ソウル・ステーション/ディセンバー

 ファンがそれぞれ好きなメンバーを指定しているだけに、列が途切れるタイミングは均等とはいかない。契斗の前に並んでいたファンはいつの間にかいなくなったが、隣のハジュンの列にはまだ10人以上が順番を待っていた。
 早々に列が途切れてしまっても、契斗は手持ち無沙汰な様子を見せず、不満げな態度も取らずに、立ったまま待っている。再び目が合い、笑顔を向けられた。
 躊躇う時間は短かった。おれはもう一度金を支払い、列に並びなおした。といっても、契斗のファンはもういなくなっていたから、待たされることはなかった。
 スタッフに案内されて帰ってきたおれを、契斗は呆れ顔で迎えた。
「2回目?」
「だめ?」
「うれしいけど」
 苦笑いを浮かべて、契斗はいう。
「だいじょうぶやで、気を遣ってくれんでも」
「気なんか遣ってねえよ」
 スマホをスタッフに渡しながらいった。スタッフは日本語を理解しないようだったが、念のため声を顰めてつづけた。
「手」
「え?」
「繋いで撮りたかったから」
「あ、手、繋ぐ? 繋ごっか」
 差し出された手を握る。恋人同士のように指を絡め、さっきよりも密着して写真を撮った。契斗のほうから身を寄せてきた。
「ありがとう、ほんまに」
 首を伸ばして、撮影した写真を見てから、契斗はおれを見上げて、いった。
「庸介くんの顔見るとほっとする」
 まぶしい笑顔だった。かわいかった。見ているだけで勇気が湧いてくる気がした。やさしい言葉や笑顔は単にファンに対するリップサービスかもしれなかったが、おれにはじゅうぶんだった。
 契斗とはべつの視線。隣でファンを見送っていたハジュンがおれを見ていた。一度会っただけだが、おれのことはおぼえているだろう。ファンに混じって契斗と話しているのを訝しく思ったかもしれないが、表情には出さなかった。すぐに次のファンがスタッフに案内されてきて、顔の向きをもどした。
 スタッフが韓国語でなにか捲し立て、我に返った。
「手を離してって」
 契斗が小声で通訳する。まだ契斗の手を握ったままだったことに気づき、慌てて離した。
「ごめん」
 だいじょうぶだというようにスタッフに目で合図する契斗から視線を逸らした。こめかみから首まで熱い。何度も抱いて全身の隅々まで知り尽くしているのにもかかわらず、手を繋いだだけで高校生のように胸が高鳴っている。
「じゃあね」
「ああ」
 喉が渇いて声が掠れた。軽く咳払いして、いった。
「また日本こいよ」
「うん。これるように頑張る」
 スタッフが手をかざして身振りで時間切れを伝えてくる。契斗は両手を振って見送ってくれた。
 最初のときよりもさらに挙動不審になりながらその場を離れた。もっとも長いハジュンの列も短くなっており、契斗たち他のメンバーは先に引き上げはじめた。
 バックステージに引き返す前、ステージの脇で契斗は一瞬振り返った。おれのほうに笑顔を向けてくれた気がして手を上げかけたが、隣にいた中学生ほどの若いファンたちが歓声を上げて大きく手を振ったので、勘違いだったかもしれない。自惚れるのはやめることにして、ファンのひとりとして会場を出た。
 会場周辺にはまだ数人のファンがいて、複数人で輪をつくって公演の感想を語り合ったり、グッズのトレーディングカードを見せ合ったりしていた。そこらじゅうで甲高いはしゃぎ声がして、独特のエネルギーを発していた。ステージがはじまれば気にならなくなるが、前後のこの空間にはまだ慣れることができずにいた。不快ではないが、場違いな空気を感じていた。
 帰宅しようと駅に向かいかけたところで、声をかけられた。女の声で、日本語だった。
 振り返ると、スタッフパスを首に提げた女が立っていた。列を整理していたスタッフとは別の女で日本人らしい。
「すみません」
 抑揚のない声でいった。
「ちょっといいですか」
「はい?」
「いっしょにきていただけますか」
 思わずたじろいだ。やましいことはなにもしていないのにもかかわらず、ついぎくりとしてしまったのは、契斗とのかつての関係に後ろめたさを感じていたからかもしれない。
「あの、おれなにか……」
「メンバーが話したいそうです」
 スタッフはあくまでも事務的な口調でいって、おれに背を向けた。さっさと会場に引き返していく彼女の後を慌てて追いかける。
 奥の小さな部屋に通された。楽屋のようだが無人だった。ケータリングの容器や空のペットボトルが端にまとめられている。この日のステージのセットリストが記されたA4サイズの紙がメンディングテープで壁に貼られている。
 おれを案内すると、スタッフは無言で出て行った。ひとり残されたおれは公演の余韻が残る楽屋で居心地の悪さを感じながら椅子に座って待っていた。
 香水と化粧品の匂いを嗅ぎながら、鼓動が早まるのを意識した。だれがおれを呼んだのか、スタッフは名前を教えてくれなかったが、聞くまでもない。ほとんどのメンバーは面識がないし、おれに用があるのはひとりだけだった。
 ただ、わざわざスタッフに伝言を預けて楽屋に呼び出すことにはすこし違和感をおぼえた。話したいことがあるなら、LINEや電話で連絡を入れれば済む話だ。わざわざ他人を間に入れる必要はない。
 困惑とかすかな期待を胸に、セットリストの文字をぼんやり眺めながらしばらく待っていると、背後でドアが開けられる音がした。