ソウル・ステーション/ディセンバー

 振り向くと、立っていたのは契斗ではなかった。
「ハジュン?」
 衣装から私服に着替えたハジュンがおれを見下ろしていた。一瞬、忘れものでもしたのかと思った。おれを呼びつけたのが契斗ではなくハジュンであるとは思わなかった。
「お久しぶりです。庸介さん」
 狼狽えているおれの前に立ち、ハジュンは長身を折り曲げ、ていねいに頭を下げた。
「おぼえてますか? 前に、ソウルで焼肉食べました」
「え、ああ。おぼえてるけど……」
 おれと向かい合うかたちでハジュンは椅子に腰掛け、ようやくハジュンに呼び出されたことを察した。期待が萎み、緊張をおぼえた。
「わざわざきてもらってすみません」
「いや……」
 はじめて会ったときと較べて、ハジュンの日本語は驚くほど成長していた。会話すらままならなかったものが、発音も滑らかで、難しい濁音も違和感なくつかいこなしていた。
「なんか用?」
 思いがけずハジュンがあらわれたことで驚いてしまったが、主導権を握られまいと、声を低めていった。
「契斗は?」
「先に出ました。ほかのメンバーといっしょに」
「おれと話してること、契斗は知ってるの?」
「知らないです」
 整った顔をかすかに横に振る。ハジュンの表情からはなんの感情も読み取れなかった。
「庸介さん、よく公演にきてくれてますよね」
「それが?」
 不穏な空気に神経を尖らせながら聞いた。
「お願いがあります」
 ハジュンは無表情のままおれを見つめ、いった。
「もうこないでほしいです」
「は?」
 呆気にとられているおれを前に、ハジュンは座ったままもう一度深々と頭を下げた。
「すみません」
「いや、すみませんじゃなくて……」
 予想もしていなかった言葉に、憤ることも忘れていた。ただ驚き、わけがわからず戸惑った。
「なにそれ。おれがいると邪魔なわけ?」
「邪魔ではないです」
「じゃなに。迷惑ってこと?」
「迷惑……」
 単語を理解するのに時間がかかったのか、すこし間を措いてから頷く。
「そうです」
「なんでだよ」
 ようやく怒りが湧いてきた。理不尽な申し出に、そうですかと受け容れることはできなかった。
「おれ、なんかした?」
「なにもしてないです」
「じゃなんなんだよ。いきなりそんなこといわれてもわけわかんないんだけど」
 要領を得ないハジュンの言葉に苛立った。
「契斗もきてほしくないって?」
「ヒョンはいってないです」
「じゃ事務所がいってんの?」
「ちがいます」
「意味わかんないんだけど。おまえの独断ってこと?」
 またハジュンが首を傾げる。急成長したとはいえ、日本語の理解力は完璧とはいかないようだ。会話が途切れることで苛立ちが増した。
「おまえが勝手にそういってんのかって」
「ああ、はい。そうです」
 ますます状況が理解できない。ハジュンとは会場でもほとんど言葉を交わしたことがなかった。焼肉屋ではじめて会ったときも、契斗の通訳を介して自己紹介と世間話をしただけだった。嫌われるようなことをしたおぼえはなかった。当然、会場で場を乱すような行為をして咎められた記憶もない。むしろほかのファンに気を遣って常に最後列で目立たないようにしていたし、イベントでも過剰に接触することはなかった。写真を撮ったのも手を握ったのも今日がはじめてだ。迷惑だと断罪されるようなことはなにもないはずだ。
「理由いえよ」
 腕を組み、床に向けてため息を吐いた。昔のおれとはちがう。自分をコントロールできる。大きく深呼吸をして怒りを抑え、いった。
「理由ですか」
「なんも説明なしにいきなりもうくんなっていわれても納得できねえだろ」
 おれの返答に、ハジュンははじめて眉をすこし動かした。声を顰め、いった。
「おれ、おまえに嫌われるようなことしたおぼえ全然ないんだけど。迷惑になるようなこともしてないし」
「庸介さんが嫌いとはいってないです」
「だったら……」
「庸介さん、契斗ヒョンのこと好きですよね」
 すぐには反応できなかった。一拍措いて、返した。
「……友達だからな」
「友達じゃないでしょ」
 鋭い眼差しを向けられ、返答に窮した。おれたちのことをハジュンがどこまで知っているのか、契斗からなにを聞かされているのか、まるでわからない状況で、迂闊に口を滑らせるわけにはいかない。おれはどうでもいいが、契斗に迷惑がかかるのは避けたかった。
「なんの話……」
「契斗ヒョンがゲイって知ってます」
 自分の喉が鳴る音がいやにはっきり聞こえた。唇を歪めて笑って見せた。
「そういう冗談やめろよ。笑えねえ」
「冗談じゃないです」
 ハジュンの口ぶりには曖昧さがなかった。確信があった。しばらく黙ってから、いった。
「……契斗に聞いたのか?」
「直接は聞いてないです。でもわかります。ずっとおなじ部屋ですから」
 おれは組んでいた腕を解き、両肘を膝の上に乗せて体を前に倒した。笑いも怒りもせず、真剣にハジュンを見た。距離が近づいても、ハジュンは臆するどころか、挑むような眼差しでおれを見返した。
 どうやらおれはこの20歳そこそこの韓国人を見くびっていたらしい。日本語の習得やダンスの技術向上の速度からしても、ただのイケメンというわけではないようだった。
 幼少期から注目を浴び、外見だけで判断されることを不快に思ってきたが、無意識におなじことをハジュンに対してしていたことに気づいた。