このカフェバーに来るのは何回目だろう。
コートを脱いで、もう指定席みたいになってしまったカウンターのスツールに腰掛ける。
最初はここに、1人で来ていた。
大学のことも、失敗ばかりの恋愛も、全て遠ざけて自分と壁打ちする時間が、ここにはある。
自分だけの秘密基地のようなこのカフェバーに、連れてきたのは滝川だけ。
そのことが俺にはなぜか、とても自然なことに思えた。
滝川を初めてここに連れてきたのは、あいつと知り合った学園祭からわりとすぐの頃だった。
店のドアを開ける直前、俺は滝川に言った。
「ここ、誰にも秘密にしといてくれる?」
滝川は、その切れ長の目に真剣な光を満たしてまっすぐ俺を見た。そして無言でうん、と1回だけ、力強く頷いた。
俺はそれでひどくホッとしたのを覚えている。
いざ店に入ると、いつもの陽キャはどこにいったんだと笑っちゃうくらい、滝川はビビり散らかした。
「オレ、こんな大人っぽいとこ初めてっす……」
なんて言う滝川の銀髪から、プルプル震える犬の垂れ耳が見える気さえして、俺は笑いをこらえるのに必死だった。
なんなら席についてしばらくは、あいつは俺の服の袖をギュッと掴んで離せない様子だった。
今、そのときのことを思い出すと、なんだかくすぐったい気持ちになってしまう。
笑いたいような、泣きたいような、不思議な感覚が落ち着かなくて、ちょっと焦ったようにグラス半分を一気に空けてしまった。
ああ、それから、滝川の二十歳の誕生日もここで迎えたんだった。
それまで漂っていたキンモクセイの香りが薄れてきた頃だった。
滝川のアルコールデビューはここだと、いつのまにか俺は決めていた。あいつの意見をきくことなんて思いつきもしなかった。
あいつはいつもの調子で、「ブルーハワイって、かき氷じゃないやつがあるって知って、ずっと飲んでみたかったんすよ〜!」なんて明るい声で笑っていた。
滝川はあまり酒が強いほうじゃない。飲むと、すぐに首から上がぽわっと赤くなって、酔っ払っているのがすぐわかる。
酔うと、大型犬っぽさが増して、俺にとにかくじゃれついてくる。
……じゃれついてくるのは、いつものことか。
「あと、20分……」
あと20分したら、俺の左に滝川が座る。その席順も、この1年で、滝川と2人で育てた約束のようなもの。
環さん、環さん——甘えた声で俺を呼ぶ、滝川の声が聞こえる気がする。
この声を、俺はもうすぐ、聞けなくなる。
「環さん、お待たせしました!」
俺が2杯目のブルーハワイを空けた頃、滝川の声がした。
元気な、それでいて、このカフェバーの雰囲気を乱さない音量の声に振り向くと、水色のダウンジャケットを脱ぎながら「やっべぇ寒かったー」なんて、独り言をこぼす滝川がいた。
ああ、やっぱり肩幅、広いな。俺は酔い始めの目で、滝川の背中を眺める。
メガネ越しに見る滝川直也は、相変わらずちょっとチャラくて、やっぱりイケメンだった。
「環さぁん、マジで、久しぶりっすねぇ」
ほぼ体当たりみたいに俺にじゃれつきながら、俺の左側に、滝川が座った。
ほんとおまえ、大型犬みてぇ。
そんなことを言って頭をわしゃわしゃしてやりたい衝動がむくむくわいてきたけれど、俺は自分の気持ちを無視した。
「ほんとになー。俺も実験だのなんだの、マジ家帰れなかったわ」
「オレも試合とか合宿とかばっかで。今年の学祭出れなかったっすもん」
「学祭、出たかったの?」
「そりゃそうっすよ。去年楽しかったじゃないすか、環さんの女装、マジきれいだったっす」
「それはもう言うな」
えーなんでですかぁ。滝川が拗ねたように唇を尖らせる。
子どもみたいな表情に、俺もついつい顔がほころんでしまう。
「恥ずかしいんだよ。もう懲りごり」
「そうなんすかぁ?」
……めっちゃ、脚きれいだったのに。聞こえるか聞こえないか、ギリギリの声が俺の耳に届く。
滝川は、一杯目の生ビールをぐいっと飲んだ。急ピッチの飲みっぷりに、
「おいおい、ペース考えろよ」
「今日はしっかり飲んでいいんです! オレの進級が決まったお祝いなんすから!」
ね、と滝川が上目遣いで俺を見る。
ハスキー犬みたいなキリっとした印象で、レトリーバーみたいな甘え上手の表情が出せるのは、滝川の謎スキルだといつも思う。
このスキルは本当にすごくて、俺はだいたい、この大型犬にほだされてしまうのだ。
思えば、滝川とこんなに話すのは何ヶ月ぶりだろう。
夏休み以降の約半年、学校の食堂で飯をかき込みながらちょっと近況報告をするくらいしか、俺達には接点がなかった。
「はい、かんぱーい!」
グラスを合わせながら、俺は思う。
俺は本当は、滝川のこの、明るい声が恋しかったんだと、認めなくちゃいけないかもしれない。
でも、
認めてどうする?
