「おはよ。あれ、準備してくれてたんだ」
「なんもできないし、これくらいはな」
日課のランニングから戻った兄貴は、温められた味噌汁や準備しておいた茶碗類を見て朗らかに笑った。
あと三分でごはんも炊ける。その前に昨夜の残りのおかずをレンジで温めて、それが今日の朝食だった。
「チンするだけなら悠斗にもできるね」
「そのうち包丁も使えるようになる」
「危なっかしいからなー」
苦笑しつつ、兄貴は浴室へ消えた。学校に行く前に走って、シャワーで汗を流して、よく毎日こんなことを続けられるよな。そのくせ、雨の日は休めるから嬉しいとか言うし。
本当に汗を流すレベルで上がってきた男は、制服に着替えてから戻ってきた。いつものもさもさ。眼鏡ももうかけてる。
律儀にいただきますを言ってから、ふたりして朝食にした。
朝のニュース番組を流し見していると、ふと兄貴が言う。
「無事に船を降りたって。来てた?」
「ああ、少し観光してから飛行機だっけ。すごいよな、満喫してて」
「しかも乗り継ぎ便でしょ。体力あるよふたりとも……」
親たちのクルーズ旅行は、南国の海をぐるりと回り、オーストラリアで終わりを迎えた。船で帰ってくるんじゃなく、そこからは空路で日本へ、というルートらしい。
今日は金曜。
明日……土曜の夜には、ふたりとも帰ってくる。
「悠斗、バイト休みにしたんでしょ。空港まで行く?」
「兄貴は?」
「悠斗が行くなら俺はいいかなと思ってる。いま、筆が乗ってるから」
「ああ、じゃあ俺だけで行ってくる」
頷いて、朝食の残りをもそもそ咀嚼した。
「……今日の夕食、リクエストある?」
小さく尋ねられ、俺はゆっくり首を横に振る。
「特にない」
「じゃあさ、悪いんだけど帰りになにかお弁当的なもの買ってきてくれない?」
今日はバイトじゃないんだけど。まあ、早く帰ってくるぶんには関係ないか。
「わかった。リクエストあったらメッセージ入れといて」
「うん」
それで、会話は終わる。
あの水族館に行った日から、五日。
俺たちは、どこにでもいる、普通の兄弟として過ごしていた。
あるいは――――そう、しようと、努力していた。
「ゆーくん、なんか最近しょぼしょぼじゃん? どうしちゃったの? 失恋しちゃった?」
「舜佑」
明るく弾むシュンの声と、それを諫めるマコの声。俺は青空を仰いで、「あー」だとか「うー」だとかで返事する。
本格的な夏の近づいてきたこの時季、食堂もテラス席ならわりと空いているので座るのも容易だ。エアコンが効いている室内に入りたい気持ちが、ないわけではないものの。
ここ数日、昼を食堂で食べようと言い出したのは俺だった。
パンとかでなく、なにか定食が食べたいと言って。
マコもシュンも特に反対しなかった。
でもふたりとも、俺の異常には気付いてる。
根掘り葉掘り聞き出そうとしないのは優しさだ。
こうやって、ふざけながら、もしも話したいなら相談に乗るよとにおわせてくることも。
でもそのおふざけが正答すぎて俺はなにも言えない。
そうか、俺は失恋したのか。
恋なんかわからないと豪語していたくせに、理解した瞬間に失恋してるとか、うける。
「はー……」
兄貴は――――嵐士は、一見なんでもなさそうに日々を過ごしていた。
恋人ごっこをする前のように、一定の距離を保って、でも、べつに仲が悪くなったわけでもない。
嵐士は小説のためにああいうことをしていたから、やめようと言われたらあっさりとやめられるのだろう。
いつまでも引きずっている俺とは違う。
「ああー……やだやだ……」
もう、こんな感情忘れたい。
忘れたいのに、ふとした瞬間に蘇ってくる。
あのエレベーター。あの水族館。映画を観たこと。寝息。チーズケーキ。嵐士の、俺を見る、あの目。俺に触れた、唇。
抱き寄せられたときの、あの力の強さ。
もう、忘れないといけない。忘れないといけないと思えば思うほど、それらはより一層鮮やかに、確かな質量を持って胸を抉る。
でも、これはどうにか抑え込まないと。
大丈夫。もうやったことがあるから。
心の深いところに追いやって、見ないふりをすればそのうち痛くなくなる。
そのうち……きっと……でも、そのうちって、いつ?
「…………彼女とか、作ってみようかな」
「ゆーくん」
「でも、あんまり俺のこと好きじゃない子がいいな。俺もあんまり好きになりたくない」
いつものようにマコのチョップが飛んでくるかと思ったけど、大きな手は俺の頭を無造作に掻き混ぜた。
シュンが回り込んできて、優しく額を撫でてくれる。
「なんか嫌なことがあったんだね。大丈夫。俺も慎もいるから。ずっと悠斗と友達だよ」
珍しく、穏やかに言われる。
ああ、そうか。それでいいのか。
いままで通りこのふたりといて、このふたりと楽しく遊んで、いままで通り、もう、嵐士を見なければ……。
――――でも、嵐士は、クラスメイトだ。
クラスメイトで、兄弟で。
あの体温を、俺にだけ向けられる顔を、知らなかった頃には、戻れない。
深く息を吐くのとほぼ同時、テラスに駆け込んでくる小さな姿があった。
「五十嵐!」
ヒメは、いつもきれいに整えている髪を振り乱し、頬を紅潮させてずんずん俺のほうへ歩いてくる。
シュンが思わず場所を譲るくらい。
「ヒメちゃん、どうしたの?」
「もう、五十嵐でもいい! これ見て!」
俺でもいいとは失礼な。
差し出されたのは、ヒメのスマホだった。画面には見たことのある小説投稿サイトが表示されている。
ヒメが見せてくるのだから、当然のように家守凪の作品ページだった。
「これが?」
「ここ、これ、更新ボタン押して!」
言われた通りページの更新ボタンを押す。
と、ページの後半に文章が増えた。
「え、なにこれ?」
「リアルタイム更新してるの! 家守凪!」
「え……」
咄嗟に校舎を振り仰ぐ。教室はここから見えないけど、でも、家守凪が更新しているということは、それは嵐士がやっているはずだ。
嵐士が、これを教室でやっているなんて考えられない。
そもそもあいつは小説を書くときパソコンを使っていて、アップするときもそのままパソコンでしていると言っていた。
じゃあ、どこで?
今日、学校で嵐士を見たっけ。
最近ずっと見ないようにしていたから、覚えていない。
見たら、どうしても、思い出すから。
「シュン、嵐士って今日早退したりした?」
「あらし?」
「夜森嵐士。おまえの後ろの席の」
「ああ、ヤモリくん。なら、欠席じゃん? 朝からいなかったよ」
俺は思わず口を覆った。
欠席? 休み? 学校に来てなかった? いつから? 今日だけ?
あいつは――――。
『本が売れたらその金でこの家を出ていくつもりだった』
目の前が、ぐらりと揺れた。
嵐士が、出て行ってしまったら、どうしよう。
見ないようにしたかった。思い出したくなかった。でも、あいつが、俺の前からいなくなってしまうのは。
――――そんなこと、受け容れられるはずがない。
「ゆーくん、大丈夫? 真っ青だよ」
「え、熱中症とか? 大丈夫? 吐きそう?」
「俺先生呼んでくる」
「待って、シュン。だいじょうぶ……」
「絶対大丈夫じゃない! まーくん、支えてて。すぐ戻ってくるから」
マコが俺の肩を抱き寄せる。ヒメが小さな手で仰いでくれる。
「……更新、続いてる?」
「え、うん!」
「悠斗、喋るな。静かにしてろ」
「だって、気になる。……俺、……家守凪の、ファンなんだ」
まだ、なったばかりだけど。
一冊ちょっとしか、読んでないけど。
ヒメは甘ったるく笑う。
「ファンにねー、歴は関係ありませんよ。読みたい? これで読む?」
「駄目だ」
マコが怒って俺の目を手で覆う。
暗闇に、ヒメの声がとけるように響いてくる。
嵐士が好きな相手を知っているという、ヒメの声。
「しかもさ、これ、ホラーじゃないんだ。最後までこのままだったら、初だよ」
「……ホラーじゃない?」
そんなはずない。嵐士が書いていたのは、ホラー小説で、家守凪はホラー作家で、本人もそれしか書けないと言っていて……。
ヒメは重大なひみつを告げるみたいに、俺に言う。
「これ、恋愛小説だよ」
