ソウル・ステーション/ディセンバー

 公演終了後、スタッフパスを首に提げた女性に日本語で声をかけられた。彼女の案内で客席を抜け、バックステージに入った。
 大人数のスタッフが行き交う廊下を通り、スタッフやメンバーが待機するために用意された複数の部屋の一室に通された。
 6畳ほどの小さな部屋は無人で、空き部屋なのか、荷物も置かれていなかった。スタッフからはなにも聞かされず、ただ待っているように指示されただけだった。
 パイプ椅子に座り、壁を見つめたまま待っていると、背後で物音がした。
 ドアが開かれる音。振り返った。ハジュンが立っていた。まだメイクをしたままで、衣装のシャツを着ている。
「なんだよ、おまえかよ」
 無意識に緊張していたようで、拍子抜けした。
「すいません」
 アイラインを引き、髪を鮮やかなブルーに染めたハジュンはタオルで汗を拭きながら首を窄めた。ステージを終えたばかりの余韻で頬を上気させている。ステージを下りてからも泣いたのか、かなり瞼が腫れていた。
 おれのほうも似たようなものだ。ステージ上の契斗を見た瞬間から涙がこみ上げて、最後まで感情があふれるのを抑えるのに必死だった。だからあえてハジュンの様子を揶揄するようなことはなかったし、ハジュンも指摘してはこなかった。
「お礼がいいたくて」
 デビュー前は片言だった日本語はさらに上達して、発音も滑らかだった。
「ありがとうございました」
「いや、こっちこそ。いいステージだった」
「そうじゃなくて」
 ハジュンが泣きはらした目でおれを見つめる。ハジュンにとっても一言では表しきれないほど多くのことがあった5年間だっただろう。複雑な眼差しだった。
「本当にすみませんでした」
 おれに向かって深々と頭を下げる。謝罪と礼がなんのためか、聞かなくてもわかっていた。
「謝るな。おまえは悪くない」
 5年もの間、契斗と会えなかった。しかしそれはおれが選んだ結果で、ハジュンに責任はなかった。
「契斗ヒョンが傷つくと思ってたんです。おれたちも。でも、そうじゃなかったかも……」
 声がわずかに掠れたのは罪悪感のためだろうか。頭を垂れた姿勢のまま、呟いた。
「おれ、庸介さんのこと、誤解してました。取り返しのつかないことしてしまいました」
「誤解じゃないよ」
 ハジュンの昏い声を打ち消すようにいった。
「確かにおれは最低のクズだった。契斗の近くをうろついてたら迷惑をかけることになってた」
 生き馬の目を抜く芸能界で、すねに傷を持つ人間を近くにおくことはリスクでしかない。おれの存在も、おれとの過去も、契斗の夢に陰をさすことになれ、助けになるようなものには決してならないはずだ。5年前にもどったとしても、おなじ選択をする。
「でも、契斗ヒョンはそばにいてほしかったと思います。おれがよけいなことしなければ……」
「いや、おまえは契斗を守ってくれた。責めるどころかむしろ感謝してる」
 顔を上げたハジュンはまた涙を滲ませていた。それほど弱気な男には見えないから、今日は箍がはずれてしまったのだろう。
「泣くなって。本当に責めてないから」
「はい……」
 大きな体を折り曲げるようにうなだれる。つい数十分前まではスポットライトを浴びて華やかなパフォーマンスを見せていたというのに、まるで十代の学生のようだ。
「庸介さん、なんか雰囲気変わりました」
「そうか?」
 真剣な眼差しに見つめられ、照れた。ハジュンとも5年ぶりに顔を合わせる。変化は当然だ。しかし外見のことでないとわかっていた。
 おれが変わったとしたら、それは間違いなく契斗のおかげだ。直接会わなくても、写真や映像で契斗の活躍を見ているだけで、勇気と活力を得られた。
 幼少時代に歪な業界に身を置いていたこともあり、歌手だの俳優だのという職業がどうしても好きになれなかった。嫌悪していたといってもいい。間違っていた。だれかを応援し、見つめることで強くなれる。契斗の存在がおれの心を溶かし、闇を照らしてくれた。契斗はおれの希望だった。
「契斗ヒョン、呼んできます」
「ああ……」
 契斗に会えるのだと考えると、また緊張してきた。
「その……あいつ、だいじょうぶか」
 おれがそばにいればというハジュンの言葉が気になっていた。おれの視線を受け止め、ハジュンは小さく笑った。
「契斗ヒョン、今日ひとりだけ泣いてなかったでしょ」
 確かに、他のメンバーが全員泣き崩れるなか、契斗は仲間を慰め、気遣うだけで、自らは涙ひとつ見せることはなかった。
「契斗ヒョンが泣くとこ見たひとだれもいないです。庸介さんは見たことありますか?」
 一度だけ見たことがあった。韓国に渡るとおれに打ち明けた日。突き放すおれに縋りつき、別れたくないと懇願した。あのとき、契斗は夢を叶えるためにすべてを棄てる覚悟を決めたのかもしれない。
「契斗ヒョンは強いです。カミングアウトしたときも、怪我したときも、つらかったはずなのに、弱いところは一度も見せなかったです。契斗ヒョンがいたから、みんなここまでやってこれました。苦しいこともたくさんあったけど、乗り越えられたのは、契斗ヒョンのおかげです」
 おれの誇り。おれの光。契斗の存在を支えにしてきたのはおれだけではない。メンバーやスタッフ、ファンにとっても、契斗は大きな存在だった。小柄な体でいったい何人の人生を変えてきたのか。つくづくすさまじい人間だ。
「なんか怖いな」
 独白のつもりが、つい口をついて出てしまった。
「なにがですか」
「いや、なんか……」
 契斗が遠くなってしまった気がして、あれほど切望していた再会を前に、臆する感情が芽生えていた。気持ちが変わらなければ迎えにきてほしいと契斗はいった。おれの気持ちが変わるはずはない。だが、契斗のほうはどうだろうか。もう何年も話していない。ほかの男に心を移してしまったのではないか。もともとおれへの感情はなかったのではないか。ありとあらゆる不安がざわざわと押し寄せた。
「だいじょうぶです」
 情けない本心を吐露したおれをハジュンは笑わなかった。真剣な表情ではっきりといった。
「契斗ヒョンはずっと待ってたと思います」
「……ほんとにそう思うか?」
「はい、思います」
 ハジュンの一言に背中を押された気がした。自分でも意外だった。強張っていた筋肉がほぐれ、思わず笑みを浮かべた。ハジュンもにっこり微笑んだ。立場はちがっていたが、契斗を見守り、契斗に支えられたおれたちの間には、奇妙な連帯感が生まれていた。
「じゃあ、ヒョン、また」
「ヒョン?」
 身近な目上の人物に対して親しみを込めて「兄貴」や「兄さん」のような意味合いで呼ぶ言葉だ。呼ばれたのははじめてだった。
「あ、すいません。嫌でしたか?」
「いや、べつにいい」
 この若く美しい男がなぜこんなにも気に障るのか。単純な劣等感だと思っていたが、それだけではなかった。ハジュンはもう10年近く会っていない弟を思わせる。おれより若く、美しく、才能にあふれた弟だ。以前のおれは目を逸らしていた。今では思い出すのもそれほどつらくはない。
「契斗ヒョンのこと、よろしくお願いします」
 もう一度頭を下げて、ハジュンは出て行った。
 おれは立ち上がり、ドアのほうを向いて待った。自分が契斗にふさわしい人間だとは今も思えない。しかし、契斗が求めてくれるのなら、そばにいたかった。抱きしめて、声をかけて、今度はおれが支えたかった。契斗といられる男になりたかった。
 廊下を歩く足音。目の前で、ドアがゆっくりと開いた。