ソウル・ステーション/ディセンバー

「おれと契斗とはなんの関係もねえよ」
 嘘をついたわけではない。過去の関係は完全に精算されている。契斗もおなじ認識のはずだった。
「わかってます」
 ハジュンは頷いた。おれの言葉を疑わないのは、おれというよりも契斗のほうを信頼しているのだろう。
「おれが契斗になにかすると思ってんのか」
「思わないです。でも、庸介さんがくると、契斗ヒョンの態度が変わります」
 ハジュンのいわんとすることがわからなかった。戸惑いの表情を浮かべていたのだろう。ハジュンが小さく息をついて、いった。
「契斗ヒョンは庸介さんが好きですね?」
 思わず笑いそうになった。ハジュンの鋭さも完璧ではないらしい。
「わからないですか? 庸介さんがくると、契斗ヒョンはいつもとちがいます」
「おまえの気のせいだろ」
「気のせいじゃないです。さっきも庸介さんと話してうれしそうでした。他のひとと全然ちがいます」
 ハジュンはまったく笑っていなかった。真剣な眼差しでいった。
「ステージでもいつもとちがうんです。なんていうか、変な力が入ります。いいことではないです。他のメンバーやマネージャーはまだ知ってないですけど、すぐ知ると思います。ファンの子たちも……」
 ハジュンの表情を見て、事態の深刻さにようやく気づいた。同時に、ハジュンの言葉が頭のなかを高速で駆け巡っていた。
 契斗がおれを好き。そんなことがありえるのか。契斗からははっきりと拒絶されたし、学生時代の気持ちも今となっては曖昧だといっていた。本心だったのか、それともあえておれを遠ざけようとしたのか。契斗の気持ちを知ることは、おれには難しかった。おれが契斗にしたことやそれによって契斗が受けた傷を考えれば、ハジュンの言葉を簡単には信じられない。
「庸介さんも契斗ヒョンが好きですか?」
 シンプルな言葉遣いのせいか、それとももともとそういう性格なのか、ハジュンの質問は率直で飾りがなかった。
「おれは……」
「好きですよね?」
 ソウルで契斗と5年ぶりに再会した日のことを思い出す。ハジュンとどんな会話をしたかまでははっきりおぼえていないが、突然連れてこられた若い美男を疎ましく感じていたことは明確に記憶している。ハジュンへの態度は穏やかなものではなかっただろう。
「好きなら、契斗ヒョンを応援してください」
 そのとき、ハジュンの言葉の意味を完全に理解できた。おれに身を引けといっているのだ。
「中途半端にできることじゃないです。みんな人生賭けてます。絶対失敗できないです」
 デビューは契斗の目標だった。しかし終着点ではない。本当に厳しい戦いはここからで、契斗も他のメンバーもグループの活動に全力を尽くしている。文字どおり生活のすべてだった。おれが割り込める余地はない。
 異常と思う人間もいるだろう。あきらかに仕事の範疇を超えている。しかし、常識の枠に収まっていては、厳しい韓国芸能界で生き残ることはできない。わずかな不安要素も取り除きたいと考えるのは当然だった。
「もしわかってもらえないなら、今ここで倒れます」
 ハジュンが唐突にいった。意味がわからなかった。誤った日本語をつかっているのかと思ったが、ちがった。ハジュンは表情にわずかな緊迫感を含ませて、続けた。
「ここで倒れて、庸介さんに暴力されたってマネージャーにいいます。そうしたら、庸介さんはもうこれなくなりますね?」
 忠告ではない。脅迫だった。その気になればおれを出入り禁止にすることは可能なわけだ。
 ハジュンの口調は静かで、態度も冷静ではあったが、強い覚悟を感じさせた。理不尽に脅されても、怒りは湧かなかった。契斗のいる世界がどんなものなのか、知っているつもりで、まるでわかっていなかった。契斗だけではない。ハジュンも他のメンバーたちもみんななにかを犠牲にしている。望むものすべてを手に入れられるわけではない。
「そんなことしなくていい」
 おれも静かに答えた。膝の前で指を組み、いった。
「おまえのいうこと、よくわかった」
 ハジュンは無言だったが、おれから目を逸らすことはなかった。その視線をしっかりと受け止め、いった。
「もう顔見せないよ」
「本当ですか?」
「ああ。約束する」
 はっきりと答えた。契斗がおれを好きかどうかははかれないが、自分の気持ちは自信を持って口にすることができた。
「おまえにいわれなくても、自分で気づくべきだった」
 椅子から立ち上がり、頭を下げた。
「邪魔をする気はなかった。申し訳ない」
 おれが素直に呑むと思っていなかったのか、ハジュンは一瞬たじろいだ。おれとおなじように立ち上がり、頭を垂れた。
「ごめんなさい」
「謝るな。おまえが正しい」
 格好をつけたわけではない。本心からハジュンに同意していた。おれにとってももっとも重要なのは契斗の夢であり、グループの成功を阻む弊害にはなりたくなかった。
 ハジュンが顔を上げる。緊張がやわらいだのか、表情がわずかに緩んだように見えた。ハジュンにとってもよく考えたうえでの決断だったのだろう。他人の恋愛に口を出すような軽薄な男には見えないし、契斗はもっとも尊敬する先輩で仲間のはずだ。同性愛者と知ってもなんの偏見も持たず、今でもおなじ部屋でふつうに生活できることがその証拠だ。
「ありがとうございます」
 ハジュンはもう一度頭を下げた。理不尽な要求に対して謝罪しているのだが、言葉の奥には罪悪感が覗けた。ハジュンもまたなにかを失ったのだろう。
「怒られると思いました」
 安堵したのか、美しく揃った白い歯を覗かせる。この決断にいたるまでに、ハジュンもすくなからず悩み、迷ったのだろう。無愛想に見えたのは敵意ではなく緊張だった。
「怒るわけない」
 怒りの感情はなかった。以前までのおれなら、自尊心を損なわれたと不機嫌になっていただろうし意地を張って対抗しようとしたかもしれない。だが、ハジュンの気持ちはよくわかった。おれとは異なる視点から、ハジュンも契斗を慮っている。そのことが痛いほど理解できた。
「契斗のこと、頼む」
 おれも再度頭を下げ、ハジュンも腰を低くした。
 おれはハジュンを誤解していた。若く、完璧なスタイルと美貌を持つ彼は、いわば存在そのものがベネフィットだと思い込んでいた。しかし、ポーカーフェイスの裏では血の滲むような努力と苦悩を重ねてきたのだろう。自ら汚れ仕事を買って出るほど、ハジュンもまた人生を賭けている。
 正直なところ、羨ましかった。ハジュンも契斗も他のメンバーやスタッフも全員がおなじ目標に向かって脇目も振らずにただまっすぐ突き進んでいる。一方のおれにはなにもない。しかし、唯一できることがあった。ハジュンがいうように、契斗に会いたいという気持ちに蓋をして、契斗の前から姿を消す。契斗にとってもそれが最善だと信じられた。おれが唯一契斗にしてやれることだ。躊躇う必要はどこにもなかった。
 ハジュンに見送られ、スタッフの案内で再び会場を出た。帰宅するため駅へと向かう。今度は振り返らなかった。