ソウル・ステーション/ディセンバー

 翌日の月曜、仕事が終わると、久しぶりに京浜東北線に乗って都内へ向かった。行き先は馴染みのある新宿ではなく、これまで縁のなかった丸の内だ。
 平日の午後だが、人通りは多かった。おれは作業服のままで、糊のきいたスーツに身を包んで足早に歩く会社員らしき男女のなかで完全に浮いていた。
 改札を抜けたとたんに目の前に迫る巨大なビル群に圧倒された。スマホを見つめながら、マップを頼りに目的地へと向かう。
 国内では知らないもののない巨大企業である製薬会社は、オフィス街のなかでもとりわけ背の高いビルのなかに入っていた。
 1階の受付で来客を迎える女性社員は、街にもビルにも似つかわしくない汚れた作業服姿のおれを見て、一瞬怪訝な表情になった。朋大の名と社名を告げると、すぐに機械的な笑顔を顔に貼りつけた。彼女が内線電話をかけてしばらく待つと、朋大がエレベータで降りてきた。
 朋大はおれの顔を見ても表情ひとつ変えなかった。無言で顎をしゃくり、ビルの外へ向かって歩きはじめた。受付嬢の好奇心丸出しの視線を背中に感じながら、後を追った。
 ビルの外にある小さな喫茶店に入った。注文したコーヒーがくるまで、朋大は一言もしゃべらなかった。熱いコーヒーを一口啜ってから、いった。
「いきなりこられると困ります」
「ごめん……」
 おれは目の前のコーヒーには口をつけず、俯いていた。
「電話しても出ないから……」
「職場にくるかね、ふつう」
 相変わらず無表情で、口調も平坦ではあったが、怒っていることはわかった。むしろ、こうして感情を見せないときのほうが、怒りは大きく深い。いっしょに暮らしたのはわずかな期間ではあったが、それだけはおぼえていた。
 怒るのも当然だ。朋大にしてみれば、おれの顔など二度と見たくはなかっただろう。会社ではカミングアウトもしていない。突然勤務先に押しかけてこられては迷惑でしかないはずだ。
「痩せた?」
 コーヒーカップに口をつけ、目だけをおれに向けて、朋大がいった。
「え?」
「顔小さなったから」
 指摘されて、思わず自分の顎に手をやった。無精髭が指の腹を刺す。
「そうかな」
「ダイエットしたん?」
「いや……」
 寮の部屋に鏡は据えつけられていない。自分では意識していなかったが、たしかに、ホストを辞めて工場での仕事に移ってからは体が軽くなった気がする。
「仕事がハードだからかも」
「肉体労働?」
「解体作業員」
「たいへんそう」
「そうでもない。朝早いけど、規則正しい生活で、慣れると楽だよ」
「へえ……」
 顔を合わせるのは1年ぶり以上になる。会話はすぐに途切れ、気まずい沈黙が流れた。
 オフィス街にぽつんと佇む古い喫茶店はBGMもなく静かで、月曜の午後という時間帯のせいもあってか客の姿はまばらだった。
 朋大が煙草を取り出し、火をつける。箱を差し出されたが、首を振った。
「煙草はやめた」
「禁煙中?」
「いや、完全にやめた。今は全然吸ってない」
「嘘やん」
 朋大がはじめて表情を変えた。いっしょに住んでいた頃のおれはかなりのヘビースモーカーだったから、驚くのも無理はない。朋大の唇の隙間から漏れ出る煙を見つめる。視線が合い、すぐに逸らされた。
「で?」
 煙草の煙とともに短い声を吐き出す。
「いくら必要なん?」
 灰皿の上に灰を落としながら、尋ねてくる。
「なに?」
「お金やろ?」
 朋大は眉ひとつ動かさなかった。当然のようにいった。金の無心にきたと思っているのだ。慌てて首を振った。
「ちがう。そういうんじゃない」
「ちゃうの?」
「そういうことできたんじゃないよ」
「じゃなんなん?」
 朋大が腕を組んでおれを見る。思わず怯みかけたが、視線を逸らさずにいった。
「その……おまえに謝りたくて」
 朋大が眉間に皺を寄せる。なにをいっているのかわからないといった表情だ。
「なんについて?」
「なにっていうか……全部」
 それなりに決意を固めてきたつもりだったが、やはりいざとなると口籠もってしまう。テーブルの下で指を組みながら、いった。
「ほら、おれ、最低だっただろ、いっしょにいるとき。金食い虫だし、アル中だし、性病も……」
「大きな声やめて」
 窘められ、慌てて声を顰める。蝶ネクタイを締めた初老のマスターはカウンターで洗いものをしていた。ほかの客もこちらに気を向ける様子はなかった。他人の会話に関心などないのだろう。
「……いうとくけど」
 灰皿に煙草を圧しつぶしながら、朋大がいう。
「ぼくもう新しい相手おるからね」
 おれを見る眼差しにはまだ警戒心が濃かった。
「彼氏できたのか」
 頷く。右手の薬指に指輪が嵌まっていることにようやく気づいた。
「そっか……」
 シンプルなデザインだが、見るからに高価そうな指輪だった。
「彼氏、どんな奴?」
「どんなって……ふつうのひとよ」
「いくつくらい?」
「年上」
「やさしい?」
「すごくね。バツイチだし、若干禿げてるけど、ぼくのこといつもいちばんに考えてくれてる」
 朋大の声がわずかにやわらいだ。無表情ではあるが、顔色はよく、おれといたときよりもはるかに落ち着いて見えた。
「よかったな」
 視線を伏せ、呟くようにいった。
「ほんとよかった……」
 朋大が幸せそうにしているからといって、自分の過ちを帳消しにできるわけではない。それでも、ほっとした。朋大がおれを見る。眼鏡の奥の瞳がわずかに揺れた。
「あ、心配すんなよ。よりをもどしたいってわけじゃないから。ただ謝りたかっただけで……」
「謝ってどうすんの」
 冷ややかな声だった。朋大が2本目の煙草を咥える。
「それはあの……ただの自己満だってわかってるんだけど、どうしても……その、借りてた金も返したかったし」
「謝る必要なんかないで。お金もいらない」
 煙を吐きながら、朋大は静かにいった。
「自分の意思であんたとおったんやから。謝られるほうが嫌やな、ぼくは」
 相変わらずの無表情で、なにを考えているのかはわからなかった。唯一わかるのは、朋大がおれなどよりもはるかにおとなであることだった。おれはガキで、愚かで、朋大の寛容さに甘えていただけだった。
「庸ちゃん、変わったね」
 うなだれているおれを見て、朋大はいった。
「外見ちゃうで。中身ね」
「そうかな」
「ええと思うよ」
 責められているのかと思ったが、どうやらちがうらしい。朋大は指先で眼鏡をなおしながら、小さく笑った。朋大のこんな笑顔を見たのははじめてだった。考えてみれば、いっしょに暮らしていた頃、おれはこれほどまっすぐ朋大と向き合い、顔を見つめたことがあっただろうか。自分の間抜けさにつくづく嫌気がさした。
「そっちは?」
 朋大が聞き返してくる。
「好きなひとと付き合えた?」
「いや……振られた」
「そう」
 はじめてコーヒーに口をつけた。すこし冷めてはいたが、いい味だった。そういえば、朋大はコーヒーが好きで、豆にもこだわっていた。朝まで飲んで帰宅したときにコーヒーの香ばしい香りがしたことを、なぜかふと思い出した。
「でもまだ好きなんやね」
 黙って頷いた。一瞬躊躇ったが、嘘はつきたくなかった。朋大はもう一度笑った。穏やかな表情だった。
「もうこないでな」
 煙草の箱にライターをしまって、朋大はいった。
「ぼくのこと考える気持ちがあるんやったら、もう庸ちゃんのこと忘れさせて」
 なにもいえなかった。おれのような男を朋大は本気で愛してくれていた。その真心に、おれはなにを返したのか。
「さよなら、庸ちゃん」
 喫茶店を出て、職場のビルにもどっていく朋大の背中をおれはいつまでも見つめつづけていた。言葉にすれば気を悪くさせてしまうから、心のなかで何度も謝った。朋大がいつまでも幸せでいられるようにと、何度も願った。