「そこ座って」
契斗の手を引き、ベッドに座らせた。
「なにすんの?」
「マッサージしてやる」
「マッサージ?」
「疲れてるだろ」
おなじことを二度繰り返してしまう。下心はなかったが、誤解されたのではないかと一瞬慌てたが、契斗は遠慮しているように身を竦めた。
「そんなんええよ。悪い」
「いいから」
ベッドに座った契斗の左脚に触れる。シャワーを浴びて体温が上がり、湿って指先に吸いつく。ふくらはぎの筋肉を指圧すると、強張っていた体からすこし力が脱けた。
「痛くないか」
「うん、気持ちいい」
ゆっくりと筋肉を解していき、足首から踵にかけて入念に親指の腹を圧しあてる。リンパを流すと、血流がよくなっていく感覚を指先に感じた。
「マッサージ、上手やね」
おれの手もとを眺めながら、契斗がいう。
「どっかで習ったん?」
「職場に上手い奴がいてさ。たまにやってくれんだよ」
「なんの仕事?」
「ふつうの工事現場だよ」
「家つくったりとか?」
「まあそんな感じ」
「たいへんそう」
「そうでもないよ。おまえのほうが……」
マッサージをしていくうちに契斗もリラックスしてきたようだ。おれもどうにか落ち着きを取り戻せた。さりげなく咳払いをして、いった。
「おまえ、これからどうすんの?」
「え?」
「いや、今日でグループは終わりだろ?」
「ああ……」
ベッドの上で首を傾けて、契斗が答える。
「ハジュンはべつのグループで再デビューが決まってて、あとはべつの事務所に移る子も……」
「他の奴はどうだっていい。おまえのこと聞いてんだよ」
「おれは……」
右脚に移ろうと手を伸ばして、ぎくりとした。膝頭に近い場所に数ミリ程度の傷跡が残っていた。手術の痕だろう。触れると、筋肉がかすかに振動した。
「おれはもう引退かな」
予想していなかったわけではない。引退を決意したからこそおれを解散公演に招いたのだろう。それでも、胸が軋んだ。
「……まだやれんだろ」
スポットライトを浴びて踊る契斗の姿はまだ目に焼きついている。限界とはほど遠いように見えた。
右膝の裏に圧力を加えると、わずかに表情を歪めた。
「痛かったか?」
「ううん。筋肉が張ってるだけ」
「怪我の影響、まだあるのか?」
「まあ、すこしはね……」
靱帯を損傷するほどの重傷を負ったのだ。手術を受けたとはいっても、完全に元通りとはいかないのだろう。決して不注意ではない。それだけの無理を重ねてきたからこそ、夢を実現できたのだ。悔しい気持ちを口にはできなかった。「もったいない」の一言は、事務所や周囲の人間から散々聞かされたことだろう。
「日本に帰ろうかと思って」
おれの手もとを見つめたまま、契斗が呟く。
「ずっと帰ってないし、親のことも心配だから」
「お父さん、どうなんだ、様子は」
「前よりはよくなってるよ」
「そっか……」
「妹家族が転勤で大阪離れたから、今は母親が介護してて」
自然な口調ではあったが、家族を心配しているのがよくわかった。
「実家にもどるのか?」
「うん。長男なのにずっとなんもしてへんかったしね」
「事務所は退所?」
「あと1年くらい契約期間残ってるけど、その間は振付とか練習生の指導とかすることになってる。社長にはだいぶ前に話して、理解してくれてるし、スタッフとかメンバーも応援してくれてるから」
事務所としては譲歩の結果だろう。カミングアウトにしても、宿舎を出てひとり暮らしすることも含めて、韓国には珍しく、理解ある良心的な事務所らしい。契斗のアイドル人生が充実した幸せなものであったことは、この日のステージを見ただけでもよくわかった。
「ほんとにいいのか、それで?」
顔を上げると、契斗もおれを見つめ返してきた。視線が合うと、にっこり微笑んだ。
「うん」
晴れやかな笑顔だった。清々しく、潔い。思わず見惚れた。
「いろいろあったけど、じゅうぶんやれたんちゃうかなと思う。後悔は……まあ、もっとって気持ちも、ちょっとはね、あるけど……でも、自分のなかではちゃんと納得できてるから」
契斗の言葉は正直で、わずかな曇りもなかった。完璧に満足などできるはずがない。世界的に活躍するトップスターのなかにさえ、100%満足している人間はいないのではないか。
「怪我したのも、結果的には、無理しすぎたかもだけど、おれもともと才能あるわけちゃうし、ひとよりたくさん練習せなあかんかったから、しゃあないって思ってるよ」
黙って頷くしかなかった。惜しい気持ちもあったが、契斗の決断を尊重するほかはない。
「頑張ったな」
ダンスもマッサージも素人だが、爪先から踵、ふくらはぎに腿まで筋肉を確かめていくと、指先や掌から契斗の努力が伝わってくるようだった。
「えらかったよ。ほんと、頑張った」
右の膝頭を掌で包み、もう片方の手を契斗の背中に回した。軽くとんとんと叩いて、いった。
「お疲れさま」
契斗が顔を伏せた。頷いたのかと思ったがちがった。丸まった肩が震えている。ぎょっとした。契斗の目から涙がこぼれていた。
正直なところ、驚いた。活動期間中に契斗が涙を見せたことは一度もなかったとハジュンはいった。その契斗が、おれの前で睫毛を濡らしている。溢れた涙の筋が頬を流れるのを見たとたん、胸が詰まって、いとおしさがこみ上げた。
「ごめん。おれ……あー、なんでやろ。泣かないって決めてたのに……」
手の甲で雑に涙を拭いながら、照れたように笑う。
「……だいじょうぶか」
「うん、だいじょうぶ。やっと、なんか、実感湧いてきた」
明るい口調だったが、一度溢れた涙が止まることはなかった。
「後悔とかではないんやけどね。足痛いとか、練習きついとか、そんなんももう全部、明日からなくなるんやなって思ったら、寂しくて……」
ぎこちなく言葉を切って、顔を伏せる。数時間前まで大勢の前でステージに立ち、圧倒的な存在感を放っていたのとおなじ人間には思えないほど、だれよりも強い精神力を持ち、仲間を導き、ファンを魅了し続けてきた契斗とは別人に思えるほど、小さく、か弱い存在に見えた。
だれよりも真剣に、必死で夢を追いかけてきた。最後を迎えるというときに、心乱れないはずがない。ファンや仲間の前ではふだんどおりに振る舞い、元気な姿を見せていた契斗がはじめて溢れさせた本音だった。
気づくと、両腕で契斗の体を抱きしめていた。契斗は一瞬戸惑ったように身を縮こまらせたが、拒まなかった。おれの肩に頭を乗せて、小さく鼻を啜っている。
言葉はひとつも出てこなかった。契斗もなにもいわなかった。ただおれは契斗を抱きしめ、契斗はおれに身を委ねていた。ふたつの体を隔てる距離が消え、離れていた時間の隙間が消えた。契斗の肩口に顔を埋め、契斗の匂いを嗅ぎ、契斗の体温を感じていた。
契斗の手を引き、ベッドに座らせた。
「なにすんの?」
「マッサージしてやる」
「マッサージ?」
「疲れてるだろ」
おなじことを二度繰り返してしまう。下心はなかったが、誤解されたのではないかと一瞬慌てたが、契斗は遠慮しているように身を竦めた。
「そんなんええよ。悪い」
「いいから」
ベッドに座った契斗の左脚に触れる。シャワーを浴びて体温が上がり、湿って指先に吸いつく。ふくらはぎの筋肉を指圧すると、強張っていた体からすこし力が脱けた。
「痛くないか」
「うん、気持ちいい」
ゆっくりと筋肉を解していき、足首から踵にかけて入念に親指の腹を圧しあてる。リンパを流すと、血流がよくなっていく感覚を指先に感じた。
「マッサージ、上手やね」
おれの手もとを眺めながら、契斗がいう。
「どっかで習ったん?」
「職場に上手い奴がいてさ。たまにやってくれんだよ」
「なんの仕事?」
「ふつうの工事現場だよ」
「家つくったりとか?」
「まあそんな感じ」
「たいへんそう」
「そうでもないよ。おまえのほうが……」
マッサージをしていくうちに契斗もリラックスしてきたようだ。おれもどうにか落ち着きを取り戻せた。さりげなく咳払いをして、いった。
「おまえ、これからどうすんの?」
「え?」
「いや、今日でグループは終わりだろ?」
「ああ……」
ベッドの上で首を傾けて、契斗が答える。
「ハジュンはべつのグループで再デビューが決まってて、あとはべつの事務所に移る子も……」
「他の奴はどうだっていい。おまえのこと聞いてんだよ」
「おれは……」
右脚に移ろうと手を伸ばして、ぎくりとした。膝頭に近い場所に数ミリ程度の傷跡が残っていた。手術の痕だろう。触れると、筋肉がかすかに振動した。
「おれはもう引退かな」
予想していなかったわけではない。引退を決意したからこそおれを解散公演に招いたのだろう。それでも、胸が軋んだ。
「……まだやれんだろ」
スポットライトを浴びて踊る契斗の姿はまだ目に焼きついている。限界とはほど遠いように見えた。
右膝の裏に圧力を加えると、わずかに表情を歪めた。
「痛かったか?」
「ううん。筋肉が張ってるだけ」
「怪我の影響、まだあるのか?」
「まあ、すこしはね……」
靱帯を損傷するほどの重傷を負ったのだ。手術を受けたとはいっても、完全に元通りとはいかないのだろう。決して不注意ではない。それだけの無理を重ねてきたからこそ、夢を実現できたのだ。悔しい気持ちを口にはできなかった。「もったいない」の一言は、事務所や周囲の人間から散々聞かされたことだろう。
「日本に帰ろうかと思って」
おれの手もとを見つめたまま、契斗が呟く。
「ずっと帰ってないし、親のことも心配だから」
「お父さん、どうなんだ、様子は」
「前よりはよくなってるよ」
「そっか……」
「妹家族が転勤で大阪離れたから、今は母親が介護してて」
自然な口調ではあったが、家族を心配しているのがよくわかった。
「実家にもどるのか?」
「うん。長男なのにずっとなんもしてへんかったしね」
「事務所は退所?」
「あと1年くらい契約期間残ってるけど、その間は振付とか練習生の指導とかすることになってる。社長にはだいぶ前に話して、理解してくれてるし、スタッフとかメンバーも応援してくれてるから」
事務所としては譲歩の結果だろう。カミングアウトにしても、宿舎を出てひとり暮らしすることも含めて、韓国には珍しく、理解ある良心的な事務所らしい。契斗のアイドル人生が充実した幸せなものであったことは、この日のステージを見ただけでもよくわかった。
「ほんとにいいのか、それで?」
顔を上げると、契斗もおれを見つめ返してきた。視線が合うと、にっこり微笑んだ。
「うん」
晴れやかな笑顔だった。清々しく、潔い。思わず見惚れた。
「いろいろあったけど、じゅうぶんやれたんちゃうかなと思う。後悔は……まあ、もっとって気持ちも、ちょっとはね、あるけど……でも、自分のなかではちゃんと納得できてるから」
契斗の言葉は正直で、わずかな曇りもなかった。完璧に満足などできるはずがない。世界的に活躍するトップスターのなかにさえ、100%満足している人間はいないのではないか。
「怪我したのも、結果的には、無理しすぎたかもだけど、おれもともと才能あるわけちゃうし、ひとよりたくさん練習せなあかんかったから、しゃあないって思ってるよ」
黙って頷くしかなかった。惜しい気持ちもあったが、契斗の決断を尊重するほかはない。
「頑張ったな」
ダンスもマッサージも素人だが、爪先から踵、ふくらはぎに腿まで筋肉を確かめていくと、指先や掌から契斗の努力が伝わってくるようだった。
「えらかったよ。ほんと、頑張った」
右の膝頭を掌で包み、もう片方の手を契斗の背中に回した。軽くとんとんと叩いて、いった。
「お疲れさま」
契斗が顔を伏せた。頷いたのかと思ったがちがった。丸まった肩が震えている。ぎょっとした。契斗の目から涙がこぼれていた。
正直なところ、驚いた。活動期間中に契斗が涙を見せたことは一度もなかったとハジュンはいった。その契斗が、おれの前で睫毛を濡らしている。溢れた涙の筋が頬を流れるのを見たとたん、胸が詰まって、いとおしさがこみ上げた。
「ごめん。おれ……あー、なんでやろ。泣かないって決めてたのに……」
手の甲で雑に涙を拭いながら、照れたように笑う。
「……だいじょうぶか」
「うん、だいじょうぶ。やっと、なんか、実感湧いてきた」
明るい口調だったが、一度溢れた涙が止まることはなかった。
「後悔とかではないんやけどね。足痛いとか、練習きついとか、そんなんももう全部、明日からなくなるんやなって思ったら、寂しくて……」
ぎこちなく言葉を切って、顔を伏せる。数時間前まで大勢の前でステージに立ち、圧倒的な存在感を放っていたのとおなじ人間には思えないほど、だれよりも強い精神力を持ち、仲間を導き、ファンを魅了し続けてきた契斗とは別人に思えるほど、小さく、か弱い存在に見えた。
だれよりも真剣に、必死で夢を追いかけてきた。最後を迎えるというときに、心乱れないはずがない。ファンや仲間の前ではふだんどおりに振る舞い、元気な姿を見せていた契斗がはじめて溢れさせた本音だった。
気づくと、両腕で契斗の体を抱きしめていた。契斗は一瞬戸惑ったように身を縮こまらせたが、拒まなかった。おれの肩に頭を乗せて、小さく鼻を啜っている。
言葉はひとつも出てこなかった。契斗もなにもいわなかった。ただおれは契斗を抱きしめ、契斗はおれに身を委ねていた。ふたつの体を隔てる距離が消え、離れていた時間の隙間が消えた。契斗の肩口に顔を埋め、契斗の匂いを嗅ぎ、契斗の体温を感じていた。



