話したこともないクラスメイトが、兄になりました。




「え、明日休みだっけ?」

 いやおまえも忘れてたのかよ。
 嵐士はダイニングの椅子の上で、片膝を抱えるようにしてオレンジ色のノートに向かっていた。どこか痛めそうな姿勢だけど、本人的には集中できるらしい。
 俺はといえば、夕飯のあと、チーズケーキの前に風呂に入ったところ。
 濡れた髪をタオルで拭きつつ近づくと、嵐士はノートを閉じてしまう。

「書いてていいよ。俺、ちょっと部屋に戻ってようか」
「いや、ちょうど詰まったところだから。なんで休み? 祝日じゃないよね」

 俺と同じ反応だ。さすが兄弟。

「開校記念日だって。俺も忘れてた」
「あー……なんか、来月な気がしてた。今月か……」
「どっか行く?」

 デートしに。
 後半は口に出さずに問うと、嵐士は申し訳なさそうに首を横に振る。

「いまどうにか書けそうだから。ごめん」
「え、謝んなくていいよ。っていうかそのためなんだから、書けるならそっち優先すべきだし」
「うん……」

 立てたままの膝に唇を押し付ける。なにか考えているようだったので、キッチンに入ってケトルに水を汲んだ。お湯が沸くまでの間に、嵐士が買い集めたお茶類の入った籠を開ける。
 お湯で溶くだけのインスタントスティックから、個包装の紅茶やコーヒーのドリップパックまで。
 小説を書くときに変化が欲しいという言葉通り、バラエティに富んでいる。
 マグカップを出して、自分の飲みたいものを用意して、としているうちにあっという間にお湯が沸いた。

「嵐士、なに飲む?」

 いつものように尋ねると、嵐士はさっとこちらに視線を向ける。
 もう意識もしていなかった点けっぱなしのテレビを見て、またこっちを見る。

「悠斗は、明日用事ある?」

 あったらさっきみたいに聞かないけど。

「ない。けど、夕方はバイト。シフト入れるんじゃなかったなー」
「じゃあ、いまから映画見ない?」
「一緒に?」
「うん」
「恋愛系?」
「……うん」
「の、入った、ホラー?」
「はい」

 なんだか歯切れが悪いので突っ込んで聞くと、観念したように頷く。
 俺が映像系苦手だって知ってるよな? こいつ。
 まじまじと見返すと、嵐士はどこか拗ねたようになった。あ、やっぱりいいって言われそう。
 言われる前に口を開こうとしたけど、嵐士のほうが早かった。

「……怖いシーンは目閉じてていいし」
「え?」
「え、って。ジャンプスケア嫌いでしょ。布団持ってきて被ってていいから」

 やっぱり観なくていい、って、言わないんだ。
 嵐士だったらそう言いそうなのに。
 それに、たぶん俺だったら言ってしまう。
 そこまで固執しても仕方がないというか……。

 ――――固執、してるのか、こいつ。
 ……俺に?

 いや、違う。俺と映画を観ることに。
 つまり――――。

「恋人役?」
「……ああ、うん」
「わかった。いいよ」
「いいの?」

 驚くなよ。

「いいけど、まじで布団持ってきていい?」

 嵐士は笑って頷く。

「もちろん」






 サブスクに入ってる映画の中からいくつか候補を見せられて、俺が選んだのは名前も知らない洋画だった。ドレスとか着てる、ゴシックなやつ。
 日本が舞台のやつは、身近にありそうでちょっと無理。

「映画とかもよく観てんの?」
「わりと、かな。寝る前とかに」
「漫画とか小説とか? ドラマは?」
「小説は結構読む。漫画も。ドラマは、一時期海外ドラマにはまってた」
「書くため?」
「単純に好きだからだけど、それもあるかな」

 やっぱり、すごいよな、こいつって。
 小説と真っ直ぐ向き合ってるっていうか。

 結果を求めてないとかなら、わかる。楽しいからやってるとか。
 でもこいつは小説で結果を残したくて、残してて、そしていままたそれを次に繋げようと必死なんだ。

 嵐士はテレビで動画を見られるようにセッティングすると、ソファーに座る俺を振り返った。

「電気消していい? 画面暗いから」
「えー……いいけど、途中で脅かしたりとかすんなよ?」

 頭に毛布を被って言うと、嵐士はふにゃりと笑う。

「しないよ。大丈夫」

 って、たぶん、俺とか母親の香穂里さんにしか見せない顔だ。

「父さんたち、今頃楽しんでるかな」
「毎日楽しそうだよね。写真、たくさん送られてくる」
「俺にも。あと半月かあ」

 もうふたり暮らしも半分過ぎるのかと思うと、早かったような、そうでもなかったような。
 終わるのは、正直惜しい。親の目のない生活ってやっぱり特別だと思う。
 それに、なんとなく、他の人間がいたら嵐士はこんなふうにしてこないような気もしていて。
 まあ、大学生になったら本当にふたりで住むかもしれないから、いいんだけど。

 ――――本気なんだろうか、こいつは。
 ちょっとテンションが上がっちゃったから、とかでなく。
 ……俺は、どうだったんだろう。本気だったんだろうか。
 本気で、ずっと、嵐士の料理が食べたいって……一緒にいたいって、思ったんだろうか。

「………………」

 電気を消した嵐士が隣に来た。

「再生するよ」
「おう」

 映画の主人公は、女の子だった。
 網戸にしてるから、夜のにおいが気持ちいい。雨を吸い込んだ地面の湿度がこんなところにまで上がってきている。遠くでサイレンの音がしたり、電車の走る音が響いてきたりする。
 ソファーが軋んで、剥き出しの腕に隣の身体が触れた。
 それにビクッとしてしまう。けど、画面の中はいまのところ大丈夫だ。

 あ、いや、全然大丈夫じゃないです。なんかいます。黒っぽい方が。
 あー……!

 嵐士がいないほうの毛布を掴んで身体に巻き付ける。目を閉じて俯くと、気づいた男が小さく笑った気配がした。

「……いま、喋ったの幽霊? なんて言った?」

 字幕だから、見てないとセリフが追えない。特におどろおどろしい声だと。

「クリムゾン・ピークに気を付けろって」
「どういう意味?」
「まだわからない」

 低い囁きまで、ちょっと怖い。
 映画は、とにかく豪華な感じだった。貴族っぽいっていうか。そして徐々に不穏な流れになり、絶対やめといたほうがいい! って感じになる。
 このお屋敷、絶対めっちゃ幽霊出るやつじゃん……。

「行くなよー……」

 でも、行かないと話は進まない。
 あー……あ、あ、あ! ほら!

「うわっ」

 もろに見てしまって跳び上がると、温かい手がぽんぽん膝を叩く。
 そうしたら急に、ソファーの下に下ろしている足のことが気になってしまって――引っ張られないか、とか――俺は両脚を抱えた。
 一旦ホラーシーンがおさまったので、牛乳を入れたコーヒーを飲んで、常温に近くなりつつあったチーズケーキを口に入れて消耗した体力を回復する。
 嵐士はコーヒーを飲みながら乏しい明かりの中でメモを取った。

 嵐士のメモは、基本的に紙だ。スマホにすることもあるらしいけど、いまいちしっくりこないと言っていた。
 特に俺に作家だとバレてからは、いつでも書き留められるようにノートそのものを持ち歩いている。食事時もよくキッチンカウンターに置いてあって、嵐士の小説に対する思い入れが伝わった。
 話している最中でも突然メモを取ったりするから、最初は驚いたっけ。
 でも、嫌な感じはしない。

 自分がないがしろにされているというよりも、俺との会話でなにかを得ているというのが、嬉しい気がするからだ。
 真下の道路でクラクションが鳴らされて、それにもびびったら、嵐士が噴き出した。

「映画に集中して?」
「してるからびびったんだろ……!」

 笑い含みの、悪戯っぽい囁き。じわりと掻いた汗。
 嵐士とは、毎日朝食と夕食を一緒に食べる。夕食のあと、なにか飲みながら少しだべる。その先は、それぞれ自分の部屋で過ごしていた。
 だから、こんなふうに過ごすのは初めてだ。

 映画を観るからか、眼鏡をかけている。テレビの明かりで横顔のラインが際立っていた。

 きれいな男だな、と思う。
 その気になれば、彼女のひとりや二人や三人くらい、すぐにできるだろうに。
 ヒメみたいに、ホラーが大好きで家守凪が大好きな女の子もいるだろう。

 でも、こいつは、俺と恋人ごっこするのを選んだ。
 ふいにそれを確かめたくなって……兄弟としてここにいるんじゃない、と確信したくて、そろりと手を伸ばす。
 触れた手に指を絡ませると、嵐士がちらりとこちらを見た。
 こいつの手じゃなかったらどうしよう、とか思ったけど、大丈夫だったらしい。

 嵐士は、小説に真面目で、真剣で、本気だ。
 だから男で弟の俺とこんなことまでできる。
 恋人同士がするみたいに、手を握って映画を観られる。

 嵐士の中にはそういう理由だけしかない。それを、忘れないようにしないと。
 嵐士は無言で俺の手を握る。大丈夫だよと宥めるように指で指を擦られて、恐怖とは別のもので心臓がばくばく言い始めた。
 でも、それがどういう感情なのか、俺にはまだわからない。
 わからないから、離れたほうがいいのかもしれない。

 そんなことを思っていたくせに、さっきより近づいた身体に、このあと俺は何度もしがみつくことになる。

 主に、幽霊のせいで。






「大胆過ぎるだろ、幽霊」

 明るくなった部屋で脱力しつつ、呻く。
 ホラーはホラーなんだけど、なんかミステリーぽくもあり、サスペンスぽくもあり。幽霊なんか、めっちゃ触ってきてたし。
 嵐士の小説みたいなじっとりとしたものをイメージしていた俺は、すっかり体力を消耗していた。

「怖かった? 面白かった?」

 ペットボトルの水を差し出しながら、嵐士が問う。

「あー……意味は、わかった。怖いっていうか、びっくりして疲れる」
「恋愛要素はどうだった?」
「まあまあ」

 正直驚かされ過ぎて恋愛どころじゃなかった。
 恋愛とホラーって食い合わせ悪くない?
 ホラーが好きなら違うのだろうか。

「海外の映画だしね。ファンタジーぽくもあったし。勉強にはなったけど」

 嵐士は使ったマグカップを洗って、ぐんと伸びをする。

「そろそろ部屋に戻ろうかな。悠斗は?」
「あー……俺もそうする」

 こんなところにひとりでいてもな。
 頭から毛布を被りったまま、嵐士のあとに続く。
 リビングの電気を消して、隣り合った部屋の前まで行って……。

「じゃ、おやすみ……」
「………………」
「悠斗?」

 つい、嵐士のシャツの裾を掴んでしまって、しかも手が離せない。
 情けないとは思うんですけど。

「やっぱ、もう少しだけ起きてない?」
「俺は起きてるけど。少し書いてから寝る」
「そういう意味でなく……」

 ちらっと上目遣いに見ると、嵐士はなんだかにやにやしてる。
 こいつ、こんな顔もするのか。
 じゃなくて!

「おまっ! わかって言ってんな!?」
「ごめんごめん。そこまで苦手だとは思わなくて、つい」
「俺も知らなかったっての!」
「え?」
「ちびの頃にひとりでロードショー観ちゃって、それが嫌だった記憶しかねーの。もう大丈夫だと思ってたんだけど」
「ごめん」
「おわっ」

 急に抱き寄せられた。
 背中を撫でられる。

「ごめんね」
「いや……面白いとこもあったし、いーけどさ」

 そんなに真面目に謝られるようなことではない。自分の認識不足だし。
 ああでも、もしかしたら、嵐士にも似たような経験はあるのかも。
 いつからこいつに父親がいないのかは知らないけど、少なくともここ数年の話ではなさそうだったし。

「……部屋、来る?」
「え?」
「ひとりだと怖いんでしょ? 俺の部屋で寝る?」
「…………お札とか、貼ってない?」

 嵐士は俺の額を軽く弾いて、呆れたように言った。

「貼ってるわけないだろ。ほら、布団運んでおいでよ」





 広くはない部屋に、タイピングの音が小さく響いている。
 ベッドの上に座り、あぐらをかいた脚の上でノートパソコンを広げた嵐士は、先ほどから無心にキーボードを叩いている。
 俺は床に敷いた布団の上で、その姿を眺めていた。

 家守凪の小説は、ウェブの投稿サイトでいくつか読むことができる。一度、アイコンがちゃんと変更されているか確認するためにスマホから見たことがあって、だからなんとなくスマホで書いていると思い込んでいたけど、違ったみたいだ。
 打つの、すげー速い。プロなんだもんな……。

 下を見てるから、眼鏡がずれてる。でもそんなことにも気づかない様子で、嵐士はひたすらに文字を紡いでいた。
 書けないって、隈まで作ってたのに。
 俺も、少しは役に立てているんだろうか。

「………………」

 我ながらじっと見すぎな気がしたので、寝返りを打って逆を向いた。
 本棚にはたくさんの本が並んでいる。引っ越しのとき、手伝おうかと声を掛けたら思いっきり首を横に振られたのを思い出した。

 たぶん、父さんは知ってるよな、こいつが小説家だって。
 香穂里さんだって知ってる。
 俺だけが知らなかったのだと思うと、なんだか胸がもやもやした。本当にいまさらなんだけど。

 本棚に並ぶタイトルを端から頭の中で読み上げているうちに、いつの間にかうつらうつらしていたらしい。

 ゴトッ、と。
 なにかが足元に落ちてきた気がして飛び起きると、部屋の中は暗くなっていた。

 え、なに?
 一瞬、なにが起こったのかわからなかった。眠っていたようだ、と気づいたのは、嵐士の寝息のようなものが聞こえたから。

 いま何時だろう。

 スマホで時間を確認したかったけど、手を伸ばして探るのが怖い。
 カーテンを引かれた部屋の中に、光源はひとつもない。暗闇で、なにも見えない。
 幽霊は、夢か、勘違い。気のせい。幽霊なんていない。いたとして、今日ピンポイントで急に俺の前に現れるはずがない。
 そんなタイミングがいいことない。ないよな?

「うー……」

 ばくばく鳴る心臓がうるさい。
 こういうシーン、なかったっけ?
 随分アグレッシブだった幽霊たちを思い出すと、作り物なのだとわかっていても怖くなってくる。俺の足元に、なにが落ちてきたんだよ……。

「……悠斗?」

 そのとき暗闇で響いた嵐士の声は、まさに救世主。光って感じだった。

「嵐士、俺の、足のとこ、なんかいる……?」
「えっ?」

 なんでワクワクした声なの?
 嵐士が慌てて起き上がる感じがあって、ぱちっという音と共に部屋の中が明るくなる。
 嵐士は俺の足元に屈んで、落ちていたものを拾い上げた。

「はい」
「……ありがと」

 それは、俺の――――スマホ。

 たぶん毛布の上に置いて寝ちゃって、寝返りとかで足元まで流されて、床に落ちたんだろう。

「びびった……だよな、そんなタイミングよく出るわけないよな……」
「でも、怖い話すると集まるって言うよ」
「えっ」
「百物語ってわかる? 怖い話を百個すると――――」
「あー! なしなしなし!」

 両耳を塞いで喚くと、嵐士は声を殺して笑う。
 因果応報ってやつ? これじゃ、いつかの逆だ。

「……幽霊、追い払うのは? なんかないの?」

 スマホを見る。時刻は夜中の二時。結構寝ていたらしい。

「あるよ」

 嵐士はさらりと頷いた。

「それ、どんな?」
「幽霊って、エロいことしてたり考えてたりすると来ないらしい。生命パワー的な?」
「……いや無理だろこの状況でエロ考えるの!」

 こんなに怖くてエロもなにもあったもんじゃない。そもそも、俺はそういうのあんまり興味ないし、そのうえ、そこに兄弟がいるのに。
 嵐士は俺の焦りなどどうでもよさそうに、大きなあくびをする。

「もう電気消していい?」
「ちょっと待って」
「じゃあ、あとで消しといて」
「ちょっと待ってって」

 いま、焦ってるから。
 ベッドの下の隙間もなんか怖いし、本棚の隙間も怖い気がする。机の下のスペースとか、もろに怖い。やばい。
 ひとりで焦りまくっていると、ぱちっと電気を消される。

「うわっ!」
「悠斗」
「おわっ」

 スマホのライトを自分の顔に向けた嵐士が、俺を呼ぶ。

「こっちおいで」

 と、ぽんぽんされているのは嵐士のベッドだ。

「え……」
「ほら、早く」

 促され、ライトを消されそうな雰囲気に慌ててそちらへ向かった。
 ベッドに膝を突くと、長い腕が伸ばされる。
 嵐士の腕が、俺の身体を引き寄せようとしている。
 自分のほうに。

 ……待って。これ、エロいことする、わけじゃないよな?

 抱き寄せる腕に一瞬抵抗したけど、嵐士は頓着しなかった。
 あっさりと抱きしめられ、なにも見えないけど、目の前がちかちかするような気がする。

 熱い身体、呼吸に合わせて膨らむ胸。腕の強さ。
 ただハグされるのとは違う。嵐士の胸に顔を埋めるみたいな、そういう密着。同じシャンプーとか洗剤を使っているはずなのに、違うにおいがする、気がする。

 嵐士のにおいだ、と思う。
 さっきとは違う意味で心臓の音がうるさい。
 『恋人を教えて』って、嵐士は、どこまで、したいんだ?

 兄弟だし、男同士だし、俺はいまのいままでそれを深く考えていなかった。
 恋人同士だったら、手を繋いだり、抱きしめ合ったりだけじゃ終わらないこともある。むしろその先があるから、恋と友情には違いがあって。
 キスとか、もっと、先のエロいこととか。
 嵐士が、そういうことをしたいって、言ったら、俺は……。
 がちがちになった身体に布団を掛けられる。

「――――おやすみ」

 ぽんぽんと背中を叩いて、嵐士が小さく言った。
 応えられないでいる間に、小さな寝息が聞こえてくる。

 は?
 ……ね――――寝るのかよ……! 普通に……!!

 いや、いいんだけど! 俺たちは兄弟だし!
 兄弟だから……いいんだけど。

 でも、じゃあ、もしも俺が兄弟じゃなかったら?
 兄弟になったのが俺じゃない人間でも、嵐士はこういうことをしたりするのだろうか。