話したこともないクラスメイトが、兄になりました。




「ただいまーおかえりー」
「おかえり、ただいま」

 靴を脱ぐのももどかしく、部屋に駆け込む。
 水族館からここまでずっと抱いていたものをソファーに下ろして、やっとひと息ついた。

「でかすぎだろ」

 デフォルメされた愛嬌たっぷりのカワウソは、つぶらな瞳でこちらを見返している。
 嵐士が当てた一等のぬいぐるみは人間の子どもほどの大きさがあって、しかもちょうど入るサイズの袋が切れてしまっているとのことで、剥き出しのまま腕に抱えて帰ってくるしかなかった。
 身長180前後の男ふたりが、このサイズのぬいぐるみを、大切そうに抱えて、だ。
 おかげで、街でも駅でも電車でもバスでも、めちゃくちゃ注目を浴びてしまった。

「ごめんね。小さいのが当たると思ってたんだけど」
「いーけど。欲しかったんだろ?」

 クジが当たったタイミングでみんなが合流したのは、ちょっと恥ずかしかったけど。
 でも、こんなぬいぐるみがあるんじゃ他には行けないよね、ということで早めの解散になったのは、嵐士にとってはよかったかもしれない。

「疲れた……」

 と、ソファーに寝転んでしまったから。
 ……これじゃ、俺たちが普通にただデートしたみたいじゃん。

「先風呂入る?」
「あー……あとででいいや。お先にどうぞ」

 お言葉に甘えて、さっさとシャワーを浴びた。
 イルカショーは見なかったけど、なんとなく全身に潮っぽいにおいが染み付いているような気がする。

 それを全部流して、髪もしっかりと洗ってから出ると、嵐士の頭はまだソファーの肘置きに載ったままだった。
 タオルで髪を拭きつつ、近寄る。
 カワウソは嵐士の腕の中から俺を見上げている。

「……寝てんの?」

 聞いても、返事はない。マスクはつけたままだけど、コンタクトは外したようだ。それにしても寝息という感じではない。
 カワウソを取り上げて、ダイニングの椅子に座らせた。そのまま戻って、じっと兄貴の顔を覗き込む。
 濡れた毛先から滴った雫が、整った顔に落ちた。

「……冷たい」
「寝たふりすんなよ」
「寝たって言ってないでしょ」

 目を閉じたまま言われる。
 なんだかむっとして、俺は嵐士の上に跨った。

「ちょっと、」

 一か所に体重を掛けないようにして、寝そべる。嵐士は驚いたようにこちらを見ている。
 ざまあみろ。いつもいつも驚かされている俺の気持ちも思い知れ。

「重い……」
「前は抱っこしてくれたじゃん」
「あれとは違うでしょ」

 でも、どけとは言わないんだ。
 首筋に顔を埋めると、汗と、嵐士のにおいがした。頭の芯がくらっとするような、そんなにおい。

「汗掻いてるから、くっつかないで」
「そうでもなくね?」
「そうでもある」

 ぐい、と押しやられたので渋々身体を起こす。
 嵐士もそのまま起き上がって、俺の隣……というか、向き合ってるから前というか、に座って頭を掻いた。

「……手、出して」
「手? 右? 左?」
「どっちでもいいから」

 右手を差し出すと、嵐士がそこにポケットから取り出した小さな包みを載せた。水族館のテープで封をしてある。

「え、なにこれ」
「開けて」

 慎重にテープを剥がし、中身を手のひらに取り出す。転がり出てきたのは、サメのキーホルダーだった。

「これ……」
「サメ、好きそうだったから」

 それから、自分の鍵を取り出して。

「俺のは、かわうそ」
「お揃い……って……ちょっと、かなり、恋人っぽいんだけど」
「でしょ」

 と、自慢げだ。
 でも、わかってるのか?
 俺たちは兄弟で、恋人じゃないんだってこと。

「……ヒメと、小説以外の話した?」
「ちょっとね」
「どんな?」
「気になる?」
「……まあまあ」

 強がって言うと、嵐士がマスクの下で笑う。
 大きな手が頬に触れた。

「教えてあげるから、お願い聞いてもらっていい?」
「い、いつも、聞いてやってるだろ」
「そうだね。俺は悠斗の兄弟だから」

 言いながら、端正な顔が近づいてくる。
 鼻先が擦れた。マスクの、がさっとした感触。

「もう少しだけ、恋人らしいことしていい?」
「……どんな」
「キス、とか」
「………………」

 心臓がうるさい。顔が熱い。嫌だ、と言えない。言えない理由に、気づきたくない。

「悠斗……」

 名前を呼ばれる。吐息が乱れる。コンタクトをしていない、きれいな黒い瞳。それが近くにありすぎて、焦点を合わせられない。

「悠斗」
「んっ」

 唇に、ごわついた不織布の感触があって、すぐに、その向こう側の、柔らかい唇の感触が追い付いてくる。

「ン、……ッ」

 ぎゅっと目を閉じる。
 嵐士の手はいつの間にかうなじの辺りにあって、俺の頭が逃げないように固定している。俺の手は嵐士のシャツを掴んで、離さない。
 何度も何度も齧るようにされて、直に触れられているわけじゃないのに、背筋をびりびりしたものが奔った。

「あ、らし……」

 名前を呼ぶと、嵐士はやっと顔を離す。でも、その目は全然満足していないと俺に告げてくる。
 あの目だ。あのシロワニの、獰猛な目。
 優美な体躯は獲物を捕らえるためだけに鍛え上げられている。
 あれは、嵐士に似ていたんだ。
 風呂上がり、寝転んでテレビを見ているとき、無防備に触れてしまったとき、なにかを堪えるように俺を見る、嵐士に。

「ねえ、もう一回キスしたい。してもいい?」
「兄弟は、キスなんか、しないだろ……」
「うん。でもいまは、恋人、だから」

 嵐士の手が、俺の手を取る。そっと、マスクを取るよう促す。
 俺は、自分の手がまるで操られるように嵐士のマスクを外すのを見ていた。
 指に柔らかいゴム紐が絡まる。黒いマスクが外れて、いつも見ている嵐士の顔が現れる。彫りの深い、野性味のある顔。少し上気した頬。厚みのある唇。
 それが、また、近づいてくる。

「嵐士……」
「やだ?」
「………………」

 ソファーの背に、追い込まれる。首根に手を誘導されて、あ、と思ったときには柔らかなものが唇に触れていた。

「ん……」

 優しく吸われて、齧られて、軽く引っ張られる。
 嫌だ、とは思わなかった。ただ、羞恥と戸惑いだけがあった。だって、こんなの、ごっこ遊びなんかのレベルじゃない。
 濡れたものに唇を隙間をなぞられて、驚いて顔を背ける。

「悠斗」
「も、おわり」

 と、たどたどしくなってしまう言葉にも、嵐士は笑ったりしない。「うん」と素直に頷いて、俺の、赤くなってしまった顔を撫でたり揉んだりする。

「……ヒメと、なに話したのか、教えろよ」
「うん。これは悠斗だけの秘密にしてね。……今日、谷町と会ってすぐ、あっちから言われた。「こういうことになってるのに申し訳ないけど、好きなひとがいる」って。だから、本当に小説の話だけさせて欲しいって」
「え……」
「だから俺も言ったんだ。「俺にも好きな相手がいるから、そうしてもらえるとありがたい」って。そのあとすぐ、彼女は俺の好きな人間を当てて見せたよ」
「え、え?」

 あまりにも急な展開に、脳がついて行かない。
 ヒメのことはいいとして……嵐士に、好きな相手がいる?
 そしてヒメは、その相手に気づいた?

「ちゃんと言えてなかったけど、悠斗のおかげで、小説は書けてる。むしろ書け過ぎてる。谷町が読んだあの短編は……本編に入れられなかった、俺の感情だ。吐き出さないと、頭がおかしくなりそうだった」

 嵐士はそう言って息を吐く。

「悠斗は、悠斗が自分で思ってるよりずっとたくさんのことを俺に教えてくれてるんだよ。信じられないくらい、たくさん」
「……どんな?」

 男の目が、ふいに優しくなった。

「俺はね、正直なところ、今回の本が売れたらその金でこの家を出ていくつもりだった。大学に入るほうが早かったかもしれないけど……でも、それくらい、ここに来るのは嫌だった」
「………………」
「親の再婚相手の家に引っ越す。しかもそこにいるのはあの学校一の美形で、女の子を振りまくってて有名な五十嵐悠斗。うるさい陽キャ集団にいて、俺のこともどうせ仲間内で笑い話にするんだろうってひねくれて考えてた。……でも、悠斗はそんな人間じゃなかった」

 抱き締められる。俺が逃げずに身体を預けると、嵐士は安堵したように続ける。

「俺は、本当に悠斗に感謝してる。尊敬してるし、助けられてる。それなのに悠斗はそれをわかってくれてなくて、谷町のことまで持ち出して、俺のことを遠ざけようとしたでしょ。……だから、拗ねてた。態度悪くしててごめん」
「……俺も、ごめん。……俺は、ただ、俺が……」
「うん」
「嵐士」
「大丈夫だよ。俺たちは兄弟になったんだから」

 その言葉が、鋭く胸を抉った。

 ああ、と思う。

 どうして、嵐士を遠ざけようとしたのか。
 どうして、今日、あんな気持ちになったのか。
 どうして、嵐士にこんなことをさせたのか。

 本当はもう、わかってた。
 わかりたくなかった。知りたくなかった。俺はずっと怖かった。

 俺の、この、嵐士に対する気持ち。たったひとりの特別な相手に対する――――執着が。

 でも、嵐士には、好きな相手がいる。
 俺は嵐士にとって兄弟で、ただそれだけの相手。
 わかってる。ずっとそうだったじゃないか。

 嵐士が俺に優しく触れるのは、抱き締めるのは、キスしたのは、恋人『ごっこ』をしていたから。
 小説のために、恋人というものを学びたかったから。
 嵐士のそのひたむきなところが、眩しくて、そしていま、憎くて堪らない。

 こんな気持ちに、なりたくなかった。
 ただなんとなく楽しくいられたら、よかったのに。

 それなのに、この執着は。

 この、恋、は――――。



 どこかで、ブンとスマホが振動した。
 立て続けに、何度も。
 嵐士が俺の身体を離す。あっさりと。

 俺と嵐士それぞれのスマホに、それぞれの親から、その連絡は届いていた。
 たくさんの写真。海に沈む奇麗なな夕焼けと、しあわせそうに寄り添い合う夫婦の姿。
 俺たちの、両親。

『そろそろ日本との時差が少なくなった頃だと思います。お土産、たくさん買えたよ。楽しみにしていてください。 お母さんより』

 それは、香穂里さんからの、初めてのメッセージだった。
 いままでは、ずっと、父さんから来ていたのに。

 顔を上げると、嵐士がこちらを見ていた。
 その表情でわかった。
 嵐士には、父さんから、連絡が行っているんだろう。

 あのふたりは俺たちの両親で、俺たちは――――。

「小説が順調に書けてるなら、恋人ごっこはもういいよな」
「悠斗?」
「父さんたちも帰ってくるし、そろそろ普通の兄弟に戻らないと」