話したこともないクラスメイトが、兄になりました。




 最近帰宅の早い父親から、『今日は真っ直ぐ帰って来るように』というメッセージが届いたのは、朝礼が始まる少し前のことだった。
 適当に了解のスタンプを探す、その頭の上で友人たちの声が飛びかう。

「だからさ、今日ならいけると思うんだよね。俺めっちゃ寝てきたし!」
「飽きないね、おまえも」
「飽きるとか飽きないとかじゃないんだよ、もうこれは自分との戦いで! だからさ、おねがいー!」

 大きなため息がつむじのあたりをくすぐった。つんつんとつつかれる。

「悠斗」
「うん?」

 顔を上げると、前の席に座った友人ふたりがこちらを見ていた。

「どうする? また舜佑のわがまま」
「わがままじゃないってば! お願い!」
「わかったから、乗るなって」

 大きくてのんびりしている黒髪短髪のほうが、マコこと家倉(いえくら)慎(まこと)。
 ちっこくてじたばたしてる金髪のほうが、シュンこと森(もり)舜佑(しゅんすけ)。

 俺――『五十嵐(いがらし)』悠斗(ゆうと)の前の席の持ち主は『家倉』のマコで、シュンはその膝に乗り上がらんばかりに詰め寄ってなにか訴えていた。

 二年の五月のこの時期、クラスの席は五十音の出席番号(男女ごちゃまぜだ)順のまま。いまは俺とマコが前後なせいで、席が遠いシュンはいつもこっちにやってくる。んで、でかいマコの上に座ろうとするのも、マコが嫌がりながらも結局それを許すのも、まあいつものことだ。

 俺たちの席は廊下側のトップ。シュンの席は窓際の後ろのほう。いまは無人のその席になんとなく視線をやると、そのひとつ後ろ、クラスの最後尾の席で背中を丸めている男が目に入った。
 うるさかったのか、たまたまか、こちらを見ていたらしい。目が合う前にふいと顔ごと逸らされる。黒くてもさっとした長めの髪のせいで、目の前にいたとしても目が合うことなんか稀なんだけど。

「ねー、ゆーくん? 聞いてる?」
「あ、ごめん。なんだっけ?」
「舜佑が、放課後あのゲーセン行こうって」
「ああ、あのアーケードの野良の奴? 待ち合わせてんの?」
「してない! でも次は絶対勝つから、いまのうちに特訓したいの!」
「金かかるなー」
「おごるからさ! 俺らの中でゆーくんが一番強かったじゃん? コツとか教えてよ」
「そうだっけ?」
「もう少しで勝てそうだったじゃん! 忘れるなよー!」
「えー?」

 シュンが言っているのは、先週ゲームセンターで、他校の奴と対戦型のアーケードゲームをしたときのことらしいのだが。
 やばい。本当に覚えてない……というか、自分のゲーム結果なんてどうでもよくて忘れてた。

「俺に聞かれてもわかんないよ。ボタン押しまくってただけだし」
「でたよ! ゆーくんの天才発言!」
「天才じゃないって。まぐれ。天才だったら勝ってるだろ?」
「むかつくー!」

 じたじた暴れるシュンを、マコが宥める。

「諦めろ舜佑。悠斗はこういう奴だ」
「あー信じらんねーあんないい試合しといて。さすが無欲王子」
「なに、王子って」
「女子が言ってんじゃん。キラキラ王子サマ」
「知らんし。やめて」

 見知らぬ女子からこっそり呼ばれるくらいなら好きにしたらいいけど、面と向かって呼ばれるのは居心地が悪い。全然王子様なんかじゃないし。

「じゃあせめて、今日の特訓には付き合ってよね!」

 むうっと頬を膨らませるシュンは、さすがに可愛い。けど。

「悪い。今日は無理だわ」
「ええっ!?」
「バイトだっけ?」
「いや。親が早く帰ってこいってさ」
「珍しいね。なんか用事?」
「たぶんね」

 肩を竦めると、ふたりともそれ以上はなにも聞いて来なかった。
 一年のときからつるんでるけど、この空気感が心地いいんだよな。べつに聞かれたくないわけでもないし、言いたくないわけでもないけど。
 それにもちろん、一緒にいて楽しいというのが一番大きいんだけど。

 校区の狭い中学までは、同級生もみんな幼馴染みたいなものだった。うちの両親が離婚していることも、すごく忙しい父親があまり家にいなくて、子どもながらに一人暮らしみたいに過ごしていたことも、いつの間にかみんな知っていた。(ちなみに、父親しかいないことはマコもシュンも知っている。)
 でも進学先に選んだ高校はそこそこの人数が通う大型校で、だからというわけでもないけれど、結構他人に興味ないのが多い。
 俺だって、同じクラスに振り分けられていない生徒のことは、同学年だったとしてもほとんど知らないし。同じクラスになったとしても、接点のない相手のことは顔も名前もいまいち覚えていなかったりする。

 それでもまあ、目立つ相手なら別なんだけど――――。

 もう一度、あの一番後ろの窓際の席に目をやる。
 そこに座っている男は、もうこちらのことなんか忘れた様子で、机に突っ伏すようにしてなにかを書いている。予習か、課題……は、出てなかったはずだけど。

 こうして見ると、目立つ気がするのに。
 でも、つい最近までその存在を意識することはなかった。
 いま見ても、新鮮に(ほんとにいる)と思ってしまうくらいだし。
 でかいくせに気配消すのが上手いんだよな。

 チャイムの鳴る直前、担任が入って来て、シュンが自分の席に戻って行った。
 あの男はノートを閉じて、もさもさの黒髪を耳に掛ける。ふちの太い、黒い眼鏡のつる。
 視線に気づいたように、こちらを見る。ばちっと音を立てて目が合った気がしたけれど、ふいと逸らされたから、本当に気のせいだったかもしれない。





 放課後。マコたちと駅前で別れ、改札を通ると、例のもさもさがホームにいるのに気づいた。一番後ろの車両に乗りたいのか、ホームの端にいる。食い入るようにスマホを見ていて、こっちに気づく様子はない。

 ……着いたらバスの乗り換えギリギリだけど、間に合わないんじゃないか。あんなところに乗って。
 最寄り駅の階段は中央と先頭のほうにあるのに。
 これがマコやシュンや他の友人たちだったら、俺はほとんどなにも考えず声を掛けに行ったと思う。
 でも、通学路だし。
 話し掛けるなって言ったの、あっちだし。

 結局そのまま見なかったことにして、最寄り駅まで二十分。電車に揺られて、そこから自宅まではバス。歩けない距離ではないけど、歩いたら四十分はかかるので今日はやめておく。
 出発予定時間の一分前にやってきた循環バスに乗り込むと、ドアが閉まるギリギリでもさもさが飛び込んできた。俺はおかしいやら呆れるやらで笑いそうになってしまう。
 ほら、最後部なんかに乗るから。

 もさもさはぜえはあと息を乱し、大きな身体を小さくしながら、つり革の付け根のパイプを掴んだ。
 そんなに混んでないし、俺の隣の席、空いてるけど。
 今度こそ声を掛けようかと思ったけど、さらに前のほうへ移動していったので諦めた。
 そこからまたしばらくバスに揺られて、気づけば次の停留所が目的地だ。降車ボタンを押すと、もさもさが顔を上げた。車内を見回して、俺を見つけてびっくりしている。なんでだよ。

 同じバス停で降りたのは、俺たちだけだった。
 前をゆくもさもさを見ながら、暑くなってきた遊歩道を歩く。こっちがゆっくりしているからか、少しずつ離されて、その距離はどんどん開いてゆく。
 けど、結局マンションの前で追いついてしまった。

 もさもさは、慣れない鍵を開けようと四苦八苦している。おいおい、引っ越してきて半月は経つだろ。
 ここまで来たら、もう話し掛けていいか。
 小さく息を吐き、その背中をつついた。

「ひゃっ」

 情けない声を上げて、猫背が逆に反る。それから勢いよくこちらを振り向いて――――。

「うわっ」
「なんだよ、うわって」
「いや、その……」
「鍵貸して」

 おずおずと手渡された鍵をセンサーにかざすと、自動ドアが開いた。

「……ありがとう」
「角度にコツあるよな」
「そうだね」

 話し掛けると、もさもさはどうにも居心地悪そうにする。それがどうしてなのかはわからないけど、この男は基本的にこうだ。

「行かねーの?」

 動こうとしないもさもさに声を掛けると、長身は慌てて後をついてきた。
 同じエレベーターに乗って、同じ階を目指す。
 そういえば、この半月で同じ時間の電車だとかバスに乗って帰るのは初めてかもしれない。

「今日、早く帰ってこいって言われた?」

 尋ねると、もさもさは「うん」と頷いた。眼鏡の向こうの目が、ちらりとこちらを見下ろす。

「五十嵐も? ……母さんから?」
「俺は父さんから。なんだろうな」
「さあ……」

 わざわざ揃って呼び出すということは、結構ななにかが起こるのかもしれない。ふたりとも今朝はなにも言っていなかったのだけど。
 まあ、『結構ななにか』は半月前にもう既に起こったから、いまさらたいして驚きはしないと思う。
 自宅ドアの鍵を開けて、さっさと中に入る。

「ただいま」

 と言うと、背後から小さく、

「おかえり……」

 と、声が聞こえた。

 なんとはないむずがゆさに振り向くと、当の本人は気にした様子もなく靴を脱いでいる。

「……母さんもお父さんも、まだ帰ってきてないみたいだね」
「だな」
「一体なんの話なんだろう……」

 落ち着かなさげにそわそわしている男を、待つかどうか俺は悩んでいる。
 なにを待つかって、たぶん言われる「ただいま」をだ。
 「ただいま」も「おかえり」も、俺にはほとんど馴染みがない。
 言うのも言われるのも、なんとなく変な感じがする。

 結局、靴紐の緩みを直し始めた男を置いて、先にリビングに向かった。

「……慣れねえ」

 小さく息を吐く。

 もしかしたら俺のほうがあっちより緊張していたのかも、と、返すのを忘れていたあいつの鍵を見て、そう思った。

 クラスの誰も知らないことだけど、あのもさもさ――――夜森(やもり)嵐士(あらし)と俺は、つい半月ほど前、突然、兄弟になった。