慌てて立ち上がる。しばらくおなじ姿勢でいたせいで、脚の筋肉が強張っていた。バランスを崩しかけ、ガードレールにつかまった。
「だいじょうぶ?」
「ああ……」
契斗がタオルを差し出す。
「これで拭いて」
洗いたてのタオルを見つめる。体が濡れていることなどどうでもよかった。ほかに話さなければならないことがあった。
「なあ、契斗……」
「これ持ってはよ帰って」
傘とタオルをおれの胸に押しつけ、契斗はいった。相変わらずやさしい口調ではあったが、迷惑がって困っているのはあきらかだった。
「会社のひとが警察呼ぼうとしてる」
「なにもしない」
「わかってるけど、ずっとそこにおられるとさ……」
契斗が首を窄める。遠くで警備員がビルの前に立ってこちらを観察している。警戒しているようだった。
「なにしにきたん?」
声を顰めて、契斗がいう。
「今さらこられても、おれもう……」
「ちがう。よりをもどしたいとかそういうんじゃなくて、おれはただ話が……」
「話って?」
「それは……」
いざとなるとうまく説明できず、おれは口籠もった。
「ここではちょっと……」
「病気のこと?」
契斗がいって、おれは唖然とした。
「……知ってたのか」
「とっくに治療したよ。もう治ったからだいじょうぶ」
契斗は自分の体にとくに気を配っている。鏡さえまともに見ないおれとはちがう。異変があればすぐに気づくはずだった。
朋大の話によると、初期症状があらわれた時点で迅速に治療すれば、後遺症も残らないという。とりあえず、安堵した。
「心配してきてくれたん?」
「ああ、その……今月、テストがあるって聞いてたし……」
「先週終わった」
性病のことを話したときとおなじ平坦な口調で、契斗がいった。
「合格したよ」
「……マジ?」
「うん」
雨で湿った空気のなかで、契斗がにっこり微笑む。
「じゃあ……デビューすんのか」
「うん。来年のはじめ」
思いがけない言葉に、おれは呆気に取られていた。呆然と立ち竦む。
「そっか……」
「うん」
すっかり日が暮れたソウルの街で、街頭に照らされながら、おれたちは向き合っていた。
「……よかったな」
「うん」
「おめでとう」
「ありがとう」
短いやりとりが終わると、またすぐに沈黙が訪れる。
「……庸介くん」
傘の下で契斗が目を見開く。
「泣いてんの?」
その一言を聞いて、頬が濡れていることに気づいた。雨だと思ったが、ちがった。おれは棒のように突っ立ったまま、静かに涙を流していた。
「……なんで泣くの?」
契斗が唖然とした顔でおれを見ている。呆れているというよりは、心底驚いているようだった。
「おれがデビューするの、嫌なの?」
「ちがう」
思わず声を上げた。情けない声になった。契斗にもらったタオルを鼻に圧しあてた。鼻腔の奥が熱い。堪えていなければ泣きわめいてしまいそうだった。
「おまえの夢が叶ってうれしい」
かろうじて、それだけいった。本心だった。以前までは、契斗の挫折を願っていた。道を閉ざされ、行き場を奪われれば、いずれはおれのもとへもどるのではないかと期待していた。しかし、そんなことはありえないと今ではわかっていた。
「ほんとにうれしい、マジで……」
打算抜きに、契斗のデビューがうれしかった。生まれてはじめて抱く気持ちだった。こんな気持ちになれるとは思っていなかった。
「ごめん。こんなこという資格、おれにないのはわかってる」
「そんな……」
契斗は戸惑っていた。傘の柄を握ったまま、じっとおれを見つめている。
「おれ、男と付き合ってた」
意図せずに唇が動いていた。契斗の眉がわずかに歪む。
「一昨日別れた。ていうか、振られた。愛想尽かされて、棄てられた」
なぜそんな話をしているのか、自分でもわからなかった。だが、言葉はとめどなく溢れた。
「おれはそいつのことを愛してたわけじゃなかった。便利だったからいっしょにいただけで、気持ちは全然なかった。家に転がり込んで、世話になってたのに、おまえと二股かけて、他の奴とも寝てた。女とも男とも。性病も、いつだれに伝染されたかもわからないし、だれに伝染したかもわからない」
虚勢を張り、鎧を纏って生きてきた。とくに契斗に対しては傲慢で歪な独占欲を抱いていた。正直な気持ちを吐露したのははじめてだった。
「おまえとのことも……ひどいことばっかしてきた。付き合ってたときも浮気しまくってたし、今もずっと嘘ついてた。おまえのやさしさにつけこんで、都合よく利用してた。おまえが番組のオーディションで落ちたときも、うれしかった。おまえにデビューしてほしくなかった。おまえが……手の届かない存在になる気がして、すげえ嫌だった。おまえが高校卒業して韓国行ったときも、失敗すればいいって思ってた」
声が掠れた。おれを見る契斗の瞳が左右に揺れる。
子役スターとして周囲から持ち上げられていたときも、中学で女子に囲まれていたときも、自分を好きになれたことはなかった。唯一、自分を許せた瞬間が今だった。契斗を祝福できた。契斗を尊敬し、応援できた。たったひとつだけの真実。地獄のなかに見えたひとすじの光だった。
「おれは本当に最低のクズだし、救いようがないくらい惨めな人生だけど、おまえがデビューできんのがマジでうれしい。自分でも驚いてる」
壊れた玩具のように何度もおなじ言葉を繰り返すおれを、契斗は黙って見つめていた。
「信じてもらえないと思うけど……」
「信じるよ」
おれの拙い弁解と告白の間、契斗はおれから目を逸らすことがなかった。一瞬たりとも。そしてはっきりいった。
「信じる」
澄んだ強い眼差しだった。心を奪われた。おれが邪魔するまでもなく、はじめから手の届かない存在だった。契斗とおれとでは住む世界がちがいすぎる。ようやく認めることができた。
いつの間にか雨がやんでいた。契斗は静かに傘を畳み、空いた右手を持ち上げた。さしのべられた手をおれはじっと見下ろしていた。
契斗がにっこり微笑んだ。その笑顔に誘われるかのように、おれは差し出された手を握った。契斗がしっかりと握り返してくる。
ソウルの街の中心で、おれたちは固い握手を交わした。雨上がりの湿った空気のなか、おれは契斗のぬくもりをこれまでにないほど感じていた。
「だいじょうぶ?」
「ああ……」
契斗がタオルを差し出す。
「これで拭いて」
洗いたてのタオルを見つめる。体が濡れていることなどどうでもよかった。ほかに話さなければならないことがあった。
「なあ、契斗……」
「これ持ってはよ帰って」
傘とタオルをおれの胸に押しつけ、契斗はいった。相変わらずやさしい口調ではあったが、迷惑がって困っているのはあきらかだった。
「会社のひとが警察呼ぼうとしてる」
「なにもしない」
「わかってるけど、ずっとそこにおられるとさ……」
契斗が首を窄める。遠くで警備員がビルの前に立ってこちらを観察している。警戒しているようだった。
「なにしにきたん?」
声を顰めて、契斗がいう。
「今さらこられても、おれもう……」
「ちがう。よりをもどしたいとかそういうんじゃなくて、おれはただ話が……」
「話って?」
「それは……」
いざとなるとうまく説明できず、おれは口籠もった。
「ここではちょっと……」
「病気のこと?」
契斗がいって、おれは唖然とした。
「……知ってたのか」
「とっくに治療したよ。もう治ったからだいじょうぶ」
契斗は自分の体にとくに気を配っている。鏡さえまともに見ないおれとはちがう。異変があればすぐに気づくはずだった。
朋大の話によると、初期症状があらわれた時点で迅速に治療すれば、後遺症も残らないという。とりあえず、安堵した。
「心配してきてくれたん?」
「ああ、その……今月、テストがあるって聞いてたし……」
「先週終わった」
性病のことを話したときとおなじ平坦な口調で、契斗がいった。
「合格したよ」
「……マジ?」
「うん」
雨で湿った空気のなかで、契斗がにっこり微笑む。
「じゃあ……デビューすんのか」
「うん。来年のはじめ」
思いがけない言葉に、おれは呆気に取られていた。呆然と立ち竦む。
「そっか……」
「うん」
すっかり日が暮れたソウルの街で、街頭に照らされながら、おれたちは向き合っていた。
「……よかったな」
「うん」
「おめでとう」
「ありがとう」
短いやりとりが終わると、またすぐに沈黙が訪れる。
「……庸介くん」
傘の下で契斗が目を見開く。
「泣いてんの?」
その一言を聞いて、頬が濡れていることに気づいた。雨だと思ったが、ちがった。おれは棒のように突っ立ったまま、静かに涙を流していた。
「……なんで泣くの?」
契斗が唖然とした顔でおれを見ている。呆れているというよりは、心底驚いているようだった。
「おれがデビューするの、嫌なの?」
「ちがう」
思わず声を上げた。情けない声になった。契斗にもらったタオルを鼻に圧しあてた。鼻腔の奥が熱い。堪えていなければ泣きわめいてしまいそうだった。
「おまえの夢が叶ってうれしい」
かろうじて、それだけいった。本心だった。以前までは、契斗の挫折を願っていた。道を閉ざされ、行き場を奪われれば、いずれはおれのもとへもどるのではないかと期待していた。しかし、そんなことはありえないと今ではわかっていた。
「ほんとにうれしい、マジで……」
打算抜きに、契斗のデビューがうれしかった。生まれてはじめて抱く気持ちだった。こんな気持ちになれるとは思っていなかった。
「ごめん。こんなこという資格、おれにないのはわかってる」
「そんな……」
契斗は戸惑っていた。傘の柄を握ったまま、じっとおれを見つめている。
「おれ、男と付き合ってた」
意図せずに唇が動いていた。契斗の眉がわずかに歪む。
「一昨日別れた。ていうか、振られた。愛想尽かされて、棄てられた」
なぜそんな話をしているのか、自分でもわからなかった。だが、言葉はとめどなく溢れた。
「おれはそいつのことを愛してたわけじゃなかった。便利だったからいっしょにいただけで、気持ちは全然なかった。家に転がり込んで、世話になってたのに、おまえと二股かけて、他の奴とも寝てた。女とも男とも。性病も、いつだれに伝染されたかもわからないし、だれに伝染したかもわからない」
虚勢を張り、鎧を纏って生きてきた。とくに契斗に対しては傲慢で歪な独占欲を抱いていた。正直な気持ちを吐露したのははじめてだった。
「おまえとのことも……ひどいことばっかしてきた。付き合ってたときも浮気しまくってたし、今もずっと嘘ついてた。おまえのやさしさにつけこんで、都合よく利用してた。おまえが番組のオーディションで落ちたときも、うれしかった。おまえにデビューしてほしくなかった。おまえが……手の届かない存在になる気がして、すげえ嫌だった。おまえが高校卒業して韓国行ったときも、失敗すればいいって思ってた」
声が掠れた。おれを見る契斗の瞳が左右に揺れる。
子役スターとして周囲から持ち上げられていたときも、中学で女子に囲まれていたときも、自分を好きになれたことはなかった。唯一、自分を許せた瞬間が今だった。契斗を祝福できた。契斗を尊敬し、応援できた。たったひとつだけの真実。地獄のなかに見えたひとすじの光だった。
「おれは本当に最低のクズだし、救いようがないくらい惨めな人生だけど、おまえがデビューできんのがマジでうれしい。自分でも驚いてる」
壊れた玩具のように何度もおなじ言葉を繰り返すおれを、契斗は黙って見つめていた。
「信じてもらえないと思うけど……」
「信じるよ」
おれの拙い弁解と告白の間、契斗はおれから目を逸らすことがなかった。一瞬たりとも。そしてはっきりいった。
「信じる」
澄んだ強い眼差しだった。心を奪われた。おれが邪魔するまでもなく、はじめから手の届かない存在だった。契斗とおれとでは住む世界がちがいすぎる。ようやく認めることができた。
いつの間にか雨がやんでいた。契斗は静かに傘を畳み、空いた右手を持ち上げた。さしのべられた手をおれはじっと見下ろしていた。
契斗がにっこり微笑んだ。その笑顔に誘われるかのように、おれは差し出された手を握った。契斗がしっかりと握り返してくる。
ソウルの街の中心で、おれたちは固い握手を交わした。雨上がりの湿った空気のなか、おれは契斗のぬくもりをこれまでにないほど感じていた。



