。よし、って」
「ほかの音は?」
Jは床に残ったガラスの破片を見た。
「自分の声も」
Mはすぐには答えなかった。
「以前、お父様が録音されたことはありませんか?」
「わかりません」
そう答えると、それはもう過去の出来事になってしまうような気がした。
父が部屋で何をしていたのか、自分はよく知らなかった。
知らないうちに、自分の声を録音されていたのかもしれなかった。
その説明の中では、何ひとつおかしくなかった。
Jは言葉を付け足した。
「でも、今さっき言ったことなんです」
「はい?」
「さっき、グラスを割ったんです。母が入ってこようとしたので、入ってこないでと言いました」
Jはひとつ息を整えた。
「割れる前に、その音を聞いたんです」
電話の向こうのかさかさという音が止まった。
説明してみると、いっそうありえない話に思えた。
Jは親指で携帯電話の側面を擦った。
Mが何を言おうと、自分には同じ話を繰り返すことしかできないような気がした。
少しして、彼女が尋ねた。
「今も聞こえますか?」
「いいえ。コードを抜きました」
「私にも、一度聞かせてもらえますか?」
Jは机の上の機械を見た。
蓋の内側にとまった黒い蝶には、少しの変化もなかった。
彼は携帯電話を置き、もう一度プラグを差し込んだ。
スイッチを上げると、円盤が回り始めた。
針を持ち上げ、縁へ移した。
短い摩擦音。
けれど、そのあとには何の音も聞こえなかった。
「小さく、じじっと鳴っている音ですか?」
「ちょっと待ってください」
Jは携帯電話を機械のすぐ前に置いた。
「電話越しだと、よく聞こえないみたいです」
Jは携帯電話を耳に当てたまま、円盤を見た。
Mはさらにいくつか尋ねた。
円盤に題名は書かれているか、ほかに何か痕跡はないか。
Jは目の前に見えることだけを短く答えた。
「直接聞いたほうがよさそうですね」
Mが言った。
「お時間のあるときに、機械を持っていきます。そうしたら――」
Jが言葉を続けようとした瞬間、蓄音機から椅子を引きずる音がした。
Jは口を閉じた。
「もしもし?」
「ちょっと待ってください」
誰かが小さく咳をした。
父の咳とは違っていた。
続いて、二人の女が何かを囁き合うような声が聞こえた。
何を言っているのかは聞き取れなかったが、一人が笑いをこらえきれず、短く吹き出した。
間違いなく、この蓄音機から出ている音だった。
話し声が遠のいた。
代わりに、広い室内の音が入ってきた。
何人もの人が少しずつ身じろぎしていた。
袖が擦れ、椅子が軋み、どこかでカップが置かれた。
「今、聞こえますか?」
Jが言った。
「何がですか?」
「今、蓄音機から音がしているんです」
一人の男の声が聞こえた。
「これを少し押していただくと――」
大勢が、はっと息を呑む音。
男の小さな笑い声が流れた。
マイクを使っているようではなかった。
話している人の声が近づいたり、遠のいたりした。
誰かが床にものを落とし、別の誰かが拾ってやる気配があった。
人々が集まって座っている音。
音楽か、何か奇妙な言葉でも流れてきたなら、古い録音の一部だと思いやすかっただろう。
「今も聞こえませんか?」
Jが尋ねた。
「人の声は聞こえません」
彼は携帯電話を少し下ろした。
蓄音機の中で、男が再び口を開いた。
「初めていらした方もいますから」
言葉が少し途切れた。
「お話ししたい分だけで大丈夫です。今日は、聞いて帰るだけでもかまいません」
Jは針の通っていく溝を見た。
そのあとには、何の言葉もなかった。
誰も、急いでその沈黙を埋めようとはしなかった。
カップを置く音が、もう一度した。
そして、誰かが息を吸った。
Jは携帯電話を握る手に力を込めた。
言葉が始まる前から、わかるような気がした。
「どこからお話しすればいいのか、わからないんですが」
自分の声だった。
グラスが割れたときのような切迫した声ではなかった。
普段よりも少し低く、文の終わりを、必要以上にはっきりと発音していた。
知らない人たちの前で話すときに、Jが出す声だった。
彼は手の甲で唇を押さえた。
声は、そのまま続いた。
「父が日曜日の夜に亡くなりました」
見知らぬ部屋が静かになった。
電話の向こうでMが何かを尋ねた。
Jは聞き取れなかった。
「その日、私は映画館にいました」
その言葉のあとに、小さな息の音が混じった。
「スピーカーから聞こえる息づかいを、私はただの機械の故障だとしか思っていませんでした」
Jはスイッチへ手を伸ばした。
指先は触れたが、下げなかった。
自分の声ではないとは言えない、この声が何を語るのか。
恐ろしいと思いながらも、そっと確かめたかった。
自分の声を聞いている人々は、誰なのだろう。
父の死について、自分はいま、誰に話しているのだろう。
録音の中で自分の声が止むと、女の声が聞こえた。
「先にひとつだけ、お聞きしてもいいですか?」
録音の中のJが答えた。
「はい」
「ほかの方々も、最初に聞こえたのは息づかいだったんですか?」
Jはスイッチを下げた。
携帯電話の向こうから、Mの声が聞こえた。
「大丈夫ですか? 何かあったんですか?」
Jは息を整えながら言った。
「今、何も聞こえなかったということですよね?」
「はい……特に何も聞こえませんでした」
「男の声も、女の声も、人の笑い声も、ということですよね?」
MはJの問いを受けて、ひとつ息を整えてから、
「聞こえませんでした。大丈夫ですか?」
心配のにじむ声で答えた。
「ひとまず、わかりました。片づけが済んだら、また連絡します」
Jは通話を切った。
録音の中の自分は、父が死んだという話をしながら、まったく言葉につかえなかった。
自分のことを、慣れた調子で語る姿。
Jには、その姿があまりにも馴染みのないものだった。
大勢の人々を前に、父の死について、まるで何かを悟ったかのように語る自分の声に混じっていた、ある種の得意げな響きと自信。
誰を前に、何のために。
そして、その声がなぜ自分自身に聞こえたのか、まるでわからないまま。
Jは映画館の最後列に座っていた。
週の始まりを前に、退屈を紛らわせようと入った映画館で、左のスピーカーから雑音が聞こえるような気がして、耳障りだと思っていた。
入ってきたときにはかすかな雨音のようだったものが、場内の後ろでは、まるで人の息づかいのように聞こえた。
映画が始まって一時間。
男女の主人公が交わす静かな会話に集中すべきところで、かえって雑音に神経を逆撫でされ、苛立ったJは映画館を出た。
スマートフォンの電源を入れると、母からの不在着信が十二件あった。
二十時四十分から、一分に一度ほどの間隔でかかってきていた。
そして、また新たな着信があった。
嫌な予感がする。
母は病院の名前を二度言った。
最初に言ったとき、Jが返事をしなかったからだ。
タクシーに乗ったJは病院の名前を告げ、スマートフォンの画面を見た。
待ち受け画面に表示された丸い時計の右下が、歪んでいるように見えた。
心臓の鼓動が喉元まで伝わってきた。
Jは知らず知らず固く握りしめていた拳を開き、指の食い込んだ跡をじっと見つめた。
葬儀場には、かなりの人が来た。
台の上に置かれた遺影の中で、父は晴れやかに笑っていた。
喪主を務めるJは更衣室で喪服に着替えながら、ズボンに足を引っかけ、壁に手をついた。
ポケットには何も入れていないのに、腰のあたりがわずらわしかった。
葬儀場に並ぶ供花は、父と一緒に仕事をしていたという人たちから届いたものだった。
伯父は入ってくるなり、父が急に電話に出なくなったと言った。
弔問客たちは故人の写真の前に膝をつき、立ち上がると、父と最後に交わした言葉をJに伝えた。
来月会う約束だった、送ってもらったものがまだ家にある、一度くらい連絡しておくべきだった。
人が帰っていくたび、その最後の言葉がJのもとに残った。
母はほとんど食べなかった。
Jは汁を小さな器によそって母の前に置いたが、母は熱いからと脇へ押しやった。
ずいぶん経ってから、Jが冷めた汁に口をつけたときには、肉のひと切れをただ何度も噛むばかりだった。
Mは午後三時を過ぎてから来た。
短い黒髪に、きちんとしたパンツ姿だった。
しばらく遺影をじっと見つめていたMは、やがてJに声をかけた。
「電話に出られた方ですよね」
Jは頷いた。
彼女はもう一度、自分の名前を言った。
Jには、以前に呼んだことのある名前のように思えた。
Mは携帯電話に保存された写真を見せた。
父が前日に送ってきたものだという。
「写真と録音ファイルを送ってくださったんです。変な音がする、とおっしゃって」
「聞いてみたんですか?」
「私が受け取ったファイルには、雑音しか入っていませんでした」
写真には、「13」という数字だけが記された、黒い本体の蓄音機が写っていた。
「何に使うものなんですか?」
「そこまでは、よくわかりません。詳しいことはあとで教えてくださるというお話で。でも、そもそも変わった音は何も聞こえないんです」
「父は、こういうものを時々集めていましたから」
実際、Jの父は何の役にも立たない骨董品を集めるのが好きだった。
そんなものを持ち帰っても、家のどこに置くつもりなのかと思っていたけれど、
それは、いつしか朽ちてゆく自分自身と同じように、先に朽ちていった者たちへの、父なりの憐れみの表し方だったのではないか。
あまりにも突然の心臓疾患だったということが、ただ信じられなかった。
すべての生き物には、始まりと終わりがある。
脈を打ち、呼吸をしているあいだは生きて動けるものも、その脈と呼吸が止まり、もう動けなくなれば、外側はただ腐り、朽ちてゆくだけだ。
蝉が騒がしく鳴きたてる真夏が過ぎ、その声を響かせていた胴が空っぽになる晩夏には、公園の木々に、外形だけをとどめた蝉が、動かないまま残されるものだ。
人の場合、生前の営みのなかでつくり出してきたあらゆる殻――衣服や、暮らしのなかで使われたもの、名刺、通帳、印鑑、記念品といったものが、すべてそうした姿になる。
さらに、人々の精神的な結びつきをつないでいた者がいなくなると、それまで辛うじて形を保っていた集団も、ほかに何らかの動機がなければ瓦解してしまう。
葬儀が終わった翌日、父の部屋に残されたものを片づけた。
母は、まず大事な書類から探してほしいと言った。
どこにあるのか、自分も正確には知らないと付け加えた。
ほかのものはどうするのかと尋ねると、ひとまずそのままにしておくようにという答えが返ってきた。
家の中でいちばん小さな部屋だった。
父の書斎には、本よりも箱が多かった。
大きさの違う箱が隙間なく詰め込まれ、机の下にも、膝を入れる場所がないほどものが積まれていた。
椅子を後ろへ引くと、キャスターに押しつぶされた紙袋がかさりと鳴った。
机の上には、水の少し残ったグラスが置かれていた。
最後に使ったのはいつだったのか、グラスの下には丸い跡が乾いてこびりついていた。
持ち上げると、紙が一枚ついてきた。
どこのものとも知れないレシートだった。
Jは紙を剥がし、グラスを机の隅へ移した。
いちばん上の引き出しからは、乾電池と小銭、古い眼鏡が出てきた。
その下の引き出しには説明書がまとめてあった。
通帳はいちばん下の引き出しで見つかった。
印鑑は、通帳のあいだに挟んであった小さなファスナー付きの袋に入っていた。
通帳と印鑑を食卓に置いて戻ってきたJは、机の下から箱をひとつ取り出した。
やるべきことは、それで終わりだった。
父がこの部屋で何をしていたのかは、大体わかっていた。
父はこの部屋に入ると、いつもドアを閉めた。
ときどき外へ音楽が漏れてきたが、最後まで続く曲は少なかった。
同じところを何度も繰り返しかけていることもあった。
Jがうるさいと言えば父は音を小さくしたが、翌日にはまた元に戻っていた。
箱は封をされていなかった。
上で折り重なった段ボールを開くと、白いタオルが出てきた。
何度も洗われ、縁が薄くなったタオルだった。
それをめくると、黒い本体が現れた。
葬儀場でMが見せてくれたものだった。
Jはタオルに包まれた機械を取り出し、机の上に置いた。
上面の片側に、小さな金属板がついていた。
13.
製造元の名前も、ほかの表示もなかった。
数字は印刷ではなく、金属に直接刻まれていた。
Jは指でその溝を一度なぞった。
蓋を開けたとき、内側に何か異質なものが見えた。
Jは手を止めた。
いつからそこにとまっていたのか、蓋の内側に黒い蝶が一匹いた。
Jは初め、それをちぎれた布切れだと思った。
黒い蝶は、左の翅の先が一か所、少し傷んでいた。
車の通り過ぎる音とともに、窓から生ぬるい風が入ってきた。
蓋の下には、一枚の円盤が載っていた。
ラベルが貼られる中央の部分まで黒かった。
斜めに光を当てると、表面の細い溝が浮かび上がった。
脇に置かれた針の先には、白っぽい埃がついていた。
Jは携帯電話を取り出し、Mにメッセージを送った。
「写真で見せていただいた機械が見つかりました。父から、ほかに何か聞いていませんか?」
写真を撮って、一緒に送った。
数字は小さいながらも画面に写っていた。
Jは携帯電話を脇に置き、机の下に身をかがめてプラグを差し込んだ。
側面のスイッチを上げると、円盤が回り始めた。
モーターの音はほとんど聞こえなかった。
針のついたアームを持ち上げ、円盤の縁に置いて初めて、短い摩擦音と雑音がし始めた。
人が呼吸をするような周期で聞こえる雑音。
あるときには雨音のようで、幾重もの窓を閉め切った部屋の中で、はるか遠くに降る雨音を聞いているようでもあり、
一定の周期で呼吸するかのような、吸う息と吐く息が耳元に聞こえるような感覚に、Jは、父が息を引き取った日の映画館で、左のスピーカーから流れていた不快な音を思い出した。
映画館で聞いた音と同じだという思いが、次第に強くなった。
まったく同じだとは言えなかった。
あのときは映画の台詞や音楽が混じっていたし、今は開いた窓の向こうを車が通っていた。
それでも、一度そう思うと、もう別の音には聞こえなかった。
息を吸うほうは短く、吐くほうは少し長かった。
終わり際に、何かが引っかかるような音がした。
Jは窓を閉めた。
部屋の中には、蓄音機の音だけがあった。
雑音のあいだから、小さな咳が聞こえた。
Jの背筋が冷えた。
父は何か言い出す前に、ときどきそんな咳をした。
咳払いとも普通の咳ともつかない、短い音だった。
電話がつながっても父が何も言わないと、Jはその音を聞いて、先に用件を尋ねたものだった。
Jの手が、スイッチの上で止まった。
「よし」
父の声だった。
何かをやり終えたときの口調だった。
誰に向けた言葉なのか、どこから聞こえる言葉なのか、わからなかった。
Jは息が止まるような気がして、蓄音機から目を離せなかったが、
そのあとには、何の言葉も続かなかった。
円盤の中央では、回転する金属の軸に、窓から差す光が一定の間隔で反射していた。
父が自分で録音しようとして、機械を試すつもりで声を吹き込んだのかもしれなかった。
それでも、もうひと言くらい聞けたらよかったのに。
緊張が少し緩むと、そんな考えがJの脳裏に浮かんだ。
母を呼ぶとか、ちゃんと録音できているかと尋ねるとか。
生きていたときなら、返事をするのも面倒に思ったような言葉でもよかった。
もうひと言だけ聞けば、今聞こえたのが本当に父なのか、はっきりわかるような気がした。
衣服の擦れるような音がした。
続いて、何かが硬いところにぶつかった。
一度目は鈍く、次は少し軽く。
ガシャン。
Jはびくりとした。
何かの割れる音だった。
小さな破片が床に散らばる音まで続いた。
「母さん、入ってこないで。ガラスが落ちてる」
今度は別の声だった。
Jは顔を上げた。
部屋のドアは閉まっていた。
声があまりに小さく録音されていて、誰なのか聞き分けにくかった。
いや、音量のせいだけではなかった。
語尾を曖昧にする、その話し方に覚えがあった。
録音された自分の声を初めて聞いたときのように、知っている声なのに、聞き間違えたような気がした。
スイッチを下げると、円盤はゆっくりと止まった。
部屋の外で母が咳をした。
続いて、足を引きずる音が聞こえた。
携帯電話が短く鳴った。
Mから返事が来ていた。
「今、音は出ていますか?」
Jは画面を見下ろした。
何と書けばいいのか、少し考えた。
まず、父の声が入っていると伝えればいいのだろうか。
親指で最初の文字を打ちかけたところで、ドアの取っ手が回った。
「通帳は見つかった?」
「食卓に置いた」
Jは母を振り返りながら、携帯電話を置いた。
肘に何かが触れた。
グラスが机の縁で傾いていた。
Jは手を伸ばしたが、指先はグラスの底を押しただけだった。
グラスは椅子の下のほうにぶつかり、床で一度跳ねた。
ガシャン。
母が敷居のところで足を止めた。
スリッパを履いていない足が見えた。
「母さん、入ってこないで。ガラスが落ちてる」
言い終わってから、Jはようやく口を閉じた。
グラスのかけらがまだひとつ、床の上で回っていた。
小さな円を描いて揺れ、縁が床を擦る音を立てて止まった。
「どこか怪我してない?」
Jは答えなかった。
「手で触らないで。ほうき、持ってくるから」
母が背を向けた。
Jは引き止めようとして、手を下ろした。
割れたグラスを見下ろした。
机の下の暗がりにも、破片が入り込んでいた。
大きな破片のひとつには、乾いてこびりついた水垢がそのまま残っていた。
机の上の蓄音機は止まっていた。
どれほどそうして立っていたのか、わからなかった。
母がほうきとちりとりを持ってきて、ドアの前の破片を掃き集めた。
Jはどいてと言われて初めて、椅子を横へ引いた。
「これも捨てるの?」
母が机の上の機械を見て尋ねた。
「いや」
母は少しのあいだJを見たが、それ以上は尋ねなかった。
床をもう何度か掃き、小さな破片が残っているかもしれないから裸足で歩かないようにと言った。
ちりとりの中で、ガラス同士が触れ合った。
母は部屋の片づけをもう少し急ぐようにせかした。
その足音が、台所のほうへ遠ざかっていった。
床の片隅に、片づけきれなかったガラスの破片が見えた。
窓から入った光が、その上で小さく凝っていた。
止まっているはずの蓄音機から、また雑音が聞こえ始めた。
衣服の擦れる音。
二度の衝突。
ガラスの割れる音。
その次には、自分の声がした。
今度は聞き分けられた。
「母さん、入ってこないで。ガラスが落ちてる」
Jは円盤の縁を見た。
小さくえぐれた傷が、針の横で止まっていた。
いくら見つめても、位置は変わらなかった。
スイッチは確かに下がっていた。
それでも、雑音は続いていた。
Jは机の下に手を入れた。
いくつものコードの中から、蓄音機につながっているものを選んで引いた。
机の脚に引っかかっていたコードがぴんと張り、それから緩んだ。
プラグを抜くと、雑音も途切れた。
部屋のドアを開けると、母が寝室を片づけているのが見えた。
「さっき、何か聞こえなかった?」
「割れたとき?」
「それじゃなくて。誰かが話してるような声」
「聞こえなかったけど」
Jは首を振り、部屋に戻ってドアを閉めた。
携帯電話を取り上げると、Mのメッセージがまだ画面に残っていた。
「今、音は出ていますか?」
文字で説明しようとすると、どこから書けばいいのかわからなかった。
Jは通話ボタンを押した。
呼び出し音が何度か鳴ってから、Mが電話に出た。
「はい」
「音がするんです」
「機械からですか?」
「父の声みたいなものが入っているんです」
電話の向こうで、何かがかさかさと鳴った。
「お話しされている声ですか?」
「ひと言だけです。よし、って」
「ほかの音は?」
Jは床に残ったガラスの破片を見た。
「自分の声も」
Mはすぐには答えなかった。
「以前、お父様が録音されたことはありませんか?」
「わかりません」
そう答えると、それはもう過去の出来事になってしまうような気がした。
父が部屋で何をしていたのか、自分はよく知らなかった。
知らないうちに、自分の声を録音されていたのかもしれなかった。
その説明の中では、何ひとつおかしくなかった。
Jは言葉を付け足した。
「でも、今さっき言ったことなんです」
「はい?」
「さっき、グラスを割ったんです。母が入ってこようとしたので、入ってこないでと言いました」
Jはひとつ息を整えた。
「割れる前に、その音を聞いたんです」
電話の向こうのかさかさという音が止まった。
説明してみると、いっそうありえない話に思えた。
Jは親指で携帯電話の側面を擦った。
Mが何を言おうと、自分には同じ話を繰り返すことしかできないような気がした。
少しして、彼女が尋ねた。
「今も聞こえますか?」
「いいえ。コードを抜きました」
「私にも、一度聞かせてもらえますか?」
Jは机の上の機械を見た。
蓋の内側にとまった黒い蝶には、少しの変化もなかった。
彼は携帯電話を置き、もう一度プラグを差し込んだ。
スイッチを上げると、円盤が回り始めた。
針を持ち上げ、縁へ移した。
短い摩擦音。
けれど、そのあとには何の音も聞こえなかった。
「小さく、じじっと鳴っている音ですか?」
「ちょっと待ってください」
Jは携帯電話を機械のすぐ前に置いた。
「電話越しだと、よく聞こえないみたいです」
Jは携帯電話を耳に当てたまま、円盤を見た。
Mはさらにいくつか尋ねた。
円盤に題名は書かれているか、ほかに何か痕跡はないか。
Jは目の前に見えることだけを短く答えた。
「直接聞いたほうがよさそうですね」
Mが言った。
「お時間のあるときに、機械を持っていきます。そうしたら――」
Jが言葉を続けようとした瞬間、蓄音機から椅子を引きずる音がした。
Jは口を閉じた。
「もしもし?」
「ちょっと待ってください」
誰かが小さく咳をした。
父の咳とは違っていた。
続いて、二人の女が何かを囁き合うような声が聞こえた。
何を言っているのかは聞き取れなかったが、一人が笑いをこらえきれず、短く吹き出した。
間違いなく、この蓄音機から出ている音だった。
話し声が遠のいた。
代わりに、広い室内の音が入ってきた。
何人もの人が少しずつ身じろぎしていた。
袖が擦れ、椅子が軋み、どこかでカップが置かれた。
「今、聞こえますか?」
Jが言った。
「何がですか?」
「今、蓄音機から音がしているんです」
一人の男の声が聞こえた。
「これを少し押していただくと――」
大勢が、はっと息を呑む音。
男の小さな笑い声が流れた。
マイクを使っているようではなかった。
話している人の声が近づいたり、遠のいたりした。
誰かが床にものを落とし、別の誰かが拾ってやる気配があった。
人々が集まって座っている音。
音楽か、何か奇妙な言葉でも流れてきたなら、古い録音の一部だと思いやすかっただろう。
「今も聞こえませんか?」
Jが尋ねた。
「人の声は聞こえません」
彼は携帯電話を少し下ろした。
蓄音機の中で、男が再び口を開いた。
「初めていらした方もいますから」
言葉が少し途切れた。
「お話ししたい分だけで大丈夫です。今日は、聞いて帰るだけでもかまいません」
Jは針の通っていく溝を見た。
そのあとには、何の言葉もなかった。
誰も、急いでその沈黙を埋めようとはしなかった。
カップを置く音が、もう一度した。
そして、誰かが息を吸った。
Jは携帯電話を握る手に力を込めた。
言葉が始まる前から、わかるような気がした。
「どこからお話しすればいいのか、わからないんですが」
自分の声だった。
グラスが割れたときのような切迫した声ではなかった。
普段よりも少し低く、文の終わりを、必要以上にはっきりと発音していた。
知らない人たちの前で話すときに、Jが出す声だった。
彼は手の甲で唇を押さえた。
声は、そのまま続いた。
「父が日曜日の夜に亡くなりました」
見知らぬ部屋が静かになった。
電話の向こうでMが何かを尋ねた。
Jは聞き取れなかった。
「その日、私は映画館にいました」
その言葉のあとに、小さな息の音が混じった。
「スピーカーから聞こえる息づかいを、私はただの機械の故障だとしか思っていませんでした」
Jはスイッチへ手を伸ばした。
指先は触れたが、下げなかった。
自分の声ではないとは言えない、この声が何を語るのか。
恐ろしいと思いながらも、そっと確かめたかった。
自分の声を聞いている人々は、誰なのだろう。
父の死について、自分はいま、誰に話しているのだろう。
録音の中で自分の声が止むと、女の声が聞こえた。
「先にひとつだけ、お聞きしてもいいですか?」
録音の中のJが答えた。
「はい」
「ほかの方々も、最初に聞こえたのは息づかいだったんですか?」
Jはスイッチを下げた。
携帯電話の向こうから、Mの声が聞こえた。
「大丈夫ですか? 何かあったんですか?」
Jは息を整えながら言った。
「今、何も聞こえなかったということですよね?」
「はい……特に何も聞こえませんでした」
「男の声も、女の声も、人の笑い声も、ということですよね?」
MはJの問いを受けて、ひとつ息を整えてから、
「聞こえませんでした。大丈夫ですか?」
心配のにじむ声で答えた。
「ひとまず、わかりました。片づけが済んだら、また連絡します」
Jは通話を切った。
録音の中の自分は、父が死んだという話をしながら、まったく言葉につかえなかった。
自分のことを、慣れた調子で語る姿。
Jには、その姿があまりにも馴染みのないものだった。
大勢の人々を前に、父の死について、まるで何かを悟ったかのように語る自分の声に混じっていた、ある種の得意げな響きと自信。
誰を前に、何のために。
そして、その声がなぜ自分自身に聞こえたのか、まるでわからないまま。
