公演終了から数時間後、おれは契斗と部屋にふたりでいた。ホテルの部屋ではない。契斗が弘大に借りているワンルームマンションの一室だ。ソウル駅にもほど近いエリアで、家賃も安くはないはずだ。かなり狭く、部屋の中央にベッドがあるだけで、ソファもテーブルもなかった。
所属事務所の宿舎には無料で住むことができる。しかし、カミングアウト後、気を遣わせてしまうからという理由で契斗のほうから事務所に申請し、自ら宿舎を出たのだそうだ。同室のハジュンも他のメンバーも気にしないだろうと思うのだが、契斗らしいといえば契斗らしい話だ。小さなワンルームとはいえ、ソウル近辺の家賃は日本の都心以上に高騰している。振付や翻訳のアルバイトをしているということだが、負担は大きいはずだ。
コンサート会場から宿舎に向かう他メンバーやスタッフと別れ、ふたりで電車に乗った。メイクを落とし、衣装からラフなパーカーとデニムという姿になった契斗はごくふつうの青年にもどり、サングラスやマスクで顔を隠さなくても、芸能人だと気づかれることはなかった。
会場にはスタッフがいたし、週末の駅は混雑していて、プライベートな会話をするのは憚られた。日本語がわかる人間がいるかもしれず、かといって、他愛ない世間話で時間を埋めるには、離れていた時間が長すぎた。結果的に、ふたりともほぼ無言のまま、電車を降り、マンションへの道のりをすこし離れて歩いた。
公演で汗をかいたからと、契斗は部屋に入ってすぐにバスルームに入った。ひとり残されたおれは、どうしていいかわからず、とりあえずベッドに浅く腰掛けて契斗が出てくるのを待っていた。
バスルームは目の前で、シャワーを浴びている契斗の気配をすぐそこに感じる。湯がタイルを叩く水音がいやに大きく耳に響き、落ち着かない気分になった。
緊張が高まり、座っていられなかった。何年も会えず、会いたくて狂いそうになっていた契斗と再会しただけでなく、部屋にふたりきりだ。冷静でいられるはずがない。
立ち上がり、室内をうろついた。小さなワンルームだ。端から端まで行き来しても、ほとんど円を描いているようになった。
楽屋で契斗が姿を現したとき、その顔を直視できず、つい視線を逸らしてしまった。再会したら話そうと準備していた言葉は瞬時に吹き飛び、胸が詰まってなにもいえなくなってしまった。写真や映像を見つめるだけの時間が長すぎて、恋人や友人というよりもファンの目線になっていたことも影響したと思う。周囲にスタッフが何人もいる状況もあり、ぎこちない空気になった。
会場を出てからも常に微妙な距離が保たれていた。契斗は韓国の券売機に不慣れなおれのために電車の切符を買ってくれたが、切符を手渡したときに軽く指先が触れただけで、おれは過剰に意識してしどろもどろになってしまった。
どこか店に入るものと思っていたのが、部屋に招かれると知って、さらに動揺した。密室にふたりきりという状況に緊張し、うろたえてしまった。契斗の目には不審に映っただろう。
契斗がバスルームに入り、ひとりになると、たちまち自己嫌悪に襲われ、いたたまれなくなった。もっと自然な態度を取るべきだった。個人的な話はしづらくとも、お疲れさまと一言、労をねぎらうなり、公演の感想を伝えるなり、やりようはあったはずだ。契斗の姿を見て頭が真っ白になって、呆然と立ち竦むことしかできなかった。
深呼吸する。契斗がつかっている香水の匂いがする。練習生時代から愛用していた香水だ。懐かしい記憶が甦り、たまらない気持ちになった。
几帳面な性格の契斗らしく、きれいに整頓され、掃除が行き届いた部屋だった。自宅で過ごす時間がすくないのか、生活感に乏しい。
キッチンを覗いてみる。最低限の食器と調理器具。冷蔵庫のなかには豆腐やキムチ、豚バラ肉などの食材に、ミネラルウォーターのペットボトルが入っていた。
部屋のなかに男の影が見つからないことに安堵していた。5年は短くない。他に好きな男ができていてもおかしくなかった。
「なにしてんの?」
背後で声がして、飛び上がりかけた。いつの間にかシャワーを終えた契斗がTシャツにハーフパンツ姿で立っていた。濡れた髪をタオルで拭きながらおれを見ている。
「あ、いや……」
勝手に冷蔵庫を開けていたことへの後ろめたさで口籠もった。上気させた契斗の頬と露出した腕や膝から目を逸らす。
「その、ちょっと……」
「喉渇いたの?」
契斗がおれの脇を通り抜けて冷蔵庫を覗き込む。濡れた髪と白いうなじが見えて、緊張が高まった。おれに背を向け、契斗は冷蔵庫のなかを物色している。
「気がきかなくてごめん。ビールとか買ってこよか」
「いや、おれ飲まないから」
「気遣わなくてええよ。すぐそこやし」
「酒はやめたんだよ」
「そうなん?」
「煙草も今はやってない」
「へえ……」
意外そうに目を見開いたが、それ以上会話は続かなかった。前のめりになってしまった気がして、おれも口を噤んだ。再びぎこちない空気が流れ、室内を沈黙が支配した。
「あ、ならコーヒーとか……」
「いいって」
その場を離れようとする契斗の前に咄嗟に立ちはだかった。
「ライブ終わって疲れてんだろ。そっちこそ気遣うなよ」
距離が縮まって、契斗の息づかいを感じた。
所属事務所の宿舎には無料で住むことができる。しかし、カミングアウト後、気を遣わせてしまうからという理由で契斗のほうから事務所に申請し、自ら宿舎を出たのだそうだ。同室のハジュンも他のメンバーも気にしないだろうと思うのだが、契斗らしいといえば契斗らしい話だ。小さなワンルームとはいえ、ソウル近辺の家賃は日本の都心以上に高騰している。振付や翻訳のアルバイトをしているということだが、負担は大きいはずだ。
コンサート会場から宿舎に向かう他メンバーやスタッフと別れ、ふたりで電車に乗った。メイクを落とし、衣装からラフなパーカーとデニムという姿になった契斗はごくふつうの青年にもどり、サングラスやマスクで顔を隠さなくても、芸能人だと気づかれることはなかった。
会場にはスタッフがいたし、週末の駅は混雑していて、プライベートな会話をするのは憚られた。日本語がわかる人間がいるかもしれず、かといって、他愛ない世間話で時間を埋めるには、離れていた時間が長すぎた。結果的に、ふたりともほぼ無言のまま、電車を降り、マンションへの道のりをすこし離れて歩いた。
公演で汗をかいたからと、契斗は部屋に入ってすぐにバスルームに入った。ひとり残されたおれは、どうしていいかわからず、とりあえずベッドに浅く腰掛けて契斗が出てくるのを待っていた。
バスルームは目の前で、シャワーを浴びている契斗の気配をすぐそこに感じる。湯がタイルを叩く水音がいやに大きく耳に響き、落ち着かない気分になった。
緊張が高まり、座っていられなかった。何年も会えず、会いたくて狂いそうになっていた契斗と再会しただけでなく、部屋にふたりきりだ。冷静でいられるはずがない。
立ち上がり、室内をうろついた。小さなワンルームだ。端から端まで行き来しても、ほとんど円を描いているようになった。
楽屋で契斗が姿を現したとき、その顔を直視できず、つい視線を逸らしてしまった。再会したら話そうと準備していた言葉は瞬時に吹き飛び、胸が詰まってなにもいえなくなってしまった。写真や映像を見つめるだけの時間が長すぎて、恋人や友人というよりもファンの目線になっていたことも影響したと思う。周囲にスタッフが何人もいる状況もあり、ぎこちない空気になった。
会場を出てからも常に微妙な距離が保たれていた。契斗は韓国の券売機に不慣れなおれのために電車の切符を買ってくれたが、切符を手渡したときに軽く指先が触れただけで、おれは過剰に意識してしどろもどろになってしまった。
どこか店に入るものと思っていたのが、部屋に招かれると知って、さらに動揺した。密室にふたりきりという状況に緊張し、うろたえてしまった。契斗の目には不審に映っただろう。
契斗がバスルームに入り、ひとりになると、たちまち自己嫌悪に襲われ、いたたまれなくなった。もっと自然な態度を取るべきだった。個人的な話はしづらくとも、お疲れさまと一言、労をねぎらうなり、公演の感想を伝えるなり、やりようはあったはずだ。契斗の姿を見て頭が真っ白になって、呆然と立ち竦むことしかできなかった。
深呼吸する。契斗がつかっている香水の匂いがする。練習生時代から愛用していた香水だ。懐かしい記憶が甦り、たまらない気持ちになった。
几帳面な性格の契斗らしく、きれいに整頓され、掃除が行き届いた部屋だった。自宅で過ごす時間がすくないのか、生活感に乏しい。
キッチンを覗いてみる。最低限の食器と調理器具。冷蔵庫のなかには豆腐やキムチ、豚バラ肉などの食材に、ミネラルウォーターのペットボトルが入っていた。
部屋のなかに男の影が見つからないことに安堵していた。5年は短くない。他に好きな男ができていてもおかしくなかった。
「なにしてんの?」
背後で声がして、飛び上がりかけた。いつの間にかシャワーを終えた契斗がTシャツにハーフパンツ姿で立っていた。濡れた髪をタオルで拭きながらおれを見ている。
「あ、いや……」
勝手に冷蔵庫を開けていたことへの後ろめたさで口籠もった。上気させた契斗の頬と露出した腕や膝から目を逸らす。
「その、ちょっと……」
「喉渇いたの?」
契斗がおれの脇を通り抜けて冷蔵庫を覗き込む。濡れた髪と白いうなじが見えて、緊張が高まった。おれに背を向け、契斗は冷蔵庫のなかを物色している。
「気がきかなくてごめん。ビールとか買ってこよか」
「いや、おれ飲まないから」
「気遣わなくてええよ。すぐそこやし」
「酒はやめたんだよ」
「そうなん?」
「煙草も今はやってない」
「へえ……」
意外そうに目を見開いたが、それ以上会話は続かなかった。前のめりになってしまった気がして、おれも口を噤んだ。再びぎこちない空気が流れ、室内を沈黙が支配した。
「あ、ならコーヒーとか……」
「いいって」
その場を離れようとする契斗の前に咄嗟に立ちはだかった。
「ライブ終わって疲れてんだろ。そっちこそ気遣うなよ」
距離が縮まって、契斗の息づかいを感じた。



