多分俺達って超ド級の寂しがりだったんだよなぁ。
寂しくて寂しくて、でもなんかかっこ悪ぃなぁって思ったり、そもそも打ち明けられるような相手がいなかったり……そんなこんなでずっと一人で隠し続けてたんだ。
で、そんな面倒臭い寂しがりが二人、これまた超ド級の田舎の無人駅で偶然にも出会った。
こういうこと言うとさ、周りのダチは絶対笑うし、俺もメチャクチャ擽ったい気分になるんだけど。
でもさぁショージキ、これって運命なんじゃね? って思うんだよなぁ。
そんくらい、お前って俺にとってかけがえのない存在だって事だよ。
***
柳澤 薫、都会住み、そこそこ良い大学の一年生。
自分で言うのもなんだけど、社交的で友達多め。
多分、不真面目寄り。大学入ってからは楽して取れる単位を出席日数ギリギリで確保してる感じの生徒。
俺の肩書きはそんなもん。
ああ、そうそう。
後は最近――
――じーちゃんが死んだ。
じーちゃんは母さんが再婚する前の父さんの父さん。
前の父さんが小学生の頃に病気で亡くなって、その跡母さんが再婚してからは戸籍上の家族の繋がりはなくなったけど、俺がじーちゃんに懐いてたのもあって、定期的に会いに行っていた。
じーちゃんは地方の端の方で、結構年季の入った家に住んでた。
ばーちゃんも一緒だった。
まあドラマやら漫画やらでよく聞く話ではあるけど、再婚後の家族と折り合いが悪くて、母さんからも関心を向けられなくなりつつあった俺は、学校が長期休暇に入る度にじーちゃんとばーちゃん家に転がり込んだし、二人はそんな俺を優しく受け入れてくれた。
けど大学受験が近づいたりして、中々顔を出せない時期が続いて……そうしている間に、顔を合わせる事も無くじーちゃんは亡くなっちまった。
で、ばーちゃんや前の父さんの親族の計らいもあって葬儀に出させてもらった時、じーちゃんとばーちゃんの家を取り壊して土地を売る事にしたって聞いたんだ。
ばーちゃんは足腰が悪くて一人じゃ暮らせなかったし、税金のなんやらの問題とかもあって、皆で話し合った結果らしい。
当然、俺に異を唱える権利はない。
そりゃ悲しいと思ったけど、仕方ない話だ。
ただ、あの家にはたくさんの思い出がある訳だから、どうしても名残惜しくなってしまって、俺はダメ元でこう頼み込んだんだ。
「――取り壊されるまでの間、じーちゃんの家にいてもいいですか」
***
で、今に至る。
現在、六月初旬。
取り壊しが決まったって言ってもそんなすぐに話を進めるつもりって訳でもないらしく、前の父さん側の親族の方々のご厚意で、夏休みが空ける頃までは好きに使って良いという許可を得た。
多分じーちゃんが俺の事を沢山話してくれてたのもあるんだと思う。
じーちゃんもきっと喜ぶだろうからって、快く家を貸してくれた。
ばーちゃんは親戚の家に移り住んでしまっているので、だだっ広い一軒家を一人貸し切り状態。
電気や水道は通っていて、Wi-Fiもある。
一時的にじーちゃんの家に住まわせて貰う事になった為、一年の前期はリモート受講できる科目に絞っているから学業も問題ない。
まあその分、二年が忙しくはなると思うけど、まあそれもどうにかなるだろうと楽観視している。
そんなこんなで、中々に快適な生活をさせてもらっている。
ただ、強いて言うのなら……
「……食い物がねぇ~……」
今日の分の講義を全て受け終えた俺は、空っぽの冷蔵庫を眺めながら呟いた。
バイト代の貯金があるので、食費に困る事はないのだが、そもそも店がない。
なんせここはド田舎だ。料理の配達サービスは勿論コンビニや自動販売機なんかもない。
何なら最寄り駅は無人駅である。
で、飯を買いに行こうとすると一時間に一本あったら奇跡の電車に乗って数十分は先の駅まで移動しなきゃなんない。
周辺に住んでる方々は一体どうやって暮らしてるんだ。
ああ、車か……。
あと通販とか、スーパーの配達とかもあったのかもしれない。
残念ながら勝手が良くわかってなかったけど。
自分の足で買いに行くのが当然だったし、手数料って結構痛いし、仕方ない。
まあこの家に住むと言い出したのは自分。
当然、感謝はあれど後悔はしていない。
文句垂れている暇があればさっさと動いて、出来るだけ長持ちする飯を買い溜めて引き籠ろう。
そう決意した俺はスマホと財布を持ってすぐに家を出た。
家を出て二十分。
最寄り駅まで後五分程度の地点まで辿り着いた時。
とんでもない土砂降りに見舞われた。
「お~~~い……マジかよ」
引き返すにも進むにも微妙な場所。
というかもう今更傘を取りに戻っても手遅れなくらい、あっという間に俺は全身ずぶ濡れになっていた。
(一回帰るのもだりー……。もういいか。帰ったらさっさと風呂入れば)
俺は開き直って最寄り駅まで急いだ。
この駅は無人だが、滅茶苦茶古い待合室がある。
俺が子供の頃から新しくされた痕跡もなく、年々と古びている木造の空間。
それでも電車が来るまでの時間を休むくらいならできる。
俺はその待合室の引き戸を勢いよく開けて中へ飛び込む。
「やべ~~っ、ついてねぇ。パンツまでグショグショじゃ……」
ここはド田舎無人駅。
大雨の中歩く人の姿も見当たらなかった。
だから気が緩んで、滅茶苦茶大きな恨み言を吐いたんだけど……
「……ん」
――いた。
待合室の隅に座る青年が一人。
学ランを着た彼はその背丈が俺よりもあるので、まあ間違いなく中学生ではなく高校生だろう。
……ってか、俺も百七十はあるんだけど。でかくないか、最近の高校生。
まあそんな事はさておき。
見知らぬ青年を前に盛大にパンツがぐしょ濡れだという報告をしてしまった俺と彼の間には、何とも微妙な空気が流れた。
「あー……サーセン」
「……いえ」
あまりにも居た堪れない。
俺がちょっとやそっとの事ではめげない心臓を持っていなければ、気まずさで帰宅を果たしていたかもしれない。
まあ、待合室は皆の場所なので、堂々と休ませてもらった訳だけど。
電車を待ちながらのんびりとする事数分。
ふと、学ランの青年が気になって視線を移せば、彼は空いている椅子に教材を広げて、器用に勉強をしていた。
(勤勉だなぁ。受験生とかか?)
この辺りに学校はなかったはずなので、恐らくは家の最寄りがこの駅なのだろう。
俺のように雨に打たれた様子がないのも、電車を降りてすぐに待合室へ駆け込んだのだとすれば頷ける。
まあこの雨だ。
傘がない中歩けば教科書も無事では済まないし雨宿りをしつつ勉強で暇を潰すというのはとても効率が良い選択だろう。
俺だって受験期はスマホの単語帳アプリやらを駆使して勉強詰めになっていた。
そんな風に学ランの青年と一年前の自分を思い返していると、電車がやって来る。
俺は席を立つと、勉強に集中している青年に軽く頭を下げた。
「お邪魔しましたぁ」
「……いえ」
ここは彼の家でも何でもないのだが、何も言わずに去るのも何だか気まずかったので、一言残す。
すると不愛想ながら短い返事が返された。
案外律儀な青年のようである。
さて。
都会ではありえない移動時間を経て、スーパーで買い物を終えた俺はじーちゃん家の最寄りまで戻って来ていた。
雨は止んで、日も暮れた。
一時間程度掛けて最寄りまで戻った俺は、荷物が重かったのもあり、少しだけ休んでから帰宅しようと考えた。
「てか、靴の中気持ち悪いなぁ。絶対ウンコみたいな臭いす」
さて。
学習せずまたもや特大独り言を呟きながら待合室の扉を開けると。
「る……」
――いた。
待合室の隅に座る青年が一人。
先程の学生だ。
俺のパンツの状況に加え、あろう事か足がウンコみたいな臭いになっている事までバレてしまった。
いや、というかそもそも。
「何でまだいるんだよ!?」
聞きたくもない情報を聞かされた相手も何だか気まずそうである。
驚きながら漏れた疑問を受け、青年は俺から視線を外しながら呟いた。
「別に……」
何だか言葉を濁された。
雨がやんでから数十分は経っているはず。
勉強ならば帰宅してからの方が整った環境で出来るだろうに、何故だか彼は帰ろうとしなかった。
「……ふぅん」
背中を丸めて、待合室の隅で勉強を続ける青年。
勝手ながら、俺はその姿に一年前の自分の面影を重ねてしまった。
俺は大荷物を置いてから空いている椅子に腰を下ろすと、スマホを触り出す。
十五分も居座っていれば当然、家に変える気力や体力も回復していたのだが、俺はそのままスマホで時間を潰した。
そして三十分が経過した頃。
「……何で帰らないんですか」
時折気にするようにこちらをちらちらと見ていた青年が痺れを切らしたようにそう声を投げかけた。
だから俺はこう答える。
「……別にぃ?」
先程彼が返したそっけない返事だ。
三十分前、自分が発した言葉に対して文句を言える訳もなく、青年は不服そうに眉根を寄せて口籠りながらも、渋々といった様子で再び教材と向き直った。
それから更に十五分が経つ。
青年がノートに走らせていたシャーペンの動きが止まった。
俺はスマホでSNSを見ているふりをしながらその様子を盗み見た。
五分。
十分。
……結構な間、青年は難しい顔をして教材の同じページと睨めっこしている。
恐らくどこかで行き詰っているんだろう。
「苦戦中?」
暫くそれを観察していた俺は、やがて思い切って青年の隣の椅子に移動した。
一応一年前まで受験生だった身だ。多少なら役に立てるかもしれないと思った。
突然距離を詰められた青年は驚いて肩を跳ね上げる。
そんな彼の反応をスルーして、俺は彼のノートと教材を覗き込んだ。
「えーっと、大問五のカッコ三……? ってか、字ぃうめーなぁ」
ノートには非常に整った美しい字体の文字が並んでいた。
そしてラッキーな事に、彼が行き詰ってたのは数学だ。
これで相手が文系選択だったりしたら詰んでいたが、理系ならある程度頭に入っている。
「あー、これね。俺も最初詰まったわ」
青年が行き詰っていたのは応用問題の一つだった。
ただ、応用とはいえよく見るタイプの型ではあるし、入試でも似たような問題は必ずどこかで見かける程度には頻出のもの。
ここを押さえないまま受験へ挑むのは中々にリスキーだが、逆に完璧に理解できれば心強い武器になる。そんな分野だ。
「えっ」
「ん?」
「……分かるんですか」
「おー。俺、理大」
俺が自分を指差して笑えば、相手は怪訝そうな顔になる。
「……金髪ピアスなのに」
「おい、そりゃ関係ねーだろ」
ツッコミを入れたものの、まあ彼が言いたい事も理解はできる。
まあ服装やら耳にバチバチにあいたピアスやら、大学デビューで染めた髪やら研究したメンズメイクやら……よーするに、俺の容姿って結構チャラい。
一方の目の前の男子高生くんは学ランを襟まできちっと閉めて着こなしている、どこからどう見ても真面目な優等生タイプだ。
そういう人からすれば俺みたいなのは確かに異質かもしれない。
青年からすれば見た目は胡散臭いかもしれないけど、俺が勉強できるかどうかは行動で示せばいいだろう。
「教えてやろっか?」
俺の提案に、青年はバツが悪そうな顔になる。
先程金髪ピアスと侮った発言をしたが故に、素直に頼み辛くなってきているのだろう。
分かりやすく素直な反応を見せる青年に若さを感じてほっこりするなどした。
……いや、多分一歳くらいしか変わらないんだけどね。
ニヤニヤとしながら俺が青年の言葉を待つ事、一分程。
青年は非常に気まずそうな様子で、おずおずと声を掛けてきた。
「よければ、教えていただけませんか」
「おー、勿論」
俺はそれに笑顔に答え、彼の望み通りに行き詰った問題の解き方を教えてやるのだった。
***
「薫さんって」
すっかり勉強に熱が入ってしまった青年と待合室で過ごす事更に三十分。
何度か問題のヒントを与えつつ見守っていると、区切りがついたところで青年が俺を呼んだ。
「んー?」
「もしかして、結構頭良かったりしますか」
「あ、気付いた?」
意外そうな様子を隠そうともしない素直さがいっそ清々しくて、俺は声を上げて笑う。
またもや俺の容姿に物申したそうな顔をしている彼の名は朝木 静くん、高校三年生。
自己紹介をした時に柳澤さんって呼ばれてこそばゆくなったから、下の名前で呼んでもらう事にして、薫さんって呼んでくれている。
「薫さんって、この辺りの人じゃないですよね」
「そーね。期間限定でこっちにいるって感じ。試験やらなんやらで何度か東京と行き来する事はあるけど、九月半ばには完全に向こうに戻るかな」
「東京の人なんですか……!?」
「そーだよ。東京生まれ、東京育ち」
「都会人だ……」
静くんの目がキラキラしているように見えるのは、多分気のせいではないのだろう。
東京に憧れがあるのかもしれない、と思った。
「静くんって、もしかして東京の大学志望だったりする?」
「あ、はい。一応」
「お、マジかぁ。じゃあ受かったら一人暮らし?」
「そうなったらいいなと思って」
「いーじゃんいーじゃん。応援してるよ」
「ありがとうございます」
会話が途切れた所で、静くんは教材を鞄にしまい始める。
彼が荷物を全て入れ、席を立ったところで俺は問い掛けた。
「帰りたくなった?」
その問いに、静くんはゆっくりと目を見開く。
それから困ったように視線を落とした。
「……やっぱり、頭いいですよね」
こればっかしは頭脳云々の話ではないんだけどなぁ、なんて、俺は内心で呟くのだった。
***
翌日、翌々日、その次の日……。
あれ以降、俺は静くんの事がなんとなく気掛かりで、毎日待合室を除くようになった……のだが。
(……いるんだよなぁ)
夕方頃、俺が待合室の扉を開けると、さも当然のように勉強をしている静くんがいる。
入って突き当り、右隅の座席はすっかり彼の特等席だ。
学校にはきちんと通っているのだろう。
昼間に覗いた時は流石に居なかったのでその点については幾分か安心したが……。
とはいえ、たとえ図体がでかい高校三年生とはいえ日が暮れた後もずっと駅にいるのは如何なものか。
そう本人に零してみれば『もう成人したので』と返された。
確かにこの辺りの条例で夜出歩く時間帯が制限されるのは十八歳未満だが、十八になった高校生はどちらとして判断するのが正しいのか、線引きが難しい所だ。
まあそもそもこの辺りに詳しくない俺があまりそういった話をするのもどうかと思うので、彼がなかなか帰りたがらない事については口煩く指摘する事はしないけど。
(それに……事情がどうあれ、帰りたくない気持ちってのも分かるしなぁ)
両親の再婚後、肩身の狭さを覚えて出来るだけ外で時間を潰していた事を俺は思い出す。
帰りたくないという静くんの気持ちを尊重したい一方で、毎日待合室で時間を潰している学生の存在を知ってしまった以上、見て見ぬふりをするのも俺の良心が傷つく。
そんなこんなであっという間に二週間。夕方に待合室で静くんと落ち合うのが俺の日課になっていた。
出会った頃はまだ学ランだった静くんの制服は夏服へと変わり、エアコンのない待合室は日に日に蒸し暑くなりつつあった。
「こんにちは」
「おー。今日も熱心だなぁ」
当然のように静くんの隣に座り、膝の上に器用に広げるノートを見る。
「わかんないとこあった?」
「はい。数問」
俺の問いに答えると、静くんは飛ばしていた問題を示す。
俺がやって来ると知っているからこそ、そして俺がそこそこ勉強ができる人間だと思ってくれているからこそ、最近は分からない問題は俺に聞く為に残しているようだった。
信頼されたり、求められたりされるっていうのは、悪い気がしない……というか、ショージキ嬉しい。
俺は静くんが示した問題を一緒に解いていく。
時々小休止を挟んで他愛もない世間話をしつつ、静くんの勉強を進めつつ……。
そうこうしていると、あっという間に時間は過ぎていくのだった。
***
それから更に時間が過ぎて、七月中旬。
考査の為に一度東京へ戻った俺は全ての試験を済ませてまたじーちゃんの家まで舞い戻った。
昼過ぎに最寄りにつき、じーちゃん家で一息吐く。
で、夕方に差し掛かった頃愛を見計らってエアコンのきいた家から外に出た俺は思わずつぶやく。
「……あっちぃ~」
一応時間的には夕方といっても差し支えない時間帯だというのに、空はまだ全然明るいし、外もとんでもなく暑い。
東京へ二週間ほど戻っている間に、日本のどこもかしこも随分と気温が上がったらしいので、この地域もその例に漏れず……という事なのだろう。
「……うーん」
俺は最寄り駅へ続く道を歩きながら複雑な気持ちを抱えていた。
静くんは俺に懐いて来てくれているし、正直二週間ぶりに会いたい気持ちもある。
しかしこの暑さの中、対して換気も出来ないあのオンボロ待合室に閉じこもって勉強している高校生の姿を想像すると……心配が勝る。
居て欲しいような、欲しくないような。
そんな思いを抱えたまま最寄り駅へ辿り着いた俺は待合室の戸を開ける。
「ああ、うん」
――いた。
「薫さん」
「おー、ちょっとぶり」
「はい」
まあ、そうだよねとも思う。
何となくいるだろうなとは思っていましたとも、うん。
さも当然のようにいつもの特等席で勉強をしている静くんの隣に俺は腰を下ろす。
俺が試験で暫く空ける事、今日戻って来ることは静くんに話していたので、彼も大して驚いてはいなさそうだ。
俺は以前のように平然と勉強を再開する彼を見守る。
しかし十分が経った頃。待合室のあまりの蒸し暑さに耐えられなくなる。
「あっちぃ~!」
「暑くなりましたよね」
「暑くなりましたよねって」
淡々と言葉を返し、澄ました様子の静くんにお前は平気なのかと問いたくなる。
そこでふと気付いた。
俺が来る前から勉強をしていた静くんは結構汗だくだ。
それでも真剣な様子で教材に齧りついている。
(いや、熱中症……)
仮に今日問題ないとしても、これから先もっと暑くなる中で彼は同じように勉強を続けるつもりなのだろう。
何なら、高校が夏休みに入ったら彼が余計にここに入り浸る可能性だってある。
それは流石に心配だ。
……というか俺も流石に付き合えそうにない。
暑いのは好きじゃない。耐えられない。
学校も家もエアコンのついた空間で甘やかされて育った都会の学生を舐めんな。
「一応聞くけど、静くんさぁ……帰るつもりとか、勉強の場所変えるつもりとかない?」
「ないですよ」
「ですよねぇ」
彼にとって帰宅という選択肢は論外なのだろう。
で、自習に向いているような施設はこの辺にはない、と……。
俺は少し考える。
静くんの気持ちはなるべく尊重してあげたい。ただ、熱中症は流石に心配だ。あと俺も熱いのは嫌だ。
そんな問題を全て解決する方法が、一つだけあるが……。
「うーん」
俺はじーちゃんの顔を思い浮かべる。
で、頭の中のじーちゃんがサムズアップしたのを確認してから立ち上がった。
「よし」
俺が突然そんな声を上げたから、不思議に思った静くんが顔を上げる。
そんな彼に、俺は二ッと笑って見せた。
「移動しよっか」
***
お察しの通り、俺は静くんをじーちゃんの家に招いた。
じーちゃんがもし生きてても、事情を説明すれば頷いてくれただろうと思うし、他の親族の人に怒られたら、その時謝ろうと思った。
「いいんですか、お邪魔しちゃって」
居間のちゃぶ台に買い溜めておいたコーラや個別包装の菓子を置いて、空いたスペースに静くんの教材を広げる。
あれよあれよという間に人の家へ上がる事となった静くんはどこか落ち着かない様子だ。
「いーのいーの」
「お家の人とか」
「平気。俺以外いないからさ」
「え」
この言い方はあらぬ誤解を生むか。
そう思った俺はすぐに補足する。
「ここ、元々じーちゃんとばーちゃん家だったんだけど、結構最近にじーちゃん死んじゃってさ。ばーちゃんは介護の為に離れてるって感じ」
二つのグラスにコーラを注ぐ。
「取り壊しが決まってるんだけど、その前にちょっと思い出に浸りたくなってさ。そんで実際に取り壊しの元々が進むまで、ちょっとの間住まわせてもらってんの」
「……そう、だったんですね」
「あ、気にすんなよ。じーちゃんも数年前から体悪くしてたみたいだし、歳だったからしゃーない。もしかしたらそういう日が来るかもってのはばーちゃん伝手に聞いてたから心の準備も出来ててさぁ。だからそんな引きずってないんだよ……ほら」
「ありがとうございます。いただきます」
コーラを並々に注いだグラスを俺は静くんに差し出す。
静くんは律儀に礼を言ってからグラスを受け取る。
俺らはコーラを一緒に一気に飲み干してから、二杯目を注いで、それから静くんの勉強を再開した。
何度か帰らなくても大丈夫か、とは聞いたけど「ご迷惑でなければ、もう少し」という静くんの希望を聞き入れて、勉強会は夜まで続いた。
「すみません、長居してしまって」
「いーえいーえ。送ってこうか?」
「いや、大丈夫です。家も、駅よりこっちの方が近いので、そんなに時間かからずに着きますし」
「そっか。……あ、ってか静くん、スマホある?」
「ありますよ」
「オンスタ交換しよ」
「オンスタ……はすみません、やってなくて」
俺は写真の投稿などに力を入れているSNSの名前を上げるが、静くんが首を横に振る。
「おっと。じゃあMINEは?」
「あ、それなら」
メッセージのやり取りに特化したSNSの名前を上げると頷きが返って来た。
俺はさっさとスマホを出すが、静くんは鞄の奥底にしまっていたようで、スマホを出すのに手間取っていた。
おまけに、出てきたスマホは電源が入っていない。
……というか俺は今日初めて静くんのスマホを見た。
「普段スマホは使わないの?」
「ああ、外ではまあ……少し待ってくださいね」
静くんはスマホの起動を待ってからパスワードを入力する。
その時だった。
スマホの通知が大量に画面上部に現れる。
全てMINEのメッセージの通知。差出人は全て『母』となっている。
(う、わ……)
家に帰りたがらない高校生、電源を入れないスマホ、止まらない通知。
それだけで彼の事情をざっくり察せられてしまう程、届く通知の量は異常だった。
「すみません、煩くて」
「あー、いや。大丈夫だよ」
静くんはなり続ける通知を無視して、俺のMINEアカウントを登録した。
互いに連絡が取れるようになったのを確認してから、静くんは再びスマホの電源を切ってしまった。
「家では確認するので、気にせず連絡してください」
「ああ、うん。受験生の邪魔にならない程度にね」
彼の家庭環境とか通知の事とか、気にならない訳ではなかったけど、こういうのは深入りするものじゃない。
こういうセンシティブな話題は、当事者が一番避けたがるものだと俺は知っていた。
だから普段通りを努める。
こういうのは元々得意なのもあって、我ながら上手く平静を装っていたと思う。
「ああ、それと。明日から最寄りじゃなくてこっちで勉強しよーよ」
「え?」
「あそこは暑くて俺が無理!」
「でも」
「言ったでしょ? ここ、今俺だけだから」
玄関まで静くんを見送る最中、俺は勉強会の開催場所の変更を提案する。
静くんは遠慮を見せたが、俺が更に気にしなくていいと告げると、おずおずと頷いた。
「分かりました。……じゃあ、明日もまた、お邪魔します」
「ん。直でチャイム鳴らしてくれても良いし、MINEしてくれてもいーから」
「はい」
さて、今日はこれにて解散……となるかと思ったのだが。
玄関の引き戸に手を掛けた静くんは中々外に出ようとはしなかった。
何か考えを巡らせるように視線を彷徨わせていた彼はやがて、俺を見て困ったように笑う。
「何も言わないんですね」
「ん?」
「さっきの通知の事とか、道草食ってるのとか」
「聞いて欲しい訳じゃないでしょ?」
「……そうですね」
俺の返答に、静くんが更に笑みを深める。
先程の苦笑ではなく、どこか安堵したような、甘えるような微笑だった。
「基本的に話したいとは思わないです。薫さんに対しても、少し前まではそうでした。でも」
静くんは少し言い淀んでから、引き戸から手を離した。
「今は薫さんには、聞いて欲しいです」
静くんの言葉は俺にとって意外なものだった。
けれど同時に、少しだけ嬉しいと思う。
これは、彼がそれだけ俺に心を開いてくれたという事だろうから。
「お菓子、もう一袋開けるかぁ」
俺は笑みを深めて頷くと、静くんに土間の近くに腰を下ろすよう促すのだった。
静くんの家は父が単身赴任で、家での生活は母と二人きりなのだとか。
そしてこのお母さんが過干渉である事、また支配欲の強い人である事が精神的な負担になっていると静くんは話した。
「自分が育てた息子には自慢できる程優秀であって欲しい。けど自分の方が上の立場ではありたい……そういう母なんです」
高校入試で進学校――お母さんの母校より上の偏差値の学校に合格してから、静くんのお母さんの態度は豹変したという。
部活に入る事を執拗に勧めながら、静くんがバスケットボール部に所属してからは部活ではなく勉学にしっかり励むよう繰り返し忠告をする。
あくまで静くん側の話しか聞けていない立場ではあるけれど、話を聞いた範疇ではどうにも静くんのお母さんの言動が『わざと足を引っ張った上で助けるふりをしている』ように感じてしまうものだった。
そしてきっと、静くん本人もそう感じているのだろう。
結局静くんは二年生の冬で部活を辞めてしまったらしい。
そして同時に、よりお母さんからの干渉が激しくなった。
「初めはそんなに根を詰めなくても良いと言ったり、どこかに一緒に遊びに行こうなんて誘ってきたりしました。けど、俺がそれを全部突っぱねて勉強に集中する姿を見て、成績が伸び続けているのに気付いて、それなりの結果を出してしまうと思ったんでしょうね。突然、生活習慣や勉強のスケジュールを細かに指示するようになりました」
「あー……」
話を聞いている感じ、多分静くんの功績を『自分の教育のお陰』にしたいんだろう……少なくとも静くんはそう捉えているのだろう口ぶりだった。
「散々引っ掻き回した挙句、俺の努力もなかった事にされるのかなって思ったら、なんか凄く母を軽蔑するようになってしまって。もっと上手く、素直に従っているフリをしたり母の機嫌を取ったりして対立しない方法を選ぶべきなのかもしれないんですけど……そうはしたくないと思ってしまうんです」
「反抗期ですかね」と静くんは苦笑した。
笑みを浮かべてはいるけれど、当然心からの笑いではないだろうし、こうして冗談っぽい空気を出すのは、自衛の為であると……俺は良く知っている。
自分が本気で悩んでいる事程、誰かから否定されたくない。
それは当然の考えだ。
「なーに言ってんの」
だから俺はそんな彼を鼻で笑ってやる。
俺に対してそんな風に身構える必要はないんだって、思い知らせてやろうと思った。
「そんだけマジって事じゃん? 死ぬ気で頑張ってるしんどさも、その結果掴めるものも自分だけのものって考え、別に当たり前だと思うけどなぁ」
家族を味方と思えない彼が今求めているのは、本心を明かしてもそれを受け入れてくれる味方だろう。
それに俺のこの発言は静くんの機嫌を取る為だけの言葉ではなく、本心からのものだった。
「だいじょーぶ。お前の母さんがお前の手柄を自分の手柄にしようとしてても、俺はちゃんと見てるし知ってるよ。お前がすげー努力家で、自分の力で未来を掴もうとしてるのをさ」
そう言って俺は静くんの頭を雑に、激しく撫でる。
「頑張り給え! 環境なんかに負けんな! んで、東京来たら一緒に遊ぼーぜ」
「……薫さん」
ぐしゃぐしゃになった前髪の下、静くんの顔が綻んだ。
なんとこの男、背がでかいだけじゃなくて顔が整っている。
塩顔のイケメンって感じ。
そんな顔が甘さましましの笑顔を見せるものだから、思わずドキッとしてしまった。
これでバスケしてたという事は、きっと静くんと同じ学校の女子の多くが彼の虜になってしまった事だろう。南無三。
「何となく、薫さんならそう言ってくれるかなって思ったんです」
「おー、そっかそっか。あ、別に気休めとか適当な慰めとか、そういうのではないからな?」
「分かってますよ」
何故か頭をぐしゃぐしゃにされても嫌がらない静くんは、俺を拒絶するどころか、寧ろ凭れ掛かって来た。
「……ありがとうございます、薫さん」
分かりやすく甘えられるのが擽ったくも嬉しくて、俺は暫く静くんに肩を貸してやる事にした。
***
静くんの高校も夏休みがやって来た。
というか、実際には俺の大学の休暇と数日差だったので、再会後すぐに夏休みに入ったらしい。
俺と静くんは朝から晩までじーちゃん家で一緒に過ごした。
飯を一緒に作ったり、休憩に動画を見たり、ちょっとだけ昼寝をしたり。
あと数駅先で祭りがやっている時は一緒に覗きに行ったりした。
もしかして俺達幼馴染だった? ってくらいのマブ具合。俺もびっくり。
静くんが心を開いてくれると意外と甘えんぼで距離感が近くなるタイプだったのと、俺がパーソナルスペース激狭名のもあったんだと思う。
そういう意味では多分すっごい相性が良かったんだろう。
そんなこんなであっという間に八月も下旬に差し掛かった。
静くんが俺に質問する回数ももう殆どなくなった。
静くんの学校は既に高校で習わないといけない範囲自体は終わっていて、二学期からは復習と入試対策に切り替わるらしいから、現時点で自力で理解できない問題が殆どなくなっているのは非常に優秀な証拠と言えるだろう。
というか、俺より頭良いかもしれない。何だかちょっと悔しいような、誇らしいような。
そして今日も、勉強に黙々と取り組む静くんを見守って夜を迎える。
「今日もお邪魔しました」
「いいえー」
荷物をまとめた静くんが玄関へ向かい、俺はそれについていく。
静くんは俺とMINEを交換して少しした後、お母さんと話をしたらしい。
半ば言い合いのようにもなったけれど、最終的には一度、静くんの思う形で勉強に努める方向で言質を取ったとか。
『成績が少しでも落ちたら言う事を聞く。自力で成績を維持できている間は放っておいて欲しい』と静くんは言い放ったらしい。
成績が下がっていない以上、静くんの選択や勉強方法が正しい事は証明されてる。
そこにとやかく口を挟む事は出来ないだろう、と……それを明確に指摘し、お母さんが頷かざるを得ない方向に話を運んだらしい。
上手いやり方だと思う反面、少しでも成績が下がればまた以前の状態に戻ってしまうのではと危惧していたのだが、当人はまったく気にした様子もなく、『多少ヒリついてた方が寧ろモチベーションになるかもしれないですよ」などと宣っていた。
まあ実際、短い付き合いの中でも静くんの学力はめきめき成長しているし、本人が深刻に捉えていない以上、俺が気にし過ぎるような事でもないのだろう。
「じゃあ、明日もよろしくお願いします」
「ああ、うん」
靴を履いた静くんが礼儀正しい挨拶をする。
その姿を見て、ふと胸が妙にざわつくような感覚を覚えた。
それに意識が傾いたからか、もしかしたらぼんやりしているように見えたのかもしれない。
静くんが不思議そうに首を傾げた。
「薫さん?」
「ああ、ごめん。何でもないよ。じゃーまた、明日」
「はい」
俺が反応を示すと、静くんは引き戸を開けて外へ出ていく。
そんな彼へ手を振って見送った俺は、戸を閉めて家の中へと戻る。
「……あれ」
靴を脱いで、家に上がる。
床が軋む音がやけに煩く響いて、先程感じた胸騒ぎがより大きくなるのを感じた。
(この家――こんなに静かだったっけ)
***
八月三十一日。
静くんの高校生活最後の夏休み、その最終日。
あと俺がじーちゃん家を発つ二週間前。
「今日、勉強サボりたいんですけど」
そう言ったのは家に来て居間に寝転がった静くん。
すっかり第二の家のような寛ぎ具合だ。
「なーに言ってんの」
「最後の夏休みですよ。一日くらいだらだらしても許されませんか」
静くんは賢い。多分俺よりも全然。
おまけに家庭の事情諸々でケツに火がついてる。
そんな彼が休んでも平気と判断したのなら、まあ本当に平気なのだろう。
「薫さんと一日居られるの、今日だけじゃないですか」
「仕方ないなぁ」
おまけにこんな風に甘えられたら頷かざるを得ない。
すっかり静くんを甘やかす様になってしまった己を恥じながらも俺は即答するのだった。
サボるとは言ったものの、静くんは特にやりたい事がある訳でもないらしく。
俺達は買い溜めていたアイスを食いながら、スマホで漫画を読んだり動画を見たり、とにかくゴロゴロしてだらしなく過ごした。
「花火したくないですか」
静くんが唐突にそんな事を言いだしたのは日暮れ時。
「したい」
フットワークが軽い俺はすぐさま返事をして体を起こした。
花火を買う為に長距離を移動しないといけないのは面倒だが、じーちゃんの家には立派な庭がある。
子供の頃、よく花火をした記憶もある。
思い立ったが吉日。
俺達はすぐに家を飛び出して電車に乗り、花火とライターを買ってじーちゃん家へ戻った。
因みに花火は大容量。絶対そんなに使わない。調子に乗り過ぎた。
「靴持って、先縁側行ってて」
「はーい」
俺は買ったものを静くんに任せて、バケツを取りに行く。
静くんと離れると、急に辺りが静かになった。
静くんは決して口数が多い方じゃないけど、それでも人の気配の有無って、結構大きいみたいだ。
誰もいない居間の横を通り過ぎる。
――薫、薫。
居間を横切った先、台所近くにある物置へ向かおうとした俺の足が止まる。
――こっちに来なさい。一緒にスイカを食べよう。
懐かしい声がしたような気がして居間を見る。
当然、そこには誰もいない。
けど、視線を移した直後、確かに誰かに手招きされたような気がした。
――こら、もうすぐ夕飯の時間でしょう。適当な事言わないの。
台所からばーちゃんの声が聞こえる。
……いや、正確にはそんなやり取りがあった時のこと思い出した。
「懐かしー」
俺は呟いて、足を進める。
二階へ続く階段を通り過ぎる。
――こら薫、階段で跳ねるなとあれ程言っただろ。全く
台所を通る。
――薫、あーん。ふふ、つまみ食いの事、じいじには内緒だよ。
物置に辿り着く。
埃を被ったバケツを手に取る。
――薫、花火を持って先に行ってなさい。
埃を払って、キッチンで軽く濯いでから水を汲む。
水が出る音がやけに大きかった。
「あと二週間、かぁ……」
それを過ぎたら二度とこの家に来ることはない。
そんな終わりの時を、唐突に実感した。
「ま、しゃーないわな……どっこいしょ」
一人で呟いて、水が溜まったバケツを持って縁側へ行く。
縁側には家族用の花火を大きな袋から出している静くんの姿があった。
「お待たせぇ」
「ありがとうございます。すみません、力仕事を」
「いーって事よ。……あっ、てか俺の靴持ってき忘れた」
「あ、そうだ。俺が持って来るべきでしたね。すみません」
「大丈夫、大丈夫。ちょっととって来るから、先遊んでな」
「両手に三本持ちしてていいですか」
「ぶはっ! わんぱく過ぎんだろぉ! まー、いいよ。あ、でも縁側に火だけはつけるなよ」
「きちんと離れてやります」
普段涼しい顔をしている真面目な印象の静くんが思いの外はっちゃけた提案をするものだから、俺は思わず吹き出して笑ってしまう。
まあ贅沢に遊んでも余りそうなくらいの数である為、日頃頑張っている受験生くんには沢山遊んでもらおう。
バケツを庭の真ん中へ運んでいく静くんの後ろ姿を見送ってから、俺は足早に玄関へと向かう。
そして残されていた自分の靴を拾い上げると、再び同じ廊下を戻り、縁側へ辿り着く。
その時だった。
バチバチという激しい音を立てながら閃光が上がる。
庭の真ん中では有言実行の男、静くんが片手に三本ずつ、火のついた花火を持って振り回していた。
「……あっ、薫さん! 思ったよりやばいです!」
一本一本が想像以上の激しさだったのか、花火の音に負けまいと張り上げた声が飛んでくる。
けれどやばいと言いながらも静くんは楽しそうな笑みを浮かべていた。
「もー、最初くらい一本ずつ様子見ればよかったのに……」
俺もつられてけたけたと笑う。
しかし激しい閃光を遠目に見ていると、不意に昔の事が過ってしまい、言葉は途中で途切れた。
花火なんてこの家にいる時じゃないと出来なかった俺は、大はしゃぎで閃光を放つ花火を振り回した。
じーちゃんは茶目っ気がある人だったから俺と一緒になって豪快に笑って、何なら同じように花火を振り回してくれた。
縁側ではばーちゃんがそれを微笑ましそうに見ていて、「くれぐれも怪我には気を付けるんだよ」なんて言って。
(それで……それで)
当時の思い出が突然、次々と思い出される。
楽しかった、俺の大切な思い出。
けれど二度と手に入る事はない時間。
(何で急に、こんなに悲しいと思うんだろう)
目頭が急に熱くなって困った。
初めは静くんの持つ花火が眩しいせいか、煙のせいだと思った。
でも、どうしようもなく胸が締め付けられて苦しくなって、それで漸く、今俺はどうしてだか凄い悲しいんだと理解した。
(じーちゃんが死んだのはもう何ヶ月も前だし、覚悟も出来てたのに。この家にいられる期間も前々から決まってて、分かってたのに)
「…………薫、さん……?」
無邪気に笑っていた静くんが、俺の顔を見て目を見開いた。
多分、何かに気付いたんだと思う。
頑張って口角は持ち上げているんだけど、上手く笑えてないのかも。
(悲しんでたってしゃーないって。悲しいのはばーちゃんや親戚の人もみんな一緒だし、取り壊しの事だってお金や管理がどうにもならないからって話だし、ばーちゃんも納得してるんだし。じーちゃんもばーちゃんも、俺よりずっと生きてるんだから、俺より先にいなくなるのなんて当然で、やっぱりそれだってしゃーないじゃん)
多分、俺自身が気付かなかっただけで、この寂しさとか悲しみはじーちゃんが死んでからずっとあったものなのかもしれない……何となく、そう思った。
でもこの苦しみって、誰のせいでもない。
全部仕方のない事だ。誰が悪い訳でもない。
そんな事に嫌だとか悲しいとか感情的になっても、何も変わらない。
(仕方ないって、分かってるのに。分かってるのにどうして――涙が、溢れて来るんだ)
耐え切れなくなった涙が堰を切ったように溢れ出す。
年下の男の子に気を遣わせたらいけないと思って、俺は慌てて顔を背けようとする。
けどその頃には持っていた花火をバケツに放り込んだ静くんが距離を詰めていて、顔を隠そうとした俺の手を掴んでいた。
「薫さん」
「やー、ごめん、ごめん。何か急に」
気まず過ぎて、顔を背けたまま普段通りの声音でそう言うけど、静くんは誤魔化されてはくれない。
「薫さん、こっち見て」
濡れた俺の頬に、静くんが空いている手で触れる。
それを振り解く事は出来なくて、俺は観念して涙に濡れた顔を静くんに向けた。
「笑わないで、薫さん」
せめてもの抗いで持ち上げていた口角すら封じられてしまって、顔の緊張がゆるんだと同時に、大きな悲しみが押し寄せた。
震える唇から嗚咽が溢れて止まらない。
年甲斐もなく、子供のように泣きじゃくる事しか出来ない。
そんな俺を労わるように、慰めるように、静くんは俺を優しく抱きしめてくれていた。
何も言わず、俺が落ち着くまでの間、ただ背中を撫で続けてくれたのだった。
***
「…………ごめん、急に」
「いえ」
一頻り泣いて落ち着いた後。
俺は静くんが気を遣って居間から持って来てくれたティッシュで鼻をかみながら取り乱した事を謝罪する。
俺達は並んで縁側に腰を掛けていた。
迷惑を掛けるだけ掛けておいて、何もなかった事に……は、流石に出来ないだろう。
俺は深呼吸を一つしてから口を開いた。
「俺もさぁ、家族とあんまり折り合いよくないんだよねぇ」
母親がバツイチの事や、今の家を居場所と感じられない事、そんな中で自分を温かく迎え入れてくれるじーちゃんとばーちゃんの家だけが唯一の自分の居場所だと感じていた事。
そういうのを一通り、ざっくりと。静くんに明かした。
「俺もあんま自覚はなかったんだけど、多分すげー寂しくて不安だったんだろうなぁって。で、もうあんな風に自分を受け入れてくれる人も場所もいないっていう事実をなんか突然実感しちゃって、パニック~みたいな感じで」
唯一の心の拠り所が、多分この家だったんだと思う。
それを失って、突然孤独になったような気がして、せめて楽しかった時の思い出を少しでも長く覚えておきたいと思って。
多分そういう気持ちが無意識に俺を突き動かして、この家まで連れて来たんだと、この時になって漸く理解した。
静くんは俺の自分語りを真剣な面持ちで、静かに聞いてくれている。
「でもさぁ、これって誰が悪いとかじゃないじゃん。しゃーない事であってさ。そんな事に嫌だって駄々捏ねても、周りを困らせるだけ――」
「何で駄目なんですか」
「え?」
不意に、静くんが口を開く。
「しょうがない事だったら、嫌だって言ったら駄目なんですか?」
「駄目っていうか、言ってても変わらないっていうか」
「変わらないなら言っていいでしょ。というか、少なくとも俺は困りませんよ」
静くんが俺の肩に手を回す。
そのまま、俺は彼に寄り掛かるような姿勢になる。
「しょうがないってのと、悲しいってのは別でしょ」
静くんは優しく諭すような声音でそう言った。
「しょうがなくても、どうしようもなくても、それを悲しいって思う事の何が駄目なんですか」
大丈夫と落ち着かせるように、静くんが俺の頭を撫でる。
……俺のが年上なんだけどな。
何だか情けないと思うけれど、不思議と嫌な感じはしなくて、寧ろ静くんの手は温かくて心地良いとすら思った。
「お爺さんの事、それだけ大好きで、大切だったって事じゃないですか。そんなの、恥じる事じゃないし、声を大にしていい事でしょ」
仕方ない事だから、我儘を言ってはいけない。
そう思って封じ込めてきた想いを静くんが全て肯定してくれる。
それがとても嬉しくて、また涙が滲んで来た。
「それに……俺は薫さんが悲しい時に、悲しいって言って欲しいです。で、縋って欲しいし、頼って欲しい」
寄り掛かっていた俺の頭に静くんが甘えるようにすり寄る。
静くんと触れている感覚に身を委ねている内に、自然と涙が数粒、目尻から零れ落ちた。
けど、心は随分とスッキリしていた。
「俺が悩んでる時、薫さんは話を聞いて頼らせてくれたじゃないですか。……薫さんがそうしてくれたのが嬉しかったから、俺も薫さんにそうしてあげたいんです」
静くんの手が、床に添えていた俺の手に重ねられる。
不覚にも、少しドキッとしてしまった。
「だから俺には強がったりしないで、素直でいてくださいよ」
「……俺、一応年上なんだけどな」
「関係ないでしょ、歳なんて。俺、薫さんには甘えたいですし、甘えられもしたいです」
「欲張りだなぁ」
「欲張りですよ」
茶化すように笑うと、すぐ耳元で笑う気配があった。
それから。
「だって、好きですもん」
普段より低く響く声が鼓膜を揺らす。
驚いて静くんの顔を覗き込むと、彼は目を細めて微笑んでいた。
「薫さんの事」
その笑顔があまりにも甘すぎて……ただの友人に向けるそれではないとすぐに理解してしまう。
同時に俺の心臓は体から飛び出して逃げてしまうのではないかという程に暴れ出し、顔は内側から血液が沸騰しているのではと思う程に熱くなる。
「そ……」
「薫さんが頭いいのはもう知ってるんですよ。この期に及んで、友人としてなんて言わないですよね」
「ちょ、と待った待った……っ」
静くんの顔が迫り、慌てて俺は目を閉じる。
思わず身構えてしまったが、想定していた感触はやって来なかった。
代わりに、額に何か柔らかいものが触れる。
「へ……」
拍子抜けしつつ目を開くと、静くんが悪戯っぽい笑みを浮かべて俺を見ていた。
「どうしたんですか? 薫さん」
「な……な……っ」
うっかりキスされるかも、なんて思って身構えてしまった自分があまりにも恥ずかしい。
というか、それが満更でもなさそうな自分の気持ちにも整理がつかない。
なんだこれ、なんだこれ。
恥ずかしいやら混乱しっぱなしやらで目が回りそうになりながら、俺は精一杯の強がりをするのだった。
「何でもない……ッ!!」
***
大号泣したり、告白されたり、何だか色々あったけれど、それはそれ、これはこれ。
折角買った花火を余らせるなんて勿体ないので、俺達は気を取り直して全力で花火で遊び倒した。
花火を使い果たし、片付けも終えた頃には静くんの普段の帰宅時間をすっかり過ぎていた。
居間へ戻り、静くんは置いていた鞄を手に取る。
彼が返ればまた、独りぼっちだ。
それがどうしようもなく寂しく思えた。
そんな時だった。
「薫さん」
静くんが畳に腰を下ろしたまま俺に上目遣いを使ってくる。
どこでそんなものを覚えたんだ、あざといが過ぎるぞ。
「今日、泊っていってもいいですか?」
「え」
ショージキ、願ってもない申し出だった。
「けど、親御さんとか」
「勿論、連絡は入れますよ。友達との勉強会の延長でって言っておきます。始業式だって朝帰って支度を整えれば余裕で間に合いますし。……けど、そういうのじゃなくって」
静くんが俺の手を取る。
「薫さんの気持ちが聞きたいです」
「……っ」
俺は先程の静くんの『素直でいて』という言葉を思い出す。
既に一度、本心を打ち明け、受け止めてもらった相手だ。
そのせいもあってか、彼の言葉に甘えたいという気持ちが強く表れていた。
俺はおずおずと手を握り返して静くんを見る。
「……寂しいから、一緒にいてくれない?」
「ん゛っ」
鳩尾でも殴られたような呻き声が静くんから漏れた。
「勿論」
かと思えば浮ついた、非常に機嫌の良い声と共に力一杯抱きしめられ、俺は危うく窒息しかけるのだった。
その日の晩。
布団を二枚並べて横になった俺達は、暫くは寝ずに話し込んでいた。
「東京戻っても、連絡してくださいね」
「おー。勉強の支障になりそうだったら言えよなー」
「大丈夫です。絶対合格するんで、勉強は怠りません」
声のトーンを落とし、囁くような声でひそひそと言葉を交わす。
二つの布団の境界には、互いに繋いだ手が乗っている。
「俺が東京行ったら、迎えに来てくださいよ」
「てか、全然ここまで迎えに行くよ」
「何にもないし無駄足過ぎるじゃないですか」
「おーい、感動的な出会いの場を無駄足扱いすな」
「パンツやらウンコやら言ってた出会いの話ですか?」
「あれは忘れろ、マジで」
無邪気な笑い声が二つ、寝室に響き渡る。
後、二週間。
静くんが夏休み時期に比べて、きっとあっという間に過ぎてしまう。
そしてそれが終われば、俺達は別れる事になる。
「じゃあ、約束ですね」
「おー。静くんは志望校合格して、そんで引越し当日に俺が迎えに行く。待ち合わせは――」
「「あの待合室で」」
声が重なり、俺達は顔を見合わせて笑うのだった。
***
規則正しい寝息が聞こえる寝室で、俺はこっそりと囁く。
視線の先にはあどけない寝顔の静くんの姿があった。
「……多分俺達って超ド級の寂しがりだったんだよなぁ」
思った事をつらつらと並べたけど、途中から何だかこっぱずかしくなってしまって、少し顔が熱くなった。
そうして色々話している内に、俺も眠くなってきて、ゆっくり目を閉じたんだ。
「――そんくらい、お前って俺にとってかけがえのない存在だって事だよ」
***
季節を二つ越えた、麗らかな春。
乗客が皆無な小さな電車に揺られ、俺は一つの無人駅へ辿り着く。
約半年ぶりに見る景色は、生い茂っていた木々が桃色の花を突けている事以外はそんなに変わっていない。
相変わらずのド田舎だ。
電車を降り、一度改札を抜けた俺はもう一度中へ戻り、ある場所へ一直線に向かう。
あまりに古ぼけた、木造の待合室。
立て付けの悪い引き戸に手を掛け、俺は勢いよく開ける。
飛び込んだ古い内装。
その突き当りの右隅の特等席に――いた。
「薫さ――」
ぼんやりと無表情で座っていた静くんお顔が明るくなる。
そんな彼の目の前まで大股で近づいた俺は隠し持っていたクラッカーを目の前に構えて、紐を引いてみせる。
軽い音と共に、リボンが飛び出す。
「うわっ!」
音に驚いた静くんが声を上げる。
彼の頭にリボンが乗っかった。
因みに、散らかすと迷惑になるので、ちゃんとリボンの先がクラッカーの根元にくっついているタイプを選別した。
「合格おめでとー!」
不意を衝かれた静くんは暫く呆けた後、自分の頭に引っ掛かったリボンを摘まんで二度見してから大きく吹き出した。
「はしゃぎ過ぎですって。子供ですか」
「浮かれて悪いか!」
「悪くないですよ」
そう言って静くんは俺の腕を引き寄せ、抱き締める。
「ありがとうございます」
「おー」
耳元から聞こえる声は俺ほどではないにせよ、随分浮足立っているように聞こえた。
俺は静くんの頭を満足するまでわしゃわしゃと撫でてから、彼から離れる。
それから俺達は勉強会当初と同じ並びで席に座り、互いの近況を報告し合う。
そうこうして三十分程が立った頃。俺達の乗る電車がやって来る音が聞こえた。
「よし、行くか。こっから長いんだよなぁ」
「わざわざすみません」
「いーって事よ。どうせ一緒にいたら話したりないっしょ」
「確かに」
俺は席を立つと、静くんに手を差し出す。
静くんは笑みを深めてその手を取ると、俺の隣に並ぶ。
待合室を出てすぐ、俺達は一度だけ振り返った。
夏の間、何度も通ったオンボロ待合室。
それを目に焼き付けてから、俺達は小さな列車の扉を潜るのだった。
――互いの手は、固く繋いだまま。
寂しくて寂しくて、でもなんかかっこ悪ぃなぁって思ったり、そもそも打ち明けられるような相手がいなかったり……そんなこんなでずっと一人で隠し続けてたんだ。
で、そんな面倒臭い寂しがりが二人、これまた超ド級の田舎の無人駅で偶然にも出会った。
こういうこと言うとさ、周りのダチは絶対笑うし、俺もメチャクチャ擽ったい気分になるんだけど。
でもさぁショージキ、これって運命なんじゃね? って思うんだよなぁ。
そんくらい、お前って俺にとってかけがえのない存在だって事だよ。
***
柳澤 薫、都会住み、そこそこ良い大学の一年生。
自分で言うのもなんだけど、社交的で友達多め。
多分、不真面目寄り。大学入ってからは楽して取れる単位を出席日数ギリギリで確保してる感じの生徒。
俺の肩書きはそんなもん。
ああ、そうそう。
後は最近――
――じーちゃんが死んだ。
じーちゃんは母さんが再婚する前の父さんの父さん。
前の父さんが小学生の頃に病気で亡くなって、その跡母さんが再婚してからは戸籍上の家族の繋がりはなくなったけど、俺がじーちゃんに懐いてたのもあって、定期的に会いに行っていた。
じーちゃんは地方の端の方で、結構年季の入った家に住んでた。
ばーちゃんも一緒だった。
まあドラマやら漫画やらでよく聞く話ではあるけど、再婚後の家族と折り合いが悪くて、母さんからも関心を向けられなくなりつつあった俺は、学校が長期休暇に入る度にじーちゃんとばーちゃん家に転がり込んだし、二人はそんな俺を優しく受け入れてくれた。
けど大学受験が近づいたりして、中々顔を出せない時期が続いて……そうしている間に、顔を合わせる事も無くじーちゃんは亡くなっちまった。
で、ばーちゃんや前の父さんの親族の計らいもあって葬儀に出させてもらった時、じーちゃんとばーちゃんの家を取り壊して土地を売る事にしたって聞いたんだ。
ばーちゃんは足腰が悪くて一人じゃ暮らせなかったし、税金のなんやらの問題とかもあって、皆で話し合った結果らしい。
当然、俺に異を唱える権利はない。
そりゃ悲しいと思ったけど、仕方ない話だ。
ただ、あの家にはたくさんの思い出がある訳だから、どうしても名残惜しくなってしまって、俺はダメ元でこう頼み込んだんだ。
「――取り壊されるまでの間、じーちゃんの家にいてもいいですか」
***
で、今に至る。
現在、六月初旬。
取り壊しが決まったって言ってもそんなすぐに話を進めるつもりって訳でもないらしく、前の父さん側の親族の方々のご厚意で、夏休みが空ける頃までは好きに使って良いという許可を得た。
多分じーちゃんが俺の事を沢山話してくれてたのもあるんだと思う。
じーちゃんもきっと喜ぶだろうからって、快く家を貸してくれた。
ばーちゃんは親戚の家に移り住んでしまっているので、だだっ広い一軒家を一人貸し切り状態。
電気や水道は通っていて、Wi-Fiもある。
一時的にじーちゃんの家に住まわせて貰う事になった為、一年の前期はリモート受講できる科目に絞っているから学業も問題ない。
まあその分、二年が忙しくはなると思うけど、まあそれもどうにかなるだろうと楽観視している。
そんなこんなで、中々に快適な生活をさせてもらっている。
ただ、強いて言うのなら……
「……食い物がねぇ~……」
今日の分の講義を全て受け終えた俺は、空っぽの冷蔵庫を眺めながら呟いた。
バイト代の貯金があるので、食費に困る事はないのだが、そもそも店がない。
なんせここはド田舎だ。料理の配達サービスは勿論コンビニや自動販売機なんかもない。
何なら最寄り駅は無人駅である。
で、飯を買いに行こうとすると一時間に一本あったら奇跡の電車に乗って数十分は先の駅まで移動しなきゃなんない。
周辺に住んでる方々は一体どうやって暮らしてるんだ。
ああ、車か……。
あと通販とか、スーパーの配達とかもあったのかもしれない。
残念ながら勝手が良くわかってなかったけど。
自分の足で買いに行くのが当然だったし、手数料って結構痛いし、仕方ない。
まあこの家に住むと言い出したのは自分。
当然、感謝はあれど後悔はしていない。
文句垂れている暇があればさっさと動いて、出来るだけ長持ちする飯を買い溜めて引き籠ろう。
そう決意した俺はスマホと財布を持ってすぐに家を出た。
家を出て二十分。
最寄り駅まで後五分程度の地点まで辿り着いた時。
とんでもない土砂降りに見舞われた。
「お~~~い……マジかよ」
引き返すにも進むにも微妙な場所。
というかもう今更傘を取りに戻っても手遅れなくらい、あっという間に俺は全身ずぶ濡れになっていた。
(一回帰るのもだりー……。もういいか。帰ったらさっさと風呂入れば)
俺は開き直って最寄り駅まで急いだ。
この駅は無人だが、滅茶苦茶古い待合室がある。
俺が子供の頃から新しくされた痕跡もなく、年々と古びている木造の空間。
それでも電車が来るまでの時間を休むくらいならできる。
俺はその待合室の引き戸を勢いよく開けて中へ飛び込む。
「やべ~~っ、ついてねぇ。パンツまでグショグショじゃ……」
ここはド田舎無人駅。
大雨の中歩く人の姿も見当たらなかった。
だから気が緩んで、滅茶苦茶大きな恨み言を吐いたんだけど……
「……ん」
――いた。
待合室の隅に座る青年が一人。
学ランを着た彼はその背丈が俺よりもあるので、まあ間違いなく中学生ではなく高校生だろう。
……ってか、俺も百七十はあるんだけど。でかくないか、最近の高校生。
まあそんな事はさておき。
見知らぬ青年を前に盛大にパンツがぐしょ濡れだという報告をしてしまった俺と彼の間には、何とも微妙な空気が流れた。
「あー……サーセン」
「……いえ」
あまりにも居た堪れない。
俺がちょっとやそっとの事ではめげない心臓を持っていなければ、気まずさで帰宅を果たしていたかもしれない。
まあ、待合室は皆の場所なので、堂々と休ませてもらった訳だけど。
電車を待ちながらのんびりとする事数分。
ふと、学ランの青年が気になって視線を移せば、彼は空いている椅子に教材を広げて、器用に勉強をしていた。
(勤勉だなぁ。受験生とかか?)
この辺りに学校はなかったはずなので、恐らくは家の最寄りがこの駅なのだろう。
俺のように雨に打たれた様子がないのも、電車を降りてすぐに待合室へ駆け込んだのだとすれば頷ける。
まあこの雨だ。
傘がない中歩けば教科書も無事では済まないし雨宿りをしつつ勉強で暇を潰すというのはとても効率が良い選択だろう。
俺だって受験期はスマホの単語帳アプリやらを駆使して勉強詰めになっていた。
そんな風に学ランの青年と一年前の自分を思い返していると、電車がやって来る。
俺は席を立つと、勉強に集中している青年に軽く頭を下げた。
「お邪魔しましたぁ」
「……いえ」
ここは彼の家でも何でもないのだが、何も言わずに去るのも何だか気まずかったので、一言残す。
すると不愛想ながら短い返事が返された。
案外律儀な青年のようである。
さて。
都会ではありえない移動時間を経て、スーパーで買い物を終えた俺はじーちゃん家の最寄りまで戻って来ていた。
雨は止んで、日も暮れた。
一時間程度掛けて最寄りまで戻った俺は、荷物が重かったのもあり、少しだけ休んでから帰宅しようと考えた。
「てか、靴の中気持ち悪いなぁ。絶対ウンコみたいな臭いす」
さて。
学習せずまたもや特大独り言を呟きながら待合室の扉を開けると。
「る……」
――いた。
待合室の隅に座る青年が一人。
先程の学生だ。
俺のパンツの状況に加え、あろう事か足がウンコみたいな臭いになっている事までバレてしまった。
いや、というかそもそも。
「何でまだいるんだよ!?」
聞きたくもない情報を聞かされた相手も何だか気まずそうである。
驚きながら漏れた疑問を受け、青年は俺から視線を外しながら呟いた。
「別に……」
何だか言葉を濁された。
雨がやんでから数十分は経っているはず。
勉強ならば帰宅してからの方が整った環境で出来るだろうに、何故だか彼は帰ろうとしなかった。
「……ふぅん」
背中を丸めて、待合室の隅で勉強を続ける青年。
勝手ながら、俺はその姿に一年前の自分の面影を重ねてしまった。
俺は大荷物を置いてから空いている椅子に腰を下ろすと、スマホを触り出す。
十五分も居座っていれば当然、家に変える気力や体力も回復していたのだが、俺はそのままスマホで時間を潰した。
そして三十分が経過した頃。
「……何で帰らないんですか」
時折気にするようにこちらをちらちらと見ていた青年が痺れを切らしたようにそう声を投げかけた。
だから俺はこう答える。
「……別にぃ?」
先程彼が返したそっけない返事だ。
三十分前、自分が発した言葉に対して文句を言える訳もなく、青年は不服そうに眉根を寄せて口籠りながらも、渋々といった様子で再び教材と向き直った。
それから更に十五分が経つ。
青年がノートに走らせていたシャーペンの動きが止まった。
俺はスマホでSNSを見ているふりをしながらその様子を盗み見た。
五分。
十分。
……結構な間、青年は難しい顔をして教材の同じページと睨めっこしている。
恐らくどこかで行き詰っているんだろう。
「苦戦中?」
暫くそれを観察していた俺は、やがて思い切って青年の隣の椅子に移動した。
一応一年前まで受験生だった身だ。多少なら役に立てるかもしれないと思った。
突然距離を詰められた青年は驚いて肩を跳ね上げる。
そんな彼の反応をスルーして、俺は彼のノートと教材を覗き込んだ。
「えーっと、大問五のカッコ三……? ってか、字ぃうめーなぁ」
ノートには非常に整った美しい字体の文字が並んでいた。
そしてラッキーな事に、彼が行き詰ってたのは数学だ。
これで相手が文系選択だったりしたら詰んでいたが、理系ならある程度頭に入っている。
「あー、これね。俺も最初詰まったわ」
青年が行き詰っていたのは応用問題の一つだった。
ただ、応用とはいえよく見るタイプの型ではあるし、入試でも似たような問題は必ずどこかで見かける程度には頻出のもの。
ここを押さえないまま受験へ挑むのは中々にリスキーだが、逆に完璧に理解できれば心強い武器になる。そんな分野だ。
「えっ」
「ん?」
「……分かるんですか」
「おー。俺、理大」
俺が自分を指差して笑えば、相手は怪訝そうな顔になる。
「……金髪ピアスなのに」
「おい、そりゃ関係ねーだろ」
ツッコミを入れたものの、まあ彼が言いたい事も理解はできる。
まあ服装やら耳にバチバチにあいたピアスやら、大学デビューで染めた髪やら研究したメンズメイクやら……よーするに、俺の容姿って結構チャラい。
一方の目の前の男子高生くんは学ランを襟まできちっと閉めて着こなしている、どこからどう見ても真面目な優等生タイプだ。
そういう人からすれば俺みたいなのは確かに異質かもしれない。
青年からすれば見た目は胡散臭いかもしれないけど、俺が勉強できるかどうかは行動で示せばいいだろう。
「教えてやろっか?」
俺の提案に、青年はバツが悪そうな顔になる。
先程金髪ピアスと侮った発言をしたが故に、素直に頼み辛くなってきているのだろう。
分かりやすく素直な反応を見せる青年に若さを感じてほっこりするなどした。
……いや、多分一歳くらいしか変わらないんだけどね。
ニヤニヤとしながら俺が青年の言葉を待つ事、一分程。
青年は非常に気まずそうな様子で、おずおずと声を掛けてきた。
「よければ、教えていただけませんか」
「おー、勿論」
俺はそれに笑顔に答え、彼の望み通りに行き詰った問題の解き方を教えてやるのだった。
***
「薫さんって」
すっかり勉強に熱が入ってしまった青年と待合室で過ごす事更に三十分。
何度か問題のヒントを与えつつ見守っていると、区切りがついたところで青年が俺を呼んだ。
「んー?」
「もしかして、結構頭良かったりしますか」
「あ、気付いた?」
意外そうな様子を隠そうともしない素直さがいっそ清々しくて、俺は声を上げて笑う。
またもや俺の容姿に物申したそうな顔をしている彼の名は朝木 静くん、高校三年生。
自己紹介をした時に柳澤さんって呼ばれてこそばゆくなったから、下の名前で呼んでもらう事にして、薫さんって呼んでくれている。
「薫さんって、この辺りの人じゃないですよね」
「そーね。期間限定でこっちにいるって感じ。試験やらなんやらで何度か東京と行き来する事はあるけど、九月半ばには完全に向こうに戻るかな」
「東京の人なんですか……!?」
「そーだよ。東京生まれ、東京育ち」
「都会人だ……」
静くんの目がキラキラしているように見えるのは、多分気のせいではないのだろう。
東京に憧れがあるのかもしれない、と思った。
「静くんって、もしかして東京の大学志望だったりする?」
「あ、はい。一応」
「お、マジかぁ。じゃあ受かったら一人暮らし?」
「そうなったらいいなと思って」
「いーじゃんいーじゃん。応援してるよ」
「ありがとうございます」
会話が途切れた所で、静くんは教材を鞄にしまい始める。
彼が荷物を全て入れ、席を立ったところで俺は問い掛けた。
「帰りたくなった?」
その問いに、静くんはゆっくりと目を見開く。
それから困ったように視線を落とした。
「……やっぱり、頭いいですよね」
こればっかしは頭脳云々の話ではないんだけどなぁ、なんて、俺は内心で呟くのだった。
***
翌日、翌々日、その次の日……。
あれ以降、俺は静くんの事がなんとなく気掛かりで、毎日待合室を除くようになった……のだが。
(……いるんだよなぁ)
夕方頃、俺が待合室の扉を開けると、さも当然のように勉強をしている静くんがいる。
入って突き当り、右隅の座席はすっかり彼の特等席だ。
学校にはきちんと通っているのだろう。
昼間に覗いた時は流石に居なかったのでその点については幾分か安心したが……。
とはいえ、たとえ図体がでかい高校三年生とはいえ日が暮れた後もずっと駅にいるのは如何なものか。
そう本人に零してみれば『もう成人したので』と返された。
確かにこの辺りの条例で夜出歩く時間帯が制限されるのは十八歳未満だが、十八になった高校生はどちらとして判断するのが正しいのか、線引きが難しい所だ。
まあそもそもこの辺りに詳しくない俺があまりそういった話をするのもどうかと思うので、彼がなかなか帰りたがらない事については口煩く指摘する事はしないけど。
(それに……事情がどうあれ、帰りたくない気持ちってのも分かるしなぁ)
両親の再婚後、肩身の狭さを覚えて出来るだけ外で時間を潰していた事を俺は思い出す。
帰りたくないという静くんの気持ちを尊重したい一方で、毎日待合室で時間を潰している学生の存在を知ってしまった以上、見て見ぬふりをするのも俺の良心が傷つく。
そんなこんなであっという間に二週間。夕方に待合室で静くんと落ち合うのが俺の日課になっていた。
出会った頃はまだ学ランだった静くんの制服は夏服へと変わり、エアコンのない待合室は日に日に蒸し暑くなりつつあった。
「こんにちは」
「おー。今日も熱心だなぁ」
当然のように静くんの隣に座り、膝の上に器用に広げるノートを見る。
「わかんないとこあった?」
「はい。数問」
俺の問いに答えると、静くんは飛ばしていた問題を示す。
俺がやって来ると知っているからこそ、そして俺がそこそこ勉強ができる人間だと思ってくれているからこそ、最近は分からない問題は俺に聞く為に残しているようだった。
信頼されたり、求められたりされるっていうのは、悪い気がしない……というか、ショージキ嬉しい。
俺は静くんが示した問題を一緒に解いていく。
時々小休止を挟んで他愛もない世間話をしつつ、静くんの勉強を進めつつ……。
そうこうしていると、あっという間に時間は過ぎていくのだった。
***
それから更に時間が過ぎて、七月中旬。
考査の為に一度東京へ戻った俺は全ての試験を済ませてまたじーちゃんの家まで舞い戻った。
昼過ぎに最寄りにつき、じーちゃん家で一息吐く。
で、夕方に差し掛かった頃愛を見計らってエアコンのきいた家から外に出た俺は思わずつぶやく。
「……あっちぃ~」
一応時間的には夕方といっても差し支えない時間帯だというのに、空はまだ全然明るいし、外もとんでもなく暑い。
東京へ二週間ほど戻っている間に、日本のどこもかしこも随分と気温が上がったらしいので、この地域もその例に漏れず……という事なのだろう。
「……うーん」
俺は最寄り駅へ続く道を歩きながら複雑な気持ちを抱えていた。
静くんは俺に懐いて来てくれているし、正直二週間ぶりに会いたい気持ちもある。
しかしこの暑さの中、対して換気も出来ないあのオンボロ待合室に閉じこもって勉強している高校生の姿を想像すると……心配が勝る。
居て欲しいような、欲しくないような。
そんな思いを抱えたまま最寄り駅へ辿り着いた俺は待合室の戸を開ける。
「ああ、うん」
――いた。
「薫さん」
「おー、ちょっとぶり」
「はい」
まあ、そうだよねとも思う。
何となくいるだろうなとは思っていましたとも、うん。
さも当然のようにいつもの特等席で勉強をしている静くんの隣に俺は腰を下ろす。
俺が試験で暫く空ける事、今日戻って来ることは静くんに話していたので、彼も大して驚いてはいなさそうだ。
俺は以前のように平然と勉強を再開する彼を見守る。
しかし十分が経った頃。待合室のあまりの蒸し暑さに耐えられなくなる。
「あっちぃ~!」
「暑くなりましたよね」
「暑くなりましたよねって」
淡々と言葉を返し、澄ました様子の静くんにお前は平気なのかと問いたくなる。
そこでふと気付いた。
俺が来る前から勉強をしていた静くんは結構汗だくだ。
それでも真剣な様子で教材に齧りついている。
(いや、熱中症……)
仮に今日問題ないとしても、これから先もっと暑くなる中で彼は同じように勉強を続けるつもりなのだろう。
何なら、高校が夏休みに入ったら彼が余計にここに入り浸る可能性だってある。
それは流石に心配だ。
……というか俺も流石に付き合えそうにない。
暑いのは好きじゃない。耐えられない。
学校も家もエアコンのついた空間で甘やかされて育った都会の学生を舐めんな。
「一応聞くけど、静くんさぁ……帰るつもりとか、勉強の場所変えるつもりとかない?」
「ないですよ」
「ですよねぇ」
彼にとって帰宅という選択肢は論外なのだろう。
で、自習に向いているような施設はこの辺にはない、と……。
俺は少し考える。
静くんの気持ちはなるべく尊重してあげたい。ただ、熱中症は流石に心配だ。あと俺も熱いのは嫌だ。
そんな問題を全て解決する方法が、一つだけあるが……。
「うーん」
俺はじーちゃんの顔を思い浮かべる。
で、頭の中のじーちゃんがサムズアップしたのを確認してから立ち上がった。
「よし」
俺が突然そんな声を上げたから、不思議に思った静くんが顔を上げる。
そんな彼に、俺は二ッと笑って見せた。
「移動しよっか」
***
お察しの通り、俺は静くんをじーちゃんの家に招いた。
じーちゃんがもし生きてても、事情を説明すれば頷いてくれただろうと思うし、他の親族の人に怒られたら、その時謝ろうと思った。
「いいんですか、お邪魔しちゃって」
居間のちゃぶ台に買い溜めておいたコーラや個別包装の菓子を置いて、空いたスペースに静くんの教材を広げる。
あれよあれよという間に人の家へ上がる事となった静くんはどこか落ち着かない様子だ。
「いーのいーの」
「お家の人とか」
「平気。俺以外いないからさ」
「え」
この言い方はあらぬ誤解を生むか。
そう思った俺はすぐに補足する。
「ここ、元々じーちゃんとばーちゃん家だったんだけど、結構最近にじーちゃん死んじゃってさ。ばーちゃんは介護の為に離れてるって感じ」
二つのグラスにコーラを注ぐ。
「取り壊しが決まってるんだけど、その前にちょっと思い出に浸りたくなってさ。そんで実際に取り壊しの元々が進むまで、ちょっとの間住まわせてもらってんの」
「……そう、だったんですね」
「あ、気にすんなよ。じーちゃんも数年前から体悪くしてたみたいだし、歳だったからしゃーない。もしかしたらそういう日が来るかもってのはばーちゃん伝手に聞いてたから心の準備も出来ててさぁ。だからそんな引きずってないんだよ……ほら」
「ありがとうございます。いただきます」
コーラを並々に注いだグラスを俺は静くんに差し出す。
静くんは律儀に礼を言ってからグラスを受け取る。
俺らはコーラを一緒に一気に飲み干してから、二杯目を注いで、それから静くんの勉強を再開した。
何度か帰らなくても大丈夫か、とは聞いたけど「ご迷惑でなければ、もう少し」という静くんの希望を聞き入れて、勉強会は夜まで続いた。
「すみません、長居してしまって」
「いーえいーえ。送ってこうか?」
「いや、大丈夫です。家も、駅よりこっちの方が近いので、そんなに時間かからずに着きますし」
「そっか。……あ、ってか静くん、スマホある?」
「ありますよ」
「オンスタ交換しよ」
「オンスタ……はすみません、やってなくて」
俺は写真の投稿などに力を入れているSNSの名前を上げるが、静くんが首を横に振る。
「おっと。じゃあMINEは?」
「あ、それなら」
メッセージのやり取りに特化したSNSの名前を上げると頷きが返って来た。
俺はさっさとスマホを出すが、静くんは鞄の奥底にしまっていたようで、スマホを出すのに手間取っていた。
おまけに、出てきたスマホは電源が入っていない。
……というか俺は今日初めて静くんのスマホを見た。
「普段スマホは使わないの?」
「ああ、外ではまあ……少し待ってくださいね」
静くんはスマホの起動を待ってからパスワードを入力する。
その時だった。
スマホの通知が大量に画面上部に現れる。
全てMINEのメッセージの通知。差出人は全て『母』となっている。
(う、わ……)
家に帰りたがらない高校生、電源を入れないスマホ、止まらない通知。
それだけで彼の事情をざっくり察せられてしまう程、届く通知の量は異常だった。
「すみません、煩くて」
「あー、いや。大丈夫だよ」
静くんはなり続ける通知を無視して、俺のMINEアカウントを登録した。
互いに連絡が取れるようになったのを確認してから、静くんは再びスマホの電源を切ってしまった。
「家では確認するので、気にせず連絡してください」
「ああ、うん。受験生の邪魔にならない程度にね」
彼の家庭環境とか通知の事とか、気にならない訳ではなかったけど、こういうのは深入りするものじゃない。
こういうセンシティブな話題は、当事者が一番避けたがるものだと俺は知っていた。
だから普段通りを努める。
こういうのは元々得意なのもあって、我ながら上手く平静を装っていたと思う。
「ああ、それと。明日から最寄りじゃなくてこっちで勉強しよーよ」
「え?」
「あそこは暑くて俺が無理!」
「でも」
「言ったでしょ? ここ、今俺だけだから」
玄関まで静くんを見送る最中、俺は勉強会の開催場所の変更を提案する。
静くんは遠慮を見せたが、俺が更に気にしなくていいと告げると、おずおずと頷いた。
「分かりました。……じゃあ、明日もまた、お邪魔します」
「ん。直でチャイム鳴らしてくれても良いし、MINEしてくれてもいーから」
「はい」
さて、今日はこれにて解散……となるかと思ったのだが。
玄関の引き戸に手を掛けた静くんは中々外に出ようとはしなかった。
何か考えを巡らせるように視線を彷徨わせていた彼はやがて、俺を見て困ったように笑う。
「何も言わないんですね」
「ん?」
「さっきの通知の事とか、道草食ってるのとか」
「聞いて欲しい訳じゃないでしょ?」
「……そうですね」
俺の返答に、静くんが更に笑みを深める。
先程の苦笑ではなく、どこか安堵したような、甘えるような微笑だった。
「基本的に話したいとは思わないです。薫さんに対しても、少し前まではそうでした。でも」
静くんは少し言い淀んでから、引き戸から手を離した。
「今は薫さんには、聞いて欲しいです」
静くんの言葉は俺にとって意外なものだった。
けれど同時に、少しだけ嬉しいと思う。
これは、彼がそれだけ俺に心を開いてくれたという事だろうから。
「お菓子、もう一袋開けるかぁ」
俺は笑みを深めて頷くと、静くんに土間の近くに腰を下ろすよう促すのだった。
静くんの家は父が単身赴任で、家での生活は母と二人きりなのだとか。
そしてこのお母さんが過干渉である事、また支配欲の強い人である事が精神的な負担になっていると静くんは話した。
「自分が育てた息子には自慢できる程優秀であって欲しい。けど自分の方が上の立場ではありたい……そういう母なんです」
高校入試で進学校――お母さんの母校より上の偏差値の学校に合格してから、静くんのお母さんの態度は豹変したという。
部活に入る事を執拗に勧めながら、静くんがバスケットボール部に所属してからは部活ではなく勉学にしっかり励むよう繰り返し忠告をする。
あくまで静くん側の話しか聞けていない立場ではあるけれど、話を聞いた範疇ではどうにも静くんのお母さんの言動が『わざと足を引っ張った上で助けるふりをしている』ように感じてしまうものだった。
そしてきっと、静くん本人もそう感じているのだろう。
結局静くんは二年生の冬で部活を辞めてしまったらしい。
そして同時に、よりお母さんからの干渉が激しくなった。
「初めはそんなに根を詰めなくても良いと言ったり、どこかに一緒に遊びに行こうなんて誘ってきたりしました。けど、俺がそれを全部突っぱねて勉強に集中する姿を見て、成績が伸び続けているのに気付いて、それなりの結果を出してしまうと思ったんでしょうね。突然、生活習慣や勉強のスケジュールを細かに指示するようになりました」
「あー……」
話を聞いている感じ、多分静くんの功績を『自分の教育のお陰』にしたいんだろう……少なくとも静くんはそう捉えているのだろう口ぶりだった。
「散々引っ掻き回した挙句、俺の努力もなかった事にされるのかなって思ったら、なんか凄く母を軽蔑するようになってしまって。もっと上手く、素直に従っているフリをしたり母の機嫌を取ったりして対立しない方法を選ぶべきなのかもしれないんですけど……そうはしたくないと思ってしまうんです」
「反抗期ですかね」と静くんは苦笑した。
笑みを浮かべてはいるけれど、当然心からの笑いではないだろうし、こうして冗談っぽい空気を出すのは、自衛の為であると……俺は良く知っている。
自分が本気で悩んでいる事程、誰かから否定されたくない。
それは当然の考えだ。
「なーに言ってんの」
だから俺はそんな彼を鼻で笑ってやる。
俺に対してそんな風に身構える必要はないんだって、思い知らせてやろうと思った。
「そんだけマジって事じゃん? 死ぬ気で頑張ってるしんどさも、その結果掴めるものも自分だけのものって考え、別に当たり前だと思うけどなぁ」
家族を味方と思えない彼が今求めているのは、本心を明かしてもそれを受け入れてくれる味方だろう。
それに俺のこの発言は静くんの機嫌を取る為だけの言葉ではなく、本心からのものだった。
「だいじょーぶ。お前の母さんがお前の手柄を自分の手柄にしようとしてても、俺はちゃんと見てるし知ってるよ。お前がすげー努力家で、自分の力で未来を掴もうとしてるのをさ」
そう言って俺は静くんの頭を雑に、激しく撫でる。
「頑張り給え! 環境なんかに負けんな! んで、東京来たら一緒に遊ぼーぜ」
「……薫さん」
ぐしゃぐしゃになった前髪の下、静くんの顔が綻んだ。
なんとこの男、背がでかいだけじゃなくて顔が整っている。
塩顔のイケメンって感じ。
そんな顔が甘さましましの笑顔を見せるものだから、思わずドキッとしてしまった。
これでバスケしてたという事は、きっと静くんと同じ学校の女子の多くが彼の虜になってしまった事だろう。南無三。
「何となく、薫さんならそう言ってくれるかなって思ったんです」
「おー、そっかそっか。あ、別に気休めとか適当な慰めとか、そういうのではないからな?」
「分かってますよ」
何故か頭をぐしゃぐしゃにされても嫌がらない静くんは、俺を拒絶するどころか、寧ろ凭れ掛かって来た。
「……ありがとうございます、薫さん」
分かりやすく甘えられるのが擽ったくも嬉しくて、俺は暫く静くんに肩を貸してやる事にした。
***
静くんの高校も夏休みがやって来た。
というか、実際には俺の大学の休暇と数日差だったので、再会後すぐに夏休みに入ったらしい。
俺と静くんは朝から晩までじーちゃん家で一緒に過ごした。
飯を一緒に作ったり、休憩に動画を見たり、ちょっとだけ昼寝をしたり。
あと数駅先で祭りがやっている時は一緒に覗きに行ったりした。
もしかして俺達幼馴染だった? ってくらいのマブ具合。俺もびっくり。
静くんが心を開いてくれると意外と甘えんぼで距離感が近くなるタイプだったのと、俺がパーソナルスペース激狭名のもあったんだと思う。
そういう意味では多分すっごい相性が良かったんだろう。
そんなこんなであっという間に八月も下旬に差し掛かった。
静くんが俺に質問する回数ももう殆どなくなった。
静くんの学校は既に高校で習わないといけない範囲自体は終わっていて、二学期からは復習と入試対策に切り替わるらしいから、現時点で自力で理解できない問題が殆どなくなっているのは非常に優秀な証拠と言えるだろう。
というか、俺より頭良いかもしれない。何だかちょっと悔しいような、誇らしいような。
そして今日も、勉強に黙々と取り組む静くんを見守って夜を迎える。
「今日もお邪魔しました」
「いいえー」
荷物をまとめた静くんが玄関へ向かい、俺はそれについていく。
静くんは俺とMINEを交換して少しした後、お母さんと話をしたらしい。
半ば言い合いのようにもなったけれど、最終的には一度、静くんの思う形で勉強に努める方向で言質を取ったとか。
『成績が少しでも落ちたら言う事を聞く。自力で成績を維持できている間は放っておいて欲しい』と静くんは言い放ったらしい。
成績が下がっていない以上、静くんの選択や勉強方法が正しい事は証明されてる。
そこにとやかく口を挟む事は出来ないだろう、と……それを明確に指摘し、お母さんが頷かざるを得ない方向に話を運んだらしい。
上手いやり方だと思う反面、少しでも成績が下がればまた以前の状態に戻ってしまうのではと危惧していたのだが、当人はまったく気にした様子もなく、『多少ヒリついてた方が寧ろモチベーションになるかもしれないですよ」などと宣っていた。
まあ実際、短い付き合いの中でも静くんの学力はめきめき成長しているし、本人が深刻に捉えていない以上、俺が気にし過ぎるような事でもないのだろう。
「じゃあ、明日もよろしくお願いします」
「ああ、うん」
靴を履いた静くんが礼儀正しい挨拶をする。
その姿を見て、ふと胸が妙にざわつくような感覚を覚えた。
それに意識が傾いたからか、もしかしたらぼんやりしているように見えたのかもしれない。
静くんが不思議そうに首を傾げた。
「薫さん?」
「ああ、ごめん。何でもないよ。じゃーまた、明日」
「はい」
俺が反応を示すと、静くんは引き戸を開けて外へ出ていく。
そんな彼へ手を振って見送った俺は、戸を閉めて家の中へと戻る。
「……あれ」
靴を脱いで、家に上がる。
床が軋む音がやけに煩く響いて、先程感じた胸騒ぎがより大きくなるのを感じた。
(この家――こんなに静かだったっけ)
***
八月三十一日。
静くんの高校生活最後の夏休み、その最終日。
あと俺がじーちゃん家を発つ二週間前。
「今日、勉強サボりたいんですけど」
そう言ったのは家に来て居間に寝転がった静くん。
すっかり第二の家のような寛ぎ具合だ。
「なーに言ってんの」
「最後の夏休みですよ。一日くらいだらだらしても許されませんか」
静くんは賢い。多分俺よりも全然。
おまけに家庭の事情諸々でケツに火がついてる。
そんな彼が休んでも平気と判断したのなら、まあ本当に平気なのだろう。
「薫さんと一日居られるの、今日だけじゃないですか」
「仕方ないなぁ」
おまけにこんな風に甘えられたら頷かざるを得ない。
すっかり静くんを甘やかす様になってしまった己を恥じながらも俺は即答するのだった。
サボるとは言ったものの、静くんは特にやりたい事がある訳でもないらしく。
俺達は買い溜めていたアイスを食いながら、スマホで漫画を読んだり動画を見たり、とにかくゴロゴロしてだらしなく過ごした。
「花火したくないですか」
静くんが唐突にそんな事を言いだしたのは日暮れ時。
「したい」
フットワークが軽い俺はすぐさま返事をして体を起こした。
花火を買う為に長距離を移動しないといけないのは面倒だが、じーちゃんの家には立派な庭がある。
子供の頃、よく花火をした記憶もある。
思い立ったが吉日。
俺達はすぐに家を飛び出して電車に乗り、花火とライターを買ってじーちゃん家へ戻った。
因みに花火は大容量。絶対そんなに使わない。調子に乗り過ぎた。
「靴持って、先縁側行ってて」
「はーい」
俺は買ったものを静くんに任せて、バケツを取りに行く。
静くんと離れると、急に辺りが静かになった。
静くんは決して口数が多い方じゃないけど、それでも人の気配の有無って、結構大きいみたいだ。
誰もいない居間の横を通り過ぎる。
――薫、薫。
居間を横切った先、台所近くにある物置へ向かおうとした俺の足が止まる。
――こっちに来なさい。一緒にスイカを食べよう。
懐かしい声がしたような気がして居間を見る。
当然、そこには誰もいない。
けど、視線を移した直後、確かに誰かに手招きされたような気がした。
――こら、もうすぐ夕飯の時間でしょう。適当な事言わないの。
台所からばーちゃんの声が聞こえる。
……いや、正確にはそんなやり取りがあった時のこと思い出した。
「懐かしー」
俺は呟いて、足を進める。
二階へ続く階段を通り過ぎる。
――こら薫、階段で跳ねるなとあれ程言っただろ。全く
台所を通る。
――薫、あーん。ふふ、つまみ食いの事、じいじには内緒だよ。
物置に辿り着く。
埃を被ったバケツを手に取る。
――薫、花火を持って先に行ってなさい。
埃を払って、キッチンで軽く濯いでから水を汲む。
水が出る音がやけに大きかった。
「あと二週間、かぁ……」
それを過ぎたら二度とこの家に来ることはない。
そんな終わりの時を、唐突に実感した。
「ま、しゃーないわな……どっこいしょ」
一人で呟いて、水が溜まったバケツを持って縁側へ行く。
縁側には家族用の花火を大きな袋から出している静くんの姿があった。
「お待たせぇ」
「ありがとうございます。すみません、力仕事を」
「いーって事よ。……あっ、てか俺の靴持ってき忘れた」
「あ、そうだ。俺が持って来るべきでしたね。すみません」
「大丈夫、大丈夫。ちょっととって来るから、先遊んでな」
「両手に三本持ちしてていいですか」
「ぶはっ! わんぱく過ぎんだろぉ! まー、いいよ。あ、でも縁側に火だけはつけるなよ」
「きちんと離れてやります」
普段涼しい顔をしている真面目な印象の静くんが思いの外はっちゃけた提案をするものだから、俺は思わず吹き出して笑ってしまう。
まあ贅沢に遊んでも余りそうなくらいの数である為、日頃頑張っている受験生くんには沢山遊んでもらおう。
バケツを庭の真ん中へ運んでいく静くんの後ろ姿を見送ってから、俺は足早に玄関へと向かう。
そして残されていた自分の靴を拾い上げると、再び同じ廊下を戻り、縁側へ辿り着く。
その時だった。
バチバチという激しい音を立てながら閃光が上がる。
庭の真ん中では有言実行の男、静くんが片手に三本ずつ、火のついた花火を持って振り回していた。
「……あっ、薫さん! 思ったよりやばいです!」
一本一本が想像以上の激しさだったのか、花火の音に負けまいと張り上げた声が飛んでくる。
けれどやばいと言いながらも静くんは楽しそうな笑みを浮かべていた。
「もー、最初くらい一本ずつ様子見ればよかったのに……」
俺もつられてけたけたと笑う。
しかし激しい閃光を遠目に見ていると、不意に昔の事が過ってしまい、言葉は途中で途切れた。
花火なんてこの家にいる時じゃないと出来なかった俺は、大はしゃぎで閃光を放つ花火を振り回した。
じーちゃんは茶目っ気がある人だったから俺と一緒になって豪快に笑って、何なら同じように花火を振り回してくれた。
縁側ではばーちゃんがそれを微笑ましそうに見ていて、「くれぐれも怪我には気を付けるんだよ」なんて言って。
(それで……それで)
当時の思い出が突然、次々と思い出される。
楽しかった、俺の大切な思い出。
けれど二度と手に入る事はない時間。
(何で急に、こんなに悲しいと思うんだろう)
目頭が急に熱くなって困った。
初めは静くんの持つ花火が眩しいせいか、煙のせいだと思った。
でも、どうしようもなく胸が締め付けられて苦しくなって、それで漸く、今俺はどうしてだか凄い悲しいんだと理解した。
(じーちゃんが死んだのはもう何ヶ月も前だし、覚悟も出来てたのに。この家にいられる期間も前々から決まってて、分かってたのに)
「…………薫、さん……?」
無邪気に笑っていた静くんが、俺の顔を見て目を見開いた。
多分、何かに気付いたんだと思う。
頑張って口角は持ち上げているんだけど、上手く笑えてないのかも。
(悲しんでたってしゃーないって。悲しいのはばーちゃんや親戚の人もみんな一緒だし、取り壊しの事だってお金や管理がどうにもならないからって話だし、ばーちゃんも納得してるんだし。じーちゃんもばーちゃんも、俺よりずっと生きてるんだから、俺より先にいなくなるのなんて当然で、やっぱりそれだってしゃーないじゃん)
多分、俺自身が気付かなかっただけで、この寂しさとか悲しみはじーちゃんが死んでからずっとあったものなのかもしれない……何となく、そう思った。
でもこの苦しみって、誰のせいでもない。
全部仕方のない事だ。誰が悪い訳でもない。
そんな事に嫌だとか悲しいとか感情的になっても、何も変わらない。
(仕方ないって、分かってるのに。分かってるのにどうして――涙が、溢れて来るんだ)
耐え切れなくなった涙が堰を切ったように溢れ出す。
年下の男の子に気を遣わせたらいけないと思って、俺は慌てて顔を背けようとする。
けどその頃には持っていた花火をバケツに放り込んだ静くんが距離を詰めていて、顔を隠そうとした俺の手を掴んでいた。
「薫さん」
「やー、ごめん、ごめん。何か急に」
気まず過ぎて、顔を背けたまま普段通りの声音でそう言うけど、静くんは誤魔化されてはくれない。
「薫さん、こっち見て」
濡れた俺の頬に、静くんが空いている手で触れる。
それを振り解く事は出来なくて、俺は観念して涙に濡れた顔を静くんに向けた。
「笑わないで、薫さん」
せめてもの抗いで持ち上げていた口角すら封じられてしまって、顔の緊張がゆるんだと同時に、大きな悲しみが押し寄せた。
震える唇から嗚咽が溢れて止まらない。
年甲斐もなく、子供のように泣きじゃくる事しか出来ない。
そんな俺を労わるように、慰めるように、静くんは俺を優しく抱きしめてくれていた。
何も言わず、俺が落ち着くまでの間、ただ背中を撫で続けてくれたのだった。
***
「…………ごめん、急に」
「いえ」
一頻り泣いて落ち着いた後。
俺は静くんが気を遣って居間から持って来てくれたティッシュで鼻をかみながら取り乱した事を謝罪する。
俺達は並んで縁側に腰を掛けていた。
迷惑を掛けるだけ掛けておいて、何もなかった事に……は、流石に出来ないだろう。
俺は深呼吸を一つしてから口を開いた。
「俺もさぁ、家族とあんまり折り合いよくないんだよねぇ」
母親がバツイチの事や、今の家を居場所と感じられない事、そんな中で自分を温かく迎え入れてくれるじーちゃんとばーちゃんの家だけが唯一の自分の居場所だと感じていた事。
そういうのを一通り、ざっくりと。静くんに明かした。
「俺もあんま自覚はなかったんだけど、多分すげー寂しくて不安だったんだろうなぁって。で、もうあんな風に自分を受け入れてくれる人も場所もいないっていう事実をなんか突然実感しちゃって、パニック~みたいな感じで」
唯一の心の拠り所が、多分この家だったんだと思う。
それを失って、突然孤独になったような気がして、せめて楽しかった時の思い出を少しでも長く覚えておきたいと思って。
多分そういう気持ちが無意識に俺を突き動かして、この家まで連れて来たんだと、この時になって漸く理解した。
静くんは俺の自分語りを真剣な面持ちで、静かに聞いてくれている。
「でもさぁ、これって誰が悪いとかじゃないじゃん。しゃーない事であってさ。そんな事に嫌だって駄々捏ねても、周りを困らせるだけ――」
「何で駄目なんですか」
「え?」
不意に、静くんが口を開く。
「しょうがない事だったら、嫌だって言ったら駄目なんですか?」
「駄目っていうか、言ってても変わらないっていうか」
「変わらないなら言っていいでしょ。というか、少なくとも俺は困りませんよ」
静くんが俺の肩に手を回す。
そのまま、俺は彼に寄り掛かるような姿勢になる。
「しょうがないってのと、悲しいってのは別でしょ」
静くんは優しく諭すような声音でそう言った。
「しょうがなくても、どうしようもなくても、それを悲しいって思う事の何が駄目なんですか」
大丈夫と落ち着かせるように、静くんが俺の頭を撫でる。
……俺のが年上なんだけどな。
何だか情けないと思うけれど、不思議と嫌な感じはしなくて、寧ろ静くんの手は温かくて心地良いとすら思った。
「お爺さんの事、それだけ大好きで、大切だったって事じゃないですか。そんなの、恥じる事じゃないし、声を大にしていい事でしょ」
仕方ない事だから、我儘を言ってはいけない。
そう思って封じ込めてきた想いを静くんが全て肯定してくれる。
それがとても嬉しくて、また涙が滲んで来た。
「それに……俺は薫さんが悲しい時に、悲しいって言って欲しいです。で、縋って欲しいし、頼って欲しい」
寄り掛かっていた俺の頭に静くんが甘えるようにすり寄る。
静くんと触れている感覚に身を委ねている内に、自然と涙が数粒、目尻から零れ落ちた。
けど、心は随分とスッキリしていた。
「俺が悩んでる時、薫さんは話を聞いて頼らせてくれたじゃないですか。……薫さんがそうしてくれたのが嬉しかったから、俺も薫さんにそうしてあげたいんです」
静くんの手が、床に添えていた俺の手に重ねられる。
不覚にも、少しドキッとしてしまった。
「だから俺には強がったりしないで、素直でいてくださいよ」
「……俺、一応年上なんだけどな」
「関係ないでしょ、歳なんて。俺、薫さんには甘えたいですし、甘えられもしたいです」
「欲張りだなぁ」
「欲張りですよ」
茶化すように笑うと、すぐ耳元で笑う気配があった。
それから。
「だって、好きですもん」
普段より低く響く声が鼓膜を揺らす。
驚いて静くんの顔を覗き込むと、彼は目を細めて微笑んでいた。
「薫さんの事」
その笑顔があまりにも甘すぎて……ただの友人に向けるそれではないとすぐに理解してしまう。
同時に俺の心臓は体から飛び出して逃げてしまうのではないかという程に暴れ出し、顔は内側から血液が沸騰しているのではと思う程に熱くなる。
「そ……」
「薫さんが頭いいのはもう知ってるんですよ。この期に及んで、友人としてなんて言わないですよね」
「ちょ、と待った待った……っ」
静くんの顔が迫り、慌てて俺は目を閉じる。
思わず身構えてしまったが、想定していた感触はやって来なかった。
代わりに、額に何か柔らかいものが触れる。
「へ……」
拍子抜けしつつ目を開くと、静くんが悪戯っぽい笑みを浮かべて俺を見ていた。
「どうしたんですか? 薫さん」
「な……な……っ」
うっかりキスされるかも、なんて思って身構えてしまった自分があまりにも恥ずかしい。
というか、それが満更でもなさそうな自分の気持ちにも整理がつかない。
なんだこれ、なんだこれ。
恥ずかしいやら混乱しっぱなしやらで目が回りそうになりながら、俺は精一杯の強がりをするのだった。
「何でもない……ッ!!」
***
大号泣したり、告白されたり、何だか色々あったけれど、それはそれ、これはこれ。
折角買った花火を余らせるなんて勿体ないので、俺達は気を取り直して全力で花火で遊び倒した。
花火を使い果たし、片付けも終えた頃には静くんの普段の帰宅時間をすっかり過ぎていた。
居間へ戻り、静くんは置いていた鞄を手に取る。
彼が返ればまた、独りぼっちだ。
それがどうしようもなく寂しく思えた。
そんな時だった。
「薫さん」
静くんが畳に腰を下ろしたまま俺に上目遣いを使ってくる。
どこでそんなものを覚えたんだ、あざといが過ぎるぞ。
「今日、泊っていってもいいですか?」
「え」
ショージキ、願ってもない申し出だった。
「けど、親御さんとか」
「勿論、連絡は入れますよ。友達との勉強会の延長でって言っておきます。始業式だって朝帰って支度を整えれば余裕で間に合いますし。……けど、そういうのじゃなくって」
静くんが俺の手を取る。
「薫さんの気持ちが聞きたいです」
「……っ」
俺は先程の静くんの『素直でいて』という言葉を思い出す。
既に一度、本心を打ち明け、受け止めてもらった相手だ。
そのせいもあってか、彼の言葉に甘えたいという気持ちが強く表れていた。
俺はおずおずと手を握り返して静くんを見る。
「……寂しいから、一緒にいてくれない?」
「ん゛っ」
鳩尾でも殴られたような呻き声が静くんから漏れた。
「勿論」
かと思えば浮ついた、非常に機嫌の良い声と共に力一杯抱きしめられ、俺は危うく窒息しかけるのだった。
その日の晩。
布団を二枚並べて横になった俺達は、暫くは寝ずに話し込んでいた。
「東京戻っても、連絡してくださいね」
「おー。勉強の支障になりそうだったら言えよなー」
「大丈夫です。絶対合格するんで、勉強は怠りません」
声のトーンを落とし、囁くような声でひそひそと言葉を交わす。
二つの布団の境界には、互いに繋いだ手が乗っている。
「俺が東京行ったら、迎えに来てくださいよ」
「てか、全然ここまで迎えに行くよ」
「何にもないし無駄足過ぎるじゃないですか」
「おーい、感動的な出会いの場を無駄足扱いすな」
「パンツやらウンコやら言ってた出会いの話ですか?」
「あれは忘れろ、マジで」
無邪気な笑い声が二つ、寝室に響き渡る。
後、二週間。
静くんが夏休み時期に比べて、きっとあっという間に過ぎてしまう。
そしてそれが終われば、俺達は別れる事になる。
「じゃあ、約束ですね」
「おー。静くんは志望校合格して、そんで引越し当日に俺が迎えに行く。待ち合わせは――」
「「あの待合室で」」
声が重なり、俺達は顔を見合わせて笑うのだった。
***
規則正しい寝息が聞こえる寝室で、俺はこっそりと囁く。
視線の先にはあどけない寝顔の静くんの姿があった。
「……多分俺達って超ド級の寂しがりだったんだよなぁ」
思った事をつらつらと並べたけど、途中から何だかこっぱずかしくなってしまって、少し顔が熱くなった。
そうして色々話している内に、俺も眠くなってきて、ゆっくり目を閉じたんだ。
「――そんくらい、お前って俺にとってかけがえのない存在だって事だよ」
***
季節を二つ越えた、麗らかな春。
乗客が皆無な小さな電車に揺られ、俺は一つの無人駅へ辿り着く。
約半年ぶりに見る景色は、生い茂っていた木々が桃色の花を突けている事以外はそんなに変わっていない。
相変わらずのド田舎だ。
電車を降り、一度改札を抜けた俺はもう一度中へ戻り、ある場所へ一直線に向かう。
あまりに古ぼけた、木造の待合室。
立て付けの悪い引き戸に手を掛け、俺は勢いよく開ける。
飛び込んだ古い内装。
その突き当りの右隅の特等席に――いた。
「薫さ――」
ぼんやりと無表情で座っていた静くんお顔が明るくなる。
そんな彼の目の前まで大股で近づいた俺は隠し持っていたクラッカーを目の前に構えて、紐を引いてみせる。
軽い音と共に、リボンが飛び出す。
「うわっ!」
音に驚いた静くんが声を上げる。
彼の頭にリボンが乗っかった。
因みに、散らかすと迷惑になるので、ちゃんとリボンの先がクラッカーの根元にくっついているタイプを選別した。
「合格おめでとー!」
不意を衝かれた静くんは暫く呆けた後、自分の頭に引っ掛かったリボンを摘まんで二度見してから大きく吹き出した。
「はしゃぎ過ぎですって。子供ですか」
「浮かれて悪いか!」
「悪くないですよ」
そう言って静くんは俺の腕を引き寄せ、抱き締める。
「ありがとうございます」
「おー」
耳元から聞こえる声は俺ほどではないにせよ、随分浮足立っているように聞こえた。
俺は静くんの頭を満足するまでわしゃわしゃと撫でてから、彼から離れる。
それから俺達は勉強会当初と同じ並びで席に座り、互いの近況を報告し合う。
そうこうして三十分程が立った頃。俺達の乗る電車がやって来る音が聞こえた。
「よし、行くか。こっから長いんだよなぁ」
「わざわざすみません」
「いーって事よ。どうせ一緒にいたら話したりないっしょ」
「確かに」
俺は席を立つと、静くんに手を差し出す。
静くんは笑みを深めてその手を取ると、俺の隣に並ぶ。
待合室を出てすぐ、俺達は一度だけ振り返った。
夏の間、何度も通ったオンボロ待合室。
それを目に焼き付けてから、俺達は小さな列車の扉を潜るのだった。
――互いの手は、固く繋いだまま。

