「ヨウさーん」
仕事が休みの日曜、近所のスーパーに向かう途中で、ぎこちない日本語に呼び止められた。振り向くと、おなじ職場で働いている工員仲間のパキスタン人だった。小さな少女の手を引いている。
「おう」
軽く手を挙げて応える。
「娘さん?」
幼稚園児くらいに見える女の子は警戒している様子で父親の陰に隠れている。
「お菓子買いにきました」
娘の頭を撫でながら、ふだんの仕事中とはちがう父親の顔を見せる。おれよりもすこし年上のはずだが、いつも腰が低く、不平不満を口にすることもない。子どもがいるとは聞いていたが、会ったのははじめてだった。
「何歳?」
「4歳です」
父親の膝をしっかりとつかんで、女の子が緊張した顔でおれを見上げている。
「奥さんは?」
「赤ちゃんと留守番です」
妻は2番目の子を妊娠中だと聞いていた。家族を養うためにシフトを増やして必死に働きながら、休日には子守や買いものを担う。年齢や国籍に関係なく、素直に尊敬の念を抱いた。
安い給料のわりに人づかいが荒く、作業に危険も伴う解体業の現場は万年人手不足だった。日本人だけでは賄えず、職場にはパキスタン人やクルド人、ベトナム人など外国人も多かった。故郷で仕事にありつけない者や様々な状況で国を追われた者もいる。それぞれ細かい事情を聞くことはなかったが、みな一様にどうにか日本で生活を立て直そうとしていた。なかには親の代から日本に住んでいる在日二世もいた。
「ヨウさんは、奥さんいないですか?」
浅黒い肌の同僚が無邪気に質問してくる。苦笑いで首を窄めた。
「彼女つくらないですか?」
「いや、そういうのはいいかなって」
「もったいないですよ。イケメンなのに」
「おれ好きなひといるからさ」
つい口を滑らせてしまい、羞恥をおぼえた。職場の休憩時間に家族や恋人の話題になってもさりげなく避けてきた。思いがけず子連れの同僚と偶然会ったことで、気が抜けてしまったのかもしれない。
「ごめん。今のは忘れて」
掌で口元を押さえていった。
「なんでですか」
「振られたから。かっこ悪いだろ」
「かっこ悪くないですよ」
ぐずりはじめた娘を軽く抱き上げながら、同僚がいう。
「そんなに思われるなんて、幸せなひとですね」
にこにこ笑ってそういわれると、よけいに羞恥心が増す。
なんとなく、なりゆきで契斗を思い出した。日本での公演に行ってから1年ほどたっていた。おれの生活は職場が廃品工場から解体作業場へと変わったこと以外はとくに大きな変化もなく、相変わらず質素で無機質な日々を送っていた。ハジュンとの約束を守り、契斗に直接会いに行くことはしなかったが、グループの公式サイトやSNSで活動の様子はまめにチェックしていた。
ワールドツアーを行えるほどの人気グループほどとはいわないまでも、契斗たちの努力がすこしずつ実を結び、着実にファンを増やしているようだった。SNSのフォロワー数が増加し、公演会場が大きくなっていく肯定を見守るのは楽しかった。
「ヨウさん」
無意識に考えに耽っていたようで、すぐには気づかなかった。
「あ、ごめん、考えごとしてたわ」
「だいじょうぶですか」
曖昧に頷く。こうしてふとしたときに契斗のことを考える。1年顔を合わせていなくても、ネットを通じて毎日顔を見ているから、思い出すのは難しくなかった。
正直なところ、契斗に会いたくてしかたがなかった。写真や映像を見るたびに会いたい気持ちが募って叫び出しそうだった。それでも、契斗の足を引っ張りたくないという思いでどうにか耐えていた。カメラの前で笑顔を弾けさせ、全身を使って自身を表現する契斗の姿を見れば、退屈な日常のなかにも希望の光を見いだせた。
「そうだ、ヨウさん。今度うちに遊びにきてくださいよ。奥さんがパキスタン料理を……」
歩道で立ち止まって話していると、すぐ隣を通り過ぎた男があからさまに舌打ちした。おれたちを見て顔をしかめたから、偶然ではない。あきらかに侮蔑の意味がこめられていた。
咄嗟に足を止め、振り返ろうとしたが、同僚に腕をつかんで制された。無言でおれを見て首を振る。
埼玉県内には外国人も多く住んでいるが、このような人種差別はなくなるどころか、ネットの影響もあり増加傾向にある。仕事中に無遠慮な視線を向けられることもすくなくなかった。
日本人のおれは直接被害を受けることはなかったが、当事者にとっては身の危険を感じることも多いだろう。外国人だという理由で差別感情を抱き、敵意を剥き出しにする輩の思考回路はまったく理解できない。
しかし、かつてのおれもまた、韓国のオーディション番組を冷めた眼差しで見ていた。芸能界への軽蔑だけでなく、韓国人に対する差別的な視点も含まれていた自覚があった。夢を叶えるために必死になることに国など無関係だと、今ならわかる。
幸い、4歳の娘はすれちがっただけの通行人の悪意には気づいていないようだった。小さな指先で父親の髭を弄びながら、外国語でなにか歌っている。
無邪気な子どもの前でヘイトを向けてきた男に怒りを感じたが、当事者が求めない以上、もめごとを起こすわけにもいかない。けっきょく、ほとんど黙ったまま、スーパーへ向かった。
舌打ちを堪えた。契斗といるときには忘れていたが、この世はクソだし、社会は汚れきっている。
「じゃあな」
スーパーの入り口で別れる間際、同僚に向かって声をかけた。
「なんかあったらいえよ」
おれになにができるわけでもないし、気休めにしかならないのはわかっていたが、口に出さずにいられなかった。
パキスタン人の同僚は不思議な目でおれを見て、いった。
「ありがとうございます」
再びにっこり笑って、頭を下げた。
「ヨウさん、いいひとですね」
「はあ?」
「ヨウさんみたいなひとがいるから、ぼくは日本が好きです」
片手で娘を抱き、もう片方の手でショッピングカートを圧しながらスーパーに入っていく同僚の背を見送った。父親の肩にしがみついていた娘がふと振り返り、おれに向かって手を振った。
子どもに手を振り返しながら、おれは複雑な気分だった。同僚は思いちがいをしている。おれは決して善人ではない。おれがこれまでにしてきたことを知れば、彼も考えを変えるだろう。
多くの家族連れで混雑した日曜のスーパーマーケットの正面入り口で、おれはしばらくの間立ち尽くしていた。
仕事が休みの日曜、近所のスーパーに向かう途中で、ぎこちない日本語に呼び止められた。振り向くと、おなじ職場で働いている工員仲間のパキスタン人だった。小さな少女の手を引いている。
「おう」
軽く手を挙げて応える。
「娘さん?」
幼稚園児くらいに見える女の子は警戒している様子で父親の陰に隠れている。
「お菓子買いにきました」
娘の頭を撫でながら、ふだんの仕事中とはちがう父親の顔を見せる。おれよりもすこし年上のはずだが、いつも腰が低く、不平不満を口にすることもない。子どもがいるとは聞いていたが、会ったのははじめてだった。
「何歳?」
「4歳です」
父親の膝をしっかりとつかんで、女の子が緊張した顔でおれを見上げている。
「奥さんは?」
「赤ちゃんと留守番です」
妻は2番目の子を妊娠中だと聞いていた。家族を養うためにシフトを増やして必死に働きながら、休日には子守や買いものを担う。年齢や国籍に関係なく、素直に尊敬の念を抱いた。
安い給料のわりに人づかいが荒く、作業に危険も伴う解体業の現場は万年人手不足だった。日本人だけでは賄えず、職場にはパキスタン人やクルド人、ベトナム人など外国人も多かった。故郷で仕事にありつけない者や様々な状況で国を追われた者もいる。それぞれ細かい事情を聞くことはなかったが、みな一様にどうにか日本で生活を立て直そうとしていた。なかには親の代から日本に住んでいる在日二世もいた。
「ヨウさんは、奥さんいないですか?」
浅黒い肌の同僚が無邪気に質問してくる。苦笑いで首を窄めた。
「彼女つくらないですか?」
「いや、そういうのはいいかなって」
「もったいないですよ。イケメンなのに」
「おれ好きなひといるからさ」
つい口を滑らせてしまい、羞恥をおぼえた。職場の休憩時間に家族や恋人の話題になってもさりげなく避けてきた。思いがけず子連れの同僚と偶然会ったことで、気が抜けてしまったのかもしれない。
「ごめん。今のは忘れて」
掌で口元を押さえていった。
「なんでですか」
「振られたから。かっこ悪いだろ」
「かっこ悪くないですよ」
ぐずりはじめた娘を軽く抱き上げながら、同僚がいう。
「そんなに思われるなんて、幸せなひとですね」
にこにこ笑ってそういわれると、よけいに羞恥心が増す。
なんとなく、なりゆきで契斗を思い出した。日本での公演に行ってから1年ほどたっていた。おれの生活は職場が廃品工場から解体作業場へと変わったこと以外はとくに大きな変化もなく、相変わらず質素で無機質な日々を送っていた。ハジュンとの約束を守り、契斗に直接会いに行くことはしなかったが、グループの公式サイトやSNSで活動の様子はまめにチェックしていた。
ワールドツアーを行えるほどの人気グループほどとはいわないまでも、契斗たちの努力がすこしずつ実を結び、着実にファンを増やしているようだった。SNSのフォロワー数が増加し、公演会場が大きくなっていく肯定を見守るのは楽しかった。
「ヨウさん」
無意識に考えに耽っていたようで、すぐには気づかなかった。
「あ、ごめん、考えごとしてたわ」
「だいじょうぶですか」
曖昧に頷く。こうしてふとしたときに契斗のことを考える。1年顔を合わせていなくても、ネットを通じて毎日顔を見ているから、思い出すのは難しくなかった。
正直なところ、契斗に会いたくてしかたがなかった。写真や映像を見るたびに会いたい気持ちが募って叫び出しそうだった。それでも、契斗の足を引っ張りたくないという思いでどうにか耐えていた。カメラの前で笑顔を弾けさせ、全身を使って自身を表現する契斗の姿を見れば、退屈な日常のなかにも希望の光を見いだせた。
「そうだ、ヨウさん。今度うちに遊びにきてくださいよ。奥さんがパキスタン料理を……」
歩道で立ち止まって話していると、すぐ隣を通り過ぎた男があからさまに舌打ちした。おれたちを見て顔をしかめたから、偶然ではない。あきらかに侮蔑の意味がこめられていた。
咄嗟に足を止め、振り返ろうとしたが、同僚に腕をつかんで制された。無言でおれを見て首を振る。
埼玉県内には外国人も多く住んでいるが、このような人種差別はなくなるどころか、ネットの影響もあり増加傾向にある。仕事中に無遠慮な視線を向けられることもすくなくなかった。
日本人のおれは直接被害を受けることはなかったが、当事者にとっては身の危険を感じることも多いだろう。外国人だという理由で差別感情を抱き、敵意を剥き出しにする輩の思考回路はまったく理解できない。
しかし、かつてのおれもまた、韓国のオーディション番組を冷めた眼差しで見ていた。芸能界への軽蔑だけでなく、韓国人に対する差別的な視点も含まれていた自覚があった。夢を叶えるために必死になることに国など無関係だと、今ならわかる。
幸い、4歳の娘はすれちがっただけの通行人の悪意には気づいていないようだった。小さな指先で父親の髭を弄びながら、外国語でなにか歌っている。
無邪気な子どもの前でヘイトを向けてきた男に怒りを感じたが、当事者が求めない以上、もめごとを起こすわけにもいかない。けっきょく、ほとんど黙ったまま、スーパーへ向かった。
舌打ちを堪えた。契斗といるときには忘れていたが、この世はクソだし、社会は汚れきっている。
「じゃあな」
スーパーの入り口で別れる間際、同僚に向かって声をかけた。
「なんかあったらいえよ」
おれになにができるわけでもないし、気休めにしかならないのはわかっていたが、口に出さずにいられなかった。
パキスタン人の同僚は不思議な目でおれを見て、いった。
「ありがとうございます」
再びにっこり笑って、頭を下げた。
「ヨウさん、いいひとですね」
「はあ?」
「ヨウさんみたいなひとがいるから、ぼくは日本が好きです」
片手で娘を抱き、もう片方の手でショッピングカートを圧しながらスーパーに入っていく同僚の背を見送った。父親の肩にしがみついていた娘がふと振り返り、おれに向かって手を振った。
子どもに手を振り返しながら、おれは複雑な気分だった。同僚は思いちがいをしている。おれは決して善人ではない。おれがこれまでにしてきたことを知れば、彼も考えを変えるだろう。
多くの家族連れで混雑した日曜のスーパーマーケットの正面入り口で、おれはしばらくの間立ち尽くしていた。



