ソウル・ステーション/ディセンバー

 キッチンで卵を割っていると、いつの間にか契斗が背後に立っていた。おれの背中に体を圧しつけ、背後から抱きついてくる。
「どうした?」
 上半身を捻って振り向くと、契斗のほうから首を伸ばしてキスしてきた。契斗が甘えてくるのは珍しい。思わずたじろいだ。
「観劇終わったら、ごはん食べ行こ」
「ああ、いいよ」
「弟さんもいっしょに」
 不意を衝かれ、はぐらかす余裕を失っていた。
「……知ってたのか」
 弟は芸名を使っていたし、どちらかというと父親似で、おれとは顔も似ていない。契斗がおれの家にきていたときは、後ろめたさもあって家族とはほとんど顔を合わせていなかったから、気づかないだろうと思っていた。舐めていたのはおれのほうだった。
「いつから知ってたの?」
「わりと最近。東京のゲネプロ行ったとき、なんとなく会話のなかで、地元近いねってなって」
 弟や母、義父とは10年以上会っていない。会いたいとも思わなかった。ミュージカルの内容が記されたパンフレットを契斗から見せられ、キャストの一覧表のなかに、すっかり人気俳優の仲間入りを果たした異父兄の名前を見つけたときには偶然に驚いた。おれの家族の問題で契斗の仕事を邪魔するわけにはいかないから黙っていたが、複雑な気分だった。
「ゆうてなくてごめん」
 契斗はおれの様子をうかがおうとするかのようにじっと見つめてくる。
「怒ると思ったから」
「べつに怒りはしないけど」
「じゃあごはん行ける?」
 逡巡した。年齢の離れた弟が生まれた頃にはおれはすでに荒れており、まともな会話を交わした記憶はほとんどなかった。
「おれのこと話したの?」
 答える代わりに聞き返した。
「まだやけど……」
 さすがに契斗は思慮深い。不用意にプライバシーに踏み込むことはしない。
「でも庸介くんに会いたがってると思う」
「それはないよ」
「なんで?」
「なんでって……」
「兄弟やんか」
 うまく説明できず、苦笑いした。長男のカミングアウトにぎこちなさが生まれてもすぐに絆を取りもどせる契斗の家とは事情がちがう。
 弟はもちろん、母親とも継父とも没交渉で、会いたいとも思わなかった。両親もおれの存在は忘れているだろう。次男が俳優として成功した今、不出来な長男の存在はむしろ疎ましいものになっているはずだ。契斗と出会って生活を改めたことなど知るよしもなく、今さら顔を出しても迷惑でしかないだろう。
 黙っていると、契斗が手を握ってきた。無言のまま握り返す。
「……なんでそんなに会わせたがるの」
 すこしの間、契斗の指のあたたかみを感じてから、いった。
「なんかあんの?」
「なんもないよ」
 返答が早すぎた。契斗は嘘に慣れていない。自覚もしているだろう。慌てて取り繕うように言葉をつなげた。
「庸介くんがおれの家族によくしてくれるみたいに、おれも庸介くんの家族に会いたいから」
 何度もおれの部屋にきていたが、未成年の男同士で性行為をしているうしろめたさから、両親や弟に顔を合わせづらかっただろう。
「それに、こういう仕事がきついこと多いの、おれもわかるから。だれか信頼できるひとが近くにいてくれたら安心できるんちゃうかなって」
 片手に持ったままだった卵の殻をシンクに放って、両手で契斗を抱きしめた。
「おまえもそうだったの?」
「おれがなに?」
「おれにそばにいてほしかった?」
 何度も尋ねようとして、そのたびに飲み込んだ問い。契斗は思案するように小さく唇を窄め、静かに答えた。
「正直、自分でもわからへんけど……」
 おれたちが離れた時間は正しかったのか間違っていたのか。契斗も考えていたのだろう。ゆっくりと呟いた。
「でも、おれには選択肢をくれたやんか」
 夾雑物のないまっすぐな瞳を向けてくる。
「選択肢か……」
 やわらかな髪の束を指先に纏わせながら、おれは天井を仰いだ。
「けどもし嫌やったら……」
「嫌じゃない。行くよ」
 おれの言葉に、契斗は表情を和らげた。
「ほんまに?」
「おまえとイケメン俳優をふたりにするほうが嫌だから」
 照れ隠しのつもりだったが、半分は本心だった。まったく、契斗の行動は予測がつかない。好きだと告白されたときも、突然韓国に行くといわれたときも、常に驚かされた。今もおなじだ。そしてその刺激をおれは好ましく感じていた。
「よかった。うれしい」
 契斗が安堵したようににっこり微笑む。澄んだ笑顔が、おれに自信を抱かせる。
「うれしいな……」
 契斗がもう一度、今度は息を吐きながら言葉を漏らす。おれの反応を危惧していたのか、はしゃいでいるように見えた。楽しげな様子を見ていると、おれの心の澱も消え去った。おれは決して楽天的な性質ではない。むしろ厭世的といえるだろう。それでも、契斗がいっしょならなにもかもうまくいくと思えた。
 弟と両親に受け容れられなかったとしても、構わなかった。過去のわだかまりに決着をつけるのも悪くない。すくなくとも、おれのなかに、親への不満や弟に対する劣等感はもうなくなっていた。契斗といるうちに、いや、契斗を待っている間にはいつの間にか消えていた。