ソウル・ステーション/ディセンバー

「……庸介くんは」
 耳を澄ませていなければ聞き取れないほどの小さな声で、契斗は呟いた。
「庸介くんは、おれのこと好きとかいうくせに、そばにいてほしいときにいてくれへんし、全然やさしくないし、勝手なことばっかり」
 なにひとつ反論できなかった。契斗の口調が平坦で感情を読み取れないことに、焦りが募った。
「契斗……」
「もうええ」
 ため息とともに、契斗はいった。
「もう庸介くんには頼らない。ほかのひとに頼む」
 絶句した。全身の血液が瞬時に冷えた。失敗した。伝わらなかった。契斗に拒絶された。契斗が離れていく実感に殺されそうだった。
 弁解したかったが、方法がわからない。言葉を失っていると、契斗の笑う声が聞こえた。
「嘘」
 狼狽えているおれに、契斗は楽しげに笑いながらいった。
「嘘やって。ほかのひとなんかいるわけないやん」
 契斗の言葉にも、すぐには冷静さを取りもどせなかった。ほかの男といる契斗の姿が頭に浮かび、簡単には消せなかった。
「おまえ……」
 まだ動悸がおさまらない。なんとか口を動かしたが、言葉がうまく出てこなかった。ぎこちない呻き声を漏らすと、契斗はますます楽しそうに笑った。
「勘弁しろよ。クソおもしろくもない冗談……」
「そっちが先に意地悪いうたんやろ」
「意地悪って……」
 おれが呼吸を乱していることで、契斗は満足そうだった。軽やかに笑って、いった。
「ありがと、庸介くん」
 さっきまでは沈鬱な様子だった声が軽くなっているように聞こえた。
「なんかちょっと元気出たかも」
「……ほんとか?」
「うん。庸介くんいってたとおり、おれ、弱気なってた」
 吹っ切れたようにも感じられるが、声だけでは想像することしかできない。顔を見て安心したかった。もどかしさが募るばかりだった。
「……だいじょうぶか」
「だいじょうぶ。もう平気」
「そっか……」
 安堵する一方、取り縋りたい衝動に駆られた。契斗のほうから会いにくるといい出したのに、拒んでしまった。契斗を取りもどす絶好のチャンスを自らふいにしてしまった。
「なあ、やっぱデートくらいするか?」
「なんでよ」
 契斗がまた笑う。心から楽しそうで、さっきまでの曇りが消えていた。ほっとして思わず目を閉じた。瞼の裏に契斗の笑顔が浮かんだ。まるで目の前にいるかのように鮮やかで、体温や匂いさえ感じられそうに思えた。
「おれね、ほんまはちょっと疑っててん」
「なにを」
「庸介くんがおれのこと本気で好きなわけないって」
「はあ? なんだよ、それ」
「体目的とかそういうふうなんかなって」
「ちょっと待て、ふざけんなよ……」
「ごめん」
「おれはほんとにおまえが……」
「うん。今ちょっとわかった」
「……ほんとにわかってんの?」
「うん」
 穏やかな口調だった。傷ついて弱っている契斗をやさしく包み込むどころか、突き放してしまったことに後悔しかけていたが、柔和ながら強い生命力を感じさせる契斗の声は、自分の判断が間違っていなかったと思わせてくれた。
 すこしの間、ふたりとも黙った。気まずい沈黙ではなかった。互いに、相手がいいたいことを理解していた。
「もう行かないと」
「ああ……」
 名残惜しく、スマホを耳からはずせなかった。
「けど、おまえ、マジでしんどくなったらいえよな」
「うん」
「おれじゃなくてもいいけど、周りの奴にちゃんと頼って、ひとりで抱え込むなよ」
「うん、そうする」
「でも他の男よりはおれにしろよ」
「わかったって」
 また契斗が噴き出す。やわらかな声はいつもの契斗だった。その声を聞いただけで心が凪いだ。独占欲や性欲は生まれず、ただあたたかな気持ちで胸が埋め尽くされた。
「庸介くん」
「ん?」
 わずかな間を措いて、契斗は呟いた。
「いつかおれがアイドルやめるとき……」
「おい、そういうこというなよ」
「いつかやって。今すぐちゃうよ」
 慌てるおれをやさしく諫めて、契斗はいった。
「おれが引退するときにもまだ好きやったら、おれのこと迎えにきて」
 胸が詰まって、すぐには反応できなかった。おれの返事を待つことなく「じゃ」と短い言葉の直後に電話は切れた。
 無意識に耳に圧しつけていたらしく、スマホは高熱になり、こめかみに鈍い痛みを感じた。手に汗をかいており、スマホが滑り落ちそうになった。両手でしっかりと握りしめ、深く息をつく。その場に座り込み、うなだれた。スマホを持ったままの両手を後頭部にあてて、体を丸める。
 はじめての感情だった。生まれてはじめて、自分自身を誇らしく思えた。欲望を満たすよりも相手を優先させたからではない。契斗を愛しているからだ。契斗を好きでいることがおれの唯一の誇りだった。
 いつの間にか、ライブハウス周辺からはファンの姿がなくなっていた。契斗たちやスタッフは裏口から出るはずだ。鉢合わせにならないよう、足早にその場を離れた。心なしか、体が軽い。おそらくもう契斗から連絡がくることはないのに、満ち足りていた。
 契斗の行動により、彼自身の心身が蝕まれる事態になれば、すべてを棄ててでもそばにいるつもりだった。しかし、そんなことにはならないだろうと思った。契斗はだれよりも逞しい。おれなどよりもはるかに強い人間だ。
 それでも、アイドルは一生涯続けられる仕事ではない。契斗にもその日はいつか必ずくる。できることなら、一日でも先であってほしいと、心の底から祈っていた。