話したこともないクラスメイトが、兄になりました。




 六月も後半に差し掛かり、約束の日曜日は薄曇りの空模様だった。

 今年の夏はあまり暑くならないんじゃないかと思えるような、少し肌寒さまで感じるような日。
 昨日はまた雨だったから湿度は高いけど、風もあって不快とまではいかない。
 そんな日に、俺たちは待ち合わせて、ここに――――。

「俺! 水族館! めっちゃ久しぶり!!」
「うるさっ……森、朝から元気すぎ!」
「えーミカちゃんも元気にはしゃごうよ~」
「小学生かよ!」

 来ています。
 みんなと。

 俺とマコにシュン、ミカちゃんにほなみにヒメ。そして――――。

「五十嵐のお兄さんこんにちはー!」
「俺らコンビニで会ったことあるんですけど! 覚えてます!?」
「……うん」

 いつもとまったく恰好を(俺が)変えてきた、嵐士。

「つか、五十嵐兄、やっぱかっこよくない? でっか・かっこよ。でっかっこよ!」
「睫毛なが! モデルさんだったりするんですかあ?」
「身長何センチですかあ?」
「ゆーくんとどういう関係なんですかあ?」
「はい、下がって下がって。うちの兄と喋りたいひとはマネージャー通してね」
「けちー! 五十嵐ー!」
「五十嵐兄を独占するなー」
「身長半分俺にくださーい!」
「はいはい。チケット買ってきてね」

 わちゃわちゃとふざけて列整理しながら窺うと、嵐士は緊張由来の気だるげな無表情になっていた。
 俺が初めてレストランで会った日みたいな感じ。
 眉毛を整え、ワックスでちょっとウェットな質感を足した髪はハーフアップに。さすがに全顔出すのはバレそうだったので、黒いマスクをしている。
 それでも……いやむしろ隠している部分があるからなのか、顔の良さが滲み出ているのが憎い。

 俺が前に雑貨屋で買ってつけていなかったシルバーのごつい指輪が、よく似合ってる。オーバーサイズの黒Tに濃い色のデニム。急遽購入したカラコンがごろごろするらしく、かすかに眉をしかめている。それも、治安悪めな魅力が出ていていい。
 我が兄ながら、惚れ惚れするというか。
 いつものもさもさも最近は良く見えてきていたんだけど、こうしてセットして見ると、あらためてかなりの美形……というか、男前だなあと思った。

 学校での極端な猫背は、緊張と「目立ちたくない」という感情から来るものらしく、背を伸ばすことを意識している今日の嵐士は、やっぱり普通に大きく、かなりスタイル良く見えた。
 いまは隣に華奢なヒメがいるから、さらに。

「じゃあ入ろうか。はぐれたらお土産コーナー集合ね!」
「ほら! 五十嵐も行こ!」

 ミカちゃんに腕を引っ張られる。
 促されるまま、俺たちは嵐士とヒメを置き去りにするみたいにして先に水族館に入った。
 みんな、そういう意味で気を使ってるんだ。






 ヒメに俺と嵐士の要望――話すのはいいけど、俺も同行。ついでに水族館に行きたい――を告げると、ヒメは少し悩んでからOKした。
 だってまあ、あからさまにデートの誘いっぽいのに、俺というお邪魔虫がくっついているわけだし。普通は意味がわからないだろう。

 人見知りだから、と濁したものの、やっぱりこの三人で出掛けるのって俺も意味がわからない。だから、みちるとかも誘う? って話してたのを、お祭り好きのシュンとミカちゃんに聞かれてしまった。
 みんなで行こーよ! と言われて、(大丈夫、わかってるから)と囁かれればそれはもううちの兄貴とヒメをくっつけようって意味で。
 嵐士のことだからそこまではいかないと思うけど……。

 でも、何事にも絶対はあり得ない。
 話してみたら、嵐士だってヒメのことを好きになるかも。ヒメのそれは、純粋にファン同士で話をしたいってだけなんだけど。

 それでもヒメは逆にみんながいたほうが楽しいかも、なんて言うし。
 嵐士に至っては、「もう何人いても同じだから好きにして」とか言う。

 その投げやりな言葉はちょっとショックだったけど、あんなに目立ちたくないと言っていた嵐士を引っ張り出そうとしているのは他でもない俺だ。ショックを受ける資格なんかない。

 この数日、嵐士のスタイリングについてああでもないこうでもないとやりあうのは楽しかったけど……そして出来栄えはそれはもう感動ものだったけど。
 それでもやっぱり、今日の嵐士は緊張している。

 でも、行かない、とは言わなかったんだ、あいつ。
 小説のためならなんでもやる、というようなその真っすぐな気持ちが、行動力が、俺には眩しくて……触っちゃいけない、とても尊くてきれいなもののように、思える。






 水族館のゲートを通ったあと、嵐士たちがふたりで話をできるように、俺たちは少しだけ離れて先を歩いていた。
 高校生のお小遣いで入れるくらいの水族館だけど(あのチケットのところはさすがにぱっと行けるタイプの場所じゃない)、通路もかなり明るくて清潔感があるし、淡水の水槽や海水の水槽、海獣のコーナーがあったりして、都会のど真ん中にあるのに結構ちゃんとした水族館だ。

「ペンギンだ! うわ、寄ってくる。かわいーなーこいつ」
「俺はカワウソ派」
「えー? このつるっとした感じ、よくない?」
「哺乳類がいい」
「水族館に来て言うこと?」

 シュンとマコが小声で話している。俺も一緒になってペンギンを見ながら、ちらりと背後へ目をやった。
 嵐士とヒメは、小声でなにか話をしている。水槽は見ずに、囁き合うようにして。嵐士のほうがだいぶ大きいから、少し腰を折ってやっている。
 それから、他のお客の邪魔にならないようにそっと壁際に誘導したり。

 ……なんだ。
 なんだ。普通に、恋人っぽいことできるんじゃん。

 ここまで来る道中、電車でも街中でも、俺たち兄弟は、というか嵐士は、かなり注目を浴びていた。あんなに男前なら当然だ。一緒にいた俺まで芸能事務所の名刺をもらってしまったくらいだし。(その名刺は嵐士が速攻捨ててしまった)
 ふたりでみんなを待っているときも、数人の女の子から声を掛けられた。

 でも、ヒメといる嵐士に声を掛けようなんて人間は誰もいない。
 それくらい、自然に、ああ付き合ってるんだな、と思える。

 嵐士とヒメ。
 男子と女子。
 他人。
 クラスメイト。
 兄弟じゃ、ない。
 これが、普通だ。

 ヒメと話す嵐士の表情は、どこか柔らかく見えた。
 なにかを熱心に話すその姿。
 こちらを見もしない嵐士の姿に、なんでか胸が痛い。

 俺が教えてやるとか、俺だけが知ってるとか、守るとか、そんなのはうぬぼれで。
 この男が夜森嵐士だと知っているのは確かに俺だけだけど。
 でも、近い将来、そうではなくなるのかも。
 それはきっと嵐士にとっては喜ばしいことだ。
 それはわかっているのに、俺は……。

「ねー、もうすぐイルカショーあるって! みんなで観よ!」

 ミカちゃんが何気ない仕草で腕を絡ませてくる。それに少しよろけそうになった俺を、反対側からマコが支える。

「悠斗、大丈夫か?」
「……なにが?」

 マコは軽く顔を顰める。あ、たまに嵐士がする表情だ。

「今日なんかテンション低いから。気分悪いか?」
「え、五十嵐大丈夫? ちょっと目が疲れるよね。どっか座る?」

 と、両側から俺の腕をさすったり、額に手を当ててみたりしてくれる。

「だいじょーぶ。兄貴がいるから緊張してるだけ」
「えー? なんで?」
「んー……授業参観みたいな?」
「あー、お互いにね」

 ミカちゃんはきゃらきゃら笑った。

「てか、似てないよねふたり。お兄さんのほうが静かだし。五十嵐ってもっと懐っこいのに」

 そういえば、女子組は俺たちが再婚でできたばっかりの、血の繋がりのない兄弟だとは知らないのか。
 それをわざわざ言う気分ではなくて「まあね」とだけ答えておいた。
 マコは少しなにか言いたげにしていたけれど、先に行っていたシュンとほなみが興奮した様子で戻ってきたのでそっちに気を取られたらしい。なにも言わないでいてくれた。

「イルカ! もう跳ねてる!」
「舜佑、声がでかい。もっと静かに」
「あれ? ゆーくんどったの? 気分悪そう」
「どうもしないんだけど……」

 なんか、そうやって口々に言われると、本当に体調が悪いような気がしてきた。

「大丈夫? イルカショーのとこ、座れるから行こうよ」
「おー……」

 外は、雲の隙間から太陽が差して明るく輝いていた。
 日差しはぎらぎらと強く、コンクリートの床が白っぽく反射して眩しい。
 濃くなる影。湿度。なまぐさい臭い。

 ――――暑い。

 前に行きたがるシュンたちを見送って後ろのほうに座ろうとした俺の背中に、そっとなにかが触れた。
 振り返らなくても、嵐士だ、とわかった。

 わかるくらい、覚えてしまった。

 振り仰いだ先、兄は小さく問う。

「イルカ、見たい?」
「……ううん」

 いまは、イルカの立てる波で水面が輝くのも、飼育員さんのマイクのノイズも、刺激が強くて堪らない。始まったら楽しいのかもしれないけど、見たいかと言われればそうでもなかった。

「こっち」

 と、腕を引っ張られる。
 嵐士は隣にいたヒメに向かって、

「じゃあ」

 と素っ気なく言う。
 え? と思っていると、ヒメもあっさり「うん」と頷いた。
 そして長い黒髪をさらさら揺らしながら、前にいるみんなのほうへ下りてゆく。

「そこさー、濡れる場所じゃない?」

 なんて言いながら。

 どうなってるんだ? 小説の話は?

 嵐士が俺の腕を引っ張る。手首を掴まれて、それから、涼しい館内に戻って、順路を進む。
 下へ降りる階段の正面の壁には、なぜか鏡が貼ってあった。それを見ながら降りていると、目が回る気がする。
 そんな俺を嵐士が支える。

「大丈夫?」
「うん」

 下まで降り切ったところで、そっと壁際に引き寄せられた。角度が変わって一枚になった鏡には、俺たちふたりが映っている。
 壁にもたれてそれを見る。
 ひんやりとした空気。水の音。魚たちの泳ぐカラフルなトンネルの、手前。薄暗いところ。真っ黒の髪、彫りの深い顔、身体に厚みのある嵐士。
 生まれつき少し色素の薄い俺とは、まったく似ていない。

 兄弟なのに。

 鏡の中の嵐士が、鏡の中の俺の手に、手を伸ばした。指が絡まる。

「深呼吸して」

 囁くように言われて、その通りにする。何度か繰り返すと、胸のむかつきや眩しさのようなものが治まった。

「落ち着いた?」

 目の前を、何組かのお客さんたちが通り過ぎてゆく。ただ立っているだけの俺たちに注目する人間は誰もいない。
 ああ、嵐士が好きなのは、こういうところなのか。
 誰からも見られないのは、楽だ。

 なんとなく、ごめんを言いたくなって、でもそれがどういう理由なのかは自分でもわからなくて、ただ寄り添う。
 たくましい肩に頭を預けると、繋いだ手をぎゅっぎゅっと握って確かめられる。
 もしくは、ここにいるよ、と確かめさせてくれる。
 それに甘えて、少しの間ぼんやりした。

 海のにおい。水音が反響して、足元で水を通ってきた光がゆらゆら揺れる。
 しばらくして、嵐士が呆れたように息を吐いた。

「なんか具合悪そうだなとは思ってたけど、無理しないでよ」
「してない。……ヒメは?」
「もう終わった」
「終わった?」

 嵐士は俺の頭に頭を擦り付ける。

「谷町が言ってたでしょ? 家守凪の新作の話をしたいって。それだけだよ」
「でも」
「短い話だったから、すぐ終わった。特に盛り上がらなかったし」
「ええ……?」

 じゃあ、あれはなんの話だったんだ。
 すぐに終わって盛り上がらなかったにしては、なんだか親密そうにしてなかったか?
 繋いだ嵐士の手、指が、俺の手を優しく撫でる。安心させるように。

「今日の悠斗は緊張しすぎ」
「え?」
「俺より、悠斗のほうが緊張してたでしょ。バレるんじゃないかって」

 してたけど。

「俺のほうが、はないだろ」
「あるよ。――――俺は、バレてもいいと思ってた」
「えっ」
「あいつらに、悠斗の兄貴は……悠斗と一緒にいるのは俺なんだって、バレちゃってもいいやって思って、ここに来た」

 嵐士は真剣な目でこちらを見ている。
 嘘や冗談じゃない。本当に知られてもいいと思っていたんだ。
 なんだよ、それ。

「バレたのか?」
「それは大丈夫そう。悠斗が変身させてくれたおかげ」

 驚く俺の手を、嵐士が引っ張る。

「追いつかれるから、行こ」
「ここで待つんじゃねーの?」
「はぐれたらお土産コーナーで、でしょ?」

 マスクをずらした悪戯っぽい笑みに、救われたような気になった。
 なんとなくそのままでも許される気がして、手を繋いだまま地下一階のフロアを巡る。
 トンネル型の水槽の中をゆっくりと歩き、大きな魚ばかりの水槽を覗き込む。くらげのコーナーでは「くらげに生まれたかった」なんて言う嵐士を小突いたり。

「見て、かわうそがこっち見てる」
「こいつらからしたら、人間観察スポットだよなあ」

 監視塔のような場所から人間を眺めるコツメカワウソは、どう見ても陸上にいそうな動物なのに、濡れていて、つるんとしていて、手には水かきもあって、不思議な生き物という感じが強い。

「……ちょっと、悠斗っぽい」
「え!? どこが?」
「顔」
「いやいや……」
「じゃあ、可愛いところ」
「じゃあってなんだよ」

 俺は、こんなにつるんとしてない。
 クスクス笑う嵐士が、また手を引く。
 ショーに出てしまっているイルカたちは不在だったけど、最後にシロワニという大きなサメがいた。サメといえば獰猛そうなイメージだったけど、暴れたりすることなくゆったりと泳いでいる。

 流線型の体に、特徴的な背びれ。小さな目。半開きの口の中には鋭く尖った牙が驚くほどたくさん生えていて、あれに噛みつかれたらきっと二度と放してはもらえないだろうな、と思う。
 シロワニがゆっくりとこちらに来る。目の前を、通った。
 目が合った。
 きれいな生き物だった。

「……サメってさ」

 嵐士が、耳元で囁く。

「うん?」
「生きてても、皮でわさびをすれるのかな?」
「台無しだよ」
「え、なにが?」

 慌てる嵐士を促して、先へ向かった。
 その大きなシロワニが最後の生物展示で、あとはお土産コーナーの売店やベンチ、そして出口があった。
 ちょっとレトロなお土産コーナーには、ちょっとレトロなキーホルダーとか、オリジナルクッキーとか、海のいきものぬいぐるみや文房具といったものがぎゅうぎゅうに陳列されている。
 父さんたちに、なにか買おうかな。いや、でも、あのひとたちこそいま旅行してるんだしなあ。

「なに見てるの?」
「父さんとお母さんに、なにか買おうかなって」
「ああ、いいね。俺も半分出すよ」
「なんにするかな」
「これどう? かわうそのキーホルダー」
「かわうそ?」
「それかあれは? かわうそのぬいぐるみ」
「でかすぎ!」

 嵐士が指さしている先には、ぬいぐるみクジ千円のPOPと、特大から小サイズまで、色々な種類のぬいぐるみが積んである。そもそも一等なんか当たるわけないし、欲しがってるならともかく、お土産がクジの景品なのはなんか変だろ。
 話し合った結果、無難に磁石が入っていてくっつくタイプの、イルカのペアキーホルダーにした。新婚だし、いちゃいちゃしてるし、ちょうどいいだろ。

「買って来るから、座ってろよ」
「あ、俺が行くよ。欲しいものあるからついでに」

 そう言って請け負った嵐士は、レジでなにやらまごついた挙句、大きな鐘を鳴らされていた。
 なにやってんだよ……。
 手招きされたから駆け寄ると、例のクジコーナーへ連れて行かれる。にこにこしている店員さんは、俺たちに愛想よく告げた。

「おめでとうございます! 一等は、この! 一番大きな子たちから選んでください!」
「……え?」

 一等、って。

「ごめん」

 嵐士が本当に申し訳なさそうに言った。

「ぬいクジ、一等当てちゃった」