金曜の昼ということもあり、早退はあっさりと許可された。
一時間だけ寝かされた保健室でも、帰りの電車でも、バスでも、俺は貪るように家守凪の小説を読んだ。
読んでも読んでも読み切れないくらい、更新は止まらない。
書き上げたものをアップしているわけではなく、嵐士はいまどこかで、ここに直接文字を綴っている。
半端に更新されるのは、書いては保存しているからだと思う、とヒメが言っていた。
文字というのは、それくらい、儚い。だから、まるで目の前に嵐士がいて、直接言葉を届けてくれているような気がしてくる。
何度も直して、書いて、消して、また書いて、そうやって、俺の読むスピードが、追いつかないくらい。命を削るようにして、嵐士の小説は紡がれていく。
それは、ひとりの、どこにでもいる、でもどこにもいない、ひとりぼっちの女の子の物語だった。
なんのとりえもない女の子が、王子様みたいな男ときょうだいになってしまう。そして最初は苦手だったその男のことを好きになってしまう、単純明快なラブストーリーだった。
【ごっこ遊びはもうおしまい。きょうだいに戻らないとね、とあなたは笑った。】
【その言葉に、私の心臓は握り潰されてしまいました。】
【きっとこの想いはもうとっくにあなたに気づかれていたのでしょう。】
【それとも、気づいていないのかな。鈍いところもあるから。】
【わかってる。私たちはきょうだいだから、この気持ちは、消してしまわないといけないんだね。】
【――――どうやって?】
マンションのエレベーターは、どうしていつも上階で停まっているんだろう。下りてくるのを待ち切れなくて、階段を駆け上がる。
踊り場で、もう一度更新ボタンを押す。
さっきから、更新は止まってしまっている。
でもそこに、ひと言だけ追加されていた。
脈絡もない、たったひとつの言葉。
単純明快な――――俺にだけわかる、ラブレター。
【あいたい】
ああ、俺も。
嵐士に会いたい。
どうしても、会いたい。
あいたいよ。
倒れかけたのに階段を駆け上がるなんて馬鹿なことをしたせいで、自宅前に着いたときの俺はかなり気分が悪くなっていた。
軽い熱中症か貧血という診断で、どちらかといえばメンタルのほうが響いているのは自分でもわかっていたから、無理をしすぎた。
どうにか鍵を開けて、玄関に入る。家の中は静まり返っていて、ひとけはない。
ここには、いないのかな。
帰ってこなかったら、どうしよう。
「……あらし」
目の前が回っているうえに、泣きたいような気分になって蹲っていると、ほんの小さな軋みが聞こえた。
次いで、聞いたことのない、悲鳴。
「悠斗!?」
自分の部屋にこもっていたらしい嵐士が、慌てたようにこちらにやってくる。助け起こされて、ほとんど乱暴と言えるくらい強引に顔や身体に触れられた。
「なに、どうしたの。具合悪い? どこか痛い? 怪我してる?」
「……あらし」
腕を差し伸べると、なんの躊躇いもなく抱きしめてもらえる。
「早退した」
「なんで」
なんでって、テラスが暑くて、最近よく眠れていなくて、家守凪がリアルタイム更新なんてものをやり始めて、それがホラー小説じゃなくて、どう考えても俺たちの話で、だから、だから、つまり……。
「おまえがいなかった」
「………………」
「なんで」
「悠斗」
「いなくなるな……」
「うん」
気分が悪い。目が回る。吐くかも。吐きたくない。暑い。喉が渇いた。
全部の言葉に、嵐士は小さく「うん」と言った。
「ごめんね」と。
そして慎重に俺のことを抱き上げて、自分の部屋に運び込んだ。
目が覚めたとき、窓の外はもう暗くなっていた。
軽く首を巡らすと、首の横に当ててあった保冷剤がずれて倒れた。枕元にはあの大きなカワウソのぬいぐるみ。俺に似ているとかいう。
嵐士は、机に向かってパソコンの画面と睨み合っている。
「……あの話」
掠れた声に、嵐士がこちらを向く。驚くほどの素早さで立ち上がって、ベッドの脇までやってきた。
「あの話、終わった?」
「ううん。……止まってる」
「あれ、どうなんの」
「わからない」
首や額に手を触れられる。
「おまえの手、熱い」
「悠斗が冷えてるんだよ。もう気分悪くない?」
「うん……」
優しい手が、髪を梳いてくれる。その手つき。
「……昔、母さんが」
気づいたときには、言っていた。
「母さんが、うちを出ていくときに、俺、すごく泣いた。本当は、母さんと一緒に行きたかった。連れて行って欲しかった。でも――――」
母親は、困ったように、呆れたように、俺に言った。そんなに泣かないでよ、みっともない。恥ずかしいよ。そう。
元々、さばけたひとだった。なんにでも執着が薄くて、無駄なものを一切持っていなかった。そんな彼女に恥ずかしいと呆れられて、置いて行かれて、俺は――――。
「俺は、俺自身が、あのひとにとっては無駄なものだったんだ、って思った。それがすごく悲しくて……もう、あんな思いはしたくなくて、だから……」
「悠斗」
「誰のことも、好きになりたくなかった。好きなひとから、無駄だって、必要ないって、思われたくなくて……」
だから、本当は、嵐士の役に立ちたいと思ったときにはもう、手遅れだった。
嵐士に、必要とされたいと、思ってしまっていたのだから。
母親には、そういうつもりはなかったのだろう。
けれど、幼い心にあの言葉は深々と突き刺さって、呪いを残した。
なにかに本気になるのは恥ずかしいこと。みっともなくて、怖いこと。
特別なひとりを作ってしまったら、また、悲しむことになる。
無意識にそう思い続けて、それで楽だと思い続けて。
「――――なのに、嵐士のこと、好きになった」
嵐士が、ちいさく息を呑む。
本当は、もっと早い段階で自覚すべきだったのだ。自分が我慢すれば済むのだから、まだ、ちょっと特別、くらいのときに気づいて、自分を戒めるべきだった。
いつも、そうしていたのに。
それなのに、嵐士が、そうさせてくれなかった。
その名前の通り、本物の嵐みたいに、あっという間に、襲い掛かるみたいに、俺の心を奪いつくしてしまった。
俺の吐露を聞いた嵐士は、ベッドの脇に座り込む。
大きな両手で顔を覆って、深く、深く、息を吐いた。
「ほんと、敵わないな悠斗には……」
「……悪口?」
「降参だって言ってる」
嵐士は、困ったように笑う。
そろりと手を伸ばすとよく懐いた猫のように、そこに顔を擦り付けた。
「……これが最後のチャンスだって思ってた。更新してることに谷町が気づけば、きっと悠斗に言うから。悠斗が読んでくれて、それで、俺のこと、キモいとか思わなかったら……もし、俺と同じ気持ちだったら……」
「……うん」
「俺はね、誰かを永遠に独占したいなんて考えるの、初めてだった。大抵の人間のことが嫌いで、自分を守るために内心で馬鹿にしてた。そんなだから、誰かを好きになることなんかないって思ってた。……でも、前に言ったよね。悠斗は違ったって」
「うん」
また、顔を擦り付けられる。甘えるように。もさもさの髪。かたい眉毛。
「……家で笑ってる悠斗が学校でも同じように笑ってるのが嫌で、あいつらの中に飛び込んで、おまえをさらってどこかへ逃げたいと思ったこともある。……悠斗のことが可愛くて、俺だけのものにしたかった。俺だけのものなんだって、自慢したかった」
身体が、震える。
あの小説を読んだから、わかってたつもりだった。
でも、嵐士が好きなのは、やっぱり……。
「森が抱きついてるのが嫌だったし、家倉が気軽に触ったり、授業中に話してるのが嫌だった。女の子たちがべたべたするのも全部。コンビニでお客さんに笑ってるのまで嫌で、俺のこと、秘密にしてって頼んだのは俺自身なのに、俺を隠そうとする悠斗に腹が立った」
「嵐士」
「……これは恋愛感情なんだな、って気づいたのは、あのときだよ」
「あらし……」
堪らず両手を伸ばす。
嵐士の大きな身体は、俺の腕の中にちょうどよくおさまる。
まるで最初からこうなると決まっていたかのように、ぴったりと、一分の隙もなく。
「悠斗」
嵐士が、俺を見る。
あの、肉食のいきものの目。
一度噛みついたら絶対に放してもらえない。
「好きだよ。男でも、クラスメイトでも、弟でも、悠斗のことが好きだ」
嵐士の唇は、震えていた。
拒絶を恐れるように、探るように合わせてくる。それを優しく齧ると、熱い吐息が零れ落ちてきた。
嵐士が、俺の名前を呼ぶ。
「あらし……」
今日、マコに身体を預けるよう促されたとき、どうしても預けきれない自分に気づいた。
嵐士の腕の中ではくたくたになれるのに、他の人間では、だめなんだ。
嵐士にだけだ。
嵐士にだけ、俺は俺のことを預けられた。
嵐士の目が、仕草が、体温が、そうしてもいいと言ってくれていたから。
嵐士と俺は兄弟で、でも、兄弟じゃない俺たちに、接点なんかない。
それなら、俺は――――すべてを。
この先の、兄弟として過ごすことの、よろこびも、痛みも、苦しみも、なにもかもを。
おまえと。
おまえだけと。
「嵐士」
なあに、と甘い声で問われる。
「今度、ふたりで水族館行こう」
「うん」
「それから、あの小説、ハッピーエンドにして」
優しい目が見つめている。
怖がりで、流されやすくて、王子様と呼ばれることもある俺を。
「いいよ。ほかには? 俺に、して欲しいことある?」
睫毛が触れて、絡む。俺は囁く。嵐士にだけ、聞こえる声で。
「もう一回、キスして」
